今川館の当主の家族が住まう奥向きでも、特にこの御殿は正室が亡くなってから使われていない。
人が来ることもまれなその一角の小さな納戸に美しい少女がいた。遅れて現れた紺の素襖の男が、彼女の下座に胡坐をかき、うやうやしく頭を下げる。
「姫様にはご機嫌麗しゅう。それがしにお話とはなんでござりましょうや?」

(何故このように鈍い男を好いてしもうたのであろう)
少女は今川家の息女の綾姫。男の方の名は庵原之政、こう見えて今川家の重臣である。
綾姫の唇から溜め息が漏れた。
女子が話があるとこのような場所に呼び出したなら、色めいた話に決まっているではないか。
綾姫は少し恨みがましい瞳で之政をにらんだ。
抜けるように白い肌の上に目や唇が絶妙な曲線を描いていて、怒った顔も美しい。

庵原之政は今川家の軍師太原崇孚雪斎の甥である。
かの僧の細やか目配りは駿河遠江の内政・外交のほか、主君の子女の教育にも及び、その血縁者である之政は自然、幼い氏真・綾姫兄妹の側近くにいる機会が多かった。
遊び相手と言うには歳が離れていたが、幼い相手とも本気で戯れてくれるこの無邪気な若者を、兄妹ともに好み、よく纏わりついていたものである。

綾姫は久しぶりに近くで之政の顔を眺めた。
之政は父の隠居に伴って最近庵原の家督を継いだばかりで、若さも威厳もまだ身分には釣り合っていない。
さらに滲み出る人の良さが彼を実年齢より若く見せているようだ。
だから歳月は流れているのに、格別変わったようには見えない。
(やはり、館内で見るどの家臣よりも、よいおのこじゃ)
彼の察しの悪さに焦れて遠ざかっていた恋慕の波が胸に再び押し寄せ、綾姫は之政の手に触れた。

この大きな手を引いて自由に館内を歩き回っていた昔が懐かしい。
庭のはずれで転んで泣いて、背に負うてもらったことや、四つん這いにさせて奥向きの廊下を何往復も馬の真似事をさせたこともあった。
でも、その頃だって、之政と自分の側にはいつも兄の氏真がいたから、之政は完全に彼女だけのものではなかった。
やがて綾姫の方だけ部屋の奥深くに留め置かれ、兄が遠乗りだ蹴鞠だと言っては大好きな之政を連れ出していくのを遠目で見送らねばならぬようになった。
身分高き家に生まれた女子のさだめとは言え、それがどれほど口惜しくせつなかったことか。
その視線が次第に熱を帯びたものに変わって行ったのは、この年頃の娘にはごく自然なことだろう。
之政が妻を娶った時には一晩中泣き明かした。
彼と結ばれるなどと思っていたわけではない。自分がそれをいくら望んでも父や祖母が家臣の妻に自分をくれてやるわけはないのだから。
それでも、時折会えるだけでも幸せだったのに、もうそれも叶わない。
姫は数日後に甲斐武田家の嫡男への輿入れを控えているのだ。

輿入れが決まってから祖母の寿桂尼は、かなりの時間を綾姫に男女の閨のことを教えることに割いた。
姫は赤面を通り越して気を失ってしまいそうだったが、祖母は眉一つ動かさず淡々と彼女に語り聞かせた。
「色の道は公家の家では王朝の昔より脈々と培われてきたもの。私の教える通りにすれば、無骨な武家の男などそなたの思うがままに蕩けよう」
その言葉は綾姫の心を捕らえた。
(本当に? ……之政も?)
綾姫は目の前に広げられた絵草紙や絵巻物におずおずと目を落とした。
祖母によって頭に詰め込まれていく生々しすぎる事柄も、之政とするものと想像すれば幸せだった。
之政のことを考えている度に感じる両足の奥深くの悩ましさや、乳首が固く尖る感覚の正体も知った。

一度でいいから思いを遂げたい。ほんのひと時でいいから之政と結びつきたい。武田に嫁いでしまう前に。二度と会えなくなる前に。

そして勇気を振り絞って呼び出したのに、今のところ遠まわしな手管はすべて効き目がない。
之政は姫のそんな心など知りもせず、笑って言った。
「姫様はまもなくお輿入れでござりまするな。なにやらそれがしまで武者震いが致します!」
「何故私の輿入れにそなたが武者震いするのじゃ」
「姫様が嫁がれることで武田家の結びつきは更に強まりましょう。若君には北条より姫を迎え、我が今川は後顧の憂いなく西へ向かうことができまする。これでいよいよお屋形様のご上洛にお供できると思えばこの之政、ますます身震いが致しまする!」
自分がほかの男の妻となることを喜んでいる之政を綾姫は本気で憎いと思った。そんなことは聞きたくないと思った。だから黙らせた。己の唇で唇を塞いで──。

濃紺の男の衣に、美しい刺繍が施された朱色の絹が重なった。
初めて触れる男の唇は想像していたよりもずっと柔らかかった。
「ひ……っ姫様?!」
彼女から逃れた男の背が調度にぶつかり、棚の一番上にあった塗箱が転がり落ちた。
色とりどりの組紐や料紙が揉み合う二人に降り注ぐ。
「痛っ」
これはとっさに落下物から姫をかばった之政の頭に箱がぶつかった時に漏れた声だ。
姫はその機会を逃さずに愛しい男に抱きついた。男の胸は広く、衣越しにも鍛えた固い筋肉の感触がわかった。
痛む頭をさすりながら、男は己の胸元に顔を埋めているうら若い姫に視線を落とした。
「姫様、大事ござりませぬか?」

艶やかな髪が小さく上下するのを見て安堵したが、華奢な体は相変わらず自分にしがみついたままである。
唇に柔らかい感触が残っている。──さっきのはいったいなんだったのだろう?
姫の体をそっと押し返そうとすると一層強くしがみつかれて、之政は戸惑った。
「あの……なにとぞお離れ下され」
今度は首を横に振った姫の手入れの行き届いた髪が豪華な打掛の上でゆらゆらと動き、焚きしめられた高価な香が立ち昇った。
「ゆきまさ……」
その声はまだ少しあどけなかったが、ゆっくりもたげた顔にはすでに女の色香が芽生えている。
「ゆきまさ……私を抱いて」
勇気を振り絞って言った姫の目の前には、狼狽しきって見開かれた之政の目があった。
「ひ、姫様……血迷われましたか!」
逃れようとする男の袴を咄嗟に踏みつけ、無様に転がったところにすがりつく。
「一度だけでいいのじゃ、之政、抱いて……私が武田に嫁ぐ前に!」
「主家の姫君にさような狼藉を働いたとあっては之政は腹を切らねばなりませぬ!」
声を裏返らせて慌てる愛しい男の有様に、姫はムラムラと怒りがこみ上げた。
「切ればよいではないか!」
それは姫自身、思ってもみない言葉だった。
思わぬ返答に之政もひるんでいる。その体にかじりついて叫ぶように姫は言った。
「私が他の男のものとなっても平気な之政など死んでしまえば良いのじゃ!」
そのまま泣き臥してしまった姫を之政は呆然と見下ろした。
この姫がいつから自分にそんな思いを抱いていたのか、彼にはわからなかった。
腕の中の姫は確かに美しく育った。こんなに美しい女を彼はほかには知らない。
だが、こうして生々しく体を接していても姫に邪な気持ちなど沸いてはこなかった──。

「お許しくだされ姫、やはり之政にエロは無理でございます」
泣き崩れる姫の背後の戸が音もなく開き、寿桂尼が立っていた。
「甲斐の山猿の息子に、かわいい孫娘を清らかなままやるのは腹立たしいゆえ、見逃そうと思っておったが──そなたは、何をしておる!」
「バカっ、之政のバカっ」
綾姫が顔を覆いながら駆け去って行くのを見守り、寿桂尼は溜息をついた。
「まあ、このような中途半端でも、保守にはなるであろう」
「それがし、申し訳なくて武者震いが致します」
「あーそれはもうよい」

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