女正月は、女たちが婚家から堂々と実家に帰りゆるりと過ごす
雛の祭のようなものであったけれど、
武田との戦で父も母も、養父母も夫も、この世の縁者すべてを失った美瑠は
どこに訪ねることもなく、日がな一日小山田の城で琴を静かに弾いていた。
小山田家の正妻は甲府の武田本家に慣例通り行っており、小山田にとっては
まことに自由な時間であったが、だからこそ美瑠と二人きりで過ごすには
外聞をはばからねばならず、城に残った家臣たちを呼び宴を催すのが常だった。
今年も女正月が近づいた時、「甲斐でいずこかへ、出かけとうはないか?」
いつもなら「いえ・・・」と答えた美瑠が、今年は「では、お訪ねしといところがございます」
「どこへじゃ?」長いまつげをしばたかせながら「山本殿のお屋敷へ」と美瑠は答えた。
小山田は驚いたが、彼の驚きを予測していたのだろう美瑠は冷静に言葉を続けた。
「昔、父の城におりました頃、山本殿がわが家中のために戦ってくれました。
隻眼のお顔は1度見たら忘れられぬお顔故、笠原の城が落ちた後、
武田方にいたあのお方の顔を私はすぐに見つけることができました。
山本殿も私を覚えておいでて労わってくださいましたのに、
落城直後ゆえ気がたっていた私ははしたないマネをいたしました。
それをお詫びしたいのです」
小山田は武田の戦勝宴で馬場から聞いた話を思い出した。
「あのような良き女子を果報じゃのう。いやうらやましい。
落城の憂き目を見たのに泣きもせず勘助の差し出した水を跳ね除ける気の強さは
たいしたものじゃ。あのような美女が泣いてばかりではつまらぬ」
「勘助が、美瑠に?」
「おお、そうじゃ。なんでもほれ、勘助はあの真田の郎党と一緒に潜入しておっての
その時、まだわらべの美瑠殿に会うたそうじゃ。
幼きながら、我ら武田と戦い傷ついた城の将兵を労わる賢い姫じゃと
勘助はワシに話しておった。怖い顔をしたあの男がかような優しい目をして
語っておったので、そなた幼き姫に嗜好でもあるのかと尋ねたらあの恐ろしい目で
睨まれたがの。」
「勘助はその後美瑠には?」
「まさか笠原の城にいるとは思いもせなんだ
知っておれば、あのような地獄を見せる前にお救いしたのにと言っておった。」
「あの勘助が、か」
「そうじゃ、あの勘助が」
「お屋形さまのご機嫌結びに美瑠を諏訪の姫のように献じようとでも言うのかの」
「これ、小山田殿。美瑠殿は笠原夫人じゃ。他の男に縁付いたおなごを
親方様の寝所にいれるは」
そこまで言いかけて、馬場は人妻だった女を側室にしている小山田の立場に
我に返った。「い、いやすまぬ。我らとお屋形様ではお立場が異なる。
我らなら、戦で得た女子が美しいというだけで十分じゃ。
しかるにお屋形さまは」
「お屋形様は房事もまつりごと、じゃな。馬場殿」
「まぁ、お二方、今宵は戦勝の宴。さぁ、飲みませぬか」
そう言って駒井は手を叩き、遊び女たちに管弦を命じた。
笠原の城を落として得た女子たちは見目よきものは家臣に
若きものは将兵に、残りは武田の金山の鉱夫へのなぐさみにという
晴信の命令は女たちの阿鼻共感とは裏腹に粛々と実行され
その陣頭指揮を取った駒井は、今日一日の憂いを酒で流そうとしていた。
美しい女たちをめぐって、武田の家中で遺恨にならぬように
女たちの身柄は競によって決めた。誰よりも高値がついた笠原夫人を
馬場も含め、家臣たちが我も我もと競ったが、
眉一つ動かさず、誰よりも多くの金を積み競を終わらせたのは小山田だった。
小山田ならば宴席で房事の自慢などすることのない性分ゆえ
今後美瑠のことで武田家中が角つきあわせることはないと胸を撫で下ろした。
女というものがそのかよわげな外見とは裏腹に、時に男の命運も決める力を持っていることを
この時駒井は知ったつもりでいた。


落城の城から這い出してきた女たちの命運は勝軍武田にあった。
競の日は、終わると宴席を儲け、武田家臣たちは競り勝った戦利品である
敵の美女をはべらし、その女の所有権が誰にあるかをはっきりと示すと同時に
競で得た女たちは戦利品であり、モノであり、まつりごとを含めて縁づいた
正室や側室のの立場をなんら脅かすものではないことを女たちに暗に納得させ、
武田の家臣の家庭に無用な争いごとを防ぐ目的もあった。
そして・・・もうひとつ。戦勝に浮かれたその夜に、武田の将が閨を急いて
恨みだく女たちに寝首をかかせる機会を与えない、という配慮があった。

もはや身分も名もなく、武田家臣の戦利品でしかない女たちは
競の間中、自害させぬように口には猿轡を入れられ、両手は戒められていた。
このため、体の弱いものは競が終わるのをまたず事切れることも少なくなかった。
競が終わり、新しい「主人」が決まり、その主人によって舌に噛まされていた轡と
両手を後ろでに縛られていた戒めを、解かれるのだが、
その時をまって、敵将に挑み無礼討ちされる女
猿轡を解かれたその直後に舌を噛み死に果てる女も少なくはなかった。
そのような悲劇を多く見聞きしてきただけに
屈辱にふるえる笠原夫人を手中に入れてた喜びよりも
失う恐怖が小山田を包んでいた。
「今からワシはそなたの戒めを解く。が、ひとつ約定してくれぬか
舌など噛まぬと。もしそなたがワシとの約定を違えたら・・・」
小山田が手を鳴らすと、ふすまが開き、そこには美瑠と同じく戒められ
猿轡をかまされたまだ子供のような娘がいた。娘は美瑠を認めると
その両眼から涙があふれ、猿轡をした口から嗚咽がした。
「そなたの侍女であろう?ワシはそなたのためにこの娘も競ったが
もしもそなたがワシの目の前で舌噛み切ることがあらば、
この場でこの娘をこの姿のまま雑兵共に与えるつもりじゃ」
美瑠の体がガクガクを震えるのを小山田は感じた。
「安心せい、そなたが自害せぬと誓うてくれるなら
この娘はわが小山田で召抱え、そなたの側に置く。
自害せぬと誓うてくれるならそなたの戒めを解くが」
問いかける小山田をすさまじい光芒を放つ瞳で美瑠は見つめていたが
ややあって、うなづいてみせた。
ほっとした安堵のようなため息を小山田は漏らし「ご免」といって
美瑠の戒めを小刀で切った。猿轡から解放された美瑠の唇から唾液が
滴り落ち、慌てて口元を押さえながら美瑠は、戒められている
自分の侍女のところへ駆け寄ろうとしたが
長らく戒められていたために、足がもつれ倒れ伏しそうになったのを
小山田は抱き取った。美瑠の体が嫌悪で強張る。
「安心いたせ、そなたの侍女はわが小山田の家中ゆえ、誰も手出しせぬ。」
もう一つのふすまが開き、小山田家の老女が着物を携えて出てきた。
「宴まで間がある。その間に湯浴みをさせて仕度を頼む」主人の命に平伏した後
顔をあげた老女は昨日までの敵将の夫人に、一瞬蔑むようなまなざしを向け
美瑠は屈辱で体が熱くなるのを感じたが、そんな自分を注視している小山田に
気づき、「お断りじゃ!」と叫んだ。老女は目を剥いたが、
小山田は顔には不思議な笑みが浮かんでいる。
「さすがは、笠原の正室じゃ。泣くだけの女とは違う」


小山田の手によって競の間中美瑠の手首を戒めていた紐は切られたが、
彼女の手は自由を取り戻せず、
笠原の将兵を斬り刻んできた敵将の手にしっかりとつかまれていた。
小山田の手と自分の両手をいまいましげに見ながら美瑠は続けた。
「競で買った獲物なら、泥に汚れて戒めたまま連れて行け。武田の宴席にはふさわしかろう」
「それもよいな」小山田は静かに答えた。
「が、獲物を飾って並べて魅せよとのご下知じゃ。多恵!」
小山田にそう呼ばれた老女は、懐剣を抜き戒めが解かれぬままの侍女に近づいた。
「私の侍女は庇護すると言ったではないか!」
「主人であるそなたが強情を張れば、その責めを負うて自害するやも知れぬ。
よいか、それで?」
卑劣な、なんという卑劣な。見るがいい、武田の悪将!
美瑠が舌を噛み切るより先に小山田は美瑠の顎をつかみ、口に指を入れた。
侵入者に果敢に立ち向かおうとする美瑠の舌の烈しに己が指が翻弄され
熱をもった肉体とは裏腹に小山田の声は冷酷に響く。
「そちは自害はせぬとワシと約定をかわした。そうじゃな?笠原の奥方」
美瑠の双眸に涙が溜まり、小山田の指を噛み流れた口内に血の味がした。
血の匂いがあの恐ろしい日の記憶をよみがえらせた。
味方の首は城の廻りに並べられただけでなく、城の中に武田の将兵によって投げ込まれ
城内は阿鼻叫喚の地獄になった。狂人と化して、味方の首を食らい
女と見れば手当たり次第に犯す男たち・・・。落城を願い何度も城内に味方により放たれた火。
男たちと共に死ねずにいた女たちを待っていたのは更なる武田の地獄。
牛馬のように競にかけられ、母子ですら引き離されて金で売られていったのだ。
「奥方さま!お助けくださいまし!」今も耳にこだまする多くの声・声。
それほどに人命を踏みにじる武田の将であるこの男が
このままこの場で自分を斬ることを由としないのはなぜか
その理由がわからぬほど美瑠は子供ではなかった。
それこそ城も夫も失った自分に残された唯一の武器ならば・・・
美瑠は彼女が噛んだ小山田の指をそっと舐めた後、そのまま指を舌で包んだ。
それは一滴の墨汁が桶の水を黒くするように小山田の心に効いた。
彼の手にいれた美しい獲物は、彼よりも先に手にいれたものによって
閨とはどういう場所かを教え込まれていることを、美瑠の小さな舌は
はっきりと小山田に宣言していた。
降伏と勝利を同時に宣言する、美しくも激しい美瑠に
武田家中随一の怜悧な小山田の若さが煽られる。

美瑠は小山田が手に握った小刀を自分に振り下ろすのを見た。
死への恐怖はなかった。武田敵将を自分の命と引き換えに
戦利品の女に焦れて手討にしたと卑しき武将と汚名を着せ葬ることができれば
泉下の父も夫も少しは無念が晴れようか?

小さく悲鳴を上げて、膝下に崩れ折れた美瑠を小山田は見下ろした。
小山田の小刀で断ち切られ美瑠の着物も帯も床に落ち散り
その中心で長い髪でなんとか体を隠そうとしている美瑠の白い肩、背、
手で抑えられいてるまろやかな乳房。
焦ることはない。この豪奢な獲物は己が手の中なのだ。
「多恵」と呼ばれた老女は美瑠に新しい着物をかえ、足元に散らばった着物を片付け始める。
思い出でもあるのか、老女の手をさえぎろうとした美瑠の手を小山田が掴んだ。
「そなたは今はこの小山田が妾!得心いただけたか?」
武田一怜悧との評判のこの男の目に、激しい情念が宿っているのを美瑠は確認した。
美瑠が敵将小山田に灯した火は、彼の胸の中で生涯燃え続け
小山田も美瑠も果てた遥か後に、武田を滅ぼすのろしになることを
二人はまだ知らなかった。

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