深更、まだ木の香が立ち込める新しき躑躅ヶ崎館を、白い絹の夜着を蹴立てて歩く男の姿があった。
若き甲斐の国主武田信虎。
精悍な骨相だが、美丈夫と呼ぶにはその眼光は鋭すぎる。
左の拳の中に胡桃が二つ。足音にそれを鳴らす甲高い音が混じる。
廊下の先は館の奥向きへと通じ、今宵迎えたばかりの彼の正室が、初夜の床を整え平伏して信虎を待っていた。

凪いだ湖面のように美々しく敷かれた褥を、わざとのように乱し、どっかりと腰を下ろすと、姫は頭をさらに深く垂れ、
少し煙ったような柔らかい声で「幾久しゅう……」と、型通り挨拶を述べた。

信虎が無言なので、姫は顔を上げることができなかった。
胡桃を擦る音だけが聞こえる。
それが耳に入るたび、心の臓が縮む心地がした。
婚儀のあとの宴にも、その音は姫の耳に恐ろしく響いていた。
(……何を恐れることがあろう、我もあの胡桃も、似た身の上であるものを)
姫は自嘲気味に思った。玩ばれるも、一思いに砕かれるも、同じ手の胸三寸であることに変わりはなかった。

やがて思い出したように信虎は「面を上げよ」といい、姫はほっとしながらその言葉に従った。

美貌であるが、それは牡丹や芍薬のような、ともすると押し付けがましい類のものではなく、しめやかに咲く白椿のような風情である。
そこには生まれ持った官能と、後から備わった理知や気品が不思議な均衡で存在していた。
くっきりした目鼻立ちには侵し難い気品があるが、ふっくらした頬や唇には匂い立つ色香があり、ともすれば主の意思に反して愛撫をねだるようにも見える。

この姫は上野城主 大井信達の息女である。
大井は元々武田に連なる一族だが、信達と信虎の代になって争うようになった。
一時は信達が優位に立った事もあったが、最終的に敵の喉元に刃を突きつけたのは若い信虎だった。
窮した大井は駿河の今川に和議の仲介を頼んだ。
今川との間に波風を立てるのを避けるために、やむなく和議を受け入れたが、
全けき勝利を前にして刃を引かなければならなかった信虎の心中はいまだ煮えくり返っている。

そして、目の前には和議の印として人質同様に送られてきた姫がいる。仇敵大井信達の掌中の珠、しかもこの上なく美しい。
信虎は己の煮詰まった鬱憤のはけ口を、姫の肌に求めた。


細い肩を引き寄せ、鼻先に立ち上った芳しい匂いを存分に吸い込みながら、信虎は姫の懐に手をねじ入れた。
豊かな乳房が探るまでもなく掌に吸い付いてくる。
(よい手触りじゃ)
信虎はゆっくり時間をかけて楽しんだ。
「これほどの姫をわしに奪われて、大井信達は、さぞ無念であったろうのう……」
歌うような抑揚であった。
信虎はほかにも姫に何か言ったようだ。
姫はそのどれにも答えなかった。答えられなかった。
思考も感覚も麻痺したようになっている。男を近づけたことがない身に、今の状況はあまりに異常すぎた。
己の尻は男のあぐらの上にある。固くて熱い胸が背中に密着し、腕が後ろから絡みついていて、しかもその片方の先は夜着の合わせ目の中に消えて、蠢いている。
信虎の唇は己の髪に埋もれていて、声は耳朶のすぐ後ろから発せられているのに、どこか遠くから響いていてように姫には思えた。

そのまま体から魂が抜け出たような状態でいられたなら、姫は少しは楽にこの夜をやり過ごすことができたが、信虎はそれを許さなかった。
信虎は腕の中の姫が呆けたようになっていることに気づいた。
十四歳で家督を継いだ。女との戦歴もちょうどそれくらいから始まっている。張り詰めすぎた女が時折このような状態になることを信虎は心得ていた。
が、このまま、楽に抱いてしまうのは、おもしろくない。

柔らかい乳房に信虎の爪が立った。親指と人差し指、そのまま強い力でつねり上げる。
激痛が姫の意識を男の腕の中に引きずり戻した。
その悲鳴を信虎は気に入った。我に帰ってもがき始めた体をしっかりと抱きしめ、笑いながら腕の中の抵抗を楽しんだ。
手の中に小鳥を握って力をこめ、その恐慌を楽しむのに似ている。

惨い時間が流れた。姫は何度も悲鳴を上げたが、助けに来るものはいない。奥向きの者は皆、文字通り息を殺していた。

もがくうちに姫は、自分の髪の尋常ならざる乱れ様に気づいた。
いつの間にか信虎が姫の元結を噛み切っていた。長い髪が信虎と自分の体にめちゃめちゃに絡みついているので、あちこちが引っ張られてひどく痛んだ。

姫は己の無様さが情けなかった。
武家の姫である。もしもの時の身の処し方、心得を幼い時から言い聞かせられて育った。
また、父の軍勢が武田に追い詰められたときにも、死の覚悟はしたつもりだった。
それなのに、いざ息が止まるほど締め上げられると、自分は力一杯に抗い、許しを乞う声を上げてしまった。
男女の営みについて姫に説いた母は、
「殿方がどのような振る舞いに及んでも、為すがままにせよ」
と言ったがlこのようなことも受け入れねばならないのか。
乱れた裾から入った手が好き放題を始めて、その痛みと屈辱に姫は声を上げて泣いた。
無様と承知で、突き上げてくる感情と痛みをどうにも堪えることができなかった。

やがて、こわばって軽く痙攣した体を信虎の手が褥に横たえる。
膝の上でさんざんになぶられて、姫はいつしか息を吸うことも吐くことを忘れていた。
乱れきった黒髪を丹念にほぐして撫で付ける手は優しかったが、今の姫にとってはそれすら拷問にしか感じられない。

解けかかったまま辛うじて絡みついていた腰紐を引き抜き、白い絹の波から女の裸体を引きずり出すと、
甲斐の夜の冷気に暴き出されたのは上品な面立ちに似合わぬ豊満な体だった。腰は細いのに尻も太股もたっぷりしている。
慎重に守られていた肌は白く滑らかだ。

信虎が爪が立てた場所が赤くなっている。

信虎はその上に、ずっと握ったままだった胡桃を転がした。あれほど揉み合ったのに、信虎はそれを手放してはいなかった。
か弱い女の抵抗など、実際片手あれば十分だったのだ。
信虎は姫の肌を胡桃で弄び続けた。憑かれたような目をしていて、嗜虐的な笑みも消えていた。
姫の汗を吸って淡褐色の胡桃が艶を増していった。
それが乳首の上を丸く転がったとき、姫ははっきりと悶えた。
喘ぎをもらした唇は、与えられた恐怖に感情が振り切ってしまったのか、緩んで半開きになっている。
凄艶であった。信虎は引き寄せられるように身を屈め、それを吸った。

口づけに没頭しているうちに、いつのまにか胡桃は褥の外に転がってしまっている。

戦で傷を負い武術の鍛錬がままならなかった折り、せめてもの手慰みに握り締めていたのが手に馴染み、信虎は、気がつくと胡桃を手放せなくなっていた。
「胡桃を握っておりますれば癇癪が鎮まると申します。せいぜいお励みくださいませ」
激しやすい主君に家老の荻原常陸介が笑って言ったのを思い出す。
信虎は己の腰紐を解く節高く、筋が幾つも浮いた手を見た。
手は大きくなり、膂力はついたが、ことさら気性が変わったとは思えない。
が、感情に任せて大井を滅ぼさなかった程度には効き目はあったのかもしれない。
姫の足を押し開き、その中に身を沈めながら、
(この姫を城と共に焼かずに済んだのは重畳であった)と信虎は満足げに思った。



・・・


櫛形の窓から射し込む夜明けの光で大井の姫は目覚めた。
慣れ親しんだ上野の城の寝所ではないので一瞬とまどう。

豪胆な彼も、さすが敵から奪った姫を、しかも惨たらしく苛んだあとでは、傍らで眠る気になれなかったと見える。
気を失った体に素肌に注意深く掛けられていた夜具は、せめてものいたわりか。

信虎がいないことに心から安堵しながらも、彼の用心が無用なことを今の姫は思い知っていた。
あのような目に遭って舌を噛むこともできない臆病な自分が、信虎のように恐ろしい男の寝首を掻くことなどできるものか。

責め抜かれた体は内も外もひどく痛み、見ると覚えのない痣が胸の上に散っている。
起こしに来た侍女にこのような姿を見せるわけにはいかないので、姫は夜具から這い出て、ゆっくりと身支度を整えた。

腰紐を結びながら、このまま庭へ駆け出したい衝動に駆られる。
逃げ出したい。薄い夜着一枚の姿でも、裸足ででも。父と母の元へ走って帰りたかった。

が、父と母のことを思うと同時に、自分が今なぜここにいるかを思い出した。
己は自分の身で大井の家の安泰を購ったのである。どのような目に遭っても、あの男の妻として生きていかねばならぬ。

あまりの心細さに姫の手は自然に胸の前で合わさっていた。
目を閉じ、祈りの形を作りながら、姫はいったいどの神仏に救いを求めればよいのかわからず、途方に暮れていた。

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