香坂弾正は、したためたばかりの幾通かの書状を几帳面に並べる終えると、燈台の灯りを手燭に移し文机の前から立ち上がった。
この甲斐府中の邸は、侍大将となった折にお屋形様直々に賜った。
一年の大半を最前線で過ごしているため、使用人とその家族の館のようになっているのは亡き山本勘助の邸と似ている。
その山本家からこの邸へ、リツが嫁いできたのは五日前のことであった。
川中島の戦の後、香坂はしばらく海津城を動けなかった。
(山本様を亡くされて、リツ殿はさぞ悲嘆にくれておられるだろう)
彼女を慰めるために駆けつけられないことにひどく心が痛み、香坂は自分が思っているよりもあのリツという女人に深く恋をしていたらしい、ということに気づかざるを得なかった。
が、ここで上杉に備えていることが甲斐を、お屋形様を、そしてリツ殿を守ることである。
そう心得て日々精勤していた香坂に、海津城に滞在していたリツの実父原美濃守が、傷が癒えて甲斐に戻る折、意外なことを告げた。
「おぬしにまだリツを娶る気があるならば、勘助の喪が明け次第すぐに祝言を上げられよ。
そのためにしばし甲斐府中に戻ることを許すと、お屋形様から御文を頂戴しておる。
その間は深志より馬場殿が海津城に入られるゆえ、案ずることはないとのことじゃ」
「それがしに依存はござらぬが、リツ殿はそれでよろしいのですか。
あれほど慕っていた山本様が亡くなられたばかりで、今はとてもそのような気にはなれぬのでは……」
「リツも承知のことじゃ。おぬしとの祝言は勘助が強く望んでおったことであるから、
それを叶えてやることが供養になるであろうとな」
そのような事情で、彼が覚悟していたよりはるかに早く、リツは彼の妻になったわけである。
香坂は火の気のなくなった書斎から廊下へ出ると、新妻のいる寝所へすぐには足を動かさなかった。
足元の磨き抜かれた床板に、手燭の明かりが黄金色の輪を作っている。
リツと顔を合わせたくないのではない──逆である。
急ぐ気持ちにまかせて速足で──、というのがはひどく気恥ずかしいのだ。
香坂は大きく息を吸うと、鼓動に反し、寝所へ続く廊下を出来うる限りゆっくりと歩いた。
どこからか花の匂いが漂ってくる。
そういえば、昼間リツが家のあちこちに花を活けていた。そのどれかが匂い立っているのだろう。
「端々まで行き届いて建てられたよいお邸でございまするなあ。日当たりもよいし、庭の花も野菜もよく育つことでござりましょう。
あの見事な梅の木は、来年花を見るのが楽しみでござりまする」
香坂は祝言の次の朝、リツがうれしそうにそういうのを聞くまで、己の邸の庭にどんな草木が植わっているかもろくに知らなかった自分に気づいた。
気づいたのはそれだけではない。香坂は彼女と共に過ごして初めて、己のこの邸がどれだけ居心地がよいかを知った。
朝餉の時に庭から差し込む光、書斎を吹き抜ける風、己のために白湯を運ぶリツの足下で鳴る床板のほんのわずかな軋みまでが心地よく耳に響く。
使用人らと早くも打ち解けたリツが彼らと笑い合う声が、台所や菜園の方から聞こえてくると、自然に笑みが浮かんだ。
香坂は川中島で壮絶な最期を遂げた山本勘助に思いを馳せずにはいられなかった。
妻と娘、関係は異なるが、あの孤独な軍師もまた、自分が今感じているような安らぎをリツから与えられていたのだろうか。
としたら、彼の晩年の私生活もそう悪いものではなかっただろうと、今の香坂には思えるのだった。
寝所に続く戸をそろそろと開けると、ほのかな灯火に照らされたリツは、縫い物をしていた手を止め、夫の顔を見上げて微笑んだ。
「申し訳ござりませぬ。すぐ片づけますゆえ」
そう言って手早く歯で糸を切ったリツの手にあるのは男物の衣類だった。
己の物かと思うと、くすぐったい。
祝言を迎えてからというものの、こんなささいなことにドギマギしっぱなしである。
妻を迎えたばかりというのは誰でもこうしたものなのだろうか?
昼間、躑躅ヶ崎館ですでに妻も子もいる源四郎と顔を合わせた折、よほどその辺りを問うてみたかった。
──もちろん本当に尋ねることなど、恥ずかしくてできなかったが。
その躑躅ヶ崎では、お屋形様を筆頭に顔を合わせた者ことごとくに、
「で、どうじゃ?妻を迎えた気分は」
と、意味ありげに尋ねられたので、
「格別変わったことなどござらぬ」
そのたびに香坂は平静を装って答えなければならなかった。
──まさか正直に「至極よき心持ちです」と言えるわけもなかろう。
針箱を片づけて戻ってきたリツに香坂は、
「先に休んでおられよと申しましたのに──」
と照れ隠しのように言った。
淡い橙色の夜着がよく似合って、まともに姿を見られない。
そんなことに気づく様子もなく、リツは香坂の背後に回って彼が夜着に重ねていた羽織を脱がし、手早く畳んだ。
「妻が旦那様より先に休むことなどできませぬ」
「そういうもの、なのですか?」
いつまでも他人行儀な物言いの抜けぬ夫にリツが微笑む。
「はい。そういうものなのです。どうぞお床にお入りくださいませ。今宵は少し冷えまする」
香坂は彼女に誘われるまま、褥に横たわると、やや遅れてぬくもりが、香坂の傍らに滑り込んで来た。
覚えたばかりのリツのほのかな匂いが、香坂の心身をたちまち甘い情欲に浸す。
おずおずと伸ばした指先がリツの手に触れた。
ずっと夜気の下で縫い物をしていたせいか、とても冷たい。
指先を優しく包むように握ると、リツもそっと力を返してきた。
温めてやるつもりが、こちらの体の方が心地よい火照りに包まれていく。
「リツ……殿」
香坂はまだ呼び捨てにすることもできない新妻を抱き寄せた。
互いに夫婦であることになかなか慣れない、体の方はそうでもないのは不思議だ。
口づけると数夜前までは震えるだけで、固く閉じられたままだったリツの唇が自然に開き、彼の舌を柔らかい己の内側へと招き入れた。
唇を貪るのは止めぬまま、襟の中へと手を滑り込ませると、塞いだ口中から熱い息が吹き出す。
互いの唾液ですっかり濡れた唇を頬から耳へ、そして首筋へと滑らせ、襟を押し開きながらうなじへ口づけると、組み敷いたリツの体が跳ねた。
「あっ……ぁっ…ん」
ここを触れられるとリツが悶えることは二日目の夜に覚えた。
そして今宵の声はその夜よりもずっとずっと甘くて、香坂を悦ばせた。
彼女の丸い乳房の頂にある桃色の輪を親指でこすると濃い紅色の蕾が立ち上がり、待っていたように口に含むと、速くなった息遣いと同じ拍を刻みながらリツの指が香坂の背をさまよう。
高揚しながらリツの細い体にこの五日の間に覚えた愛撫を繰り返しながら、その身を包む衣を奪うと、袂から抜き取られた細い腕がしなりながら絡みついてきた。
香坂の襟を闇雲に引っ張って肌を隔てる布地を脱がそうとしている。
(こんな仕種は、今宵が初めてだ)
もどかしい手を助けて自らも裸形になると、体にかかっていた夜具までもが跳ね飛んでしまったが、二人とももう寒くなどなかった。
互いの愛撫に急き急かれ、リツの柔らかい繁みの奥に己を押し当てながら思わず笑い声を漏らしてしまった香坂に、リツが不安そうな声を上げた。
「……なにか……?」
「いえ……祝言の夜に……ここ……リツ殿の入口がよくわからなかったことを、思い出したものですから」
「……あっ」
「今宵は、わかりまする。とても濡れておられるから……ほら」
湿った割れ目に先端をめり込ませるとリツにもはっきりとわかる水音が発った。
「んっ……」
「……まだ、痛みまするか?」
「いいえ……」
その言葉に安堵しながらリツの奥へずるずると吸い込まれるように己を納め、更に奥を穿つと、一際甲高い声がリツの唇から漏れた。
「あ、まって……」
逃げる体を押さえて肩に歯を立てる。
「リツ殿……熱い……」
時折、息を弾ませながら動きを止めるのは、決してリツのためではない。
この快楽を少しでも長引かせたいからだった。
また達しそうになって腰をひこうとした時、
「や……旦那様……」
ずっとされるがままになっていたリツの足がきゅっと腰にからみついて、ひどく淫らにうねった。
かろうじて踏みとどまっていた香坂の優しさが、それで途切れた。
「リツ……」
足を大きく広げさせて容赦なく突き上げた時にリツが漏らした声が快楽のためか、痛みのためか、それはもう香坂にはわからなかった。
*
気がつくと夜明けが近いことをを告げる烏の声が聞こえていた。
背中越しに抱き締めたリツの細い体がぐったりしている。
もう一度抱き直し、肩に唇と当てるとリツが「ん……」と声を漏らした。
寝ているのか、起きているのかわからない。
「リツ……?」
返事はない。
湿った肩に頬を押し当てて耳を澄ますと、安らかな寝息が伝わってくる。
香坂は微笑むとそっと体を起こした。枕辺でかろうじて消えずにいた灯火が、リツの艶が浮いた肌を照らしている。
くしゃくしゃになっていた夜具を拾うと、己の体ごとリツの体をくるんだ。
安らいでいた香坂の顔が、ふと曇った。
こんな幸福な時間に、ふと、あと二日もすれば、再び海津城へ赴かなければならない身であることを思い出してしまったのだ。
だが、とりあえず、あと二日は、この人と過ごすことができる。
香坂はリツを起こさぬようにそっと抱きしめた。
(いつか、この方を海津城へ伴おう)
もちろんすぐと言うわけにはいかない。
上杉との戦はまだ終わったわけではない。きっと遠からず兵を出してくるだろう。
それに家臣の妻は甲府の邸に留まるのが慣例であり、それは暗に反逆を防ぐ人質の意味合いも含んでいる。
お屋形様に願い出れば、きっと許してくださるだろうが、早い出世を遂げた自分を家中で厳しい目で見る者がいることも知っている。
誰にも文句を言わさぬだけの手柄を立て、誰はばかることなくリツを海津城へ連れて行くのだ。
この愛しい人を託してくださった山本様が縄張りをした城へ、
そして二人で千曲川を渡り、川中島の父上の墓に花を手向けよう。
いつかかの地が揺るぎなく武田の領土となったときに。
ほかならぬ山本様の意思を継いだ自分がそうするのだ。
まどろむ香坂のまぶたの裏には、いずれ腕の中の妻と共に訪れるはずの勘助の墓と、その周りに乱れ咲く花が月に照らされてほんのり白く浮かんでいた。
おわり