鉤の山の雛鳥の

 

 

 


 
 融けはじめた雪にちょっぴり水かさを増して、川はとうとうと、賑やかな速さで流れています。川面には雲の間から久々に覗いた真っ青な空と、お日様とが映っています。山の中のこの村にも、もうじき春が訪れようとしています。
 水の上、それと私の足元に薄っぺらく残っている雪の上にも、お日様の暖かな光がきらきらと跳ねて、とてもまぶしいです。じっと見てたら目がしょぼしょぼしてきたので川上の方へ視線を逃がしますと、そちらに架かっている橋を村の若い男の人たちが渡っていくところでした。嫁入りの道具を嫁ぎ先へと運ぶ、荷送りの人たちです。  明日、いよいよ隣の家のお姉ちゃんがお嫁に行きます。
 お姉ちゃんは、五人姉弟の一番お姉さんです。いつも弟たちの面倒を見ていて、「ついでだから」と私の遊び相手にまでなってくれる優しい人です。優しくて働き者で、おまけに村でも指折りの別嬪らしいです。うちのお父ちゃんがお酒を飲むと決まってそう言います。
 お世話になるばかりでは申し訳ないので、私はお姉ちゃんのお手伝いをさせてもらっています。するとお姉ちゃんは、
「そんなこと気にしなくてもいいのに。雀ちゃんはいい子だね」
 そう言って、私の頭に手を乗せてくれます。とても温かな掌です。私はその掌が、お姉ちゃんのことが大好きです。お父ちゃんもお母ちゃんも、村のみんなのことも大好きですが、お姉ちゃんのことが一等好きです。

 私はしばらく川縁の雪を踏んだまま、荷送りのみんなを見送っていました。あの人たちが運ぶ荷の中には、村のみんながお姉ちゃんに贈ったお祝いの品なんかも含まれています。嫁ぎ先でも元気に幸せに暮らせるように、結婚が決まった去年の春から、みんなで蓄えたものなのです。去年は餅米の作付けも増やしていて、今頃はそれで赤飯の用意も進められているのでしょう。ちょっとお腹が空いてきました。
 私も大好きなお姉ちゃんのために、何か贈りたいなあ――結婚することを聞かされてから何度となく考えてきたことを、今また心に浮かべます。でも、私の手には、花嫁さんの門出を祝うのにふさわしいものなんて何もないのです。もう少し時期が遅いなら、お花でちょっとした飾りくらいは作れるのですが。花も咲くような頃は、村は田んぼや畑に忙しくなって、とても結婚式どころじゃなくなっちゃいますから。
 気がつけば荷送りの人たちの姿はとっくに川向こうに消えてしまっていました。私は川面に目を戻して、揺れるお日様の光をまともに見てしまい、くしゃみしました。
 するとその拍子に思い出したのです。
 去年の、そのさらに去年の春、この川岸で私のおばあちゃんが教えてくれた、小さな内緒話のことを。
「もう、若いもんで知っとるもんはおらんじゃろうけどなあ。そんでもばあちゃんが話したん、みんなには言うたらあかんよぉ」
 そんな秘密をどうして私に教えてくれたのかは分かりませんが、その冬、おばあちゃんは死んでしまって、秘密は私の胸の中にだけ残りました。今では私だけの秘密です。他の人には内緒の、私だけのそれは、ちょっぴり宝物のようでもあります。
 この宝物を、お姉ちゃんにも分けてあげたらどうでしょう?
 とても良い考えに思えました。思いついたからには、ここでぐずぐずしてはいられません。なにせ式はもう明日なのですから。私はもうひとつくしゃみすると、雪を蹴ってお家へと走り出しました。


 次の日、お日様が顔を覗かせるより先に私は起きました。こっそり自分の家を抜け出して、お隣さんに忍び込みます。
 お隣さんちの入り口の戸は少し開いていて、簡単に入ることができました。中はお酒の匂いでいっぱいです。昨夜は、荷送りを済ませて帰ってきた若い人たちに、労いのお酒と肴が振る舞われたらしいです。どさくさで混ざってきたうちのお父ちゃんが言っていました。
 鼻がしびれてしまいそうな匂いに頭をくらくらさせながら中に上がると、火の消えた囲炉裏の周りに男の人が十人ほどもごろごろと横たわっていて、大きな鼾をかいています。その中にはお姉ちゃんちのおじちゃんもいて、ぽかんと開いた口からよだれと何やら寝言のようなものをこぼしていました。ぐすぐすと、なんだか泣いているようでもあります。
 体の脇でぐちゃぐちゃになっていた毛布を掛け直してあげていると、お勝手の方からかすかな音が聞こえてきました。そっと覗いてみると、薄暗い中にお姉ちゃんがひとりでたたずんでいました。
「え、あら、雀ちゃん?」
 私の名前をもじって、お姉ちゃんはいつもそう呼んでくれます。私の見かけと声が可愛い小鳥のようだから、だそうです。照れます。
 お姉ちゃんは目元を軽くこすりながら、私に笑いかけてきました。
「あっち、ひどいことになってたでしょ? お母ちゃんと弟たちは、だからおトミさんのところに、昨夜は泊めてもらったの」
 なるほど。おトミさんというのはお姉ちゃんちの親戚さんなのです。
だけどお姉ちゃんはこんなところでどうしていたのでしょう。こんなに朝早いのに、もう起きていたのは、やっぱり結婚の日ということで緊張していたのでしょうか。
「雀ちゃんこそ、こんな早くにうちへ来たりして、どうしたの」
 そうでした、私は大切な用があってお姉ちゃんのところへ来たのでした。私はお姉ちゃんに、一緒に外へ来てほしいとお願いしました。
「うん、いいよ」
 理由も聞かずに、お姉ちゃんはうなずいてくれました。男の人たちが眠っている方へちらっと目をやって、
「どうせお昼まではこのままだろうしね」
 お昼にはお婿さん、つまりお姉ちゃんの結婚相手の人がこの家へ挨拶に訪ねてくるのだそうです。お婿さんが帰ったら別れの宴が開かれて、そしてお姉ちゃんはお嫁さんに行くのです。
 私の用事は、もちろんそんなお昼までかかるようなものではありません。お姉ちゃんと手をつないで、私は外に出ました。
 空はまだ暗いままです。遠くの山の際がぼんやりと白んではいますが、雲が低くかかって、お日様の姿を隠しているようでした。
 うっすらと靄のかかった村の中を、私はお姉ちゃんの手を引いて横切っていきます。雪に白く埋まった畑を横目に、あぜ道を途中ではずれ、林の中に入ります。裸で寒そうな木々の間を抜けていくと、じきに水の流れる音が聞こえてきます。昨日私が訪れていた、あの川岸へと、私達は出ました。
 昨日、私が雪に刻んだ足の跡が、まだおぼろに残っています。そこへ私はまた足の裏を重ねました。
「雀ちゃんは、ここ、好きだよね。あの橋を渡る時、よくここに立っているのを見たよ」
 上流に架かる橋の方を見て、お姉ちゃんはつぶやきました。もう半日後にもお姉ちゃんはあの橋を渡って、向こうへと行ってしまうのです。そして、滅多にこちらへは帰ってこなくなるのです。……その微笑をたたえた横顔は、どこか寂しげにも見えました。
 優しい眼差しが、こちらを向きます。
「それで、ここで何をするの?」
 問いかけに、私は自分の懐へと手を入れます。そこから取り出して見せたのは、二枚の麻の葉です。
「雛草」とも昔は呼んでいた、おばあちゃんはそう言っていました。

 それは、今ではすっかり廃れてしまった風習でした。
 流し雛。雛草を折って人形を作り、それに人間の穢れを移して川に流し、遠く海へと運ばせる、そんな厄払いの行事です。穢れとは、人間の内に溜まった悪いもので、そのままにしておくと体の調子が崩れたり、不幸になりやすかったりするそうです。大変です。
 この行事はずっとずっと昔からこの村に伝わっていたらしいのですが、おばあちゃんが子供の頃、流し雛の最中に足を滑らせて川へ落ちてしまい、亡くなってしまった人がいるそうなのです。厄払いの儀式の中で不幸が発生したという皮肉は、村のみんなのこの行事に対する気持ちを引っくり返してしまいました。みんな、忌まわしいものだと感じるようになってしまったのです。悲しいことです。それで次の年から流し雛は行われなくなって、今ではすっかり忘れ去られてしまったのです。
 私はこの話の悲しい部分を伏せて、お姉ちゃんに秘密を教えてあげました。お姉ちゃんの幸せを祈るおまじないだと、そう伝えたのです。
 そしておばあちゃんに教わったのを思い出して、雛草を折り、人形を作ります。ふたつ、せっかくなのでお姉ちゃんの分だけじゃなくて、私の分も作っちゃいました。ほら、人形だって、ふたりの方が寂しくないでしょう、きっと。
「わあ、雀ちゃん、上手だね」
 私の手の動きを、お姉ちゃんは褒めてくれました。照れます。照れくさかったので、急いで人形をお姉ちゃんの体に押し付け、撫でるようにしました。こうやって、人間の穢れを人形に移すのです。
 お姉ちゃんはくすぐったそうに身をよじって笑いました。
「雀ちゃんには、私がやったげるね」
 もうひとつの人形を手に取って、今度はお姉ちゃんが私を撫でます。く、にゃ、くすぐったい。
 そうして見事に穢れを引き受けた人形を、私達は枯れ草を編んだ舟に乗せ、川に浮かべました。川の水かさは昨日と同じくらいで、流れもやっぱり急ぎ足です。水はあっという間にふたつの舟をさらっていってしまいました。
 見る見る小さくなっていく人形達を、私とお姉ちゃんは見送りました。そうしながら、私は自分が折った人形の姿を思い出します。うん、あれは初めてにしては上々の出来だったと自負できます。こうして滞りなく流すこともできたし、これでお姉ちゃんと、ついでに私の無病息災も間違いなしなのです。
「ありがとうね。とても嬉しい餞別だったよ」
 ぽん、と私の頭に温かな掌が乗せられました。くすぐったさが嬉しくって、ちょっぴり寂しくって、私はまぶたを閉じました。


 私達の村がある山は、てっぺんの方がちょっといびつな鉤状に曲がっていて、その曲がり具合を笑うかのように、お日様は空を渡っていきます。昨日の晴れ具合は去り行く冬の気まぐれだったのでしょうか、今日の空は暗い雲に覆われていて、お日様の浮かんでいる辺りが薄ぼんやりとわずかに白んでいるばかりです。
 お昼過ぎ、私は川縁を歩いています。
 今度はひとりです。お姉ちゃんとは流し雛の後、一緒にご飯を食べて、それから別れました。
 さっき、お姉ちゃんの結婚相手の人が挨拶を終えて、橋を渡って帰るのを見かけました。優しそうな人でした。お姉ちゃんと一緒に幸せになってほしいです。
 今頃、お姉ちゃんは家族や親しい人たちとお別れの宴をしていることでしょう。お姉ちゃんは私にも声をかけてくれましたが、お酒の場に子供が混ざるものではないのです。興醒めさせてしまうのです。お父ちゃんが言っていました。
 だから、あの橋を渡るときに見送ろうと思っています。
 私は水の流れを追いかけるように川辺をぶらぶらと歩いて、時間が過ぎるのを待ちます。川の流れを見ていると心が落ち着いて、私はこの行為が好きなのですが、今日はちょっと気がかりがあります。川に映る空の色が、どんどん重苦しくなっていることです。
 空を見上げると、西の方からほとんど黒に近い色の雲が近づいてくるのが目に入りました。お姉ちゃんが家を発つ時にちょうど雨となってしまうのではないでしょうか、心配です。
 気が付けば、ずいぶんと下流の方まで来ていました。振り返れば、くねくね蛇さんみたいに曲がっている川のずっと向こう、あの橋がずっと遠くにぼけっと、薄暗い風景に溶け込んでしまう寸前です。
 引き返そうとしたとき、それが目の端に映りました。川の縁に近いところ、水からいくつか小さな石が頭を覗かせているのですが、そのひとつに何やら緑色のものがしがみついているのです。
 じっと目を凝らすまでもなく、私にはそれが何かすぐ分かりました。だって、私がこの手で折ったものなのですから。雛草を折って作った人の形、雛。それを乗せた舟が、石に引っかかっているのです。水は深く、流れもなかなか速いのに、よほど絶妙の角度で張り付いているのでしょう、人形を乗せた舟は小刻みに揺れるばかりで、石から離れようとはしません。
 うっかり水に落ちてしまわないよう、近づいてみます。折り具合の違いで分かりました、それはお姉ちゃんの穢れを移したはずの人形です。
 私のならともかく、これはいけません。私は手を伸ばして、舟を突っつきました。するとあっさり石から離れ、また流れにさらわれていきます。ほっとして、私は再びそれを見送りました。
 だって、おばあちゃんが教えてくれた話の中には、こうもあったのです。流れの途中で引っかかったりして海に届かなかった人形は、妖怪となって戻ってきてしまうんだって。
 そんなことになったりしたら大変です、お姉ちゃんを幸せにするためのはずが、逆に不幸にしてしまいかねないのです。どうか、今度は無事に海へ辿り着けますように。私はお祈りして、上流へと引き返そうとしました。

 足を戻してすぐです。ほっぺが濡れたかなと思うと、たちまち辺りは空から落ちてきた滴で溢れかえったみたいになりました。とうとう雨が降り出したのです。
 たらいを一度に引っくり返したみたいな強い雨です。冷たい雨粒で周りの景色は白くかすみ、ざーっと耳に鳴り響くその音は川の唸りを簡単に掻き消してしまいました。
 私は慌てて足を速めました。川から離れて林へと駆け込みましたが、生憎と木々が空へと伸ばしている枝はどれも丸裸で、傘とはなってくれません。どのみち、私はとっくに濡れ鼠となっていました。着ている服が水を吸って重たいです。地面もびちゃびちゃ、おかげで足も重いです。煙るような雨に木々の影がぼんやりとしか見えない林の中を、私はおぼつかない足取りで急ぎます。
 ふと、誰かに見られているような、そんな気がしました。
 私のほかにも、こんな下流の方まで来ていた人がいたのでしょうか。その人もこのひどい雨の中にいるのでしょうか。気にかかって振り向いてみると、人影がひとつ、思いがけない近さに立っていました。
 私より少しばかり年上、でもお姉ちゃんよりは小さい、そんな女の人みたいでした。白く暗い雨の中、その影は赤と緑に滲んでいました――赤い服に、見たこともない緑色の長い髪をしているのです。
 腰の前で両手を結んで、その人はじっとこちらを見ているようです。濁流にも似た雨の幕の中、髪と同じ不思議な色合いの瞳が、ちらりと見えた気がしました。
 声をかけようとして、でも私の喉からは何の音も出ませんでした。喉がからからに渇いています。この突然現れた得体の知れない人を、怖いと、私はそう感じているのでした。触れてしまったら、何か取り返しの付かないことが起こりそうな、そんな感覚。他の人に対してそんなことを感じたのは初めてなので、私は同時に戸惑いもしました。
 そして、不意に察したのです。この人は人間ではない、と。そうです、きっとそうに違いありません。
 では、人間でないとしたら何なのでしょう……そんなの決まっています、妖怪さんなのです。
 海に至ることの叶わなかった、穢れを抱いた人形の成れの果て――おばあちゃんの話と、さっき石に引っかかっていた舟の姿とが、私の頭の中で重なりました。こうして妖怪が現れたということは、あの舟を流れに戻すのが遅すぎたのでしょうか。ちょっと時間に厳しすぎる妖怪さんだと思います。
 妖怪さんは、じっとこちらを見つめたままでいます。私のことを値踏みしているのでしょうか。だって、妖怪は人を食べると言いますから。
 濡れて冷えた体が、勝手に震えています。見つめ合う緊張感が耐えがたく、私は一歩後ずさりしました。
 すると、妖怪さんも同じだけ、こちらに寄ってくるのです。私は思わず大きく口を開けて喘ぎました。こぼれた息が真っ白になって、雨の中に溶けていきます。
 振り返って一目散に逃げ出したい、そんな気持ちでいっぱいでした。でも、と同時に考えるのです。この妖怪さんは、たぶんお姉ちゃんの穢れを抱かせた人形から生まれた妖怪さんです。ということは、その穢れはお姉ちゃんのもとへ還ろうとしているのではないでしょうか。それはつまり、妖怪がお姉ちゃんを襲うということです。
 そんなこと、させるわけにはいきません。
 お姉ちゃんは、今日、結婚するのです。幸せになるのです。それを引っくり返そうだなんて、人間に不幸をもたらそうなんて、赦せるわけがありません。絶対、この妖怪を村へ行かせるわけにはいきません。
 私は口を引き締め、震える体を叱りつけるようにして、今しがた後ろに引いた一歩を、今度は前へと踏み出しました。一歩、妖怪さんの影に迫ります。怖いです。
 ところが、私が踏み出すのと同時に、妖怪さんは退いたではありませんか。おかげで、私達の間の距離は、そのままなのでした。
 私の一歩が、妖怪さんを退けたのでしょうか。
 とても信じられませんが、そうとしか思えません。試しにもう一歩、勇気を出して、また足を進めます。すると、やっぱり妖怪さんも一歩分、遠のこうとします。
 急に足が軽くなりました。口の中に湧き出てきた唾を乾いた喉へと流し込んで、妖怪さんを睨みつけます。なぜだか分かりませんが、私が進めば、向こうは引くようです。これは願ってもない話です。妖怪さんを村へ、お姉ちゃんへ近づけずに済むかもしれません。
 一歩。また一歩。
 私は足を前へと運び、そうすると妖怪さんは期待通り、下がっていきます。どんどん、どんどんと。私はいつしか寒さも怖さもすっかり忘れ、妖怪さんを追い返すことに夢中になっていました。このままどんどん、どんどん進んでいって、海まで追い落としてしまうのです!

 いつの間に林を抜けていたのでしょうか。
 気が付いたのは、最後の一歩の瞬間でした。その一歩は、しっかりした地面に受けとめられることなく、冷たい水の表面を突き破っていました。勇ましく踏み出した私の足が、勇ましいしぶきを跳ね上げます。
 岸を越えて、私は川へと足を突っ込んでいたのです。
 もはや引っ込みなんてつきません。ぐるんと、勢いあまった体が前のめりに回ります。あっ、と声を上げる暇もなく土色に濁った川が目の前に迫り、私はそのまま水中に顔を突っ込んでいました。雨でさらに早足となった流れが私の体を横向きに突き飛ばしてきます。急いで起き上がろうとしても、足が川底に着きません。ぐるんぐるんと、体が回り、目が回ります。
 氷みたいに冷たい水が口と鼻に入ってきて、喉に流れ込んでいきます。咳き込むこともできず、お腹に冷たいものが溜まっていくのを感じるばかりでした。水は耳の穴にも入ってきて、ごうごうとなにか大きな獣の吼え声のような音で唸りたてます。怖くて気持ち悪くて、痛いです。
 目にはどろどろとした水しか見えていません。ぐるぐると渦を描いているのだけは分かりますが、回っているのは水の方なのか、それとも私の方なのでしょうか。水はどんどんと暗い色になっていき、その暗い渦の中心へと私は吸い込まれていきます。ぐるぐる、ぐるぐると世界は回り、じき、その真っ暗な中心に私は呑み尽くされてしまいました。


 胸が焼けるように痛くて、空気を求めて口を開いたら、途端に喉に絡みついていた何かがどっと唇の間から溢れ出しました。咳き込みながら、いま吐いたものが水であることを知りました。
 私は閉じていたまぶたを開きます。
 空が見えました。やっぱり灰色の重苦しい雲で埋まっていて、でも雨はずいぶんと小降りになっています。ぽつり、ぽつりと落ちてくる雨粒が頬や額に当たって、するとそこが引っかかれたみたいに痛みました。それとは別に、頭の後ろの方にも、ずきずきという鈍い痛みがあります。他にも体のあちこち、ずきずきやぎしぎし、びくびく、いろんな痛さでいっぱいです。
 それから、ゆらゆらと冷たい流れに体が揺れてる感じ。私はまだ川の中にいるみたいでした。背中には硬い感触、きっと岩か何かに引っかかっているのです。
 周りを見回してみたかったけれど、痛む体は思うように動いてくれず、なので目を凝らすことしかできませんでした。雲の向こう、お日様がずいぶんと低いところまで下りてきているのが分かります。あれから結構な時間が経ったみたいです。
 お姉ちゃんはきっともう、家を出たでしょう。仲人の人に付き添われて、郎党の人たちを従えて、お婿さんの家へと向かっているはずです。
 もしかしたら、まだ間に合うかもしれない。あの橋を渡るところを、遠目にでも見られるかもしれない。そんな期待に、私は思い切って体を動かしてみました。背中を乗せている硬いものを肘で突っ張るようにして、仰向けだった体をうつ伏せに引っくり返そうとします。もの凄く痛かったけれど、なんとか成功しました。
 やっぱり、川面から突き出た大きな岩に、私は引っ付いていました。岩に抱きついて上流の方へ眼をやりましたが、残念、あの橋は見えません。ただずっと遠く、鉤のように曲がった山のてっぺんが、灰色の雲に半分くらいめり込んでいるのが目に入っただけです。
 私は溜め息をつき、それで体の力がいっぺんに抜けてしまったみたいになりました。顔を横に向けて、岩にぺたりと頬をくっつけます。岩は雨と、それと何か赤いもので濡れていました。ああ。私の頭から流れている血みたいです。どうりで頭が痛むわけです。
 岩の表面を滑っていく血の筋を追いかけると、すごい速さで流れていく泥水色の川面に辿り着きました。
 岩のそばで、川の水は小さな渦を作っていて、そこに私の血が吸い寄せられています。くるくると形を変える赤い螺旋模様はちょっと綺麗で、その朱が自分の体から流れているものだということも忘れて、私はぼんやりそれを見つめていました。
 不意に、その赤い渦に、緑色の影が差しました。ゆらゆらと揺れる長い髪の色。あの妖怪さんが、川面に顔を浮き上がらせているのでした。
 私はびっくりしましたが、でもどうにも体が動きません。じっとこちらを見ている妖怪さんと、さっきみたいに見つめ合うことしかできないのでした。
 お姉ちゃんのところへ行くのは諦めてくれたのでしょうか。妖怪さんは川面で顔をゆらゆらさせたまま、そこから離れようとしません。赤い水に、妖怪さんの緑がぐるりぐるりと渦を描いています。それがなんとなく面白く、そしてなぜだか哀しく思えて、私は口元をゆるめました。
 すると妖怪さんも、かすかに笑ったようでした。おかしいのは、私が笑うのを見てつられたというより、私とまったく同時に笑ったみたいだったことです。
 あ、と私は声を漏らしました。やっと気づいたのです。そこに浮かんでいる……いいえ、そこに映っている妖怪さんが、本当は誰なのか。
 そして、私が誰なのか。
 自分が本当は何者なのかが分かって、おかげで私は自分のするべきことも思い出していました。
 分かってしまえば、もう何も怖くはありません。私は川面に映る顔に、もう一度笑いかけました。緑色の影は一瞬、微笑みを見せて、それから渦の中へ溶けるようにして消えました。
 心残りがあるとすれば、お姉ちゃんの花嫁姿を見られなかったことです。だけど、これからのお姉ちゃんの幸せが確かならば、それに代えられるものではありません。
 私は抱きついていた岩から腕を離して、手で突き放すようにします。すぐさま川の流れが私の体を捕まえて、軽々と引きずりはじめました。
 私はお祈りします。どうか、このまま海まで流れ着けますように。もし駄目だったとしても、けしてお姉ちゃんのところへ戻るつもりはありませんが。そのときは穢れをぎゅっと抱きしめたまま、川の底にでも根付いて、そこに草のひとつでも生やせたらいいなあ、なんて思います。雛草は、水の中でも育つことができるのでしょうか。




 どうやら無事に海まで辿り着くことができたようです。
 気がついたら、私は広い広い水をたたえた淵のそば、大小の石が転がる川原のようなところにいました。
 川原なんて言ったら、まるで目の前にあるのが川みたいですが、でもそんなはずありません。だって、この淵は、対岸が見えないほど大きいのです。こんな大きな川があるはずありません。だからこれは海に違いないのです。話にしか聞いたことのなかった海が、私のすぐ手の届くところにあるのです。
 海の遠くの方は靄がかかったようになっています。何か見えないかなと目を凝らしていたら、やがて靄の向こうから一個の影が現れました。水面を滑るように近づいてくるそれは、人をひとり乗せた舟でした。お姉ちゃんくらいの年頃の女の人が、力強く舟を漕いでいるのです。
「はいよ、お待たせ。お、今度はまたちっちゃい子だねぇ」
 岸に舟を着けると、女の人は景気のいい口調でそう言いました。別に待っていたつもりはないのですが、私はどうやら、これに乗せてもらうべきらしいです。
「ようこそ三途の川へ。さあさ、渡し賃は有り金全部だよ。もったいぶらずにちゃちゃっと出してくれたら、お姉さんは嬉しいね」
 川、とその人は言います。海ではないのかと抗議しますと、豪快に笑い飛ばされました。それからふと、しんみりした表情を覗かせます。
「そうかい、お嬢ちゃんは海のないところに住んでたんだね。もう少し大きくなる時間があったら、もしかしたら見られたかもしれないけれど……ま、言っても詮無いことさね。次の機会を待とうや、人生は諦めが肝心ってさ」
 よく分からないことを言って、改めて渡し賃を請求してきます。私はお金なんて生まれてこの方持ったこともないはずでしたが、ふと懐に覚えのない重みを感じて、そこを探ってみるとなぜかたくさんの銭が出てきました。びっくりです。
 渡しの人も目を大きく開きます。
「こんなちっちゃい子にしちゃあ、珍しい額だね。これなら向こうまでひと漕ぎだ。のんびりできないのはちょいと残念だよ、私は客と話すのが楽しみでこの商売やってるんでね」
 
 その人の言葉通り、舟は海みたいに大きな川を、びっくりするような早さで渡りきってしまいました。
 渡りきった先の岸には、大きな石造りの建物が待ちかまえていました。とても立派で荘厳で、噂に聞いたことがあるお殿様のお城とはこのような感じなのでしょうか。
 でも入ってみた先で待っていたのは殿様ではなく、お姫様みたいな人でした。鮮やかな緑の髪に冠を戴き、鋭い刃を思わせる険峻な形の棒を手にした、凛々しい眼差しの女の人。だだっ広い空間の奥、高い位置にある台座に腰掛け、私のことを見下ろします。
 自分は閻魔だと名乗って、それからしばらく、その人は私のことをじっと見つめていました。眼差しはやっぱり鋭利なのですが、その瞳はどこか優しい光を浮かべてもいます。
 やがて閻魔様は薄く唇を開きました。
「ここはあなたが生前に犯した罪を明らかにし、突きつけ、問う場所です。今からこの鏡に、あなたの罪が映し出されます。それをあなたは直視せねばならない」
 閻魔様の傍らには大きな鏡が据え置かれています。村の長の家にあったような銅板を磨いた鏡とはぜんぜん違って、こちらにあるのは澄んだ湖の表面みたいに透明で、少しの曇りも無いものです。こっちに表面が向けられていて、私の全身が映っています。
 不意にその像が歪んだかと思うと、そこに映るのは、あの緑髪の妖怪の姿となっていました。静かな緑の目で、こちらをじっと見ています。でも私はもう驚いたり恐れたりはしません。だって、これもまた私の姿であると、今では理解してしまっているのですから。これまで私が見てきたあの緑髪の妖怪は、なんのことはない、私自身の影だったのです。
 閻魔様が、また口を開きます。
「……と、本来ならばそうするべきところなのですが。ここではひとつ、昔話をいたしましょう」
 その声に合わせて、再び鏡の中の像が揺れ動きはじめました。緑色が消え失せ、すると今度は切り揃えた黒髪の小さな影が現れます。赤い着物をまとった、人形の姿です。
「遠い、遠い昔のことです。ある豪族の当主に、ひとりの娘が生まれました……」

 遅くに生まれた子ということもあり、当主はその娘をいたく可愛がりました。生誕の記念として、高価な人形を職人に作らせもしました。
 やがて自分の足で歩けるくらいに成長した娘は、どこへ行くにもその人形を供としました。まるで我が妹のように、人形を愛でていたのです。
 ところがある年、娘は流行病に罹り、伏せってしまいます。当主は東西に人を走らせてあらゆる医者を頼りましたが、いかなる処方も効果がありませんでした。
 最後に当主は、藁にもすがる思いで、都より高名な僧を招きました。高僧は「及ばぬかもしれませぬが」と前置くと、娘の弱った魂に力を取り戻すため、魂振りの祈祷を行いました。
 七日七晩に及ぶ祈祷は、ついに娘を病の床から救い出しました。当主をはじめとする皆はほっと安堵の息をつき、しかしそこに娘の小さな訴えを聞くのです。あの人形がいなくなっている、と。
 なるほど、病の間も娘のそばに置かれていたはずの人形が、いつからか消えてしまっていました。娘にせがまれて捜索の人を放った当主の元へ、やがて報せが届けられます。近くを流れる川のそばに、人形の身に着けていた衣服の切れ端が落ちていたと――

「娘の、血を分けた姉妹に向けるものにも似た深い愛情がもたらしたものか。そして高僧の魂振りが、それを活性化させたのか……そうです、その人形の内には心が、魂が生まれていたのです。
 そして人形の魂は、娘への愛に満ちていたのでしょう。まさに命を落とさんとしていた娘の身代わりになることを選び、『彼女』は川へ身を投げたのです」
 そう、それこそが人形の為すべき役割なのです。人の穢れを、病を、厄を身代わりに抱いて、川に流される。そして大いなる海に至り、そこをさすらう神に人より託されたものを委ね、自らは水泡に消えるのです。それこそが人形の役目であり、そして喜びなのです。
 私は、そのことを知っていました。遠い、遠い昔から。たぶん、お姉ちゃんのために人形を折ったときでしょう、あの時から私の魂は思い出しはじめたのです。眠りから、覚めたのです。
 閻魔様が話し続けています。
「流れに流れた末、その人形の魂は、ある閻魔の前に辿り着きました。人形の行いに感心した閻魔は、彼女を人間に転生させるよう審判を下します。……浅はかな判断でした。その閻魔は、まだ役職に就いて若い、駆け出しも同然だったのです」
 美しい閻魔様の顔、その口元が、何か苦いものでも含んだかのように、小さく歪みました。伏せた目のまつげが、か細くふるえています。
「たとえ人間の体に生み変えられたとして、その魂は人形のままなのです。閻魔はそれを理解しきっていなかった。――転生した先で、彼女は魂の声に従い、前世と同じく人間の身代わりとなる最期を選びました」
 ならば、その人はきっと、幸せだったことでしょう。自身の本懐を遂げられたのですから。
 気がつけば、鏡に映る顔は、最初の私のものに戻っていました。それに向かって、私は微笑みかけてみます。鏡の中の私も、とても晴れ晴れとした笑顔を返してくれました。
 私のそんな行為がいけなかったのでしょうか、閻魔様はいっそう悲しげに目元を翳らせています。
「その閻魔は、悔いています。人形の魂を持って生まれた彼女こそ、自らを犠牲に人を救えたことで、満足しているでしょう……」
 その通りでしょう、私もそう信じます。
「ですが、人として生まれた以上、彼女はひとりではなかった。周りには家族や友人がいたはずです。その人たちが彼女を失ったことで抱く悲しみの大きさは、いかばかりのものか。少なくとも、一体の人形を失ったのとは、比べものにならないでしょう」
 そう言えば。私はお父ちゃんやお母ちゃん、村のみんな、そしてお姉ちゃんのことを思い出しました。みんな、私がいなくなってどうしているでしょう。私などのためにお葬式などしてくれているのでしょうか。泣いたりしていたら、それは悲しいです。みんなには幸せに、いつまでも笑っていてほしいのに。
 気が沈み、私はうなだれました。すると閻魔様が温かな声で、優しく名前を呼んでくれました。お姉ちゃんが頭に乗せてくれた掌の温かみを思い出す、そんな声でした。
 顔を上げた私に、閻魔様は厳かに告げられました。
「あなたへの裁決を申し渡します」


  @


 山のふもとを広く覆っている樹海に、私は住んでいる。
 頭上には木々の枝がほとんど絡み合うようにして濃く生い茂り、陽の光をほんのわずかしか通してくれない。空気はいつも影の底に沈んでいて、足にまとわりつくように重い。
 けれど私の足取りは軽い。スカートの裾を揺らめかせ、私は落ち葉の敷き詰められた道なき道を歩く。
 すると樹海を切り裂くようにして流れる川の一本にぶつかる。太い川幅いっぱいに、暗い色の水が満ちている。その流れは思いのほか緩やかで、川面に浮かぶ木の葉の数々も、のんびりとした顔で水の小さなうねりに弄ばれるがままだった。
 風の音も絶えがちな樹海に、ただ川の音だけが、とうとうと響いている。まさしく暗い水底のようなこの場所において、その音だけは軽やかで、耳に心地よい。
 私はこの場所が好きだ。木々が落とす影の濃さも、時が止まったみたいに地表でとどまって動かない空気の静謐さも、川の歌う声も。みんな、どこか遠いところ、遠い場所を思い出させてくれるような気がするのだ。生まれてからずっとここにいるはずなのに、奇妙に懐かしみを覚える、ここはそんな所だった。
 そんな場所で、私は人間の幸福を祈って日々を暮らすことができる。人の不幸をこの身に受け止めて、そうやって過ごすことができる。自分の役割を心行くまで全うできる。こんなに嬉しくて充実していることが他にあるだろうか。
 今日も上機嫌の私は、鼻歌まじりに岸辺を跳ねる。ブーツで地面を蹴って、くるりとターン。くるりくるりん。川面に映った赤と緑、私の影も、同じようにくるりと回る。
 水面に赤と緑が渦を描いて、それは私の服の模様にも似ている。それを見ていると、時たま何かを思い出しそうで、でもその前に胸の奥底にちくりと痛いものが走って、それで私は考えるのをやめるのだ。
 忘れて踊ろう、くるりくるりと。赤と緑の渦をこの暗い森の水底に描いて。渦の中心に人間の厄を吸い寄せ、抱きしめて、深く深く沈んでいくのだ。
 それが私の、なによりのしあわせ。

 

 

 

 




SS
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