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 息も真っ白に凍りつく雪の境内に、温かな金色の房が揺れているのを見つけた。背の高い人影のお尻でふっくら膨らんでいる、それは九本の尻尾だった。
 そろそろ雪かきのひとつもせねばと外へ出てきた霊夢は、予想外の来訪者の姿に玄関で一瞬立ちつくし、まばたきした。
「藍じゃない。どうしたのよ」
 口元までを覆った襟巻きの隙間から声を投げかけると、こちらに背を向けていた人物はゆっくりと振り返った。雪の色と溶け合ってしまいそうな白の道士服に身を包む、金色の妖狐。霊夢のことを認めて、やわらかに目を細める。
「やあ、おはよう」
「おはよう。なんか雪景色に妙に似合うわね、狐って」
 空は灰色の雲で覆われていたが、それでも朝の雪景色にたたずむ金色の毛並みにまばゆさを覚えて、霊夢もまぶたを狭めた。きゅ、と藍の口の脇にえくぼが浮かぶ。
「で、何やってたの?」
 藍の向こうには、三本足の生えたレンズのようなものが据えられていた。天狗の新聞記者が用いるカメラの、望遠レンズだけを持ってきて三脚に乗せているかのような姿だ。
「それ、なに? あなたも新聞作るの?」
「ん……いや、これはカメラとは違うよ。結界の座標を測量するための、レベルって道具さ。河童に技術を借りて、より近代的な観測を可能にしたのよ」
「ああ、結界の保全なのね。ご苦労様」
「まるきり他人事のように言うなよ……」
 苦笑に表情を変えて、藍はまたあちらを向いた。腰を屈めてレベルとやらのレンズを覗き込み、ほどなくまた背を伸ばしたかと思うと、「うん」とひとつうなずく。その仕草に合わせて尻尾の先が九つ、ぴょこんと揺れた。
 掃除に出てきたことも忘れて彼女の作業をぼけっと見ていた霊夢は、背伸びするようにしながら問いかける。
「終わった? 何か問題でもあったの?」
「うん……ちょっとね。処置はしてみた」
 藍は観測器具を外して袖の中に仕舞い、三脚を畳んで脇に抱えながら、再び霊夢を向いた。
「ちゃんとできたかは動作させてみないと分からないんだけどね。確認試行が必要だわ」
「動作させるって……大結界って常に働いているものじゃないの?」
 まるで結界の機能が休止でもしていたかのような藍の物言いだった。霊夢は怪訝な思いに眉を寄せる。
「ああ、結界の主機能――外界との線引きとかには問題ないんだよ。欠片の揺るぎもなく幻想郷を幻想たらしめ続けている。瑕疵が見つかったのは、副次的な機能の方なの」
「副次的?」
「選択式のおまけ、エクストラオプション。障害が発生したところで特に致命的となるわけでもない機能なんだけど、気付いちゃったからには放っておけなくってね。この神社の辺りに機能の主幹が配置されてるんで、こうしてお邪魔してたってわけ」
「ふぅん」
 いまいち飲み込みきれない藍の話だったが、聞き流そうという気にもなれなかった。
「それで、そのおまけ機能って、具体的にはどんなものなのかしら」
 素朴な好奇心から尋ねただけだったのだが、急に藍の顔色が変わった。まずいことをしゃべってしまったとでも言うかのように、口元を手で押さえる。
「あなたが知らなかったってことは、知る必要がないと、紫様は判断していたのかもしれない……やっちゃったかしら、これは」
「なによ、もったいぶらなくったっていいじゃない。大結界のことなら私にも関係大有りなんだから、隠し事なんて認めないわよ」
「関係大有りってのなら普段からもっと気に留めてくれよ……でもまあ、あなたの言う通りでもあるわね。どうせ秘密にするほどの機能じゃないし」
 ごく短い時間考えて、藍は口元から手を下ろした。
「お勝手、貸してくれる?」
「うん?」
「処置が上手くいったか、お勝手の道具を借りて、問題の機能を試行させてみたいのよ。試験がてら、説明してあげるわ」
「そういうことならいいけど……あ、じゃあ、お茶も出してあげるから、その後で雪かき手伝ってよ。そういう条件なら台所、使ってもいいわ」
「あまり公平な取り引きとは思えないが、いいさ、そうしよう」
 やれやれと肩をすくめる藍を促して、霊夢は勝手口へと足を向けた。


 薬缶を火にかけている脇で、ふたりは水の張られた手洗い桶を挟むようにしてしゃがみこんでいる。
「調子が悪かったのは、リプレイ機能なんだ」
 懐から取り出した長方形の和紙になにやら筆を走らせながら、藍が言う。
「りぷれい?」
「正式には命名決闘自動記録及び再生機能。――現在のスペルカードルールが定められた際、紫様が式を組んで大結界に搭載したものだよ。幻想郷内で弾幕決闘が発生するとこれを感知、対決者双方の行動を数値化して記録、後から鏡面などに光景を再現させることができる」
 さらり、と最後の一画を記し終えると、藍の手の中の和紙は一枚の御札に似た姿となっていた。流麗な筆で書かれたそれは、「再生」という言葉だった。そのお札を、藍は桶にぺたりと貼り付ける。
「よし。これでこの水鏡は結界の機能と限定的に接続されたわ」
「……決闘の、再現?」
「説明するより見てもらった方が早いわね。ご覧」
 藍が桶の縁に両手をかける。すると、桶の中の水面が急に墨でも溶かしたような真っ黒に染まった。いや、黒く染まったというよりも暗幕を広げたような印象だった。
 それまで台所の薄暗い天井とふたりの少女の顔を映していたはずのそこには、代わって白く細かな文字列が浮かび上がる。
「登録名、博麗霊夢で検索……ふむ、三日前に魔理沙と一戦してるわね。これにしましょう」
 藍のつぶやきが終わると同時、今度は灰色に水面が染まった。その色に霊夢は既視感を覚える……そうだ、これは三日前の、空の色。
 ――冬空の下に、紅白に身を包んだ少女と、白黒のモノトーンにきらめく少女とが浮かんでいる。小さな桶の中の広大な空で、ふたりは対峙し、なんの前触れも無く弾幕を展開しはじめた。
「これっ」
 ほどなく、霊夢は驚きに息を飲む。
「この前、すき焼きを関東風と関西風のどっちにするか賭けて魔理沙と戦ったときの動きとそっくり同じだわ……!」
「そう、あなたたちの決闘の記録よ。こんな風に、幻想郷のあちこちで起きた弾幕による決闘を、大結界は余さずアーカイブしているの」
 弾幕の光に金色の髪を濡らしながら、藍はうなずいた。
「な、なんでまたこんな」
「ひとつには弾幕の研究のため。ああ見えて紫様、幻想郷の根幹に関わることについては真摯だからね。もっとも解析は全て私に押し付けているんだけど……他の理由としては、決闘規範を違えている者がいないかという監視のためかな」
 監視って、嫌な響きだけどね――自嘲気味に付け足して、藍は水面をさらに深く覗き込もうとするかのように、顎を引いた。
 桶の中の冬空では決闘が続いている。音こそ発せられないが、それを除けば完璧に過日の光景が再現されていた。
 桶を挟む手の位置や指先をずらすことで、再生の主観視点を変えることもできるらしい。はじめ俯瞰視点だったのが、横から見た角度になったり、決闘者の一方の顔を目いっぱいズームしたりと、水面の空はぐるぐる目まぐるしく回転していく。
 自分の決闘を客観的に見るという不思議な体験に霊夢はしばし言葉も無く桶を覗き込んでいたが、しばらくして違和感を覚えた。それまで的確な機動で優位に立っていた過去の自分が、奇妙な行動をとりはじめたのだ。まず、相手のいない明後日の空へと向けて、何の布石にもならない無駄弾をばら撒きだした。その隙に魔理沙が横手から回りこんできて、しかしこの危機に瀕し、なおも過去の霊夢は無駄弾を撃ち続けたり、かと思えばぼーっと宙に立ち尽くしたりしている。
 おかしなのは霊夢だけでなく、魔理沙もだった。せっかくの逆転の好機に、彼女もやはりあらぬ方角へと向けてマジックミサイルを連射しだす。当然ながら命中弾は無し。それから魔法使いは懐よりミニ八卦炉を引き抜いて、霊夢の立つ位置より二十歩も離れた空へと向けてマスタースパークを放った。桶の水が真っ白な光に満ちる。
 霊夢には覚えのあるマスタースパークだった。三日前の決闘の最後、動かしがたい不利に追い込まれた魔理沙の、あれは最後の悪足掻きとも呼べる一発だったはずだ。自分はそれを余裕で避けて魔理沙にとどめ――
 桶の中で過去の霊夢がかすかに微笑んだように見えた。赤い靴で宙を蹴り、飛び出す。まっすぐ、迷いなく飛翔して――マスタースパークの閃光の中へとその身を投じた。壮絶な自爆。
 ぴちゅん、と桶の水がそんな音を立てたような気がした。「決着」の文字が浮かび上がって、水面は再び暗転、元通り台所の天井を映し出す。
「な、なによこれ――!」
 ぴーっ、と笛付き薬缶が蒸気を噴いた。
「私、この勝負、負けてないわよ? 負けたにしたって、こんなわけの分からない負け方しないわ!」
 憤然とした霊夢の声を、正面にいる藍は奇妙に冷静な表情で受け止めている。
「うーん、まだズレてるわね。少々の効率化くらいじゃ効果なかったか」
「どういうことよ。これは出鱈目な決闘結果を再現する機能なの? やっぱりどこかの天狗みたいに捏造新聞でも作るつもり?」
「もちろん違う。これは機能異常だ」
 睨みつけてくる霊夢に、藍は臆することなく静かな視線を返す。
「この異常には、家で橙と弾幕研究をしようと再生させているときに気付いた。恐らく再生機能に強い負荷がかかっていて、保存内容をアーカイブから引き出す際、微小なラグ……遅延が発生してしまうんだろう。コンマ数秒にも満たない小さな遅延だけど、再生時間が経過するにつれて齟齬は積み重なっていき、最終的には大きなズレとなって、映像に反映されてしまう」
 問題の要因のひとつとして、記録の保存が「決闘」という事象単位で為されるのではなく、決闘者個々の行動単位で行われているという点が挙げられる。例えば霊夢と魔理沙が行った決闘では、霊夢の攻撃や回避といった行動と、魔理沙のそれとが、別々に記録されるのだ。そして再生時には双方の記録を引き出してきて、同一のタイムライン上で組み合わせ、過去の決闘場面を再現するわけなのだが……ここで一方の行動記録の引き出しがほんの少しでも遅れだせばどうなるか? ペアダンスで言えば、ペアの片割れが相手のペースについていけなくなり、そ れでも自分のペースに固執しようとする状態だ。そうなると双方の動きは噛み合わず、それぞれが勝手に独り相撲を取っているかのような光景が、最終的には生み出されてしまうこととなる。
「いまここに再生したあなたたちの決闘リプレイみたいに、ちぐはぐな絵ができてしまうというわけ」
「うーん、なんとなくでしか分からなかったけど……それって、保存の方法に問題があったってことなんじゃないの」
「仕方ないんだ、決闘を舞台となる空間単位で記録してたら、一戦あたりに取得する情報量がとんでもなく膨大になっちゃうから。これではすぐにアーカイブがパンクしちゃうってんで、試行錯誤した結果、現在の形式に収まったんだよ」
 それでも、いよいよ限界らしいねと、藍はつぶやいた。
「記録の保存量が増えすぎて、リプレイの演算機能領域までをも圧迫しはじめているんだ。そのしわ寄せが再生機能の不全という形で出ているわけさ」
 さっき藍が境内で行っていたのは、それに対する処置だった。リプレイ機能の構造式を見直すことで、式の動作ストレスを軽減させようと図ったのだという。
「それでも追いつかなかった。やっぱり保存領域を整理するしかなさそうだわ。紫様ならアーカイブの容量そのものを広げられるんだけど、冬期休暇中だしね」
「叩き起こしちゃいなさいよ」
 吐き捨てるように言って、霊夢はうるさい音を奏で続けていた薬缶の火をやっと止めた。お茶を淹れるから居間へ移りましょうと、藍に目顔で告げる。藍はうなずき返し、水桶を抱えて立ち上がった。


「……つまり、決闘の記録を保存している場所がいっぱいいっぱい。図書館に例えたら、本が棚から床にまで溢れ出てる状態で、いざ調べ物をしようとしても無駄に手間取ってしまう、そんな感じ?」
「そうそう、なかなか上手い。なので、要らない本をいくらか間引いてやらなくちゃいけないわけだ」
「最初の説明だと、幻想郷で起きたあらゆる決闘を保存しているようにも聞こえたんだけど。もしそうなら、そりゃいっぱいにもなっちゃうわよ」
 スペルカードルールが敷かれてからだけでも、いったいどれだけの決闘がこの世界で行われてきただろう。料理当番を決めるのにさえスペルカードを持ち出すことがあるほど、決闘は日常化していた。それだけ普遍的な娯楽として浸透しているわけで、これは決闘法案を考えた甲斐もあるというものではあった。
「いやもちろん、なんでもかんでも記録していたわけじゃない。最低限、弾幕と呼べるだけの弾が展開されたか。決闘という形式が整えられていたか。そういった条件を設けて、ふるいにかけてはいたさ」
「それでもまだ相当の数にはなりそうね……あ、でも、どこで起きた決闘でも記録してくれてるってことは、まだ私が会ったことのない連中のもあるわけなの?」
 もしそうならば、未知の脅威、将来的に異変を起こしそうな連中にあらかじめ目をつける役に立ちそうだ。
 霊夢のそんな期待を、しかし藍はあっさりと否定した。
「残念だけど、記録されるのはパーソナルデータの登録されている人物が関わった決闘のみなのよ。未登録者同士の決闘は、そもそも感知されないの」
「なんだ、使えないわね」
「そう言わないでよ。なんにだって限界ってものがあるし、それにこの世の未知をなんでもかんでも先走って暴いちゃったら、人生楽しくなくなるでしょ?」
 唇を尖らせる霊夢を、藍はやわらかな笑みでたしなめる。
 居間に上がったふたりは再び水桶を挟む形で座っていた。霊夢の淹れたお茶をすすりながら、藍がリプレイ機能の操作を続けている。
「保存価値の低いものを、ざっと二パーセントも削れば当座、冬を越すくらいは大丈夫ね。行動を数値化してるおかげで、ソートすれば似通った内容ごとに分類するのも楽だし、それで稀少度を測ることができるわ。いちいち内容を確認しなくても済みそう」
「面倒なこと考えなくてもさ、古いのから順に棄てていけばいいんじゃない?」
「古いのにも貴重な記録はあるさ。書物や美術が新旧だけで価値を判断できないようにね。……ほら、紅霧異変の頃のなんて、今から見たらなかなかシンプルだけど、それだけに却って新鮮さも感じられるよ」
 懐かしい異変の名を持ち出されて、霊夢も興味を持った。藍がちょちょいと操作を施した水桶に視線を落とすと、なるほど、紅い霧に覆われた夜を、今よりほんのわずかに幼い顔つきの霊夢が、のんびりと飛んでいる。
「やっぱり妙な気分ね、昔の自分を見るのって……なんか動きがぎこちないし」
「決闘法案の生まれて後、初めての本格的な異変だったからね。あなたもまだまだ不慣れだったんじゃない? あ、ほら」
 藍が指し示した桶の中、過去の霊夢はルーミアと対峙していた。互いにスペルカードを掲げ示す姿勢が、どこか初々しい。
 若干の気恥ずかしさが入り混じった懐かしい想いで再生映像を見ていた霊夢だったが、不意に嫌な予感を覚えた。確か、この決闘のときって……
「おっと」
 藍が意外そうな声を上げ、霊夢は予感が的中したことを知った。過去の霊夢がルーミアの攻撃に被弾したのだ。今では考えられないくらいの拙い回避運動の結果だった。
 思わず顔を持ち上げ正面を向くと、藍もこちらを見て、微笑んでいた。霊夢は頬に朱が差すのを自覚する。
「ちょ、これは、ちが……」
「うん? また再生がズレてた?」
「い、いや、そうじゃないけど……確かにこのとき食らっちゃったけど……」
 霊夢の語勢はごにょごにょと尻すぼみになっていく。
 記録の再生は続いていた。どうにかルーミアを退け、しばらくして過去の霊夢は霧の湖上でチルノと遭遇する。
「おや」
 と、また藍が驚きの声を上げた。
「ああ、この散弾は、霊夢の足じゃ大きく避けきるのが難しそうねぇ」
 二度目の被弾であった。
「しょ、しょうがないじゃないの! あれも初見殺しのひとつみたいなもんじゃない!」
「うんうん、そうよね。いきなりでびっくりしちゃったのよね」
 にこにこと目を細める藍と、もはや霊夢はまともに顔を突き合わせていられなかった。熱のこもった顔を伏せて、ただ屈辱をこらえようとする。再生映像を見るのも怖くなって、目を閉じた。
 耳に蓋をすることはできず、藍の声が明瞭に流れ込んでくる。
「おー、頑張る頑張る。……おっと、チキンボム。いやさナイスボムだね。ああ、必死な姿が可愛らしい」
 妙に慈愛の響きのある声が、却って悔しかった。こらえきれなくなって、また顔を持ち上げる。
「ねえ、もういいじゃないのよ! こんな記録、研究の役にも立たないでしょ? さっさと消しちゃってよ」
「いや、これはある種、貴重だわよ。永久保存すべきだわ」
「やめてよやめて」
 鼻声が混じりつつある霊夢の叫びも虚しく、再生は続く。チルノとの戦いも越えて、霊夢は紅魔館の門前まで到達していた。が、そこで門番相手に立て続けの被弾、とうとうガッツが尽きてしまう。満身創痍となった霊夢の姿を中心にカメラが引いていき、暗転。やっと再生は終わった。
「あぁ、頑張ったのにねぇ。残念。……おっと、翌日にも霊夢の記録があるわ。めげずに再挑戦したのね、健気だわ」
「ぐぬぬぬ」
 続けて次の記録とやらを再生する素振りを見せた藍に、下唇を噛んでいた霊夢はとうとう怒り心頭に達した。桶に手を突っ込んで、ばしゃばしゃと水面を叩きはじめる。
「やめてっていってるじゃない! 藍のばか!」
 跳ねた飛沫が顔にかかって、やっと藍は桶から手を離した。濡れた顔を拭いながら、表情は笑っている。
「あはは、ごめん、ごめん。ちょっと意地悪が過ぎたね」
「まったくよ。こんな恥ずかしい場面を選ばなくたっていいじゃない」
「でも可愛かったわよ」
 霊夢がうっすら涙のにじむ目でさらに睨みつけると、藍はもう一度ごめんと謝った。
「私の前に初めて来たときのお前は、もうすっかり一人前の巫女だったからさ。霊夢にもこんな頃があったんだと思うと、なんだか不思議な気持ちになっちゃってね。頑張れって、つい応援しちゃいたくなるような、そんな感じ」
「妖怪に応援なんてされても」
「そうね、私の応援なんてなくっても、あなたは頑張ったわね」
 藍はまた桶に手を触れた。霊夢に乱された水面は、元の凪に戻っている。そこへ藍は新たな過去の光景を浮かび上がらせはじめた。
 霊夢は一瞬顔を引きつらせたが、じきに緊張を解いた。そこに見えてきたのは、長い階段の中途で藍と対峙する自分の姿だったのだ。決闘のルールが幻想郷に敷かれて二度目の異変、その末期。このときの霊夢には、先刻再生された紅霧異変当初の浮き足立ったところなど既に失せていた。静かな微笑を瞳に浮かべて、決闘相手を見据えている。
「私に勝ち、この後は紫様さえ下して。大した強さだと、舌を巻いたわ。それがあなたの初印象だったから、まるで最初から強いように錯覚してた。だけど、違ったのよね。天性の才能に恵まれて、でもそれを活かすには、まったく努力が要らないってわけじゃない。あなたは頑張った。そこいらの三下妖怪にさえ敗れる辛酸を経てきた。それを知っちゃうとね、見る目も変わってきちゃう」
 藍は桶から片手を外し、霊夢の顔へと伸ばしてきた。霊夢は反射的に顔を背けたが、それをさらに追って藍の指は彼女の目尻を優しく拭った。
「そうよね、誰にだって最初は、不慣れな頃があった。私たちにだって。だから、そう恥ずかしがらなくってもいいのよ」
「理屈じゃそうかもしれないけど、だからって嫌なものは嫌なの」
 霊夢はむくれようとして、でも上手くできなかった。藍の指が頬に温かい。
 やがて、彼女は大きな息をこぼすと、そっと藍の手を押し戻した。頬に残っている熱は、まだしばらく引いてくれそうにない。おかげで唇からこぼす声には、どうも力が入らなかった。
「まあ、反省してるようだし、今回は勘弁してあげるけど。でも、このこと、他には言わないでよ? 特に紫、あいつにだけは、絶対」
「うん、約束する。私たちだけの、内緒ね」
 嬉しそうに微笑む藍に、霊夢はか細い声で「ばか」と繰り返した。そしてふたり、また水桶を覗き込む。冬の静寂が居間を包む。
 水面の中の過去には春が訪れている。ときおり桜の花びらが散り過ぎていく階段で、過去の霊夢と藍は舞い戯れるかのように決闘を続けていた。



   *



『……ああ、この弾幕もあっさり見切られてしまったんだった。あれは悔しかったなぁ』
『ふふ。勘が働くまでは焦っちゃったけどね。そういつまでも騙されてられないもの』
『もうちょっとくらい騙されてくれないと、狐の立つ瀬がないよ』
 重なる朗らかな笑い声。それを聞きながら、
「ぐぬぬぬぬ」
 と激しく歯噛みする少女がいた。
 障子の向こうに春の麗かな陽射しが感じられる一室。畳の上には、どこに電源を得てるのやら、一台のCRTモニタとスピーカーのセットが置かれている。モニタのこぼす淡い光が、ディスプレイをかじりつくようにして覗き込んでいる八雲紫の顔に、走査線の生み出す波を照らしつけている。
「藍ってば、霊夢のこんな可愛い顔を独り占めしてくれて! 私が寝ている間に、あの泥棒猫! 猫違う、狐! ……でも霊夢にこんな表情させたのはいい仕事した! でも私がさせたかった! 悔しい!」
「呼びましたか?」
 するりと障子が開いて、紫の式、藍が顔を覗かせる。薄暗い部屋の中、モニタの光で顔を不気味な具合に染めている主の姿を認めて、あからさまに眉をひそめた。
「起き抜けに何してるんですか……って、それは?」
 ディスプレイが浮かび上がらせている像に、自分と霊夢の姿があることに気付いたらしい。部屋の中へと入ってくる。
「あ、藍!? 呼んでないわよ! 罵ってただけよ!」
 すぐそばに立たれて、やっと紫は気付いたらしい。慌ててモニタを体で覆い隠そうとして、しかし足がしびれていたらしく、つんのめってすっ転んでしまった。ごつん、と額がモニタの角にぶつかる。
「おやおや、大丈夫かな」
 藍は紫の体を脇へ除けると、モニタの映り具合を確認した。一瞬映像が乱れはしたものの、特に問題なく動き続けている。
「……あれ? これ、去年の暮れに神社を訪ねたときのじゃないですか」
 モニタが映し出しているのは、霊夢に結界のリプレイ機能を披露した、あの日の藍の姿だった。過日の博麗神社の一室での光景が、そっくり映し出されている。
「うう……藍ったら、ひどい」
「紫様、これはどういうことですか。どうして、こんな映像記録があるのです」
「く……くく、ばれてしまっては仕方ないわね」
 おでこを手で押さえながら、紫は不敵な笑みを顔に広げた。
「あなたも知っているように、大結界は弾幕決闘の記録・再生機能を有している……でも、それとは別にもう一種、リプレイ機能を備えているのよ」
「な、なんですって……?」
 驚くべき事実なのかどうかいまいち分からなかったがとりあえず驚いておけといった風な、藍の反応だった。
「それはいったい?」
「霊夢の感情が一定以上の域まで昂ぶったときに反応、彼女が落ち着きを取り戻すまでの一部始終を記録する、その名も『興奮の博麗自動記録及び再生機能』。愛称は『りぷれいむ』!」
「……はぁ?」
「あら、分からないかしら? リプレイと霊夢をかけてるのよ。りぷ・れいむ」
「いやそこはどうでもよろしい。というか解説しないでください恥ずかしい」
 藍は思い切り首を傾げながら、モニタへと視線を戻した。そこに映っている霊夢、あのときの彼女は確かに普段にはないくらい、感情の振りが激しかったが……まさかその表情を、大結界が記録していたとは。
「なんだってまた、そんなものを」
 奇しくもあのとき霊夢から向けられたのと同じ問いを、紫へとぶつける。
「知れたことよ。霊夢の可愛らしい一瞬を逃がさないため。人前じゃなかなかさらしてくれない、彼女が隙を見せた刹那。それを切り取り、保存して、いつまでも愛でるためよ!」
「単なる出歯亀じゃないですか」
「あ、間違えた。今のは本音で、建前は博麗の巫女の心身を脅かす危機がないか見守るためね。霊夢をびっくりさせるような不逞の輩がいたら、そんなの見逃すわけにはいかないわ」
「色々と手遅れだからって開き直らないでください」
 藍は呆れきった様子で溜め息をこぼし、その拍子、ふと思い当たった。はっとなってモニタと紫とを見比べる。
「もしかして、リプレイ機能の制御関連が神社周辺に集中してたのは、それが理由だったんですか」
「そうよぉ。記録対象が異なるだけで構造式の基幹は一緒だから、まとめて処理した方が効率よいでしょ? りぷれいむの方は藍には見えないよう、境界でマスクしてあるけどね」
「それはつまり、その霊夢覗き見機能がリソース食ってるってことじゃないんですか?」
 真っ先に間引くべきモノが、こんなところにあったのだ。藍は紫の襟首を掴むと、がくがく揺すった。
「そんな下らん機能のせいで、他のまっとうなものが割を食ってるんです! 削りなさい、いらんものを取っ払いなさい!」
「ま、待って、藍、絞めながら揺らさないで、極まっちゃうから……えふん」
 締めつけが緩んだところで、紫はほっと息をひとつつき、それから、
「でもお断りよ」
 と不屈の意志を見せた。
「なにも削らなくったっていいじゃない。リプレイ機能領域全体の拡張をするから。だから、ね? 藍だって霊夢の可愛いところ、見たいでしょ? 冬の間なら特別に鑑賞許可出しちゃうかもよ?」
「ぐ」
 甘美な申し出に、藍は一瞬、迷いを顔によぎらせた。それを見逃さず、紫はたたみかける。
「あなたも分かってくれるはずよ。例えばこれが、橙の成長記録だったとしたら? 想像してごらんなさいな……ほら、私の気持ちが理解できるでしょ? 魂で分かっちゃったでしょ?」
「橙の……」
 はっ、と藍は目を見開いた。緩めていた紫の襟握る手に、再び力をこめる。
「確かに私は橙が可愛い。目の届かないところで、もしものことがあったらと心配な時もある。だけど! いくら可愛くとも、だからこそ立ち入ってはいけない境界というものはあるのよ! それがたとえ自分の式相手であっても!」
「お、おのれ、それがかつて三国を混沌に導いた大妖怪の言葉かーっ! 覇王どもを骨抜きにしてきた狐のくせして、猫にでれでれしてんじゃないわよ!」
「うるさい、私は愛に目覚めたんだ!」
 互いに支離滅裂なことを叫びながら、ふたりは組み合って、ごろごろと床を転がった。モニタが断線し、スピーカーが壁まですっ飛んでいったが、もはやそんなことお構いなし。お互い、相手しか目に入っていない。
 なんともはや少女同士の修羅場といった惨状だが――しかし、それぞれ余人には見せることのない、素の姿をさらけだせる相手とふたりきりだからこその戯れだとも言えた。人目を気にする必要もない秘密のねぐらで、ならば存分に己の本性を発露するのも、たまには良いのかもしれなかった。


 ……本当に、誰も見ていないのなら、の話ではあるが。
 この小さな騒動すら、観測し、記録している誰かが、もしかしたらいたりするのかもしれない。

 

 

 




SS
Index

2010年5月14日 日間

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