楽園の素敵な巫女に桜咲く(2)

 

 

 

その日から私の一人暮らしが始まった。

大変ではあるが、出来ない事もなかった。
その辺り、やはり母の教えが良かったのだろう。
どうしても家の事に手を回すと、修業の時間が減ってしまうのだが、これはさすがに仕方がないのだと割り切った。
魚の干物とお粥と梅干で夕食を終え、一日の終わりに安堵した。
さっそくカレンダーを一つ塗りつぶす。
これを、一年続ければいい。
残り三百六十四日。
気の遠くなる数字だが、そこがゴールだ。

ところが、終ったと思った一日が意外な所で問題を引き起こした。
風呂に入るとき、当然服を脱ぐのだが、頭の上の真っ赤なリボンの処置に困ったのだ。
別に取れないわけではない。
私の中でこのリボンは、母が結んでくれて、母が外すというルールなのである。
そのルールを破るのが、非常にもどかしい。
大人が聞けば笑うかも知れないが、子供の私にとって、それはたった一つの大切なルールだった。
母と私の関係を確かめる毎日の儀式。
悩んでも、外すしかないのだが、どうにも踏ん切りがつかない。
馬鹿な話だが、頭にリボンをつけたまま風呂に入ってみた。
当然、頭は洗えないし、リボンも湿気を吸う。
リボンの湿気を取る為に、結局寝る前に外した。
部屋の端から端に架けられた、一本の太い紐に他の洗濯物と一緒に干した。
布団を敷いて、明かりを消す。
光が消えた途端に、一粒、二粒、玉のような涙が零れ落ちた。
悲しみから逃げるように布団を頭から被り、何も考えないようにした。

血の繋がる親の顔も知らず、血の繋がらない博麗の巫女に育てられ、こうしてまた一人になった。
それでも自分は孤独を嫌い、一人前に涙はこぼれ、枕と頬を生暖かく湿らせる。
恋しい……寂しい……。
暗くべっとりとした闇が私の身体に浸透していく。
このまま眠りに落ちて、次に目が覚めてもまだ真っ暗だったら、私は気がふれている。
眠るのが怖い。
起きてても怖い。
眼を瞑り、母の思い出に縋る事が、私が取れる闇からの唯一の防御手段だった。

―――――

それからしばらく、何事も無い日々が続いた。
慣れとは恐ろしいもので、こんな日々が何ヶ月も続くと、自分一人の生活に違和感を感じる事が少なくなる。
それでもリボンを外す時の、ギッと胸が締め付けられる痛みは、到底消えそうもない。
母への想いは、変わらず胸の奥で渦巻いている。
ただ隠しているだけ。
滲ませて、ぼやかして、誤魔化しているだけ。
だけど、気持ちが騒がぬようにと、多くの感情と一緒に底に沈めておく。
余計なことを考えると、修業に差し支えるから。
母さんの言いつけを守り、まず一人前なるのが先だと思うから。
そうしないと、母が帰って来てくれないのだ。

具体的に幻想郷を守るとは、何をしていけばいいのか良く解らないまま、今年も暑い夏がやって来た。
博麗大結界とやらには、何の異常もない。
森の妖怪達に目立った動きも見られない。
平穏無事な毎日が続く。
何か変化があってくれたほうが、気が紛れて助かるのだけど、そうはいかないらしい。
昨日の夕立が作った水溜りが、今にも蒸発しそうな様に悲鳴を上げている。
母さんと食べた、冷たい素麺を思い出して、一人で作って食べてみた。
氷無しで井戸水だけでは、さほど冷たくもない。
母が作った氷室の結界はどうなったんだろう?
縁側に座って、そんな事を考えていると、鳥居の下から懐かしい老人の姿が見えた。

このでたらめに暑い季節に、黒いローブを着込んだお爺さんは汗一つかいていない。
一年経っても、お爺さんに何も変わりはなく、私も特に何かが変わったわけではない。
でも、私の傍に母はいなくて、お爺さんの後ろにあの子もいなかった。
そこに、時の歪みを感じた。

『……やぁ、こんにちは』

老人の挨拶に会釈を一つ返す。
また、母を訪ねてきたのだろうか。
母の事は聞いて欲しくない。
何をどう答えても、ここにいない母の事を口に出したら、残された自分が惨めになる気がして嫌だった。
だけどお爺さんの口から飛び出した言葉は意外なものだった。

『賽銭箱はあちらかね?』

ローブの袖がすっと動いて、賽銭箱の方角を指差す。
あちらも何も、指した方向にずばり賽銭箱が見えているのだから、私が答える必要がない。
どうも腑に落ちないが、返事をしないわけにもいかず、適当と思われる言葉を返した。

『はい、そうです。あちらです』
『……そうか、有難う』

お爺さんは賽銭を入れ、鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼を済ませると、眼を閉じ空を仰いで物思いに耽った。
視線は空から境内に移り、境内から縁側に移り、縁側から私に移り、そこで頭を下げた後、お爺さんは石畳を静かに渡り、神社を後にした。
一体、何ヶ月ぶりの参拝客だろう。
気になって賽銭箱に駆け寄る。
夏の光に、五円玉が綺麗に稲を光らせていた。

―――――

何も変化がないまま、秋が来た。

雨の匂いがしたので、山での実践訓練を止めて、家に帰る。
家に入ると同時に、ぽつぽつと遠慮がちに雨が降り出した。
母がいなくなってから、何だか雨が増えた気がする。
しばらく止みそうにもなかったので、家の掃除をする為に、はたきを持って母の部屋に入った。
この部屋に入ると、如何に自分が力んだ生活を続けているのかが良く解る。
入るだけで、匂いに触れるだけで、張っていた気が空気のように抜けていって素の私に戻される。
初めて、この部屋に入った時は、鏡台の前に母の姿を幻視して泣いた。
あの頃と違って泣かずに済むのは、慣れだけでなく、確実に春が近づいている実感があるからだろう。

はたきをかけながら、部屋を歩いて回る。
わけもなく、母の鏡台の前で足が止まった。
鏡に映る自分は、昔より少し髪が伸びたようだ。
リボンを解いて、櫛を入れて真っ直ぐ伸ばしてみたらどのくらいになるだろう?
何だか少しだけ誇らしい。
そうだ、櫛といえば、母のとっておきの櫛がここにあった。

朝、リボンを結ぶ前に私の髪を梳いてくれる時や、母が風呂上りに髪を梳くのに、その櫛を使っていたのを思い出した。
漆塗りの木製の小さな櫛で、赤の背景に満月を思わせる黄色い丸、その周りに桜の花弁が踊っている。
その櫛を、母が鏡台の一番上の引き出しに仕舞っていたのを、私は何度か見て憶えている。
屈み込んで引き出しに近づいて、取っ手に手をかける。
この奥にあの櫛があるのか……。

開けていいものか?

これは、子が母の部屋を勝手に荒らしているわけで、浅ましい行為ではないだろうか。
いや、櫛を見るだけだ。
荒らすわけじゃない、すぐに元通りにする。使ったりもしない。
私は幾らか逡巡したが、結局子供じみた言い訳をしながら、取っ手にそろそろと力をかけていく。
……?
あれ、動かないな。
鈍い音を立てた引き出しが、途中で引っ掛るように止まってしまった。
見ると、引き出しの端の方に小さな鍵穴がついている。
鍵穴なんてあったんだ。
どうやら、鍵がかかっているようで、開けるのは無理みたいだ。
何だ、つまらない。
私は、ふてくされながら畳みに足を投げ出した。

その時、外で音がした。

カシャンという小さな音。
何だ?
気になって外に出てみる。

外に出ると、早くもからっと雨が上がっていた。
音の正体を探していたら、木製の郵便受けの下に和封筒が裏向きに落ちているのを発見した。
郵便受けの中ではない、その下の地面に。
誰がこんな所に手紙をおいたのだろう?
雨上がりだというのに、地面に置かれている封筒は、雨の染みが僅かにぽつぽつとあるだけ。
郵便受けが雨を防いだのかしら。
手に取ると、肌に少し冷たい。
差出人を探そうと、封筒を裏返す、よし、封筒の表は濡れていないな。
名前を見つけた瞬間、心臓が跳ね上がった。

『博麗霊夢へ』

母さんの字だ!
もしかして、まだ近くにいるかもしれない!
鳥居の下に走りながら大きく叫んだ。
何度も母を呼んだ。
だけど、返事は無く、青い空には鳥の姿以外何も見えない。
……届けたのは、母さんじゃないの?
そうか、母さんだったら普通に郵便受けに入れるよね。
鴉か何かが配達してくれたのだろう。
とても残念だ、残念だけど。

ここに母さんの手紙があるんだ。
高鳴る胸を抑えて、家に持って入る。
卓袱台の上に置いて、深呼吸してから、一気に封筒の封を破った。

中の紙には狂い無い綺麗な毛筆で、母の字が埋め尽くされていた。

『霊夢、元気にやってますか? 風邪を引いていませんか?

少しずつ寒くなってきましたね。
貴方は薄着の傾向があるので母は大変心配です。
朝と晩は特に冷え込みます。面倒だと思わず、いつもより一枚多く着込むつもりでお願いします。
お腹を壊さぬよう、病気にかからぬよう、食べ物には出来るだけ火を通すように。
貴方の身体を内から温めてあげなさい。

残した食料はまだあると思いますが、秋のうちに木の実や魚などを人里で保存の利くものに交換してもらいましょうね。
冬を万全の体制で迎えられるように頑張りましょう。
足の指に霜焼けが出来ても、あまり掻いては駄目ですよ?
後で困るのは自分ですからね。

さて、修業の方は順調でしょうか? 素敵な巫女に近づいてますか?
貴方の才能は私が保証します。
まさしく神童と呼べる出来でした。
近い将来、幻想郷で最強を名乗れるかも知れません。
あら、お世辞でも親馬鹿でもないのよ。
霊夢という跡継ぎを持てた事を、私は誇りに思っていますから。
貴方の思うままに、この楽園を導いてあげて。

霊夢、生きるということは、楽しい事ばかりではありません。
辛い日もあるでしょう。
悲しい日もあるでしょう。
世の中いい事ばかりではなく、悪い事がたくさんあります。
人間は嫌な事が一つあると、嫌な事を連鎖的に思い出してしまうものです。
あなたが今の自分を不満に感じたら、悪い事ではなくて、いい事を思い出してあげなさい。
好きな物、好きな事、好きな人、どんな些細な事でも構いません。
一つ一つ指を折って数えて御覧なさい。
貴方が積み重ねた歳の数より、貴方の好きの合計が上回っていれば、貴方は幸せ道を歩んでいるのだと信じなさい。
子供のうちは何を簡単な、と思うかも知れません。
意外とね、年を取っていくにつれて、難しくなるものなのですよ。
好き、は大人になると簡単に剥がれ落ちてしまいます。
失くしたら取り戻しなさい、一年に一つずつ好きを増やしていきなさい。
そうすれば貴方は幾つになっても、素敵なままでいられるでしょう。
そうね、母さんは……あら、困ったわ。
霊夢の事だけで、好きが歳の数を軽く上回ってしまいました。
今更だけど、簡単過ぎたのかしら……
いえいえ、それだけ霊夢が素晴らしいのでしょう。
こんなに幸せだなんて、霊夢に感謝しないといけませんね。本当に有難う。

愛してますよ、霊夢。
いつまでも、いつまでも。 ―母より― 』

……。

『愛していますよ、霊夢……だって!』

くすぐったい。
何処を読んでもくすぐったい。
手紙を胸に抱いたまま、転がって足をばたつかせて畳みの上を泳いだ。
母さんは私の事だけで、幸せになれるらしい。
私に感謝してくれてるらしい。
これならば、春にはきっと母は帰ってきてくれるだろう。
私も母さんの好きなとこだけで、歳の数なんてあっという間だった。
帰ってきたら、まずその気持ちを母に言おう。

何度も何度も手紙を読み返した。
声に出して、歌うように読み上げる。
私だけじゃもったいないから、鳥や、タヌキや、百足や、木や、石や、空にも聞かせてあげた。
今日だけでなく、明日も、あさっても、その次もずーっとずっと素敵になった!
たった一枚の手紙がこんなに嬉しいなんて。

秋が終れば、冬が来て、冬が終れば、春が来る。
春には、母が帰ってくるんだ。

母が……。

『霊夢、霊夢〜』

(……ちっ、この天から響く声は、またうどんげね)

感動のワンシーンにお邪魔虫登場だ。
狙ってやってるのかしら、あんちくしょう。

『霊夢、霊夢、聞こえる? 応答せよ』
「聞こえる、聞こえてますってば。頼むから邪魔しないでよ」
『あ、大丈夫? なんだかこっちでは寝たまま、にへにへと笑っているのだけど』
「ぶっ! ちょ、ちょっと良いことがあっただけよ!」
『そう? 問題ないのならいいわ。まだいける?』
「ゴーサイン以外考えられないわ。むしろ、ここからが肝心かなめ」
『珍しく感情的ね。らしくないのが心配だわ』
「らしくないかな? うーん……」
『OK、じゃ、引き続き記憶の旅をどうぞ』

うどんげの声が掠れるにつれて、辺りがぼやけて、次の場面に移る。
透明な風に吹かれて、寒くて白い冬がやって来た。
私は靴下二枚履きで霜焼けを回避し、冬が過ぎるのをじっと耐えて、待ち望んだ春の色が地面を割って出てくるのに喜んだ。
少しずつ寒さが和らぎ、鮮やかな黄緑色がめきめきと成長していく。
徐々に桜の蕾が開いていき、例年にないほどの花が境内を埋め尽くす。
これが母が約束した、私への一年目の贈り物なのだろうか。

誕生日。
私はお弁当を二つ作って、母が帰ってくるのを、別れたあの桜の下で待っている。
散る桜、咲く桜、全てが完璧なこの春の世界で。
母が連れて来た、満開の桜に目を細めて。
私は待っている……。
母の帰還を。

―――――

『まだかなー……』

母は、帰ってくるはずである。
今日、帰って来ないとおかしいのだ。
指切りで約束したのだから。
幾度も過ぎる空の気配に身を乗り出せば、そこにいるのは雲雀か雀か鳶か。
夕陽はもう山に落ちようとしている。
これだけ待っても、母の姿が確認できない。
一分一秒経つのが、自分の身が削られているようで、痛みに奥歯を噛み締めて俯いた。
無情に過ぎる時間に、溢れるほどあった希望が、鱗のようにぼろぼろと剥がれ落ちていく。
桜の下を離れ、赤い鳥居に寄り添って、母を待った。
薄い闇が下りて来る。
新緑が黒に染まっていく。
母はまだ来ない。
何かあったんだろうか……。
母を驚かせようと、掃き集めて溜め込んでいた桜の花弁も、シャワーになれず夜の風に散っていった。

お腹がぐぅと鳴って私に催促したが、とても一人で弁当を食べられる気分じゃなかった。
闇が迫っても、月が昇っても、まだ母が戻ってくる事を信じて待っていた。
静かな夜に、野犬の声が山彦になって返ってくる。
家の明かりを灯すと、夜桜が青白い姿を浮かび上がらせ、鈍い輝きを放つ。
月はどんどん高くなる。
時間に取り残された私だけが、ぽつんと外に立っていた。

いっぱい話すことがあったのにな。
母さんに喜んで欲しくて、今日はお弁当も頑張ったのに。
家の掃除だって三日前から念入りに行ったのに。
どうして帰ってこないの……。

冷えた弁当を夜の月の下、一人で食べた。
一つ残ったのは、私が明日の朝食べる事にした。
その日は諦めて、家に入った。
母は多忙なだけで、きっと次の日に帰って来てくれると信じてた。
布団に身体を滑り込ませる。
明日を夢見て眠りについた。

だけど、次の日も、その次の日も。
母は帰ってこなかった。

幼い私が桜の下で泣きじゃくる姿を見てようやく。
私は、薄っすらと結末を思い出してきた。

―――――

二年目。
幼い私は、ますます努力をしていた。
母を疑う事を私は知らないのだ。
いや母を疑うより、無理にでも信じる方がマシだったと言うだけかもしれない。
私は、まだ空が飛べなかった。
それを私のせいだと思い込んで、私は空を飛ぶのを目指した。
それが素敵な巫女の道であり、それを母が戻ってくるための目標とした。
魔女じゃあるまいし、飛ぼうと思って出来るものでもないのだが。
おかげで、手足を何度も捻挫した。
高い所からジャンプしてたら飛べるかも、と思ったのだ。
我ながら、阿呆である。
阿呆であるが、いじらしい。
骨折しないだけ運が良かったとも言える。

空は飛べなくても、山の妖怪に、ほとんど敵はいなくなった。
母が言った通り、私は神童だったのかもしれない。
木の葉のように避けて、蜂の様に急所を狙う。そんな私を見て、博麗の巫女は無重力であると、妖怪達は恐れた。
まだ、飛べもしない子供を見て無重力だと叫ぶ。
妖怪や悪霊も、私に負けず阿呆である。

普段どおりの生活が続く。
そうやって二年目の誕生日を迎えようとしていた。
私はまた、健気に待っていた。
懲りもせず、あの桜の下で……。

―――――

『うわー……!』

母さんの言ったとおりだ。
私は、今度こそ母が帰ってきてくれるのだと喜んだ。
力強くて暖かい春風が、絶えず神社を流れている。
不思議にも、神社から外に出ると、この春風は消えてしまうのだ。
これは、あの日約束した、母からの二年目の贈り物に違いない。
私は喜んだ。
母は私を忘れていない。
何処かできっと見てくれているんだ。

慌てて家の掃除に走った。
去年ほど丁寧にしてなかったのだ。
危ない危ない、母の部屋は特に念入りにしとこう。
昼までに全ての部屋の掃除を終らせ、桜の下に戻った。

暖かい風を両手を一杯に広げて受け止める。
桜は去年ほど派手な開花は見せなかった。
一年目の満開の桜、二年目の暖かい春風、母は約束を忘れていない。
大丈夫、心配しなくていい。

そうは思ってみても、太陽が少しずつ傾いていくのは、やはり恐ろしいものだった。
怖さを打ち消すように、両手をメガホン代わりにして、母を思いっきり呼んだのだが、山から返ってきたのは私の声だけ。

やがて日が暮れた。
太陽の時間が終わり、月が山から昇り出す。
夜になっても石畳の上に暖かい風が吹き続ける。
その異常な暖かさに身震いした。

暗闇のどん底に落とされたまま、私は家に戻った。
玄関の引き戸を閉める直前、計ったように風が止んだ。
こんな術、何になるのよ……
私が二年間ずっと努力したのは、ただ母が恋しいからであって、贈り物のためではない。
白く滑らかな手で『頑張ったね』と頭を撫でてもらいたいのだ。
こんな術なんていらない。
母さんの一言で、それだけで私は救われるのに。

生きてるのなら、どうして……

どうして帰ってきてくれない?

―――――

三年目。
思い出と呼べるような事はほとんどない。
何もしなくても、身体の成長に合わせて、私の力は勝手に増大していった。
気持ち悪い。
妖怪達は大人しく山に引篭もっている。
私という存在が神社にいるだけで、奴らの牽制になっているらしい。
だけど修行は続けた。
また空は飛べなかったから。
空が飛べると母が帰ってくるという思いは、少しだけまだ胸にあった。

少しずつ春が近づいてくる。
子供なりに知恵がついた。
やがて、私は、暗澹たる現実を笑うようになった。

結局、母さんは、私より博麗の掟の方が重要なんでしょ。
あーあ、馬鹿馬鹿しい。
母をなじり、現状を笑うたびに、酷く心が痛んだが、胸を食い尽くさんとする寂しさよりは、そっちの方が余程マシだった。
あのまま放っておけば、私は寂しさに殺されている。

やがて誕生日が来た。
おそらく、母は帰ってこないだろう。
だけど、贈り物は届けてくれる。
二年間かかさずくれたのだもの。
必ず届けてくれる。

『三年目の誕生日には夜空を見上げてみて。母さんが霊夢に素敵な楽園を贈りましょう』

楽園とは何だろうか?
少しだけ気持ちが緩んだ。
このまま楽園を連れて母も帰ってきてくれれば、最高のハッピーエンドなのに。
それは、無理な望みなのかな……。

夜が来た。
私は、桜の木を離れ、境内の真ん中に立ち、空を見上げた。
夜空は澄み渡る満天の星空。
まさか、これが楽園じゃないだろう。
こんなのは冬にだって見える。
月は満月に見えるが、少し欠けてる様な気がしないでもない。

一時間程ぼーっとしてたが、次第に立ち続けるのに疲れてきて、私は石畳に座り込んだ。
空に変化はない。
周りにも何か特別な事は起こらない。
楽園って何の事?
月が傾く。
まだ、信じていた。
だから待った。
私はずっとそこで待ってたんだ。
空が明るくなるまで、ずっとそこで。
何も疑うことなく、母の約束の言葉を信じていた。

どうやら、騙されたな、と気が付いた時はもう朝だった。
母は何も贈ってこない。
最初からそのつもりだったのだろう。
楽園などと言う抽象的な言葉で私を誤魔化してるだけだった。
嘆息して笑った。
力ない笑いだった。
見てて可哀想なほどに肩が落ち、乾いた笑いだった。
そのまま無言で、母と別れた桜の木の前に歩いていく。
桜の木を睨む私の顔は、それまでにない怒りに満ちていた。

『嘘吐き……! 母さんの嘘吐き……!』

何度も桜の木を叩いた。
罵って、恨んで、叩き続けた。
そのうち、ささくれた桜の皮が、私の両手を切り裂いたが、そんな痛みは私を静めるのにまるで足りなかった。
私は桜を太鼓のようにたたき続けた。
泣き疲れるまで、叫び疲れるまで。
半時程で、ようやく私の動きは止まった。
だけど、想いは何も変わらない。
悔しかった、情けなかった。
どうしても消えてくれないのだ。
疲れも、痛みも、苦しみも、母への愛を一向に消してくれなかった。
馬鹿にされて捨てられて、向こうは約束すら忘れてしまったというのに。
まだ、求めるのか、私は。
体中が熱い。
おでこを桜の木にくっ付けた。
頭の中に渦巻くこの熱さを、少しでも吸いとって欲しかった。
そのまま体勢を崩して、桜に寄りかかった。
疲れた、もう、何もかもが嫌だ。
明日から何を目標に生きていけばいいの。
尽きたと思った涙が、まだ出てくる。
畜生、うんざりだ。
私が、私がどんな気持ちでこの三年間生きてきたか、母さんは解っているのか。

このまま、明日の朝、長い雨が降って来るまで。
そう、ここで眠ってたんだ……。
思い出した。
私が嘘が苦手なのも、努力は決して報われないと考えているのも、ここが原点だったんだ。
道理で過去と今の実像が離れ過ぎてるはずだ。

『霊夢! 霊夢! どうしたの泣きっぱなしよ!?』

うどんげ?
ああ、向こうでも泣いてるのか……。

「うどんげ……もういいわ、引き上げさせて……」
『え? 自分で戻れないの?』
「戻り方が解らないの、前みたいに無理やりでいいからお願い」
『わ、わかった!』

景色にひびが入る。
巨大な白い手が伸びて来て、私を無造作に掴み上げる。

私は空へ引き上げられる間、雨の中、桜の下で目を覚ます幼い私をじっと見てた。

―――――

うどんげが心配そうに私を覗き込んでいた。

瞼を閉じて、溜まる涙を落としてから私は立ち上がった。
鬼の目にも涙だー、と、傍に来ていたてゐが私をからかったが、付き合う元気も無かった。
二人に別れを告げ、神社に戻る。
柄にも無く、悪戯兎は不安と心配が綯い交ぜになった顔をしていた。
その目は幼い頃に母を待っていた私に似ていた。

赤い鳥居が見えてくる。
見慣れた神社が、酷く悪意に満ちた物に感じられた。
平静を装って鳥居を潜り、神社に降りた。
石畳を歩く。
棘々した何かを胸に抱えながら、私は例の桜の下を目指した。

「これか……」

葉も無く、ごつごつとした表皮を晒すだけの裸の木。
その枝には、桜の見る影も無い。
この枯れ木から私達が満開の花を想像できるのは、知識として知っているから。

私はあの日から枯れた木のままだ。
母という桜を待っていたが、それは叶わなかった。
どんな状態だろうが、もう一度、満開になれると信じていたのも、春の桜を知っていたから。
根元は何も変わらぬまま、母の暖かさが再び私に花を付けてくれる日を待っていた。
遠く、幸せな日々に思いを馳せながら。

「……しょうもない結末だわ、ほんと」

母の死が最悪の結末だなんて、何て短絡な発想だったのか。
この場合、生きてた場合が最悪に繋がるんだ。
そうなると、私はただ捨てられたという事になる。

捨てられたなんてそんな、あの日の約束は、優しい嘘だったのよ、と。
この話を聞けば、そんな風に言う奴もいるかも知れない。
事実、私は一人で生きられるほどの力と知恵を持つまでに成長したし、母の面影を断ち切って、立派に一人立ちも出来た。
それは、あの嘘のおかげじゃないのか?

「冗談じゃないわよ……」

いくら言葉で誤魔化しても、とどのつまり、私を捨てたんじゃないの。
親との約束を破られた子供の気持ちは、大人には決して解らない。
母の面影だって、断ち切れたものか。
捨てたのだ。
想い出ごと土の中へ。
二度と思い出さぬよう暗闇に閉じ込めて。
それが、どれだけ苦しい作業だったのか。
大人と子供の境界をうろつく私には、もう半分も解らないが。
全部解らなくて助かっている。

あーあ、それでも未だに私は母の教えを守り、いい子に博麗の巫女を続けているわけだ。
それしか教わってこなかったしね。
仕方ないわよね。
全く、何が掟よ……
桜を爪先で蹴飛ばしてから、家に向った。
その途中、またしとしとと雨が降り出した。
霧雨のようにぼんやりした雨が、山の風景を白くぼやかせる。
何時まで続ける気だ、この雨は。
もう、一週間が過ぎたわ。
これも立派な異変じゃないの?
私の勘が働かないから、首謀者はいないんだろうけど。

お米を炊いて昼を済ます。
何もする事は無いし、何をする気にもならない。
畳の上に寝転がり、怠惰な時間を過ごす。
雨は降ったり止んだりだ。
鬱陶しいわね。
自分の気分がずっと冴えないままなのを、雨のせいにして当り散らした。

夜が来て、いい加減汗だくの自分が嫌になって、風呂に入る事にした。
乱暴にリボンを解き、床に放り捨てて、風呂に入る。
腹いせに踏みつけてやろうかと思ったが、どうしてもそれは出来なかった。

その日は夢も見なかった。

―――――

次の日になっても気分は冴えなかったが、こればかりは対処法があるわけでもない。

境内に枯葉が散らかっていたが、掃除もせず、私は朝から縁側でお茶を飲んでいた。
何の飾りも無い湯飲みを空にして溜め息をついたとき、久々に魔理沙が神社の空に姿を見せた。
宴会がないと、こいつとも会う機会が減るわ。

「とうちゃーっく!」

わざわざ目の前まで突っ込んで来やがった魔理沙は、落ち葉と土煙を盛大に巻き上げながらの着地をした。
お茶に入りそうになった葉っぱを、一枚摘むと魔理沙に向って投げ返す。
ぐるぐる回るだけで届かなかったのは残念だ。

「はぁ、後で片付けなさいよ、魔理沙」
「おー? どーした、霊夢? 珍しく沈んでるな」
「まぁね……」
「何だ? 生理か?」
「ご挨拶ね。偶には私も落ち込みますっての」
「信じられん……まさか、しまった、これは永琳の罠だ!」
「殺られたい?」
「めっそうもないぜ」

私の隣に魔理沙が腰を降ろす。
……後ろ手に何か隠してるな?

「あんまり宴会がないと、お前が飢え死にしてそうだから、ちょいと助けに来たぜ、ほら」

ほら、と同時に巾着袋が私の胸に飛んできた。
紐が緩んだ口から、白くて丸っこい物が幾つか見え隠れしている。

「ライバルに餅を送るとは、私って何処まで優しいのか。表彰されなきゃだな。あ、霊夢、お茶は一番いい奴で頼むぜ?」
「あー、はいはい。一人で食べてね」
「おいおい? 幾らなんでも食料を前にしてその態度はないだろう?」
「今日は、ちょっと食欲ないのよ……」

縁側から動こうとしない私に、魔理沙が怪訝な表情を浮かべる。
何を思ったか、いきなり魔理沙は額を私の額にくっつけた。

「……何するのかしら?」
「熱は無いな……」
「あったら寝てるわよ」
「正論だ。して、何でだ?」
「昨日、嫌な事思い出しちゃってね」
「嫌な事?」
「その前に、魔理沙、離れろ」
「おおっと、失敬」

迷ったが、昨日の概要を短く話してやった。
こいつは人の心の中に土足で入り込んでくるが、あまり荒らして帰らない。
その辺り話しやすく、付き合いやすい。

「気持ちの整理がつくまで、しばらく神社を離れようかとも思ってるんだけど……」
「……あのなぁ」
「何よ、魔理沙」
「どうして、そこで止めたんだよ?」
「はあ?」
「その次の日が一番大事なショータイムだろうが」
「何の話よ?」
「記憶の話だよ。そこまで来てまだ思い出せないのか?」
「思い出せないから訊いてるんでしょうが」
「次の日。満月の雨の夜、霊夢が泣いてる所に、私が格好良く登場するんだぜ?」

夜中?雨の日?で、私が、泣いている……
ああ……あの夢の事か……?
昨日の出来事が印象に強すぎて、夜の夢の事なんてすっかり忘れてたわね。
そういう夢も見たっけな。
……え!?

「あああー! あんた、ひょっとして夢の女の子!?」
「夢の女の子とはファンタジーな響きだな。この際通り名変えるか。夢の女の子魔理沙。メルヘンだぜ」
「言葉遊びしてる暇はないわよ! 真面目に答えなさい! あれは魔理沙なのね!?」
「と言われても、首が絞まってると、迂闊に次の発言をするのが怖いのだが。しかも、あれって何?」
「あら、ごめんなさい」

むぅ、何時の間に首を締めてたのかしら。
困ったものね。
手が悪い。
私じゃない。
夢の事も手短に説明してやると、魔理沙は二度深く頷いた。

「なるほど、夢の中の女の子も、記憶の中の女の子も私に違いないな」
「あんた初対面から馴れ馴れしいと思ってたら、以前に会った事があったのね」
「悪い、馴れ馴れしいのは素だ」
「知ってる」
「……あまり強がらず、知りたい情報ぐらい素直に聞いとくものだぜ?」
「知りたい」
「素直なんだか、ひねくれてるんだか」

顔を上げて魔理沙は笑った。
が、急に真面目な顔に戻ると、天を見つめたまま話を続けた。

「霊夢。今夜も恐らく雨が降る」
「え?」
「天佑だな、吸血鬼の言葉を借りると、こいつが運命ってやつだ」
「雨がどうしたっての?」
「お前は母に言われ、嫌々幻想郷を守ってるわけじゃない」
「何を知っているのよ、魔理沙」
「どうして此処が楽園なのか、何で霊夢が楽園の素敵な巫女なんて風変わりな通り名を名乗っているのか。知りたくないか?」
「あんた何処まで……」
「今夜、満月の下で楽園を思い出させてやろう。私が祖父から受け継いだ星の魔法でね」

そこまでで会話が止んだ。
縁側から魔理沙は、立てかけてた箒を右手でぐっと手繰り寄せ立ち上がった。

「餅、置いとくぜ?」
「ちょ、ちょっと帰るの!? 何も解らないままじゃないの!」
「夜、雨が降り始めたら、夢の続きを見に来いよ」
「見に来い?」
「夢で入ったあの道から、あの時の目的地を目指して登って来な。飛ぶなよ? 歩いてだ。そうしたら丁度いいくらいに辿り着ける」
「途中で夢は終ったし、最後まで知らないのよ道。山道の変化は数年と言えど馬鹿にならないし、辿り着けるわけが」
「辿り着けるさ。辿り着けなきゃ」

私に背中を向けて、魔理沙は石畳を歩き出す。
人差し指で帽子を弾き上げて、私に振り返って、

「それまでだぜ」

最後にそう続けると、魔理沙は箒に跨って神社を飛び出した。
瞬く間に青い空に消えていく。
残された私は呆然として、魔理沙の米粒みたいな姿を見送った。
止める暇も無く、魔理沙は風景に溶けていった。

「何よ、賢人ぶっちゃって」

いつも魔理沙を諭すのは、私の立場だったのに。
立場が逆転したようで、なんとも言い難い気分だ。

「夢の続きを見に来いよ、か……」

見に行ってやるか。
そこまで言われたらね。
何が待っているのか知らないが、もう最悪は体験済みだ。

いいわ。
魔理沙が言う楽園とやら、私に見せてもらおうじゃないの。

―――――

果たして、今夜も雨は降った。

夢を頼りに、私は山に入る。
折畳み傘を差して行ったものの、すぐに邪魔になるだけと解ったので畳んだ。
魔理沙という現実の繋がりを得た夢は、少しずつはっきりと輪郭を現してきた。
夢で見た道よりも、もっと獣道になっていたが、それを力任せに登って行く。
はっきりと解る。
この道は、通った事がある。
知ってはいても、こう暗いと手探り状態だが。

「ひゃっ……! 夢と同じね」

背中に入ってきた雨に身を竦ませて、そう思った。
出来るだけ結界は使わずに、草を分けて道を作っていく。
そうすると少しずつ、記憶が取り戻される。
登りながら、気になった事を整理していた。

最も気になっているのは、一日遅れたということだ。
母が約束した楽園と、魔理沙が言う楽園とは、同じものを指すんだろう。
どうして魔理沙がそんな事を知っているのか、それは後で訊けばいい。
問題は一日遅れた理由だ。
母の贈り物は二年間、誕生日という明確で正確な基準があった。
三年目だけずれたりするのだろうか。

まぁ、母はおっとりしてたし、ひょんな事からずれたのかもしれない。
そうね、例えば、満月の時機を誤ったとか?
母の見せる楽園とやらは、満月じゃないと出来ないのかも。だって今日も満月だ。
あの日、まだ満月じゃなかったから、満月を待って一日ずれた……。
あ、これは当たりのような気がする。
しかし、だったら手紙でも出せばいいじゃないの。
一日遅れますよ、って。
一度手紙は受け取っているんだから、手紙を出す事は出来ないわけじゃないだろう。
幾らなんでも誕生日が近づけば、満月かどうかぐらいの判断はすぐに……。
いや、待って。

悪い予感が頭を殴りつけた。

この考えは、昔もしたことがある。
そうだ、あの夢の日から更に後の記憶だ。
一日ずれた事を、もっと突き詰めて考えた私は、古いカレンダーを母の部屋から探し出して、何かを調べてた覚えがある。
何を調べていた?
確か、あの誕生日から四年前の二月を調べていた、私の予想通りその年はうるう年で驚いた。
むぅ、驚くのも変だけど、何故そんな予想をしたのかしら?
うるう年が、母の計画を一日遅らせた?
四年前がうるう年だから、四年後の誕生日の年も、当然うるう年のはず。
それで月齢の計算が狂ったのかしら?
ううん、違う。
それだと計画は一日前にずれないと駄目だ。後ろじゃない。
大体、四年前のカレンダーなんか見なくても、今年のカレンダーで今年がうるう年かどうかなんてすぐに解る。
逆なんだ……だから母さんは。

――止めろ。

それは危険な思考だと、頭が警鐘を鳴らした。
震えが走る。
思い出すなと、何度も何度も私を震わせる。
まだ、何か心が隠してるのか。

それでも足を止めず歩いていると、急に森が開けた。
震えは、それを見て止まった。
もうしばらく登った先に、大きな岩があるのが見えたのだ。
確か、あそこが目的地だ。
夢の続きが見えてくる。
あの岩は後ろに上手い具合に段差が出来ていて、そこから上に登れる。
思い出したぞ。

『さあ、残すはここだけだ! この岩に登れば楽園が見える!』

岩の上に登ったのは何故だったか。
確かどうでもいい理由だ。
飛べない私は、少しでも高い位置にいかなければならなかった。
ただ、それだけじゃなかったか?
でも何の為に……。

行こう。
あそこに魔理沙はいるのだろう。
だったら聞き出す方が早い。

私は山の上の岩に向かい走り出した。

 

 

 

 

■作者からのメッセージ

此処までお付き合いいただき、本当に有難うございました。
最後の(3)に続きます。
長いですが、どうかご容赦を。

ご指摘のありました、誤字を修正しました。
すみません、助かります。
有難うございました。

ビニールが合ってないとのご指摘を受けまして、袋に変更しました。
うぅ、何でビニールに入れてたんだろう……。
助かりました、有難うございました。



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2005年11月21日 はむすた

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