玄関の扉を開けて、勘助は驚いた。
素裸のリツが、ちょこんと座っているのである。
勘助の頭のなかは、奇襲を受けた軍勢のように混乱した。
そのまま、固まってしまった。
リツは何か縫い物をしていたようで、ひざの上に布きれが置いてある他は、乳房からなにから丸見えである。
立ち尽くす勘助をよそに悠然と座りながら、いつもの眩しいような微笑みを浮かべている。
「あの……」
そのままの姿勢で何かいいかけたが、勘助は狼狽のあまり何を言っているのか聞こえない。
初陣の時に似ていた。感覚が濁り、己の位相は消失する。
とつぜん、リツがすっと立ち上がるのを見ても、何もできぬ。
かろうじて下半身を覆っていた布が落ちたのを、ただ眺めるだけだ。
(もっと叫ぶとかなんとか、あるのでは無いか)
呆然とそんなことを考えていた。
リツの裸形は美しかった。
それは五十を過ぎた男の忘れていものだ。
若さであり、女であることの素晴らしさだ。
などと批評をしておった、その時
「旦那様!」
勘助の惑乱は破られた。
リツの一喝が全てが明瞭にした。
そしてその反動が猛然と沸き上がるのにまかせて、一息に叫んだ。
「服を着ろぉぉぉぉぉッッッ……」
絶叫である。
それは或る日の夜のこと、山本勘助が館を辞し帰宅した時のことだった……


しばらくして
「お待たせいたしました」
何も無かったかのように、ぱたぱたと軽い調子でリツが奥の間から出てきた時には、勘助は土間にて座り、しかめ面をする余裕を取り戻していたが、やはり落ち着かない気分であった。
橙色の着物姿のリツは
「ご飯の支度をいたしますね」
と言って、甲斐甲斐しくお椀に粥をよそりはじめる。
その姿はまるで妻になったかのようだ。
「お椀にござりまする」
平然と椀を差し出したが、この女は先刻のことを忘れて飯が食えると思っているのか。
リツは照れるわけでも無く、意味深な笑みを漏らすのみだ。
かえって勘助のほうがどぎまぎとしてしまった。
「太吉達がいないようだな」
ひとまず、気になっていた疑問で探りを入れてみる。
「みなさん、いらっしゃりません」
「なぜ」
「ひとにはひとの用事があるものでしょう」
「ふん」
そういうことか、と思った。
明日は珍しく、勘助の非番なのである。





勘助が終日家にいることなど、滅多に無いことだ。
それで、いらぬ気を使ってみんな出ていったのだろう。あるいはリツが出ていかせたか。
なんにせよ、やっかいなことになった。

リツが山本家の養女となって数年経っていた。
いまだにリツは勘助を父上とは呼ばないし、勘助はリツに違和感がある。
違和感とは、つまりリツの勘助に対する恋愛感情である。

「で、あれはおぬしの……策略か」
「なんのことでこざいます」
(とぼけやがる)
と思ったが、年甲斐にも無く顔のこわばってゆくのがわかった。
リツはいつも落ち着き払っていて、その辺りの小娘じみた軽薄さを微塵も感じさせない。
ただ時折、ひとを驚かすことを言って楽しむような所があった。
「その……おぬしの……その…玄関でのことじゃ」
「まあ、わたくしの裸のことですか」
おちょくっているのか。
勘助は敗けじと声を荒げた。
「太吉達のこともそうじゃ、いったい何の了見で」
「軍師の娘にはふさわしいことでございましょう」
「やはり」
「たまには、旦那さまとふたりっきり、いいではありませぬか」
「しかし何も裸にまでならずともよい」
「あれは偶然」
どこまでが本当だか。武田家随一の知恵者と称される己が、たかが小娘に翻弄されているのかと思うと情けない。
「で、どうでした、わたくしの裸」
「馬鹿なことを申すな」
「はい」
「よいか、おぬしは我が娘じゃ」
「はい」
「そのつもりでわしはそなたを慈しんでおる、これ以上はしたない真似はするなよ」
「はい」
「うむ」
「旦那様」
「……ん」
「玄関でのお顔、真っ赤でおもしろうございました」
怒鳴りつけてやろうかと思った。
リツの愛くるしい顔も、いまばかりは憎たらしい。
ぱっちりとした黒い瞳が、臆することなく勘助をみつめている。
肝の座った、座り過ぎた女だ。
小柄な体駆は可憐なほどで、どこにそんな活力が潜んでいるのか不思議だった。
(あの透き通るような肉体に)




勘助は、着物に隠されているリツの肉体を想った。
やはり武家の娘であるのか、日焼けをしていない白い肌だった。
四肢は細いが、骨だけは親譲りでしっかりとしているようである。
形よく整った釣鐘型の乳房の先に息づく桃色の蕾は、処女であることの証拠のように思えた。
しかし下復に茂る繊毛の黒さは肌の白と対照をなして、妙になるほど扇情的だ。
若葉のようなリツの体は、枯れたはずの勘助に思わぬ劣情を催させたのだった。

もう何年もおんなを抱いていない勘助にとって、若いリツの体は魅力ではあった。
だからといって、抱きたいとも妻にしたいとも思わないのが、勘助という男である。
リツの伴侶は前途ある若者でなくてはならない。しかし、それを言っても判らぬであろう。
リツは、あくまで娘に過ぎない。

「あの、もうお終いでございましょうか」
勘助は菜物も椀物も食い終っていた。
「あ……ああ、うむ」
「また、呆としていらっしゃいましたよ」
好奇心いっぱいの幼女がはしゃいでいるようなあどけない顔で、リツがころころと笑う。
「左様か」
「あの」
リツが、何か白いものをそっと差し出した。
布である。
勘助が受けとると、ごわごわした感触。
広げてみて
「ふんどし?」
と気付いた。
「誰のじゃ」
「あなたさまの」
「馬鹿ッ!」
大声を出すと、こめかみが痛かった。
どうしてリツは驚かすようなことばかりするのか。
「お気に召しませぬか、破れていたので」
縫ってさしあげたのか?先刻のは、あれか。
「裸で縫っておったのか!」
「もう暑い季節にござります、皆もいないことですし、だから裸で」
「己の褌の世話くらい、己でするわ!」
とにかく、女に褌を見られたことが恥ずかしい。とくに、この女には。
「リツ、おぬしは、余計なことばかりじゃ!」
勘助は怒鳴ってから少し後悔した。
リツの笑顔は消えて、能面のようになっている。
しかし、これくらいはと思い直し
「明日は、非番の予定じゃったが止めた、出仕する」
そう冷たく言い捨てて、奥の自室に帰った。
あとには、リツと褌が残った。




座敷は静かになった。
取り残されたリツは、黙々と後片付けをはじめた。
そうして全ての食器を片付けても、心のもやもやした残滓だけはどうしても拭えない。
(つまり、馬鹿な男に恋したということかしら)
とつぜん、胸を締め付けられる思いがした。
涙が頬を伝っている。
涙は一滴一滴、とめどなく溢れ出た。
迂濶にもリツは、その時はじめて己のみじめさを悟ったのである。
漏れそうになる鳴咽を、体を折り曲げひっしに抑えた。
あの時――玄関での一件は、あらかじめリツの詐略したことでは無かった。
(それすら、勘助殿は疑っておられるのであろう)
誰もいないことを幸い、実家でよくしていたように着物を脱ぎ捨てたのがいけなかったが、後悔しても遅い。
誤解されても無理はなかった。
太吉らと示し合わせて勘助とふたりっきりになろうとしたのは本当だからだ。
それにあの時、勘助を誘惑する気持が起こらなかったといえば嘘になる。
たしかに褌の綻びを縫うのに夢中で勘助の帰宅するのに気付かなかったが、扉の開いた時
(わたくしの体を見せつけてやれ)
咄嗟のことで、下卑た野心が羞恥心に勝り、あわよくばそのまま抱いて欲しいと思った。
(褌のことも、怒っていらした)
ふたりっきりになれることで浮かれ過ぎていたのだ。
勘助に喜んでもらいたかったし、照れて恥ずかしがる所も見たかった。
その後の会話でも、勘助の気を和らげようと試み、わざととぼけてみたりしたのだが、ことごとく嫌味な女に見えていたことであろう。
(いや、もともとわたくしが嫌味な女なのだ)
全てが間抜けな話で、その途方も無い欠落感は、ここに勘助のいないことが証明している。
寂しさが身に染みて、震えそうに悲しい。
そして、つれない勘助を恨めしく思ってすらいる己の浅ましさが惨めだった。

横を見遣ると、褌が無造作に転がっている。
リツはそれを手に取ってみた。
仄かに、冷たい。
あるべき場所に褌は無くて、リツの掌中にあるから冷たいのであろう。
(褌は、股間に宛てがわれて常に熱を孕んでいなくてはなるまい)
リツは、褌に篭っていたはずの熱気を想った。
その熱気の源を想った。
(勘助殿……)




(勘助殿……)
涙は止んで、胸のうちにある高ぶりが燎原の炎ように盛んに興ってゆく。
顔が刻々と陰惨なものに変容してゆくのがわかる。
情欲に捕われた女の顔だ。
リツは白い布に顔を埋めて、男の匂いを吸い込んで、止めることができない。
汗と油の混じり合って染み込んだ香りは、深い部分を熱くさせた。
(これは寂しさを埋める、わたくしの最後の手だて)
そう弁解するより先に、帯に手をかけている。
座敷を照らす蝋燭の灯が蠢めきに応じて揺らめく。
皮膚のほてりを鎮める外気の涼しさは、衣服を着けぬ姿態であることを、嫌応なく感じさせた。
(あっ!)
体が勢いよく跳ねた。
指先で軽く、乳房の先端に触れただけで鋭い矢尻に突つかれたようである。
(別のいきものが、わたくしの内にいる)
そうとしか思えぬほどに感じやすくなっている。
しかし、声だけは漏れてはならぬ。
(そもそも、わたくしの部屋で始めればよい)
とも思わぬでもないが、この姿は見られてもよかったのである。
勘助に見られるのであれば、幾らでも見てほしいという惑乱した性欲があった。
ただ声を聞かれたくないというのはいかなる心理か。
(きっとわたくしの乙女の部分がそうさせるのであろう)
それはきっと、婦女のつつしみとか理性とかいうものの所為だ。
リツは再び褌を手に取ると、口に含んで噛み締めた。
鼻孔全域に広がる勘助の匂いに恍惚として酔いしれる己を、はしたないと思う余裕はもう無かった。

匂いが、未だ見ぬ勘助の肉体を、生々しいまでに想像させた。
リツは褐色の硬い皮膚を持つ腕に荒々しく掻き抱かれている己を想うと、男の産毛に触れた時の、くすぐったさすら感じてしまう。

それは想像というよりも、妄想か錯覚に近かった。
かつて男に抱かれたことの無い女は、恋焦がれるあまりにここまで追い詰められていたのである。
なにか深い闇に飲み込まれること、愉楽に溺れるとはそういうことだ。


……その始終を、襖の隙間から覗くひとつ眼があった。
勘助である。
(すこし、酷いことをしたかな)
リツのことが気にかかり、慰めに戻ろうとしたところ、なにやら尋常ならぬ気配を感じて、そっと覗いてみれば既に艶めかしいことになっているではないか。
(まったく、今日という日は)
と苦笑したが、自身の陽根は徐々に、硬質のものに成長している。




隙間から見えるリツの顔は、淫らに歪んで美しい。
普段の、幼さの残る笑顔には見られない、喜悦を帯びた表情があらわれていた。
桃色の歯茎から生える白い歯は、褌をしっかり噛んで離さない。
黒髪の生え際にはうっすら汗の粒が滲み、眉間に悩ましげな皺が寄っていた。
眼を瞑って、一心不乱に体を揺らしている。
体のいたる所から汗が吹き出て、きらきら光った。
リツの細い指が突きたてられているその窪みは、温泉が湧き出るように潤っていた。
甘い酢のようなその香りは、とてもリツの小柄な体から発せられたとは思えないほど強烈である。
いつしか勘助は、己の剛直したものを握り扱ごいていた……


リツは左の手で乳房をまさぐり、右の手で下腹の花唇を穿った。
体はぬるぬると汗ばんで、額から水滴が流れ落ちる。
黒い茂みの奥の、柔らかく熟れた内壁を探るように指でなぞってゆく。
さらにてらてら濡れそぼる肉芽の皮をひん剥いて外気に晒し、小刻に扱きあげる。
(わたくしの指が、勘助殿の節くれ立った指であったのなら)
そう思うと熱い蜜がじんわり溢れて、クチュクチュ、粘液質の音がたった。
両股を大胆に開いて、指使いはますます豪快になってゆく。
乱暴なまでに、掻きまわす。
(勘助殿のお指、気持ようございまする)
そう囁くと勘助は、恥ずかしそうに顔をそむけた。
リツはその仕草をたまらなく可愛いものだと思った。
(リツは、はしたない娘だな)
そう言われればさすがのリツも顔を赤らめずにおられない。
(そうでございます、勘助殿のせいで、はしたない娘になったのでございます)
勘助は笑ったように思える。
腕を伸ばして、そのがっしりとした体を抱こうとした。
しかしその感覚は虚しいままだった。

(んん……ぁはぁぁ……、勘助殿…せつのうござりまするぅ………)
来るべき快楽の爆発に、リツは身構えた。
やがて沸点を越えた快楽が、堰を破る水のように溢れ出た。
(あぁぁ……いく、いく……いくッ……っぁぁぁぁあああああああ!)
灼熱に貫かれてたような衝撃。
体ごと宙空へふっ飛びそうになるのを、褌を噛んで踏んばった。
鉄砲玉が弾けるように、窪みから大量の白泉が噴き散って、床の上に雨を降らした。
眼の前が白くなった……




翌朝。
朝飼の粥から湯気の立ち昇るのを眺めながら、勘助は考えるのである。
(やはり、わしに性欲以上のものは無かった)
リツが絶頂を迎えた時……時を同じくして、勘助はどろりとした樹液のようなものを吐き出していた。
そうしてみれば、後はさっぱりとしたものだった。
リツを女として見ていた欲望は、樹液とともに流れ消えてしまったのである。
(これは、恋ではあるまい)
愛はある。
親として娘に対する、愛。
証拠に勘助は、娘の秘事を盗み見て逝ったことについて、幾分かの申し訳なさと恥ずかしさがあった。
横でリツがうつむいて、黙りこくっている。
昨日から、会話らしい会話を交していない。
「……んん、リツ」
「はい」
顔上げたリツには、やはり人をはっとさせる輝きがあった。
それでも表情は、怪訝そうに曇っている。
悲しそうな顔ではなく、心の底から笑っていて欲しいと、勘助は親として思うのだった。
「……今日はな、やっぱり、非番のままじゃ」
「はあ」
「……非番じゃ」
「あの」
「ん」
「非番ということはつまり、今日一日中この家に、リツとともに居てくださるということでございますか」
「そうじゃ」
「だんなさまーー!!」
「!!」
凄まじい勢いでリツが飛びついてきた。
鼻孔に、昨日の匂いを和らげた、安らかな香りが広がる。
「これこれ」
花が咲いたような、いつもの笑顔がそこにあった。
瞳が、潤んでいた。
(わしは甘い親かな)
甘やかしたことがこの先かえってリツを苦しめることになりはせぬか、そんな危惧はある。
(いずれ、良い婿を見付けてやらねばならなぬ)
リツにとっては残酷なことだが、それが親としての役目だと思った。

(いったい、どうしたことかしら)
リツは心の隅で訝った。
さては昨夜の自慰を見られて、それで哀れに思われたか。
(見られていようが、いまいが、それはわたくしにとってさして重要なことでは無い)
見上げれば、勘助が笑っている。
いい気なものだ。
(つねってやろうかしら)
でも、止めた。
素直に甘えようと思った。
いま、この幸福に浸れば良い。
この先いつ崩れるとも知れない、刹那の間の幸福に。
(わたくしは、いずれ旦那様を父上と呼ぶ日が来るのだろうか)
不吉な、しかしいずれはそうなるであろう未来の影を振りきるように、リツは勘助の胸に顔を埋めた。
褌の匂いがした。

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