「……」
 胡乱な目覚めだった。
 ふと、自分が誰なのかわからなくなる。一秒と考えずに、マエリベリー・ハーンという名前があることに気付く。親しい人にはメリーとも呼ばれる。自分の部屋。独り暮らしがしたいからと親に我がままを言って、半ば強引に借りたアパートの一室。壁紙はベージュで統一されており、逢魔ヶ刻を映し出すカレンダーがアクセントになっている程度である。
 掛け布団を剥ぎ取り、身を起こす。まぶたと目の間を擦り、顔を洗わなければと思う反面、先にトイレにも行っておかなければとも思う。どちらを優先するべきか、下半身を布団の中に突っ込ませたまま、ぼんやりと考えを巡らせる。
 そういえば、今宵の夢はどのような内容だったのだろう。取りとめもなく消え去っていく夢幻の類に思いを馳せ、即、メリーは膝に額を打ち付けた。
「何してんの私……」
 夢の中の自分を叱咤する。恥ずかしさに赤面するほど初心でもないが、欲求不満なのではないかと己の精神状態を疑いそうになる。
「んん……」
 思い出したら、やはりどこか悶々とした状態に陥る。朝っぱらから何を考えているんだと、太陽の光を一身に浴びているカーテンに目をやる。
 ため息ひとつ、顔を洗おうとベッドを降りた。
「……あ、れ」
 違和感。
 座っているときには気付かなかった、下半身の異変。不自然な熱。股間から太ももを伝う生温かい雫。そして、下腹部に残存する淡く重たい痛み。愛があれば痛みや苦しみさえ喜ばしいものに変わるというのに、愛があったかどうかさえわからない行為の結果だけ取り残されても、女は戸惑うしか術を持たない。
 メリーは思った。
 やっぱり、先にトイレに行こう。

 

 今日が日曜で本当に助かった。もし平日なら友人にどんな顔を見せればいいのか、自分でもよくわからなかった。カレンダーも流石に空気を読まざるを得なかったか。
 お腹を擦りながら薬局のドアをくぐる。いらっしゃいませの言葉も、何か裏のある響きに聞こえてしまう。よくない傾向である。
 清潔感のある陳列棚を見渡しながら、目的の場所へ。頻繁に利用する製品が並んでいる棚でも、滅多に手に取らないものは存在する。本日、メリーがぎこちなく手を伸ばすのはそんな代物だった。
 不意に、ため息が突いて出る。
「何なのよ、本当……」
 ――妊娠検査薬。
 手のひらに乗せられた小さいな箱は予想外に軽く、重大な選択を迫るにしては頼りない重量ではあった。もう一度、深々とため息。
 夢を見たのだ。淫夢であったと思う。
 問題は、目が覚めた後だった。下腹部に違和感を覚えたメリーがトイレに向かい、入念に確認を行うと、恥部から逆流して太ももを伝う雫の正体は、あろうことか男性の精液だったのである。
 カルピスやケフィアの類を疑ったメリーであったが、その臭い、形、卑猥ながらその手触りも男のそれであることは明らかだった。非常に活きのいい精子の蠢きに触れて、強烈な喪失感を覚えたのは記憶に新しい。
 部屋は完全な密室。合鍵を持っているのは親と友人のみだが、彼女たちがメリーを襲う理由がない。仮に友人であるならばメリーの乳を揉みしだくくらいやってのけるだろうが、最低限の常識は弁えていると推定されるため、男をけしかけるはずはないとメリーは考える。
 ならば。
 直前に味わった淫夢、過去に経験のある『夢から持ち帰ったお土産』の件を鑑みて、つまりそういうことなのだろうと結論付けた。
 かといって、犯された事実が消えてなくなる訳でもなし。
「はぁ……」
 排卵抑制剤も買った方がいいのかな、と視線を泳がせる。きっと今は死んだ魚のような目をしているんだろうな、と己の境遇を最大限に嘆く。近いうちに、蓮子のカウンセリングを受けなければならないが、包み隠さず話すのはかなりの度胸がいる。バカにされるとかコケにされるとか、そんな甘ったるい弄られ方で済めば良いのだが。
「済まないわよねぇ……蓮子だもんねぇ……」
 結局、排卵抑制剤も購入することにした。万全は期すべきである。
 蓮子のみならず、他の友人やら大学関係者やらに買っているところを見られるのもよろしくないため、逃げるように、追われるようにレジに向かう。
 そのとき。
「メリー……」
 かたん、と何かが落ちる音と共に、色濃い驚愕の声が響く。
 振り向けば、予想通りというべきか、我らが宇佐見蓮子の立ち姿。落としたのは蚊取り線香で、トイレの消臭剤で、とりあえず落下しても問題なさそうなものばかりだった。というより、あらかじめ下に買い物カゴを置いてからその上に蚊取り線香を落とすあたり、陰謀の臭いがぷんぷんする。
 消臭剤仕事しろ。
「蓮子。これはね」
「お……お幸せにー!」
「ちょっと! 待ちなさいよー!」
 弁解の余地もない。
 蓮子は涙を振り払うように身を翻し、カゴを放ったらかしにして店内から走り去る。途中、店員に注意をされているあたりネタの詰めが甘い。メリーは一見、微笑ましくさえ見える光景に頬を緩め、蚊取り線香と消臭剤を元の場所に戻した。

 

 店の外に立たされていた蓮子を拾い、メリーは近所の公園に彼女を連れて行った。大学が休みでも構内のカフェテラスは営業しているのだが、購入した製品の性質上、あまりおおっぴらに話せる内容ではない。散歩途中の犬も飼い主も、砂場に山を築かんとする子どもの姿もなく、猥談を繰り広げるにはうってつけの環境であった。
 木製のベンチに腰かけ、肩幅の半分くらい距離を空けて。
 メリーは、一体どう切り出そうかと悩んでいた。
「えーと……」
 ちらちらと横目で蓮子を確認しながら、メリーは機会を窺う。蓮子は何故かにやにやと不気味な微笑みを浮かべるばかりで、詳細を聞き出そうという気配すら感じられない。
「……なんで笑ってるのよ」
「いやぁ、だって、ねぇ?」
 メリーの肩に手を乗せ、検査薬の入った袋を指で突っつく。咄嗟に袋を引き寄せ、卵でも護るかのようにそれを掻き抱く。その仕草さえ、蓮子には微笑ましく映ったようだ。気色悪さに拍車がかかる。
「メリーも、やることはちゃんとやってるんだなぁ、と思いましてー」
「……あのね」
「で、相手はどんなひと?」
 それしても、この蓮子ノリノリである。殴りたい。
「ほんと、そんなんじゃないから。ほんと違うから」
「排卵誘発剤は嘘をつきませんよ!」
「排卵抑制剤よ!」
 真っ昼間から卵の話を繰り広げる恥ずかしい二人組、その名を秘封倶楽部という。
「どっちにしても同じことじゃない。そういうのが必要になること自体、メリーの身にただならぬ女の悦びが満ち満ちている証拠といえるでしょう」
「……別に、悦んでた覚えはないわよ」
 お腹を押さえるように、前屈みになる。夢の中の記憶をほじくり返しても、その時に感じた痛み、喜びを拾い上げることはできなかった。
 深々と嘆息するメリーに、蓮子は他人事のように告げる。
「あら、若いのに不感症?」
「なんでそうなるのよ……変なとこ触るな」
 無防備な脇腹に触れようとする蓮子の手を払い、抱き締めていた袋を傍らに置く。いい加減、本題に入らねばなるまい。先送りにしてどうなる問題ではないのだし。
「蓮子、絶対に騒がないでよ」
「無理」
「無理かー……」
「おもむろに喉を絞めないでくれると助かるかな」
「口を塞ごうと思って、仕方なく」
「それだと口封じになっちゃうわよ」
 言い得て妙である。
「とにかく、誤解があるみたいだから言っておくけど、私は別に男のひとと付き合いがあって、こういうの買ったわけじゃないの」
「……つまり、それは」
 一転、蓮子の表情が曇り、いきなり弾かれたようにメリーの肩を掴む。
「メリー……! 私は止めないけど、火照りを冷ますためなら誰でもいいっていうのはちょっと……!」
「止めはしないのね」
「でも、もし産むってなったら応援するわ! 千円でいい!?」
「もっと奮発してよ」
 友達甲斐があるのかないのかよくわからない相棒である。メリーは何度目になるか知れない溜息を吐き、目を泳がせながら財布に手を突っ込んでいる蓮子を引き剥がす。
「あ、千円ないから五百円にするけど、いいよね」
 はい、と手渡された硬貨を蓮子の額に押しつけ、うめく相棒を制する。
「……夢、よ」
 低く、抑えた声を発すると、浮かれ調子だった蓮子もようやく落ち着きを取り戻す。財布をしまい、ずれた帽子を被り直して腰を下ろす。
「夢?」
「そう。いつか、あなたに相談したことがあったわよね。私が夢の中から持ってきてしまった、筍や、お菓子や、紙切れの件で」
 急に、蓮子の目の色が変わる。秘封倶楽部の活動に関わる内容となると、普段の態度からは考えられないほど真剣になる。それが蓮子だ。
「部屋は密室だった。あなたの悪戯も考えたけど……流石に、悪趣味が過ぎるわ。これは私が夢の中から持ち込んだ残滓よ。故に」
「メリーには、疼く身体を慰めてくれる相手がいない……」
「ほっといて」
 拗ねる。
 蓮子は適当に「ごめんごめん」とフォローを入れて、すぐさま本題に切り込む。こういう時の気持ちの切り替えは、蓮子の方がよっぽど早い。
「なるほど、カウンセリングの続きというわけね。他に持ち帰ったものはない?」
「えぇ。幸い、変な感触まで引きずってこなかったから助かったわ」
「キスとか?」
「覚えてない」
 黙秘を貫く。しつこく食い下がるかと思いきや、蓮子は思いのほかあっさりと退いてくれた。
 蓮子は腕を組み、親指で自身の下唇をなぞり、何やら思索にふける。ベンチから立ち上がり、夢遊病患者のようにうんうん唸りながらベンチの周りを練り歩く。
「メリー」
「なに」
「やっぱり、誰か適当に男でも作った方がいいと思う」
「……なんで」
 腕組みを解き、腰に手をやって佇んでいる蓮子は、非常に線が細く女性らしい立ち姿をしている。黙っていれば、静かにしていれば――という典型である。良し悪しはさておき。
「考えられるのは欲求不満。やることやってないから淫らな夢を見る。メリーもさ、見た目は綺麗なんだから適当にちゃっちゃと誑かせばいいじゃん」
「簡単に言ってくれるわね……」
「あとは、自分で慰めるとか」
「……それは」
 言葉を続けようとして、口を噤む。友人から目を逸らそうとすると、その意図を察した蓮子はすかさずメリーの視界に回りこむ。機敏な友人に構わず舌を打ち、にやにやと微笑み始めた蓮子を静かに呪う。
「ん、それは、どうしたの?」
「うるさい。なんだっていいじゃない、勝手に他人のプライベートに踏み込んでくるんじゃないわよ、いくら蓮子でも怒るわよ」
「別に自慰くらい誰だってやってるし」
「はっきり言うな!」
 にははと笑う蓮子に何を言っても無駄なのは百も承知だが、メリーは羞恥に顔を赤らめていた。頭が熱い。うら若き乙女たちが、真っ昼間から性交渉の話に耽るのもどうかと思う。切り出したのはメリーの方だが、もうちょっとオブラート的な包み方というものがあるのではなかろうか。
「うぅー……そりゃあ、最近ご無沙汰なのは否定できないけど……できないけど!」
「大人のおもちゃでも買えば」
「……持ってるからいい」
 左様ですか、と蓮子は帽子のつばを目深に下ろす。処置無しと判断されたようで、余計に恥ずかしい。
 一度、蓮子は帽子を脱いで大きく振りかぶり、宙に放り投げる。昇る太陽が帽子に隠れ、ふたりの境に小さな影を作る。
 蓮子は、束の間の静寂をおいてしみじみと告げる。
「全く、メリーはえっちだなあ」
「あんたが言わせたんでしょぉー!」
 ぎゃははと笑う蓮子に追いかけ、首を絞めて黙らせようとする。公園の中に、ふたり以外の誰もいないのが唯一の救いではあった。
 いずれにせよ、メリーにとっては何の解決にもなりはしなかったが。
 それはそれで予想から大きく外れた結果でもなく、ただ蓮子にありのままを話して、少しばかり心が軽くなれば良かったのだ。
 秘封倶楽部の休日は、平日と些かも変わらずに過ぎていく。
 閑静な住宅街に、断末魔の叫び声が上がった。

 

 ベッドは、朝と変わらぬ弾力でメリーの身体を包んでくれる。これから二度寝を決め込もうというわけでもあるまいに、着の身着のままぐったりと寝転んで、起き上がる気配もない。
 太ももを擦り合わせれば、部屋に衣擦れの音が響く。皺になるから早く着替えればいいのに、と他人事のように思い、それでも身体は動かない。このまま寝てしまおうかと怠惰な誘惑に堕ちようとしても、夢の続きを見せられるかもしれないと心を奮い起こす。たとえ夢でも、あんな経験をするのは二度と御免だ。
「ふー……」
 疲れた。眠った気がしない。
 蓮子に相談を持ちかけた後も、遊ぶ気力など無かったから早々に帰ってきた。送ろうかと申し出た蓮子の親切も丁寧に辞し、胡乱な頭で家路に着いた。眠りたいのに眠れない。眠りたくない、眠ればどうなるのかわからない。
 それこそ、あれ以上の悲惨な目に遭ってしまうのではないか――。
「――んっ」
 思い出そうとするたび、小さく背中が跳ねる。テーブルに目をやると、袋に入ったまま放置してある諸々の薬品が視界に入った。万が一のため、とは言うものの、それは今後も今朝のような事態に陥る前提の話である。
 どこかに、きっとまたあんなふうに犯されると確信している自分がいる。
「……いや、違うか」
 解っている。寝返りを打ち、自分の匂いが染みついた枕に顔を埋める。
 救いようの無いことに、マエリベリー・ハーンは。
 心のどこかで、またあんなふうに犯されることを期待しているのだ。
 嫌気が差す。
「でも、仕方ないじゃないの……」
 言い訳がましく呟いてみても、煩悶とした気持ちに答えが出るわけでもない。かといって、所詮自分はそういう人間なのだと諦めるのも腹立たしい。
 豊かに育った胸が重力に押し潰され、息が苦しくなる。指先がお腹の下に潜り、蓮子に触れられまいと頑なに拒んだ脇腹をくすぐる。
「ぁ」
 ――ぴんぽーん。
 間抜けな音が鳴り響き、盛り上がりの兆候を見せ始めていたメリーの頭が急速に冷めていく。圧倒的な喪失感を前に、メリーは動くこともできない。
 そこに、二度目のインターホンが鳴る。
「……あー、もう!」
 誰に対して怒りをぶつけていいか解らず、枕に拳を叩きつけた反動で一気に起き上がる。多少服が乱れていようが構うものかと覚悟を決め、それでも髪だけは適当に整えておいた。
 書留でーす、と若い男の声がドア越しに届く。正直、無視する案も脳裏をよぎったが、興が冷めれば続きをする気も起きない。一時の情動に流され、誰かからの大切なメッセージを見逃すのはあまりにも痛い。
「はーい」
 対人用に声を繕い、小走りで玄関へ。サンダルを足場にして、片手でドアを開ける。乾いた風が、メリーの一人部屋に悠然と舞いこむ。
「あ、どうもー」
 予想よりも遥かに若い、生気に溢れた快活な挨拶を聞く。
 夏の終わり、しかし肌に染み入る暑さは健在だった。配達員は、あちこち動き回っていたせいか額に汗を滲ませている。メリーと同年代、あるいは年下だろうか。髪を短くばっさり切っているせいで、実年齢より若く見えるのかもしれない。純朴、誠実、愛想笑いに終わらない笑顔も好印象である。
 ――誰か、適当に男でも作った方が。
 無責任な誰かの呟きが、胸の中に木霊する。その反響を無視して、メリーは青年が差し出してきた封筒を受け取る。
「では、こちらにサインを」
「はい」
 事務的なやり取りが続き、特別に交わす言葉もない。ただ、彼の額に溜まっていた汗の雫が、ひとつ、ふたつと流れ落ちて、三和土に落ちていくさまをメリーは見た。
「……汗」
「え」
「汗、たくさん掻いて」
「えぇ、まあ」
 サインする手を止め、メリーは他愛のない話を始める。急に話しかけられた彼も始めは戸惑っていたが、少しくらいは構わないだろうといくらか気を許してくれたようだ。
「お忙しいのですか」
「いえ、言うほどではないです。ただ、まだ新人なものですから、少しでも頑張らないと」
「真面目なのですね」
「いえ、そんなことは」
 彼は少し照れているようだった。客観的に見て、メリーは美人である。ウェーブの掛かった金の髪、豊満と表現して差し支えない姿態は、洋服越しにもその肉感が伝わってくる。なるべくその部位に視線を合わせないよう努めても、会話をしている以上、どうしてもメリーの身体に目が行く。メリーより身長が高い彼は、彼女の膨らんだ胸部を見下ろせる立場にある。
 ――ごく。
 唾を飲みこんだのは不覚だった。
「何か、お飲み物でも」
「あ、お気遣い無く。あまり時間もありませんから」
 彼は正直な意見を述べたつもりだったのだが、メリーはそれを聞き入れなかった。サインをしなければ帰れもしないだろうと、領収書を持ったまま部屋の中に引っ込む。程無く、メリーはコップ一杯の麦茶を持って戻ってきた。「どうぞ」と差し出される麦茶を受け取ろうとして、メリーが「座りませんか」と目で訴えていることに気付く。
「失礼します」
「お気遣いなく」
 ふふ、とメリーは小さく笑う。ふたりともに腰を下ろすと、扉は自然に閉まった。隔離された空間。決して息苦しくはないのに、胸が締め付けられる思いがした。
 いつの間にか、青年とメリーの距離は驚くほど近くなっていた。唾と一緒に麦茶を飲みこんで、余計なことは考えないようにする。メリーはずっと青年の方を見つめていたが、彼はその視線も丁寧に受け流そうとする。
 だが、青年はメリーよりわずかに幼かった。
「ごちそうさまでした」
 一気に麦茶を飲み干して、そそくさと立ち上がる。が、急に袖が引っ張られ、体勢を崩しかける。袖を引いているのは誰か、見ずとも理解はできたが、念のため彼はずっと目線を合わさずにいた彼女の方を向いた。
「もう、行くんですか」
 それは懇願だった。上目遣いに、彼の動向を窺う。何を望まれているか解らず、彼は言葉を躊躇う。すると、メリーは彼を誘うように舌を滑らせる。
「もうすこし、ここにいてください」
 中腰のまま、彼は身体を硬直させている。留まるべきか退けるべきか、誠実な彼にはどちらの選択肢も積極的には選べない。だからメリーは、多少なりとも強引な手段に出る必要があると心得ていた。
 袖から腕に手を絡ませて、引きずるようにもう一度、彼を玄関に座らせる。肩に手のひらを置き、彼と顔を合わせる。近い。唇の皺の数が解るくらいまで近寄って、呼吸をすればその生温かさも感じられるくらいまで迫ってようやく、彼は明確に否定の意見を述べた。
「あ……、いや、ダメです! いけません!」
 メリーの手を引き剥がし、慌てて立ち上がろうとするが、メリーも彼の腕を掴んで離さない。勢い余って、彼が玄関に尻餅を突き、受け身も取れずに仰向けに倒れた。
「ぐぅ……」
「あぁ、ごめんなさい!」
 呻く彼を気遣い、メリーは素早く彼に擦り寄る。
「いたた……」
「ごめんなさい、強く引っ張ってしまって……あの、おしり、痛みませんか」
「あ……いえ、そんなには」
 言うが早いか、メリーは彼の腰に手を回し、当該の箇所を優しく撫で回す。彼は赤面していた。が、メリーが真に心配げな表情をしているので、妙な考えを起こすことはなかった。
 それも、メリーの手付きが怪しくなると、彼も平静ではいられなくなった。
「あ、あの」
「まだ痛みますか」
「いえ、そういうことではなく」
 気が付けば、メリーの手のひらは彼の臀部から徐々に移動を始め、脇腹、太ももの付け根、下腹部、ついには股間にまで到達していた。そのまさぐり方も痛みを和らげるといったものではなく、性的な興奮を呼び覚まそうという明確な意図が感じられた。彼女の頬もわずかに紅潮し、息遣いもかすかに荒い。
「あの、すみません、そこは、違うといいますか」
「どのあたりが違うのでしょう」
「いや、そこは、その」
「でも、ここはなんだか張り詰めて痛そうですよ」
 言わずもがな、女性の柔らかな手に擦られ続けた股間は、見る見るうちに逞しく張り詰めて硬くなっていた。メリーにそれを示され、恥ずかしそうに目を逸らす。
「……ふふ、かわいい」
 微笑み、熱膨張する股間を覚ますべくチャックを開放する。
 あ、と彼が抵抗する暇もなく、滾っていた逸物が逃げ場を求めるように外界に飛び出してきた。顔に似合わず、赤黒く立派な男性器である。
 その存在感と臭気に、メリーはうっとりした。
 ――あ、あれ?
 ふと、違和感が脳裏をよぎるものの、意識と裏腹にメリーの身体は淫らな行為を継続する。
「すてき……」
 囁き声と一緒に、メリーは素手で肉棒を擦り上げる。う、と優しく柔らかい刺激に彼は呻き、抵抗しようという意志が完全に奪い去られる。
 螺旋を描くように擦り、頂点に達するとその全体を手のひらで撫でる。気持ちよさそうだ。それは尿道口から先走りの液体が漏れていることからもわかる。苦しそうに見えるのは、辛うじて彼が理性を保とうというしているゆえか。
 我慢しなくてもいいのに、とメリーは思い。
 ――ちょっと。
 隔離されたもうひとりの自分が、至極冷静に警告を促す。

 

 

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