一目で恋した女は、その夜のうちに主君の妻となった。


「それがしは武田家家臣、甘利備前守虎泰でござる。大井家ご家臣方々には随行ご苦労でござった。
 姫様はこれより我ら武田家のものがお守りし、躑躅ヶ崎館へとお連れ申す」
ここまで彼女に付き従っていたた大井の家臣らが、武田家の者に返礼する声を、まだ歳若い姫は涙を拭いながら聞いていた。
父と、これから夫となる男の所領を分ける峠で、自身の乗る輿は引き渡されようとしている。
せめて慣れ親しんだ家臣らの顔と、生まれ育った郷を遠目にでも見納めておきたいと、姫は無作法を承知で御簾をかき上げ輿の外へ出た。
「……危ない」
つまずき、前のめった体を固い手が支えた。
傾いた体を立て直すと、実直そうな男の顔が間近にあった。男は低い声で、
「……ご無礼つかまつった」
と言った。姫はその声を聞き、それが先ほど甘利と名乗った武田の若い武者と知った。
「……いえ。甘利殿とやら、しばし皆に別れを告げたいが、よろしいかの?」
気丈さを保ちながらも、父や兄弟以外の男をそれほどまで近づけたことのなかった大井の姫の声はうわずっていた。
甘利は手を離し、諾の証に頭を下げた。その耳までが赤く染まっていたことを、うら若き大井の姫は気がつかなかった。



庭の外で舞う花びらが、まるで雪のようだ。
夜は更けていたが、不動堂の灯りはまだ消えていない。漏れる灯火が庭先に吹き寄せられた花びらをおぼろに照らした。


花の盛りを過ぎても、甲斐の夜は寒気が厳しい。そして炭火もない室内でにはただ一人、尼姿の大井夫人が不動明王に真摯な祈りを捧げていた。
そろそろ老境に差し掛かろうという白い横顔には、往時の美貌と色香がいまだに色濃く残っている。

生者ならざる気配が障子を動かすことなく部屋の中へ滑り込み、己の背後に座したのを大井夫人は感じ取っていた。

何者かは、名乗らなくともわかる。
だから恐ろしくなどない。

「甘利がそなたに惚れておる」
まるで犬がするように後ろから責めながら、夫の信虎は肩ごしにそう言った。
乱れた息遣いに愉快そうな響きが混じっている。
「此度の戦でも奴はよう働いた……少しは情けをかけてやればどうじゃ?ん?」
「……お戯れを」
なんとかそれだけを言って、大井夫人は喘いだ。背中から回った傲慢な手が、強く乳房を揉みしだいている。
嫁ぐ日に瞬時触れた大きな手と、近くに迫って恥ずかしげに面を伏せた男の顔が、くっきりと脳裏に思い浮かんだ。
うなじを舐めていた夫が、突然歯を立てる。まるで最中にほかの男のことを思ったことを咎めているようだった。
それに甲高い声を上げながら、
(甘利も、このように荒々しく女を抱くのであろうか)
と大井夫人は思った。
やがて、穿ったままで体位を入れ替え、乳房を押しつぶすように圧し掛かってくきた夫の、獣じみたうめきを聞きながら、大井夫人は達した。
常よりほのかに甘い余韻が、手足にけだるく残った。



幽鬼となってまで、この間へ彷徨い出るとは、なんと未練がましいこと、と甘利は思った。
思い続けた女人がそこにいる。齢を重ね、尼姿となった今も相変わらず美しい。そして死したこの身を縛るものはもはやなにもない。

それなのに、指一本動かせず甘利はただ端座しているのみであった。
やがて、その口から言葉がこぼれた。
「……お北様。人も時も移ろえど、わが甲斐の山々は、決して変わることはござりませぬな。
 お屋形様のお心もいずれ、この甲斐の山となりましょうぞ」
生者と死者とに隔たった今、己の声が目の前の女人に聞こえるものか、確信していたわけではない。
が、返事はあった。
「甘利……もはや甲斐のことは案ぜず、安らかに往生するがよい」
その声は、今や魂のみとなった甘利を心地よく揺さぶった。
己が薄く消えていくのを感じながら、男は手の中に生涯たった一度触れただけの女の体の柔らかさをしっかりと握り締めていた。

止んでいた風の音が強くなった。
再びひとりとなった大井夫人の法衣の膝に、桜の花びらが吹き寄せられた。
涙が数滴、その上に滴った。

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