桃の花が優雅に咲き誇る庭を前にして、その香しく愛らしい花とは不似合いな、仏頂面をぶら下げた若い男が縁側に腰掛けている。
その膝には一本の刀が置かれ、白い布で表面を丹念に拭いている最中だ、手入れしているらしい。
刀の刃は、穏やかな春の日の光を反射し眩しいほどの鋭い光を放っている。
「…………」
――甘利虎泰。
武田信虎の側近を勤めるその青年が歳とは不釣り合いな堅く重い表情を変える事は殆ど、ない。
例い変えたとしても浮かべるのは怒りか、苦虫を噛み潰したかの様な表情だけだ。
「…おや、甘利ではないか?」
「御方様……」
不意に背後から聞き慣れた声が降ってくれば、反射的に刀と布を脇に置いて立ち上がり、桃色の庭に背を向けてその声の主に跪く。
慌ただしく自分の前に跪く青年を見て、うら若き少女は微笑みを白い頬にやんわりと浮かべた。
「また刀の手入れをしていたのですか?」
「……は。」
「昨日もしていましたね。私が見る限りそちは刀の手入れをしているか、木の棒を振り回しているかのどちらかじゃ。」
「……は。」
「疲れぬのか…?」
顔を上げた甘利は眉間に皺を寄せて、しばしの間黙り込んだ。
その目線は揺れており、どの様に答えて良いのか迷っている事がすぐ分かる。
大井夫人は姫独特の上品な含み笑いを漏らして、侍女達を下がらせてから縁側に進み出た。
「…甘利、私は戦が嫌いです。飢餓に喘ぐ領民を犠牲にしてまで、何故戦うのですか?」
鼻につく春の香に、優しげな目を細めながら縁側に腰掛けて、背後に佇む忠臣に隣に座るよう付け加える。
青年は未だにしかめっ面だったが命に従って隣に腰掛けた。青年の動悸が激しく波打つ事を少女は知らない。
「全ては…甲斐の国がためにございまする。」
「甘利、そなたは先日もその前もその様に申したな…国、国と…お主の頭にはそれしかないのですか?」
精一杯頭を絞って真面目に答えたつもりだったが、何故か呆れた様な口調でそう返されてしまった。
御方様は私を頭の悪いカタブツだと思われているのだろうか…思いを上手く言葉に表現出来ない己が腹立たしく、膝に置いた両手で自分の袴の裾を握る。
隣に座るまだ幼さの残る横顔は、散りゆく花びらを目で追いながら静かに私の答えを待っている。
口を開きかけるが、白い首筋に覗く淫らな印を目の当たりにすると直ぐに口を閉じた。
御方様は主君の妻、今宵もきっと閨を共にするのだ、そう…今宵も。己の胸が焼けた様に痛むのを感じる。
「学のない某には…それしか考えられませぬ。」
無表情を装いながらようやく搾り出した短い答えを返すと、白い顔がこちらを向く。
大きな黒々とした瞳に吸い込まれる様で…ふとその目が穏やかに笑う。
「ふふ…甘利は面白いですね。」
「……いえ」
「ではそなたの想う国とは何ぞ?…申してみよ。」
私にはどうしても理解できない、何故この男はこれほどまでに国に固執しているのか。
真意を知りたくて、問うとまた眉間に皺を寄せて黙り込む。まだ私と幾つも違わないというのに眉間に刻まれた痕は深い。
きっと何時もそうしてしかめっ面を浮かべているからだろう、そうして自分の気持ちを押し殺しているから――

「某の想う国とは…」
口を開いて話し出すが後が続かない。少女の揺らがぬ真っすぐな視線から逃れたくて、庭の桃へと視線を移す。
この人は知らない。私の許されざる、汚れた思慕など。
癖になってしまった様で、自然と眉間に皺が寄ってしまう。眼前にふわりと桃の花のかけらが舞い、芳しい匂いが花をつく。
「国とは……?」
甘利はなかなか答えようとしないばかりか、視線も合わせない。答えが早く聞きたくて、身を乗り出し顔を覗き込む。
甲斐の暴れ牛とも呼ばれる男が明らかに動揺している様を見るのは面白くもあった。掠れた咳ばらいをしてから向き直り、閉ざされていた口を再び開いた。

「……人、にござる。」
「人…ですか?」
「は。某が思い、守るべき国とは人にございまする…御屋形様と御方様は勿論、領民や臣下の者共…某にとっては、人こそが我が国なのです。」
緊張で震えそうになる手で膝の袴を再び握り締め、近い距離にある顔を見つめながら話す。偽りだけは言いたく無かった。
「……そなたは…」
柔らかに膨らんだ唇から小さな声が漏れるが、その先は聞こえなかった。
聞き返そうとする前に御方様は私から顔を離し穏やかに何時も通りの笑みを浮かべてから、おっとりとした動きで顔を正面の庭へと向け、無言で桃の花を見つめた。
つられて桃の花を見遣れば春の昼下がりの陽を浴びて、光る花は風で揺れる。
「…綺麗じゃの…甘利、桃の花は美しい。」
「………誠に。」
少女がこっそりと横目で青年を見遣ると、普段浮かべている堅い仏頂面とは違う表情があった。
彼は伏し目がちに頬を染めて、柔和に微笑んでいのだ。少女はそれを見て、幸せそうに目を細める。
甘い香が桃色の風に乗って、縁側に佇む二人の穏やかな一時を包んでゆく。

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