領主の嫡男である小山田弥三郎は、常緑樹でギザギザに縁取られた青空へ、やり場に困った視線を向けた。
(落ち着け……落ち着くのじゃ)
脈打つ心臓が肋骨を破り飛び出してきそうだ。
自らの鼓動に急き立てられつつ、退路を考えていると、さっきから彼の耳を刺激し続けているせわしない息遣いに
「ああ……」
と甘くかすれた旋律が乗った。
弥三郎は数年前に元服も初陣も済ませて、跡取りの勤めを立派に果たしている。
されど温和な性格が滲み出した柔和な顔は、実際の歳よりもいささかあどけなく見えた。
その生真面目な瞳が誘惑と好奇にゆらいだ。

彼は郡内小山田邸からしばし馬を走らせた山中の、とある森の斜面にいる。
高い木々に囲まれて鬱蒼としているが、目の前の窪地には目立った立木もなく、そこにだけ木漏れ日が明るく射し込んでいた。
斜面に横たわる楕円形のちょうど底にあたる部分には泉が沸き、小さな花が群れ咲いて休息を取るのに格好の空間となっている。

弥三郎の喉は、カラカラに渇いていた。ほんの少し坂を下るだけで存分に泉の水が飲めるというのに、窪地をまばらに縁取る茂みから動けずにいる。
泉のほとりには先客が居て、枝葉の間から白っぽいものがちらちらと動くのが見えた。
彼の色白の頬がうっすら赤く染まっているのは、強い陽光の下、馬を走らせてきたためだけではない。

──男と女が衣服を乱して睦み合っているのだ。

男は彼の父親の小山田出羽守信有。女の方は上背のある父にすっぽりと隠れているので顔が見えない。
(困ったところに行き逢うてしもうた)
泉の周囲は、巨人が一掴み抉り取ったようになっている上、ぐるりと潅木が取り囲んで天然の垣根を作っているので、こんなに近くに寄るまで二人の姿が見えなかったのだ。

弥三郎は二人が唇を吸い合う、くちゃ……という水音にさらに頬を赤らめた。

彼が父からこの居心地の良い場所を教わったのは、まだ鶴千代丸と呼ばれていた頃である。
こっそり執務の間を抜け出して、野駆けに出る支度をしていた父の袴を掴み、一緒に連れて行ってくれとねだると、まだ髭もなかった若い父は、唇を斜めに引き上げて笑い、鞍へ抱き上げてくれた。
強い腕にしっかり支えられ、自身も馬のたてがみを握りしめながら、弥三郎はいずれ父から引き継ぐ土地の景色が、眼前に移ろいゆくのを胸を躍らせて眺めた。
その時休息を取ったのがこの泉だ。
父は少年の頃雉を狩っている途中偶然にここをみつけたと言っていた。
「わしの気に入りの場所じゃ。誰にも申すな」
手ずから泉の水をすくって弥三郎に与えながら、父はそうも言った。
大きな手に唇をあてて飲んだ水はとても冷たく、ほのかに甘く感じた。

その日のことはそれ以後父との会話にも出たことはない。
しかし弥三郎は一人で遠乗りに出られるようになってから、すでにここを幾度か尋ねている。
風光明媚で人に会うことが少ないこの道は、身分を隠して馬を走らせるのにちょうど良い。
恐らく父もそういうところが気に入ったのだろう。
今でこそ領主の務めを学ぶため、父の傍らに控えている時間は長くなったが、幼い頃に過ごした記憶は多くない。
そのせいだろうか、あの日の出来事が弥三郎にはことさら慕わしく思えるのだ。

その思い出の場所で不埒な仕儀に及ばれていることに、弥三郎は怒るべきであろう。
しかし父と女の乱れた息遣いは、梢のざわめきや小鳥の声に不思議に違和感なく溶け込んでいる。
弥三郎はついに誘惑に屈し、視線を声の方へと向けた。

二人は向かい合って座り、結びついた部分を要とする一枚の扇のように互いに背を反らして快美に喘いでいた。
腰巻ごとたくし上げられた女の衣が、尻の下で皺になっている。
微行のために地味な色を選んだようだが、身分卑しからざる武家の女の身なりだ。

投げ出された足の白さが目にまぶしい。
弥三郎にはそれが男の体に絡み付くためだけに作られたものに見えた。
せつなく草を踏みにじる丸い足指、細い足首から膝頭を経て、震える太腿の先、乱れた衣の奥へ。
「いけない」とは思いながら、弥三郎の視線はきわどいところにまで吸い込まれた。

ひっきりなしに揺さぶられて均衡を失った女が支えを求めて父にすがる。
くすんだ藤色の小袖が女に斜めに引っ張られて、筋肉の張りつめた武将の背があらわになった。
女の華奢な手がその上を、入口を探すように掻きむしる。
ぴくり、と震えたのは弥三郎自身の体だ。
白魚のような指が己の体をまさぐったような気がした。

やがて、父の膝によじ登って自ら腰を波打たせ始めた女の顔が、木漏れ日の中に白く浮かび上がった。
(やはり)
と弥三郎は思った。
印象的な黒く大きな瞳、それを縁取る長いまつげ。あえかに開いた口元のほくろ──。
官能に歪んではいるが、その顔には確かに覚えがある。
なぜならば、女の夫を殺した戦に弥三郎も加わっていたからだ。

──数年前の志賀城攻め。
その頃、甲斐のお屋形様が下す下知の残虐さは、病かと首をひねるほどであった。
主君の豹変を皆が恐れいぶかしむ中、父は非道な任を、笑みすら浮かべて忠実に遂行した。
弥三郎はそんな父に自虐的なものを感じていた。
表立った奇行や堕落があったわけではない。またその内心にどのような葛藤があったのかは知らない。
しかし、あの頃の父の心が何かの理由で屈折し、荒んでいたのは確かだ。

志賀城攻めにおいて、小山田勢は先備えの一翼を担っていた。
戦で鬱屈を晴らすかのように父の差配は容赦がなく、小山田勢は文字どおり死体の山を築きながら、城の奥深くへ踏み込んだ。
「女子供は生け捕りにせよ」
白刃を肩に無造作に担いだ父の口元にはぞっとするような笑みが浮かんでいた。

それが、である。
後刻、燃え落ちようとしている曲輪から引き上げてきた時には、父の顔にあった澱んだ翳りは、嘘のようにかき消えていた。
そのかわり、腕の中には、炎と同じ色の打掛をまとった女が、いた。

父は女を陣羽織の胸深く抱き寄せ、降りしきる火の粉から守っている。
その手つきの濃やかさは虜囚を扱うものには見えなかった。
主君の手を煩わせるには及ばずと、気を回した家臣が女の体を受け取ろうとしたが、父はそれを威嚇するように睨みつけた。
結局女が気がつくまで、父はその顔を飽かず眺めていた。

弥三郎はその理由を、意識を取り戻した女が、父の腕から降り立つのを見て理解した。
煤で汚れていてもなお、女はこの上なく美しかったのだ。
ふらついた体を支えようとした手を振り払い、気丈に敵将を睨み据えた女を、父の小山田出羽守信有は兜の下の目を細めてまぶしく見返した。
側近くにいた家臣の幾人かは父に芽生えた女への執心を敏感に嗅ぎ取ったが、そこから少し離れたところに立つ、同じ「信有」の諱を持つ若者が、父によく似た表情を浮かべて女をみつめていたことに、気づいた者はいなかった。

その日以来、幾度も夢に現れては弥三郎を悩ませたその女が、そこにいる。
──しかも夢の中よりも淫らな姿で。

弥三郎が視界を阻む枝を掴んで身を乗り出した時、彼の潜む繁みの近くから雉のような鳥がばさばさと飛び立った。
それは弥三郎の肝を冷やしたが、それ以上に快楽にふけっていた女を我に返らせた。
「あ……」
うろたえて引き剥がそうとした細い体を父が抱き留め、なだめるように髪を撫でる。
「美瑠、大事無い……ただの山鳥じゃ」
(……みる)
弥三郎はその美しい名を、胸の中で唱えた。
敵将笠原清繁の正室だった年上の女は、父に恩賞として与えられ、その側室となっている。
囲われている屋敷の名にちなみ、家中では「駒橋の方」または「駒橋殿」などと呼び習わされていた。
女のまことの名を、弥三郎はこの時始めて知ったのである。

「無粋な鳥じゃ……今少しであったものを」
父が女のむき出しの肩に頬をすり寄せ、焦れったく腰を動かすと美瑠は居心地悪そうに身をよじった。
「殿、もう館へ戻りませぬか。このようなところでは……気がとがめまする」
「案ずるな。ここは元服した頃から幾度も参っておるが、一度として人と会うたことなどない」
「……ここへは、女人とご一緒に?」
「妬けるか?」
暴れる美瑠を父は笑いながら抱き締めた。
「嘘じゃ。女はおろか誰も連れて来たことなどない……いや、一度だけ弥三郎を伴ったことがあった、な」
「弥三郎、さま……?」
美瑠は鸚鵡のように父の言葉を繰り返したのに過ぎない。
されど、思いを寄せる女の唇が己の名前を紡ぐのを聞いた弥三郎の体温は上がった。
しかも、父と繋がったままで発せられたその声はひどく妖艶だった。
「あれが幼少のみぎりに一度連れてきたきりじゃ。弥三郎とて、とうに忘れているであろう」
安心させるようにそうささやくと、美瑠の体を弥三郎から良く見える草の上へ横たえた。
美瑠の襟元がさらに大きく開かれる。
まさか当の弥三郎がすぐ近くにいて、たわわな乳房に生唾を飲んでいるとは思いもしない。
「あ……」
父がずっと繋がったままだった腰をゆっくりと進めると、赤い唇がうっとりと開いた。

弥三郎は甘美な高ぶりに全身を痺れさせながら、父が女の体を好きにする一部始終を見た。
羞恥や潔癖など、彼を後ろめたくする感情は興奮に押し流されてしまった。
生身の美瑠の喘ぐなまめかしさは、弥三郎が眠れぬ夜に頭の中に作り上げた幻とは比べ物になどならない。
弥三郎の男根が固くいきり立って下帯を押し上げている。
布地をこする他愛のない刺激だけで精を漏らしそうになり、弥三郎はあわてて股間を押さえた。
頭に血が上って耳鳴りがする。鼓動が速くなりすぎて息苦しい。
目の前では、父が美瑠の足を抱え上げ、さらに結びつきを深めようとしていた。
「は、あ……んっ」
体を打ち付け合う淫らな音が大きくなる。
我慢できずに弥三郎は袴の合わせ目から張り詰めたものをつかみ出していた。
「美瑠……」
父が何度も何度も女の名を呼んでいる。
呻きと鳴き声が混ざり合って高まる。

一際強くなった風が木々を激しくざわめかせ、極みの声を消した。

やがて
弥三郎は肩を揺らしながら口を塞いでいた手を離した。
もう片方の手に疲れた視線を落とす。
それは白く濁った粘液で汚れていた。
草の上にも白いものが滴っている。
弥三郎はそれを虚しく眺めた。

強すぎる快感の余韻と、ざらついた嫌悪に身を浸し、後始末をするのも億劫だった。

一方の眼前では、父が手際よく身じまいを整え、泉の水で手ぬぐいを濡らすと美瑠の体を甲斐甲斐しく清めている。
乳房の間にたまった汗の玉まで、丁寧に。
美瑠は蕩けた顔をまま、しばらく父のなすがままにしてたが、やがて恥ずかしそうに身を起こし襟を掻き合わせた。
美しい体が隠されていくのを名残惜しく見守り、弥三郎は汚れた手をむなしく草になすりつけた。
(わしは、なんと、浅ましいことを……)
泣きそうな弥三郎をよそに、窪地の二人は互いの衣についた草を仲良く取り除きあい、並んで泉の縁に座って喉を潤している。
ぱしゃん、と軽やかな水音に二つの笑い声が重なった。
水をはね散らかし、戯れている。

弥三郎の思考は乱れた。
くらくらする。
今日は始めて目にするものがあまりに多すぎるのだ。

仇のすべてを睨み殺しそうな瞳をしていたあの女が、なんと可憐な顔をしていることか。
いや、それよりも自分の父はあんなにも朗らかな顔で笑う男だったか?

まるで弥三郎に見せ付けるようにじゃれあった後、父は美瑠の膝に頭を預け横になった。

木漏れ日の中でやすらいでいる二人を見る弥三郎の頭に「つがい」という言葉が自然に浮かんできた。
己の母のことを思うと胸が痛むが、この二人の間に割ってはいることは誰にも出来ぬと思われる。 それは、己とて同じことだ。

美瑠の指に濡れたほつれた毛を撫でられながら、父がぽつりとつぶやく
「このままずっと、こうしていられればよいのにのう……」
つられてうなずきかけた女が、大切なものを思い出したようにまつげを瞬かせた。
「まこと、よいところにございまするな……でも、早うあれを、藤王丸に飲ませてやらねば」
美瑠の視線の先をたどると、男物と女物の笠と履物や脚絆の類がきちんと並ぶそばに、白い小菊を挿した籠があり、濃い緑の草が覗いていた。
「つれない女じゃ。わしより藤王丸のことが気にかかるのか」
父が鼻をつまもうとするのを美瑠は笑いながら逃れた。

藤王丸というのは美瑠が産んだ子だ。一度も逢ったことはないが、近頃病がちだというのは噂で聞いている。
この弟の出生に関しては、不穏な噂も耳にするが──目の前の二人にそのような気配を匂わせるものは何もない。
「今日は私のわがままをお聞き届けくださり、外へお連れ下さってありがとうございます。これで藤王丸の咳もよくなるものと存じまする」
「目当ての薬草がみつかってよかったのう。それはさように効くのか」
「はい。私も幼き頃には体が弱く、よう咳を致しておりましたが、そのたびに母が、この草を煎じて……」
美瑠は言葉半ばで横を向いた。

彼女がお屋形様が初陣で見事落城せしめた海ノ口城の姫で、その戦で両親を失ったこと。
その信濃攻めは、父が先代の信虎公にさかんに具申して行われたこと。
弥三郎がそれらの事実を知ったのは、それからずっと後のことである。

だから、弥三郎は父が少し居心地の悪い顔をしたことには、ほんの少し違和感を感じただけだった。

美瑠はあたりに咲いていた白い花を摘み、手慰みに編み始めている。
それを見て、父が言った。
「……器用じゃな」
「幼い頃、この花でよう遊んだものでございます」
懐かしそうに言う女の口は微笑んでいたが、目にはなにか愁いの色がある。
「随分遠くまで参ったように思っておりましたが……甲斐も信濃も、咲く花は同じでございまするな」
遠く信濃の佐久からこの郡内へ、美瑠を略奪同様に連れてきた父は、何も答えなかった。
ただ己の顔のすぐ近くで女の指が規則正しく動くのをじっと眺めている。

遠く小鳥の声が響く。
女の編んでいる花輪の先が、端座した女の膝に達しようという頃、父の口からあくびが漏れた。
「殿、少しお休みになっていらしてもよろしゅうございますよ。私は藤王丸の土産に花輪を編んでおりますゆえ」
「ん……」
「では、三尺ばかり編み終えましたら、お起こし致しまする」
「美瑠」
「はい」
父はさも心地よさそうに女の名を呼び、女も笑顔でそれに答えた。
「四尺じゃ」
「はい」
「……美瑠」
「はい?」
「ゆるりと編め」
「はい」

父は女の膝を枕にすぐに安らかな息を立て始め、弥三郎はその機にその場から立ち去った。
この時振り返ったのが、弥三郎が生きた女を見た最後となった。

どこをどう馬を走らせたのか、弥三郎が谷村の邸に帰ったのは夜も更けていた。
床で目を閉じた弥三郎の瞼の裏に、赤い打掛をまとい、燃えるような瞳をした笠原の正室の姿が浮かび上がる。
志賀城の戦以来、習慣となっていることだが、今宵はそれが身に沁みてつらい。

弥三郎は、今日に至るまで笠原夫人がいまだ恨みを抱いたままで父に囚われているものと思い込んでいた自分を嗤った。
今、駒橋館に住まうのは父を愛し、愛される美瑠という名の別の女だ。
己が恋をした女は、もうどこにもおりはしない。
父に抱かれ、父の子を産み、溶けて消えた。
「……みる」
山の中で父の腕で喘いでいた女と、己が恋した女を別人と割り切ろうとしながら、弥三郎はその美しい名をこっそりつぶやいた。

彼が心から美瑠の面影を消せなかったように、美瑠という女の心に怨嗟の炎が尽きていなかったということを弥三郎が知るのは、この次の年、天文二十年の正月、雪の朝のことである。

それはもう半年ばかり先に迫っている。

弥三郎は今はそんなことを知る由もなく、微笑む女の顔を脳裏に思い浮かべながら、ただ眠ろうとあがいていた。


おわり

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