本から顔を上げた由布姫は上機嫌な声を上げた。
「おお勘助、待ちかねましたよ!」
(姫さま、今日はまた、なんとお美しい……)
まばゆい笑みに勘助は蕩けるような心地がした。


「して、どのようなご用事でござりますかな?」
急な用だと言われて飛んできた勘助である。
(此度はいったいどのようなわがままを……)
この姫のためならば、どんな無理も聞いて差し上げたいと思っている勘助であるが、
姫が口にする言葉は、しばし彼の想像する次元を凌駕する。
が、そこがまたこの姫のなんとも麗しいところでもあって、勘助の胸はときめいていた。

「まあお待ち。遠路呼び立ててそなたも疲れておりましょう。菓子をとらすゆえ、まずは一服なさい」
由布姫が「これ」、と一声発すると、その声を待っていたように志摩が次の間から姫の居室へと滑り込んできた。
小さな丸い餅がいくつか、それから白湯の碗の乗った盆を、勘助の前に進める。
「ご苦労でした。志摩、そなたはさがっていなさい」
「はい……」
下がりざまにちらりと己を見た志摩の視線が意味ありげで気になったが、その疑念は次の由布姫の言葉でたちまちいずこかに飛び去った。
「その餅には滋養のよい薬草がたんと入っておる。私自らが作ったのです。さ、早うお食べ、勘助」
「なんと、ひめさま御手ずから作られたものを、それがしに……」
あまりの喜びに勘助の目が潤んだ。緑色とも茶色ともつかぬ怪しげな色をした草餅を恭しく取り上げ、口に入れる。

それは諸国を行脚して様々なものを口にしてきた勘助ですら、口にしたこともない、極めて面妖な味がした。
が、勘助はそれを天上の食べ物のように時間をかけて咀嚼した。
「まっこと、美味でござった!」
口の中に癖の強い味が残ったが、それを消してしまうのがもったいないので、勘助は白湯には手をつけなかった。
「おおそうか。それはよかった」
姫は艶やかに微笑んで勘助を見ている。

この姫がこのように上機嫌なのは珍しい。
幸福な勘助はふと、由布姫の膝元の本へ目を止めた。
「熱心にご覧でしたが。それはいかなる書物でござりまするか?」
「これか?これは、房中術の指南書じゃ」

さようでござりまするか、と満面の笑みでうなずきかけて、勘助は目を剥いた。
「ぼ、ぼうちゅうじゅつ……!?」
同じ武田家家中の小山田郡内などとは違い、その方面には極めて疎い勘助ではあるが、その意味することは知っている。
(男女の営みの、指南書……姫様が!?)

「お屋形様にお会いできない無聊を慰めるため、私はこのところ書物ばかり読んでいたのですよ勘助」
「は、はあ……」
「その中の一冊に、京のおなごは、幼い頃より殿方をたらしこむ術を習うと書いてあったのです」
そんないかがわしいことを、この姫はいったいどのような書物で読んだのだろうか。勘助は眩暈を感じた。
京のおなごといって真っ先に思いつくのは、お屋形様の正室の三条夫人である。
(怪しげな本の文言に、三条の方様への対抗心を煽り立てられたか)
見ると姫のくっきりとした蛾眉がキリリと吊りあがっている。
「私は諏訪総領家の娘として、俗なことより遠ざけられておりましたゆえ、よこしまなことなど知らず清く育ちました。
が、こうしてお屋形様の側室となったからには、お屋形様にもっと悦んでいただく術を学ぶのが側室たる私の務め。
そうではないか?勘助!」
歳若く美しい姫の口から発せられるには、とうていふさわしくない生臭い言葉の数々に勘助は固まった。
「それで志摩にいろいろ書物を取り寄せさせたのですが、……やはり書物だけではなかなか要領を得ぬのです」

じり、と姫が勘助に一膝近づいた。気おされた勘助が後ろへ下がる。
「勘助、そなたの体で試させておくれ」

勘助の体からどっと汗が噴き出した。
「ひ、姫様!それがしは急用を思い出しましたので、これにて失礼を!」
立ち上がった勘助の袖を由布姫がさっと捕らえた。
勘助の体が無様に床の上に転ぶ。
(こ、これは何事!)
思い通りに動かぬ体に狼狽する勘助を、由布姫が得意げに見下ろしていた。
「動けぬであろう?勘助。先ほどの餅には、痺れ薬が入っておったのじゃ」
由布姫が内掛を脱ぎ、床へと落とす。美しい織物がそこに花畑を作ったように床にふわりと広がった。
「それから、書物に書いてあった媚薬もたんと。のう、そなた、なんぞ体に変わりはないか」
屈んだ由布姫が手が勘助の袴の紐をほどき、布を掻き分ける。
「ひめはま、おゆるひくらはい……っ」
痺れる唇を必死に動かしたが、姫は意に介さずに勘助の下帯を取った。

「おお、これは見事。あの書物に書いてあった媚薬の処方は偽りではなかったのじゃな」
股間のものをまじまじと見られている気配に勘助は恥ずかしさで、消えたい気分になった。
「……そなたのは、お屋形様のものとは少し違うのう」
自身の股間を見下ろして、由布姫が無邪気な声を出している。そんな異常な状況に高ぶっている。
でも、それを差し引いても、股間がおかしな具合で脈打っているのがわかる。これは尋常ではない。
そういえばさっきから妙に体が暑かったのだ。
途方に暮れている勘助の竿を由布姫がたどたどしく握った。
強くしごかれて、勘助は悲鳴を上げた。
「ひ、ひめさま、い、痛うございまする!」
「そうか?おかしいのお。このようにするようにと、あの本には書いてあったが」
それから姫は勘助の股間のあちこちを触ったが、どの仕種も勘助には悲鳴を上げさせるだけだった。
「お許しくださいませぇ!」
なんの潤いもないまま上下に強くこすられては、痛いのは当たり前である。ただでさえ勘助のそこは薬で敏感になっているのだ。
つまらぬことを試みるのはやめて解放してくれるよう頼むつもりで勘助は思うように動かない首をもたげた。

姫は思い通りにならぬ勘助のものを持て余し、途方にくれていた。
そして、姫の首からさがる摩利支天の掛け守りに勘助の目は引き寄せられた。


──これと、同じような光景を遠い昔に見たことがある。

『勘助、こうすると気持ちいいらに?』
腹が大きくて交われないミツが、自分にしてくれた愛撫を、勘助はまざまざと思い出した。
(ミツ……)

姫の顔に、微笑むミツの面影がうっすらとかぶる。
勘助の胸中に、姫をいじらしいと思う気持ちが湧き上がった。
思えばこのような常軌を逸した行動も、お屋形様を己に繋ぎとめたい一心から出たことなのである。
あまりにもけなげではないか。

(助けて差し上げたい)
勘助は大きく息を吸い込んだ。

「……姫様、口です。お口を使うのでございます」
はっと、姫の見開いた大きな目が勘助に向けられた。
「口か?」
「そうです。巷ではそれを口取りと申して、殿御をたちまち虜にする技にございます。
この技を身につけられますれば、お屋形様も飴のように蕩けること、間違いないと存じまする」
「おお、勘助、それを教えておくれ!」
「承知いたしました。姫様、まずは口中にたっぷりと唾をお溜めくださいませ!」


そして勘助は、由布姫に男の勘所を事細かに教えた。
始めはぎこちなかった姫だが、勘助の熱心な指導で次第にコツを掴んでいった。



「そう、お上手です。ひめさま、ひめさまあああっ」
ついに勘助は弾けた。
「やりました!私はやったのですね、勘助!」
うれしそうな姫とは逆に、美しい姫を己の精液で汚してしまった勘助は、泣きたい気持ちになっている。
「……申し訳ございませぬ、姫様」
「よいのです勘助。心地よさそうであったのう。私はこれを早くお屋形様にもして差し上げたい!」
口元といわず頬や鼻まで白濁した勘助のものでべとべとにしながら由布姫は笑った。
薬のしびれが消えた勘助は体を起こし、少しはだけてしまった懐中を探って懐紙の束を取り出し、
己よりもまず、由布姫の顔を清めた。
己の飛沫は姫の金色の摩利支天にまで散っている。それも丁寧に拭う。

「のう勘助!そなたの知謀で、お屋形様が一日も早く諏訪にお越しくださるようにしておくれ」
勘助にされるがままになりながら、由布姫が言う。
「頼みましたよ!」
美しく晴れ晴れとした微笑に、再び心が甘く蕩けるのを感じながら勘助は、深々と頭を下げ
「承知仕りました」
と言った。

──信濃で戦になれば、お屋形様は諏訪にお越しになる。姫様の御許に。
隻眼の軍師の頭の中で、伊那の高遠に兵を挙げさせる策謀が奔馬の如く駆け回っていた。


おわり

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