二十年ほど前に赤部守を討ち取った葛笠村の離れ、花畑の中に勘助は座り込んでいた。
朧月がぼんやりと、白く小さな花達を照らしている。
何故己は此処にいるのか、甲斐の屋敷からどうやって此処まで来たのか…。
真っ当な疑問は浮かぶものの、形にならず緩やかに吹く風と共に四散していった。
さわさわと揺れる花達に視線を落とす。
これらの名は何と言うのだろう、と他愛も無い疑問が脳裏を掠めた時、
不意に現れた人影に勘助は視線を上げた。
「誰じゃ、っな?!」
「勘助っ!」
何の躊躇いもなく飛び込んできた身体を、慌てて受け止める。
古く擦り切れた着物越しに若く瑞々しい女体を感じて背筋がぞくり、と震えた。
この身体を知っている、忘れるはずがない。
しかし、今生で二度と抱ける筈がないことは勘助がその眼で確かめたはず。


勘助、会いたかっただ。」
胸元からぐいと顔を上げ、にぱっと微笑むのはやはり亡き妻。
「…某にもとうとう迎えが来たか?しかしまだ景虎と雌雄を決しておらん上、
四郎様の行く末も定かでは無いのにおめおめと逝く訳には…」
「何言ってるらに、相変わらず小難しい事ばかり考えてるだか?」
混乱する余り、思考をそのまま口に出してしまい早速突っ込まれる。

我が城じゃ、己が守るべきはお主とその腹の子じゃと誓ったはずが
守ること適わず、死に目にすら会えなかったミツ。
言いたい事伝えたい事は山ほどある筈なのに、
軍略にかけては滑らかな己の舌は今ぴくりとも動いてくれぬ。
「本当に変わってねえだな、勘助。
そういう時は黙って抱きしめるもんずら。」
いつぞやの指南を再度口に出し、からからと笑うミツにつられて
しっかりとその身を抱きしめてみた。
日焼けした首筋に顔を寄せる。ふと、違和感に勘助は眉を寄せた。
ミツの匂いは、大地に根付く今正に周りに咲いている花そのものだった。
しかし今首筋から香るのは、同じ花でも野に群生する物ではない。
例えるなら、庭で丹精込めて育てられた山茶花のような…。


「どうかしたのけ?」
強張った身体を感じ取ったのか、不思議そうな声が耳朶を打つ。
幽谷にいた者とて多少の変化はあるだろう、そう驚くこともあるまいと
思い直して勘助は再びミツの首筋に唇を落とした。
甘やかな花の香りに誘われるように、幾度となく口付ける。
ふぁ、と小さな嬌声を零して腕の中の身体が身じろぐ。
己でもそうは残っておるまいと思っていた劣情が、
その媚態に突き動かされるように湧き上がり熱をもたらした。
それに気づいたミツに下帯の上から撫で上げられ、生じる快楽に息を呑む。
もはや先程感じた違和感や、ミツは己を迎えに来たのでは…
という疑問は勘助の脳裏からすっかり消えていた。
「ん…ミツ…」
首筋を舐め上げ耳朶を甘噛みしながら、
勘助は腕の中の妻の名を柔らかく囁いた。


その途端、甘く鳴いていたミツの身体が先程の己より顕著に強張る。
驚いて腕の中を覗き込むと、明らかに眼を潤ませながら睨みあげてくる視線。
「ミツ、どうした?」
訳もわからず訊ねると、ますます視線には棘が混ざり
とうとう零れた涙がつう、と頬を伝って。
「…嫌っ!!」
突然両の手で力一杯胸を突かれ、受身も取れず勘助は
強かに後頭部を地面に打ちつけた。


痛む後頭部を抑えながら起き上がってみれば、
そこは葛笠村の花畑ではなく、甲斐の己の屋敷。
日の光が差し込む中、またもやリツの顔が視界に入る。
「リツ、お主また某の寝所に…!」
慌てて眼帯を着けつつ、この嫁希望養女をどう諭すべきかと
向き直った勘助は言葉を失った。
どこか拗ねた様にじっとこちらを見つめてくる棘のある視線は、
先程まで己が見ていた夢の中のミツとそっくりで。
背筋をぞくり、と嫌な汗が伝い二の句が告げない勘助。

リツはしばらくそんな勘助を無言で見ていたが、不意ににっこりと笑って
「『旦那様はもうお年で、役に立たないから鬼蓑の娘を養女にした』
等という不埒な噂も城下に流れておりまする。
でもそんなことは根も葉もない噂、私安心致しました。
これでいつでも、旦那様のお子を産んで差し上げられます。
ですが、旦那様が起きておられる時にお願いしますね。」
立て板に水のようにすらすらと述べると、笑顔のまま
「おくまが、朝餉の支度が出来たと呼んでおりまする。」
と固まる勘助を置いて寝所から出て行った。


「『起きておられる時にお願いします』だと?」
他にも色々聞き捨てならないことを聞いた気もするが、
謎かけのようなリツの言葉に頭を抱える勘助。
ふと、リツの残り香であろう花の香りが鼻を掠めた。
そう、例えるなら先程勘助を魅了した山茶花のような香りが…。

呆ける勘助の寝所に、太吉の
「だんなさま〜、飯の支度ができたでごいす〜。」
という暢気な呼び声がむなしく響き渡った。


後日、勘助は晴信改め信玄の出家に伴い、道鬼と名を改めた。
むろん計略的な意図もある。
信玄の領民を思う気持ちに、素直に感動したのも理由の一つ。
しかし最大の理由は、相変わらず嫁志望の養女に
図らずとも手を出しかけた己に対する戒めであった。
(あの夢は恐らく、ミツからの警告でもあったのだろうな)
高野山で、清胤和尚に言われた事を思い出す。
死者は何かしら生者に遺していく者。きっとミツは幽谷から
「勘助もいい年して、若い者を誑かしてるんじゃねえだに。」
と苦笑交じりに勘助に伝えに来たに違いない。
いずれにせよ出家という節目を持って、養女と己の間に
きっちりしたけじめが出来る、はずだったのだが…。


「道鬼様、おはようございます。」
「…リツ!お主また寝所に!!」
「お酒も少しなら問題ないのでしょう?
でしたら女人も、少しなら問題ないではありませぬか。」

今朝も山本家の寝所から、賑やかな言い争いが聞こえてくる。
リツに婿が来るまで、果たして勘助改め道鬼の理性が持つか。
マリシテンのみぞ知る所である。

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