花の名前

 

 

 


*エーコの「薔薇の名前」ネタがあるので、未読or未見の方はご注意ください。




  ***


 近頃、紅魔館で流行っているもの。
 それは、花。
 と言っても華道やフラワーアレンジメントなどといった類のものではなく、ただ季節の、春の花をそのまま花瓶に活けて飾っているだけのことだ。
 ただ、その規模が半端じゃない。ホールに、通路に、各部屋に。館内のあらゆる場所に花瓶がめったやたらと置かれているのだ。ちょっと歩いている間に、二つや三つはすぐ目に入ってくる。
 山吹、石楠花、鈴蘭に馬酔木……庭園で育てられている種々の花が摘まれ、こうして活けられている。
 企画はメイド長の十六夜咲夜。なんでも、今年はどの花も大豊作だったからとのこと。花も豊作って表現するのかしらん、と小悪魔などは思うのだが、文字通り畑違いの分野なので黙っていることにした。
 実行したのは園芸担当のメイドたち、通称ガーデナー中隊。一夜にして館じゅうを花園に変え、その後も水を換えたり萎れた花を新しいものにしたりと、なかなか忙しくしている。
 そんなわけで、館の中は花だらけ。芳香性のものも多く、どこにいてもその香りが鼻腔をくすぐってくるくらいで、そういうのが苦手な者はげんなりしていたが、大方には好評を得ていた。
 そして小悪魔はと言えば、
「ああ、春だなあ」
 ちょっぴり浮かれ気味、その顔はずいぶんと幸せそうに緩んでいた。



 図書館にも花の香り。
 空間の広さに応じて、ここには何十もの花瓶が置かれていた。ここの花の世話に関しては、小悪魔も手伝っている。元からそういうのが好きで、小さい頃、将来なるとしたら司書かお花屋さんかお嫁さんのいずれかと決めていたくらいである。
 パチュリーは、
「ちょっとやりすぎな気もするけど」
 と言ったきり、特にこの状況への感想などは口にしていない。ただ時折、ふと思い出したかのように閲覧机に飾られた花へ眼をやったりするくらいだ。
 うっすら香る春の匂いの中で、小悪魔は楽しくて仕方ないといった風に書架の間を飛ぶ。春度に満ちた空気の中を泳ぐのはなんとも心地よく、おかげで仕事もはかどりそうな気がした。
 気のせいだった。
「きゃっ」
「ひゃっ」
 注意力散漫となっていた彼女は、書架の角を曲がった拍子、図書館を訪れていたメイドとぶつかってしまったのだ。
 不幸中の幸い、互いに低速だったため墜落するほどの衝撃はなく、それぞれ宙に踏みとどまった。
 小悪魔は急いで頭を下げた。
「ご、ごめんなさい」
「すみません」
 至近距離で、相手も同時に頭を下げていた。ごつん、といっそ清清しささえ覚えそうな音が響く。
 軽い目眩から立ち直ると、小悪魔は相手の状態を確かめようとした。相手と目が合った。
「あの、すみません。よそ見をしていて」
「いえ、こちらこそ」
 お互い照れ笑いを交わす。
 相手のメイドは、最近よく見る顔だった。ガーデナー中隊の一員で、小悪魔とよく似た色合いの赤毛の少女だった。担当の花瓶を見に来たのだろう。
「いつもご苦労様です」
「お互い様ですよ。では」
 一礼して赤毛のメイドは去っていった。後にはどこか甘い、花の香気が残される。
 これは何の花の匂いだったろう。小悪魔は楽しそうに考えながら、仕事に戻った。



 近頃、紅魔館で流行っているもの。花のほかに、もう一つ。
 それは、メイドの死。
 週が変わって最初の日、洗面所でメイドが一人、死体となって発見された。他殺である。背中を鋭い刃物で滅多突きにされていた。目撃者はなし。
 金に関するトラブルか、はたまた痴情のもつれか、あるいはもののはずみか。なんにしろ、紅魔館では人死になどさして珍しくもない。特に宴の時期に出ることが多いため、季節の風物詩扱いされている節すらある。通常ならば、さして話題にもならなかったろう。
 ところが、つい先週にも二人、他殺体となって発見されているのである。このペースはさすがに少々、異常だと言えた。
 ただでさえ慢性的な人手不足に悩まされている咲夜などは、かなり頭の痛そうな顔をしている。一応、事件の調査班を編成して自ら陣頭指揮を執っているのだが、通常業務の忙しさもあって成果はさっぱり上がっていない。
 一連の事件が、同一犯による連続殺人なのかどうかすら、まだはっきりとしていなかった。先週見つかった死体は、焼死に溺死と、死因に共通性がない。そして今回は刺殺体だ。ただ一点、他者の手が下されたということだけは、いずれの死にも通じていた。
 洗面所の周りに群がった野次馬に混ざって、小悪魔も遺体を目にした。知っている顔だった。厨房担当のメイドで、何度か図書館を訪れてもいる。数日前にも図書館で見かけたような記憶があった。
 死者の冥福を(悪魔のくせに)祈りながら、でも、と小悪魔は思うのだ。こんな暖かな花の香りの中で眠りにつけたのなら、まだ悪くない最期だったのではないかな、と。
 ここにも当然のように、花の芳香は満ちていたのだ。



 食堂にももちろん、花の香り。
 もっとも、ここでは料理の匂いの方が嗅覚を強く刺激してくる。ここはあくまでも自分たちのテリトリーであると、そう主張するかのように。
 特に空腹時となれば、訪れる者の鼻は料理の匂いしか嗅ぎ分けようとしない。古人曰く、花より団子。
 小悪魔も例外ではなく、昼食のため従業員食堂に入った彼女の視線は、あちこちに飾られた花の上を華麗にスルーして、「本日のランチ」サンプルが展示されているコーナーへと向かったのだった。
「やった、オムライス」
 サンプルを目にして、小悪魔は瞳を輝かせる。心の中で小躍りしながらカウンターでランチを注文。料理の乗ったトレイを手に、いそいそと長テーブルの端へ。
 そしてスプーンで料理を一口、お待ちかねの舌へと運ぶと、たちまち幸せ絶頂といった表情になった。
 ――嗚呼、オムライスの黄色い衣が包んでいるのは、幸福の魔法なのね。
 陶然とそんなことを考えていると、テーブルの向かいに人が座った。
「ここ、いいよね?」
 我に返って見てみれば、それは美鈴だった。
「あ、はい」
 返事をする小悪魔の鼻腔に、不意をついて強い花の香りが絡みついた。それは目の前にある料理の香味すら凌駕するものだった。
 ――オムライスの魔力すら破るとは、この馥郁たる香気はいったい!? 
 戦慄する小悪魔の表情に気付いて、美鈴は苦笑した。
「あ、やっぱり分かっちゃう? さっきそこで、香水をふりかけられちゃってね」
 美鈴は匂いを追い払おうとするかのように手を振ったが、却って花の香りは強まるばかりだった。
「ほら、あの子。ガーデナーの」
 彼女が指差した先には、なるほど、小悪魔も知っているガーデナー中隊のメイドがトレイを手に歩いていた。金色の髪をポニーテールにした、美鈴と並ぶくらいの上背がある娘だ。
 席を選んでいたらしいそのメイドは、美鈴に気付き、こちらへと近付いてきた。
「どうもー。美鈴さん、さっきの香水はどうでした?」
「うーん、香りはともかく、ちょっと量が過ぎたみたい」
 美鈴はほら、と小悪魔の顔を示した。そこでやっと小悪魔は、自分が眉をちょっとひそめていたことに気付き、赤面した。
「いや、そんな、別に嫌ってわけじゃないんですけど」
「ごめんなさいねー」
 メイドは舌を出しながら、美鈴の隣に座る。そしてポケットから小さな香水瓶を取り出した。
「お詫びと言っちゃなんだけど、あなたにもこれ、あげようか? サンプルなんだけど」
「彼女ね、自分が育てた花から抽出した香料油を元に、香水を作ってるの。ガーデナーの間で流行ってるんだって、香水作り」
 美鈴が補足する。
 言われてみれば確かに、ちょっと強烈過ぎはしたが、近頃よく嗅ぐ香りだった。ライラック。これはすぐに思い出せた。
「ね、どう?」
 差し出された香水瓶を、小悪魔は困惑しながら受け取った。断る理由が咄嗟に思いつかなかったのだ。
 それから三人で食事をして、別れた。香水のせいでオムライスの風味をあまり楽しめなかったのが、小悪魔には残念だった。



 数日後、また死人が出た。
 今度は弾幕を致死量まで浴びせられるという、ある意味珍しく、またある意味ストレートな殺され方をしていた。
 現場はあまり利用者のない二階端のトイレ。当然、そこにも花の香りは満ちている。他の場所よりも念入り、二割増くらいに。
 また野次馬に混ざって、小悪魔は死体を目にした。黒焦げの無惨な死に様だった。
 私もマスタースパークの十発も浴びれば、こうなってしまのかしら――そんなことを、彼女は思う。
 目が遺体を見ているそばで、鼻は辺りに漂う花香を嗅いでいる。これはカロライナジャスミン、こっちは桃……と、無意識に嗅ぎ分けている。最近、習慣となってしまっているのだった。
 これはフリージアで、こっちは……あれ、なんだっけ?
 慣れた作業だけに、こうしてたまに正体の思い出せない種の香りに出くわすと、どうにも落ち着かなくなる。人死にがあったことすら念頭の片隅に追いやって、彼女はしばらく、懸命に花の名前を思い出そうと頑張っていた。が、どうしてもその答えは出てこなかった。



 倒錯的な恋愛。
 これは最近に始まった話ではなく、ずっと昔から紅魔館内で流行っている。なにせ館の主から末端の従業員まで、完璧なる女所帯なのだ。女同士での恋愛に走る者の十人や二十人、あって当たり前なのである……多分。
 まあ、真剣な恋愛感情にまで至らずとも、憧れくらいのものならば、ほとんどの者が持っていた。だから、
「やっぱり咲夜さんって、瀟洒で素敵よね」
「私には美鈴さんの健康美がまぶしいわ」
「でもでも、最高なのはやっぱり、レミリアお嬢様の愛らしさよ」 なんて囁きが、そこかしこでしょっちゅう交わされているのだ。
 その日、小悪魔が食堂で昼食をとっていたときも、やっぱりそんな話をしているメイドのグループがあった。
 漏れ聞こえてくる声を耳に挟んで、小悪魔は、
「非生産的だなあ」 などと考える。
 まったく、同性への恋愛感情なんて、不毛でしかないではないか。いくら想いを募らせたところで、満たされる可能性など万に一つくらいしかないのに――
 などと、どこか達観した顔でいた彼女だったが、
「……で、パチュリー様のあれなんだけど……」 という言葉が聞こえてくるや否や、態度を豹変させた。
「パチュリー様の、なに!? なんの話!」
 思わずそう叫んで問いただしたくなるところを、ギリギリのところでどうにか踏みとどまった。
 そう、小悪魔はパチュリーのことを慕っている。あの無愛想でものぐさでビブリオマニアな魔女が、ぶっちゃけ大好きだった。
 ええ、そうよ。他人の噂話に醒めた顔してたけど、私だって一皮剥けば、情欲に身を焦がす一匹の雌に過ぎないのよ。あの方との爛れた関係を日々、夢想しているのよ。だって小悪魔なんですもの!
 ――とまで思ったかどうかはさておき、彼女はすぐそばで交わされているパチュリーの話題が気になってならなかった。囁きあっているグループの、なんとも秘密めいた雰囲気が、その感情に拍車を掛ける。しかしいくら耳を澄ませても、細かな単語がこぼれ聞こえてくるくらいで、話の流れはさっぱり掴めない。
 とうとう我慢ならず、彼女は奥の手を使うことにした。

 発動! デビルイヤーは地獄耳!

 そのシステムはここでは割愛するが、とにかく彼女の聴覚はとんでもないことになった。一〇〇メートル先で針が落ちた音はおろか、犬笛の音だって聞き取れるようになってしまったのだ。
 それを用いて、さっそくメイドたちの噂話に耳を傾ける。
「……でね、図書館の書架のどこかにあるらしいのよ。その、パチュリー様の秘密の日記が」
「うわ、嘘くさーい。なんで秘密の日記が書棚に置かれてるわけ?」
「他の本に紛れて、置き忘れてしまったんじゃない? パチュリー様、割とそういう杜撰なところあるから。そこがまたいいんだけどねー」
「いやほんと、これがかなり信憑性のある話なんだって。実際に見たって人もいるんだし」
「でも、あの広い図書館から、本を一冊見つけるなんて……ねえ? ちゃんと配列された本ならともかく、イレギュラーに混ざってるのよ? どう考えても無理でしょ」
「あら、私はやるわよ。なんたってパチュリー様の秘密に触れられるチャンスなんだもの!」
 興奮したのか、一人の声がいきなり高くなる。仲間たちにたしなめられて、そのメイドは慌てて口を押さえ、でもその顔は興奮に紅潮したままだ。
 そして、小悪魔もまた、興奮していた。



 図書館の蔵書は数十万冊、一説には百万の桁に届くとも言われている。
 ある程度は分類され、目録も七割くらい作成されているのだが、それでも目的の本を探すのは骨が折れる。
 まして、埒外の本など。霧散した鬼を見つけるようなものだ。
 しかし、小悪魔は挑んだ。挑まずにはいられなかった。やりもせずに諦めるなんて、彼女の胸の高鳴りが許すはずもなかった。
 通常業務の合間、彼女は休憩の時間も惜しんで、目的の本を探した。花の香漂う広大な空間を飛び回った。
 そんな中、ふと考える。そう言えば最近、ガーデナーでもないのに図書館を足繁く訪れる人が増えたなあと思っていたのだが、そういうことだったのだ。つまり、あの噂を耳にして、パチュリーの日記を探しに来ていたというわけなのである。
 果たして、そのうちの何人が望みを達せられたのだろうか。何人が諦めて去っていったのだろうか。
 小悪魔は、どれだけの労力を要しようと、成し遂げる覚悟だった。
「このところ忙しそうね。ま、あまり頑張り過ぎないようになさい」
 探索中に一度、パチュリーからそんな声を掛けられたことがあり、そのときはさすがに罪悪感で胸が痛んだ。でも、それでも彼女はやめなかった。「パチュリーの秘密」という言葉は、かの魔女を心底から慕う者にとって、それほどの魅力を秘めていたのだ。
 そして探索開始から四日後、小悪魔はとうとう、禁断の果実を発見した。
 Lブロックの一角、他の図書の間に何食わぬ顔で、それは収まっていた。小悪魔は震える手でそっと抜き出して、表紙のタイトルを確認する。
 『ひ・み・つ(はぁと)ダイアリー』
 平常ならば思わず頭を抱えてしまうタイトルのセンスだったが、いまの小悪魔にとってはそれすらも、達成感を増幅させる要素に過ぎなかった。ああん、パチュリー様ったらお茶目さんなんだから――てな具合である。
 おずおずと本を胸の前まで寄せようとしたところで、逆に引っ張り返されるような感覚が手に生じた。よく見ると、本は銀色の鎖で書架と結び付けられていた。鎖つき図書。遠い昔、本が今よりも遥かに貴重だった頃、盗難防止として用いられていた手段だ。
 小悪魔は驚きつつ、納得するところもあった。自分より先に発見した人がいたとして、当然その人はこの日記を持ち帰りたいと望んだだろう。それを果たせなかった理由が、この鎖だったのだ。
 でも、誰がこんなものを。パチュリー様本人のわけはないし――
 小悪魔の胸に当然の疑問が湧くが、今はそれよりも好奇心が上回っている。彼女は深呼吸で胸の鼓動を落ち着けようと無駄な努力をしながら、いよいよ表紙をめくろうとした。
 めくろうとして、その指は震え、動かなくなった。
 敬愛するパチュリーの秘密が、目の前、表紙のわずか数ミリ向こうに眠っている。ほんの少し手を動かすだけで、それに触れることができる。長い苦労の果てに、ここまで辿り着いたのだ。
 なのに、最後の一歩が踏み出せない。
 表紙に手を掛けたまま、彼女は動かない。しばらくして、その唇がわずかに開いた。
「……やっぱり、だめ」
 そう、はじめから分かっていたのだ。これは、やってはいけないことなのだと。
 秘密を暴き、その心に土足で踏み入るような真似なんて、相手を想っているのならなおさら赦されないことだ。
 結局、小悪魔が日記を開くことはなかった。
 彼女は日記をパチュリーに届けようかとも考えたが、鎖にはなんらかの魔力が働いているのか、どうやっても断ち切ることができない。やむなく書棚に戻し、一旦、その場を離れることにした。
 パチュリーがいるはずの閲覧室へと、小悪魔は飛ぶ。



 小悪魔はパチュリーに全てを打ち明けた。
「そう……よく話してくれたわね」
 パチュリーは怒らず、むしろ優しい口調だった。
 小悪魔はパチュリーを連れて、例の日記の場所まで取って返す。
 自分の日記帳が公然と並べられているのを目にして、パチュリーはうろたえるでも恥ずかしがるでもなく、いつもどおり淡々としたものだった。
「ええ、これは確かに私のね。ずいぶん前にどこかへ行ったと思っていたら、こんなところに隠れていたなんて」
「すみません、これまで気付かなかったばかりか、他の人の目に触れさせてしまうなんて……それに、私も――」
「ああ、それは別に構わないのよ」
 パチュリーは日記を引っ張り出す。当然、鎖が持ち去ろうとするのを阻んできたのだが、彼女は慌てることなく懐からスペルカードを取り出し、掲げた。
「エレメンタルハーベスター」
 パチュリーの傍らに忽然と、鈍色の巨大な歯車が出現する。歯車は高速で回転しながら、その鋭い牙で鎖に噛み付いた。獣の絶叫を思わせる不快な音と共に、魔力を帯びた火花が飛び散り、そのまばゆさに小悪魔は思わず目を閉じる。
 その直後、がきん、と硬質の音が鳴った。目を開けると、強固な鎖は噛みちぎられて、日記が自由の身となっていた。
「これは日記なんて謳っているけど、実のところは魔法の実験記録でしかないのよ。それも、今となっては時代遅れの、とても古いもの。だから失っても大して困らなかったし、人に見られたところでどうってことはない」
 パチュリーは自らの言葉を証明するかのように、日記を小悪魔に向けて、無造作に開いた。
 本の中から、花の香りがふわりと溢れ出し、小悪魔の鼻をくすぐった。
 持ち主の手で、ぱらぱらとページがめくられていく。確かにそこに記されていたのは、散文的な実験の記録ばかりだった。それでもパチュリーの直筆に間違いはなく、彼女のファンにとっては涎垂ものの一品と言えた。
 ところが、このときの小悪魔は、本の内容とは別のものに気を取られていた。それは、ページがめくられるたびに流れてくる、日記に染み込んでいたらしき花の香気だった。
 この花は、確か――
 鼻が自動的に、その種を嗅ぎ分けようとする。これはあれだ、ここのところ何度も嗅いでいるのに、なぜか正体を思い出せなかった、あの花。それと同じ香り。
 やはり咄嗟には思い出せない。だが、本の中から溢れつづける芳香の奔流は、嗅覚を伝って小悪魔の脳を強烈に刺激していた。ついに彼女の頭の中で閃くものがあったのだ。
 そうだ、分かった。これはアレだ――
「……あれ?」
 とうとう答えを得られたというのに、なぜか小悪魔は首をかしげる。そんな彼女の様子に、日記を最後までめくり終えたパチュリーも、訝しげに眉を寄せた。
「どうしたの?」
「あ、いえ……どうも、大事な日記を見せていただいて、ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちよ。ありがとう」
「いえ、はい……それじゃ、失礼しますね」
 持ち主の手に戻った日記を最後に一瞥して、小悪魔はその場を離れた。
 そしてしばし、春気漂う薄闇の中を歩く。歩きながら思案する。
 ふと、彼女は何かに思い当たったかのように足を止め、スカートのポケットに手を入れた。そこから取り出したのは、先日食堂でもらった香水の小瓶。
 頭の中、パズルのピースがぱちりとはまる感覚があった。
「分かった……謎はすべて解けたわ!」
 低く抑えた声で、彼女は吼えた。







 あくる日。
 図書館にはいつもどおり、利用者と、この方面担当のガーデナーたちが訪れていた。
 ガーデナーたちは分かれて、それぞれの受け持つ花瓶を目指し、広い空間のあちこちへと散っていく。十人がかりでも、ここの広大さが相手では、ちょっと手間だ。
 そんな忙しいはずの仕事の合間、持ち場から逸れようとしているガーデナーが一人いた。彼女は人目を忍ぶかのように慎重な動きで、Lブロックの一角へと近付いていく。
 目的の場所が近付いてきたのか、彼女はエプロンのポケットに手を入れ、なにやら取り出した。アドマイザ――香水噴霧器だった。
 そして、とある書棚の前で停止し……彼女は愕然と凍りついた。
 彼女の目の前には、強引に断ち切られた鎖の破片があった。


「そこまでです」
 突然の声に彼女は、はっと頭上を仰ぐ。書架の上から見下ろす影があった。
 ゆっくりと同じ高さまで降りてきたその影は、小悪魔のものだった。
「あなただったんですね」
 たじろぐガーデナーに向かって、小悪魔は静かに告げる。
「先週からの連続殺人の犯人、それがあなた。もう、すべては明らかになったんです」
「な、なに……違う……」
 ガーデナーの少女は怯えた顔で、小さくかぶりを振る。小悪魔とよく似た色合いの赤い髪が揺れた。
 彼女は、先日この図書館で小悪魔と衝突し、さらに頭をぶつけあった、あの少女だった。



 小悪魔と赤毛のメイド少女は向かい合う。
 小悪魔は相手が持つアドマイザに眼をやった。ぽつり、つぶやく。
「金木犀」
 びくりと、メイドははっきり見て取れるくらいに肩を震わせた。
 その反応に小悪魔はうなずいた。
「それにさえ気付けば、あとは簡単なことでした。どうして春の花の香りの中に、秋の金木犀が混ざっているのか。それは人為的に――誰かが何らかの目的で混ぜたから。そしてその源に選ばれたのが、パチュリー様の日記だったのです」
 最後の一語に、うろたえていた赤毛のメイドは一瞬、表情を引き締めた。構わず、小悪魔は続ける。
「私が金木犀の香りを嗅いだのは、最後に見つかった死体と、その前の死体からでした。それ以前に殺された人たちはこの目で見ていないのですが、きっと彼女たちからも同じ香りがしたはずです。そして……私は最初に、あなたからも同じ匂いを感じました。当然ですよね。あなたが金木犀担当のガーデナーだったのですから。他のガーデナーの方に訊いたら、快く教えてくださいました。担当のことだけでなく、あなたが毎年のように金木犀の香水を作っていたことまで」
 メイドは身を固くする。手の中のアドマイザに眼を落とし、そして不意に何かを思いついた顔になって――
 次の瞬間、彼女の手からアドマイザは消失していた。メイドは目を丸くする。
「証拠隠滅なんてさせないわよ」
 背後からの声に、メイドはぎこちなく振り返る。そこにはアドマイザを手にした咲夜が書棚にもたれかかっていた。
 メイドは呆然となり、ついで悲痛な顔になって叫ぶ。
「ま、待って! これは何? 私が連続殺人犯って、そんなわけないじゃないですか。どうして私が……」
「動機は、パチュリー様への想いです」
 小悪魔の鋭い声が、彼女を遮った。
「順を追って話していきましょう。もし違うところがあったら教えてください。……まず始まりは、あなたがガーデナーとしての仕事中に偶然、パチュリー様の日記を見つけてしまったことでした。
「あなたはパチュリー様を慕っていた。当然、日記を我が物にしようとして、しかし思いとどまった。きっと、こう考えたのでしょう。『ここで日記を一冊手に入れたところで、パチュリー様そのものを独占できるわけではない』――あなたは、よほど深く、パチュリー様を想っていたのですね。その方向性はともかくとして」
 小悪魔は言葉を切り、相手の反応を見ようとしたが、メイドは目を伏せて感情を隠していた。
「……あなたはせっかく見つけた日記を、もっと有効に使えないかと考えた。そこで、ある計画を思いついたのです。同じくパチュリー様を慕うライバルたち、そんな彼女らをリタイアさせる、辛辣な計画を」
 その計画とは、こうだ――まず、同僚たちの間にそれとなく、秘密の日記の存在をほのめかした噂を流す。実際に発見者がいたなどと、信憑性を高めながら。
 一方、日記には魔法の鎖で盗難防止措置を施し、さらに中へ金木犀の香りをたっぷりと染み込ませる。
 やがて、噂を信じて探索した者が、日記を見つけ出す。日記を広げると、その人物に金木犀の香りが移る。
 金木犀の移り香を持つ者がいたら、それを密かに殺害する。そうすることで強力なライバルが一人、減ることとなる……
 パチュリーのファンを振るいに掛けるのが目的の計画だったのだ。最後まで諦めることなく日記を見つけ出すような人物は、それだけの強い慕情をパチュリーに抱いていることとなる。手強いライバルだ、抹殺するに限る。逆に最初から諦めたり、途中で挫けてしまったりするような者なら、その程度の想いなど、はなから相手にするまでもない。
 そして最後には、強くパチュリーを想うのは、自分ひとりだけとなる。
「……歪みきってるわね」
 小悪魔が口を閉ざすと、咲夜が冷ややかに言った。
 メイドは押し黙っている。静寂の中、再び小悪魔は声を響かせた。
「面白い計画でしたが……それで本当に、心からパチュリー様を想う人全てを選別できると考えたのなら、大間違いです。人が人を想う形は様々で、中にはきっと、あなたの思いもよらない形の愛情を持つ人だって、いるでしょうから」
 そして、強い語調で言い放った。
「あなたの行動は、パチュリー様への愛を言い訳にした、単なる人殺しに過ぎません。あなたのような慕い方では、想われた方も重荷に感じるだけです」
「黙れ!」
 返ってきたのは想像外の反発だった。
 メイドは悪鬼の表情となって、小悪魔へ飛びかかろうとした。すんでのところで咲夜が後ろから羽交い絞めにする。
 動きを封じられて、赤毛のメイドはなおも喚いた。
「お前に、お前なんかに何が分かる? パチュリー様の最も近くにいつもいられるお前に! お前を、やっぱりお前を最初に殺しておくべきだった……!」
 咲夜が呼んだメイドたちによって縛り上げられ、連行されていくまで、彼女はずっと喚きたてていた。
 彼女が図書館の外へと消え、辺りに静寂が戻っても、なおもしばらく小悪魔は顔をわずかに蒼褪めさせたままでいた。
「大丈夫?」
 連行を部下たちに任せて、咲夜はそこに残っていた。気遣わしげに小悪魔の顔を覗き込む。
「……ええ、大丈夫です。ちょっと、びっくりしただけで」
「そう。それにしても、またあなたの推理に助けられたわね」
「いえ、たまたまですよ」
「ふふ……そのたまたまが何度続いたのかしら? また何かあったらお願いね、名探偵さん」
 ウインクを残し、咲夜も去っていった。



 一人、ぽつねんと取り残され、小悪魔は奇妙に悲しい心持ちになった。一つの事件が解決したというのに、胸にはもやもやしたものが残っている。
 それはきっと――もしかすると自分も何かの拍子で、あの赤毛のメイドみたいな行動に走ってしまうかもしれない――そんな恐れがあったから。
 なんだか胸が詰まって、涙がにじんできた。
 空気が悪いのかな、と小悪魔はおぼろげに考える。久々に外へ、紅魔館の外へ出よう。
 花の香りのないところへ、無性に行きたくなったのだ。


  ***


「――この事件は、紅魔館というある種、特異な場であるからこそ、起きたものなのかもしれない。『紅い嘆きか……』薄暮の迫る空を見上げ、小悪魔はなんとなくつぶやいたのだった……まる、と」
 羊皮紙の上にペンを置くと、小悪魔は疲れた顔でひとつ息を吐き、
「できたーっ」
 打って変わって晴れ晴れとした顔になり、大きく伸びをした。
 図書館内に設けられている個室に、小悪魔は一人でいた。目の前のテーブルには本が一冊広げられていて、そのページからはいま染み込んだばかりのインクの匂いが強く立ち昇っている。
 小悪魔は自らの手で記したばかりのページをしばし、にやけ顔で見つめていた。
 と、静かな部屋に不意をついてノックの音が響き渡る。
「は、はいっ!?」
 小悪魔は慌てて本を閉じた。それとほぼ同時、ドアが開いて、パチュリーが顔を見せていた。
「まだ起きていたの? 精が出るわね」
「え、あ、も、もう寝るところですよ?」
「そう。じゃあ、おやすみ」
 パチュリーが去ると、小悪魔はまた大きく溜め息をついた。確かに、もうかなり遅い時間だ。そろそろ休まないと明日の仕事に響く。
 これが最後とばかり、咄嗟にパチュリーから隠した本をもう一度出し、その表紙をじっと見つめる。そしてひどく嬉しそうに、つぶやいた。
「やっと、できた」
 本の表紙にあるタイトルは、『名探偵小悪魔の事件簿
 シリーズ6・花の名前』。
「さて、次はパチュリー様主役の新作にかからなくっちゃ」
 明かりを消すと、彼女は本を大事そうに抱えて個室を出て行った。闇と静寂と、そしてどこから流れてきたのか甘い花の微香だけが、後に残っている。



 正体不明の作家、ペンネーム「くりとるりとる」が著す『名探偵小悪魔の事件簿』、『安楽椅子探偵パチュリー』の両シリーズは、小悪魔を介する地下ルートでのみ貸し出しが行われており、ひっそりとしたブームを呼んでいるという。
 そんなこんなで、紅魔館は今日も平和でしたとさ。

 

 

 

 



SS
Index

2005年10月2日 日間

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