hyper real phantasm

 

 

 

 麦藁帽子の隙間からこぼれた、煌びやかなブロンドが生温い風になびいている。卯酉東海道京都駅の東口、無造作に並べられたベンチと屋根の真下、マエリベリー・ハーンは静かに佇んでいた。行き過ぎる人々の目に気が殺がれる様子もなく、両手に下げたボストンバッグが盗まれないよう目を配っている。
 強風に剥がされそうな帽子の縁を押さえ、彼女は渋面を晒した。通り過ぎる人の群れに彼女が期待する影はない。天頂から降り注ぐ熱波は陰りを見せることもなく、蒸し焼きに慣れた京の住民をも唸らせるほど、執拗に彼女を責め立てる。
「北風と太陽は、さぞや立派なサディストだったのでしょうね」
 呟く。視界の端に闖入してきた女性は、黒いテンガロンハットを被っていた。漆の海に沈めたような漆黒のボストンバックを転がしながら、「お待たせ致しました、メリーお嬢様」と丁重に会釈する。
 メリーと呼ばれた女性は即座に麦藁帽子を剥ぎ取り、ワンピースの裾を翻しながら麦藁帽子を投擲する。理想的な放物線を描き、麦藁帽は来訪者の手の中に収まった。それを指の先でくるくると回しながら、「女王様の方がお似合いかしら」と揶揄する。メリーは嘆息し、反省する素振りも見せない彼女に手持ちの懐中時計を突き付けた。
「三十分よ、蓮子」
「誤差の範囲ね」蓮子と呼ばれた女性は、麦藁帽子をハットの上に重ね、涼しい笑みを絶やさずに告げた。
「故郷は逃げないわ、そうでしょう?」
「新幹線は逃げるけどね」
 透き通った笑顔で答え、メリーは蓮子の頭を小突いた。

 

 自由席から見える景色が指定席のそれと大きく異なっていたとしても、卯酉東海道線から窺える情景は常なるハイパーリアルなパノラマピューイングだ。本質は変わらない。
「東京土産のひよこは高いわ……」
「八ツ橋にしたって同じことだと思うけど」
 行き過ぎる東海道五十三次に目を奪われても、ボックス席の向かいから掛けられる蓮子の声は聞き逃さない。メリーは強化ガラス越しに映り込む友人の横顔を眺めながら、「少し日に焼けたわね」と指摘する。
「フィールドワークに忙しかったからね。そういうメリーは、如何お過ごしかしら」
「買い置きしてた水着が発酵しそうよ」
 肩を竦める。多すぎる仕事量を見ると嫌気が差すのは、いつの時代も性別種族その他を問わず変わることがない。「自業自得ね」言わずもがな、である。
 二人が向かう先は蓮子の実家がある東京だが、メリーが蓮子の帰省に同行する理由は実に安易なものだった。暇だったから、逃避したかったから、二人が運営している秘封倶楽部の根幹たる秘密封印の暴露突入、といった崇高な理念は欠けらもなかった。
 流れる景色の果てに富士の山麓が聳え立ち、山中湖に浮かぶ霊験あらたかな逆さ富士を拝む。
 楽しみね、とメリーが言い、蓮子は何もないところよと返す。結界の歪が多いんじゃないの、と指摘すれば、そんなこともあったわねえと他人事のようにそっぽを向く。メリーは嘆息し、富士の雄姿がパノラマの彼方に消えていく様を、その紺碧の瞳に映し続けていた。

 

 重すぎるボストンバッグの中に何が入っているかを問いただせば、乙女の秘密だと蓮子は頑なに発言を拒む。メリーも蓮子ほどではないにしろ相応の重量を秘めたバッグを抱えている以上、湿りがちな蓮子の口の戸をこじ開けることはできなかった。
 贅沢するなと階段を歩かされ、ボストンバックはバリアフリーの緩やかな斜面を転がし、汗だくになりながらようやく東京の空を仰いだ。
 くすんだ灰空に出迎えられ、ビルやアスファルトの反射光を全身に浴び、メリーは脇に抱えていた麦藁帽子を装着する。京都とは意味合いの異なる蒸し暑さに茹だる彼女を傍らに、故郷に舞い戻った蓮子は健やかに背中を伸ばしていた。
「じゃあメリー、籠にでも担がれてみる?」
「私は、蓮子に担がれてる気がするわ」
 苦笑する。
 蓮子の実家は東京駅から各駅停車二時間徒歩一時間の片田舎にあり、都会の利便性からは掛け離れた場所だった。羽を伸ばし、骨を休める意図からすればむしろ好都合とも言える。
 列車に揺られ、案内役の蓮子が熟睡したがために目的の駅に降りたまま立ち往生した。蓮子の覚醒を待つのも腹立たしかったメリーが彼女の鼻腔と口腔を塞いで数分、チアノーゼの兆候を窺わせていた蓮子がバッタのように跳ね起きた。ベンチの上で頭突きを交わしあった両名の道中は、ここに再開することとなる。
「全く、メリーはどんだけ頭が硬いのよ……」
「二の腕を触りながら言われても反応に困る」
 共に額を擦りながら、大型建築物と言えば学校くらいしか見当たらないような閑静な住宅街を歩く。周囲を囲む雄大な自然からは一足早く秋を伝えるべくひときわ喧しい鳴き声が放たれ、減反冷めやらない中も懸命に成長する水稲がざわわざわわと揺れている。空き地が多く、人もまばらだ。子どもが軽快に自転車を飛ばし、その後ろを兄弟らしき子どもが走って追いかけている。可愛いなあと微笑むメリーを他所に、蓮子は彼らに足払いを仕掛けようと意気込んでいたものだから、メリーは躊躇いなく蓮子の靴を踏んだ。
「――さあ着いたわ! ようこそメリー、ここが私の実家よ!」
「靴を踏んだのは謝るから、元気に犬小屋を紹介しないで。辛いでしょ?」
 うん、と頷く蓮子の顔に反省の色はない。メリーは嘆息した。
 ともあれ竹垣に引っ掛けられた表札に『宇佐見』と記されていることから、この家屋が蓮子の実家であることは明白だった。犬小屋に引っ込んでいる日本犬らしき雑種は、『メリー』という名前だそうだ。舌を出し尻尾も振っているが、警戒はしているらしい。
「……え、何なのこのフラグ」
「こらメリー! そんなところでうんちしちゃだめでしょ!」
「殴るからね?」
 と言いながら殴った。後の話では、帰省が決まってすぐ実家に連絡し、犬小屋の名札を『メリー』に塗り変えてほしいと進言したとか。泣ける話だ。
 結局、犬の本名は分からずじまいだった。メリーは勝手にポチと呼び、蓮子はやはりメリーと呼び続けていた。

 

 蓮子の両親が実は機械だったなどという暴露話もなく、金髪碧眼のメリーもすんなり宇佐見家に受け入れられた。日本語が達者でありなおかつ端整な顔立ちをしていることから、特に宇佐見父から絶大なる支持を受けた。危うく入浴シーンを覗かれるところであったが、それは蓮子と宇佐見母の活躍により未遂に終わった。それを期に忽然と姿を消していた宇佐見父も、丸一日ほど経ち何事もなかったかのように復活した。ミミズ腫れが誠に痛々しい。
「楽しい家ね」
「それが本心なら、あなたはどんだけ世間知らずなのよって話になるけど」
 器用に茶碗を持ち番茶を啜るメリーは、含みのある笑みを浮かべるに留めた。
 実家を訪れて数日は、両親が語る蓮子の昔話に執心し、秘封倶楽部の主なる活動と言える結界探訪はお預けとなっていた。ご飯が美味しく家族も温かく、畳は芳しく犬は懐く。居心地が良過ぎるせいもあった。
 ちなみに犬は雄であり、メリーを見ると異常に興奮しリードが外れるくらい暴れ回るのだが、その行動はどう解釈すべきなのだろうと蓮子に救いの手を求めてみた。
「期せずして同じ名前なんだし、いっそのこと付き合ってみたら?」
「あのお母さん、おたくの蓮子さんは本当に……」
「ごめん私も本気で言ってるわけじゃないから」
 お茶の間で寛いでいる宇佐見母に問い、蓮子が横槍を入れる。宇佐見母は煎餅を食べ続けていた。あれで八個目だが醤油煎餅だけで飽きないものか。飽きないらしい。
 そして帰省三日目の朝、宇佐見家の食卓に蓮子を除く三名が集ったところで「いただきます」の挨拶が交わされた。その直後、寝坊した挙げ句に髪がけちょんけちょんになっている蓮子が扉を乱暴に開け、納豆を掻き混ぜているメリーに威風堂々と宣言した。
「メリー! 今日はそのへんうろちょろするわよ!」
「……はあ。とりあえず、髪の毛を整えたら」
「う、うん……」すごすごと退散する蓮子を見、ほうほうと感心する宇佐見母と父。
 両親の苦悩を我が事のように納豆と併せて噛み締めていると、鴉の濡れ羽色を思わせるストレートヘアの宇佐見蓮子が元気に再臨した。空いた角に腰を落ち着け、卵かけご飯を口の中に掻き込む。豪快だった。まかり間違っても清楚ではない。
「あ、おはようメリー」
「え、なんでこのタイミング……」メリーの疑問に答える声もなく朝食は進み、窓越しにメリーを眺めている犬の鳴き声を聞きながら、波乱含みの一日はその幕を開けた。

 

 犬の散歩がてら町内の探索を開始した二人だが、寂れた神社やお地蔵さん以外に見るべきものもなく、メリーは事あるごとに擦り寄ってくる犬の対処に懸命であり、蓮子は必死に犬の顎を押し上げるメリーを見てニヤニヤすることに懸命だった。
 最終的にメリーが両名の額を突き、双方共にくぅんと鳴いたことで事態は収束した。
 住宅街を抜けると、水田を線路が貫き、それらを取り囲むように広がっている一面の緑に出会う。列車の開かれた窓から一望できた景色も、畦道に立ち緑の匂いを嗅ぎながら眺めているのとでは趣が異なる。呆と佇んでいたメリーも、忙しなく跳ねていた犬が急に身を低く構えて唸り出したため、不意に相方と顔を見合わせた。
「ねえ、あれ」メリーが指した畦道には、鴉除けの案山子にも似た黒い物体がある。
「いえ、あれは」蓮子は帽子を脱ぎ、交差点に座っている物体の正体を見極める。
 犬が吠え、猫が鳴いた。黒猫だ。行儀よく鎮座している。
 黒猫は二本に生え揃った尻尾を振り乱しながら、森の方に駆け抜けていった。ひときわ大きく、犬が咆哮する。蓮子はそれを留め、メリーに目配せをする。蓮子の瞳は、爛々と輝いていた。メリーは肩を竦める。
「猫又、猫又ね。知ってる。知ってるわよ、蓮子に無理やり覚えさせられたから」
「余計なことまで覚えなくてよろしい。行くわよ!」
 メリーが頷き、犬が咆えた。太陽が南中を差す頃だった。

 

 青から黄金に移り変わり始めた水稲の一群を抜け、秘封と一匹は脇目も振らず黒猫が逃げた方角に突き進んでいた。だがやはり野生は自然に溶けやすく、鬱蒼と茂る針葉樹林に突入して間もなく黒猫の姿を見失っていた。
 犬はふんふんと猫の匂いを嗅ぎ回っている。勾配は緩くとも足元は悪く見通しも良いとは言えない。列車から見た時も、ここから先は手付かずの山岳地帯だった。
 メリーは蓮子の袖を引き、鼻息の荒い蓮子を押し留める。
「蓮子、蓮子。気付いてるかもしれないけれど――」
「いた」蓮子と犬の視線が揃い、メリーもその方向に目を合わせた。木漏れ日と木陰の境界に、二股の黒猫が佇んでいる。人間たちを見下ろし、嘲笑うように首の後ろを掻く。
 犬が吠えたのを見計らい、猫は山の奥に走り去る。繋がれた紐はぴんと張りつめ、手綱を握っている蓮子もまた、駆け出したくてたまらない様子だった。
「私だって気付いてるわよ、メリー」
 興奮気味に吐かれた言葉を咀嚼する間もなく、蓮子は手綱を引いて犬を制する。だがそれは撤退を意味するものではなく、みずからを鼓舞する意図であることは誰の目から見ても明らかだった。
「だからこそ、虎穴に入らずんば虎子を得ず! 全軍前進!」
「そりゃトラもネコ科だけど……ああもういいわよ! 後悔しても遅いんだから!」
 登山にも耐え得る柔らかい靴を履き、反発の少ない土を蹴った秘封倶楽部と一匹は、雑草と小枝を踏み潰しながら天然の要塞を掻き分けて行った。
 飼い犬の嗅覚に任せて黒猫の足跡を辿るも、登り下りを繰り返し、澄んだ清流を跨ぎ、注連縄の巻かれた大樹を抜けた辺りから、犬の鼻も頼りにならなくなった。眉を寄せて主人と友人を見上げる仕草に不憫なものを感じながら、次の一手すら打てない現状に苛立ちを覚えてしまうのも確かだった。
 所在なげに座り込む犬の頭を撫でていた蓮子は、ふとした拍子に忙しなく動かしていた目を止める。メリーもそれに倣い、彼女が見据えている方向を注視する。
「……猫の、鳴き声?」メリーの呟きに触発された犬が、蓮子を引きずるように疾駆する。蓮子も飼い犬に負けじと全力疾走するものだから、遅れを取ったメリーもスカートを翻しながら光と影の斑模様に染まった山腹を駆け抜けねばならなかった。
 足音が一分ほど続き、急に視界が開けた。立ち止まった二人と一匹は、先程から聞こえていた鳴き声の出所を知る。膝に手を突いて荒い呼吸を繰り返すメリーとは対照的に、蓮子は胸に手を当てながらもしっかとそれを目に焼き付けていた。
「……洋館、かしら……もう、猫屋敷になってる、みたいだけど……」
 メリーが詰まりながら解説する。生垣の残骸が四隅に散らばり、ならされた土から雑草が突き出ている。二階建ての四角い洋館はあちらこちらの塗装が剥げ、赤煉瓦の壁には蔦が絡まっている。階段に屯す黒白と三毛の野良猫は呑気に欠伸をし、虎縞の猫が白毛碧眼の猫を追いかけ、割れた窓の隙間からは二股の黒猫が追跡者を俯瞰している。
 黒猫が消えた。犬は吠えずに主人の号令を待ち、メリーもまた蓮子の指示を仰ぐ。あちこちから猫の鳴き声が響き、どの猫が喚いているのか判然としない。
「メリー、何か見える?」
 メリーは逡巡し、一拍の間を置いた後に静々と答えた。
「実を言うと……ここ、相当やばいわ。空が歪んで見える。既に結界を飛び越えちゃった可能性も否定できないくらいのデッドスポットよ」
「そう」と控えめに頷き、蓮子は傍らに聳える杉の幹にリードを巻き始めた。切なく啼く犬の表情も気に留めず淡々と作業をこなし、最後に手を叩いてメリーに向き直った。
「それじゃあ、行かない手はないわね」
「言うと思ったわ……だから、あんまり言いたくなかったのよ。疲れるし」
「疲れてなんぼの人生じゃない。けちけちしてると預金を使い果たす前に死んじゃうよ」
 受難を軽く笑い飛ばし、舘の扉に歩いて行く蓮子。メリーは激しく尻尾を振る犬に小さく手を振り、颯爽と敷地を進む蓮子の背中に追いすがった。
 遠く、鳶の鳴き声が響き渡る。
「でも、あの子どこかで飼われてる猫かもしれないわよ」
「なんで」と訝しむ蓮子の横顔に、メリーはしたり顔で告げる。
「あの子、耳にピアスしてたもの」

 

 階段でぬくぬくと寛いでいる野良猫を追い払おうとしても、警戒心のない田舎の猫は動く気配すらない。蓮子が試しに尻尾を踏もうとするのを遮り、メリーが獅子を模った呼び鈴を鳴らす。返事は期待していない。不法侵入の責任逃れに近い行為だ。
 断りもなく忍び込んだ舘の中は歩くたびに埃が浮き上がり、ハンカチを口に添えなければ数秒置きに咳が漏れてしまいそうだった。窓から差し込む光は舞い上がる埃を幻想的に飾り、住み人の居ない幽霊屋敷の幽玄さをよりいっそう際立たせる。
 老朽化著しい階段を上り、蓮子が手擦りの埃を摘まみながら「土足じゃない私たち、と思ったけど洋式だから別に門外漢でもないのよね」と呟いた。メリーは静かに頷いた。
 辿り着いた二階の廊下は非常に長く、対になる白壁も見えなかった。背後にある窓から切れ込む光すら届かない、漆黒の深淵を覗き込む。扉は、左右が対になった荘重な造りのものが無数にあった。廊下には埃も黴も錆もなく、猫の鳴き声も聞こえない。
 咄嗟に後退るメリーに先んじて、蓮子が階段の下を指差した。メリーが唖然とする。
「……嘘。上りはあんなに短かったのに……」
 古い階は、光すら届かない闇の底にまで続いていた。地獄に到達しかねないほどの深淵に目が眩み、すぐさま蓮子に引き寄せられる。
「『あなたが深淵を覗き込むその時、深淵もまた、こちらを覗き込んでいる』」
「そういう忠告はいいのよ……これは、避けられた類の神秘なんだから」
 二人が改めて廊下に向き直ると、そこには呑気に顔を洗っている黒猫の姿があった。鈴はないが、二股の尻尾とリング型のピアスはある。
「ああ、雨が降るわね」
「室内だから関係ないわよ。それに、あの子はただの猫じゃないだろうし……」
「そうね」蓮子が進むと、黒猫が走り出す。あっという間に消えた猫を追い、蓮子もその足を速めた。メリーもその後に続く。一定の間隔に並べられている扉と、表に貼られている注意書きも二人の興味を惹いた。蓮子はそのうちのひとつを考えなしに開け放ち、危うく不思議と鏡の世界に旅立つところだった。
 注意書きはそのひとつして同じ文面はなく、『引き返せ』『十八歳未満立入禁止』『当軒は注文の多い料理店ですから』云々、中には呪符やら御札やら藁人形やら茨の冠やら赤十字やら鍵十字やら、古今東西幅広いメッセージが打ち付けられており、蓮子が嬉々として採取するのをメリーが物理的に咎めていた。
「冗談、冗談よ。それにほら、私たちには立派な武器があるじゃない!」
「愛とか勇気とか言ったら転がすからね」
「……」
「……あ、本当だったんだ……」
 歩き続けて十分が経っても、代わり映えのしない景色が続く。何の発見も収穫もない探索は徒労に等しく、それもまたひとつの経験と悟れるほど老いてもいなかった。どちらともなく嘆息し、蓮子は右の扉に手を掛ける。注意書きには『真実の扉』とある。
「やめときなさい、どうせまた四次元じみたサイケデリックワールドなんだから――」
 だが蓮子は魅入られるように扉を開き、その先にある何かに瞳の焦点を合わせた。
 メリーもその深淵を覗き込む。開け放たれた向こうもまた無限に続く回廊であったが、扉の近くに黒猫がちょこんと座っていた。黒猫は、闖入者に気付くと一目散に駆け出す。
「あ、待て!」
 蓮子は躊躇いなく敷居を跨ぎ、黒猫を追って回廊に躍り出る。メリーは躊躇してしまった。出遅れたメリーが逡巡している間に、扉は蝶番を軋ませながら閉まり始める。
「あ、ちょっと――!」
 チョコレート色の扉を押しても遅く、メリーの抵抗など始めから無いように扉は閉ざされた。注意書きには『真実の扉』とある。
 メリーはほぞを噛んだ。爪を噛み砕こうとして、代わりにきつく握り締めた拳を扉に叩き付ける。低く、鈍い音がした。
「何をやってるのよ、蓮子……あの猫、尻尾が一本しかなかったじゃない」
 廊下の奥を見据える。振り返れば、正面と変わらない深淵が広がっている。前門の虎、後門の狼。メリーは、自分が深淵を覗いているのか、あるいは深淵に覗き込まれているのか、明確な境界を見定めることができずにいた。

 

「見失った……」
 前を向けども黒猫はなく、振り返れどもメリーはいない。三回転すれば前後不覚に陥りかねない無限回廊の只中にあり、宇佐見蓮子は地団駄を踏もうとしたが底が抜けると困るので断念した。
 この回廊には扉がない。窓もない。それでも、水銀灯も行灯もないのに前後十メートル程度の明かりは確保されている。
 迷宮入りだ。舌を打つ。
「……冗談じゃないわよ。あのドラ猫、絶対に取っ捕まえてやる」
 意気軒昂に歩き始めた回廊は、埃の匂いすらない清潔そのものだった。人の目が行き届いている――程度の代物ではなく、人を含めたありとあらゆる存在を廃絶したような潔癖さだ。息苦しさは相変わらずだが、空気が根絶されていないのは救いだった。
 独り言のような流行歌を口ずさみながら、前進すること数分。
 蓮子は、前方に君臨する赤褐色の扉と、その前に悠々と座っている何者かを確認する。
「へえ」感嘆の声が漏れる。
 扉の前に行儀よく鎮座している少女には、二股に分かれた黒い尻尾と、獣を思わせる耳が付いていた。左の耳には、金色のピアスが通っている。大陸風の衣装は、ややもすれば痩せぎすにも取れる少女の身体を柔らかく包み込んでいた。
 彼女は小さく握った拳で顔を洗い、気の抜けた欠伸をこぼした。目頭に浮かんだ雫を拭い、仁王立ちをしている蓮子に気が付いた。
「ふぁ?」
「一応、聞いておくわね」
 ふんふんと鼻を鳴らす仕草は猫そのものだったが、蓮子は念のために質問した。
「あなた、猫又?」
 尋ねられた少女は、右の足で器用にうなじを掻いてから、前方宙返りをして蓮子の前に降り立ち、嬉しそうに「そうだよ」と告白する。二足歩行にも慣れているようだ。
「随分と遅かったね。途中で落っこちたのかと思ったよ」
「確かに、得体の知れない次元に落ちそうにはなったけど。それも、あなたの仕業?」
「ちがうよ」と呑気に首を振り、忙しなく身体を動かす。時折、思い出したように爪研ぎを始めるものだから、蓮子はたびたび面食らった。
「あれは……うん、そうだね。そのうちわかるよ。そのうち」
「曖昧ね。全てを知るには、与えられた試練を越える必要があるということかしら」
 蓮子が苦笑すると、黒猫はニカッと破顔した。無邪気な笑顔であるはずなのに、その奥底から計り知れない恐怖を汲み取ってしまう。
 息を飲む蓮子と対照的に、黒猫は踵を返し扉の前に腰を落ち着ける。餌を欲しがる猫のように、お座りをしたまま蓮子の顔を見上げている。
「そう、その通りだよ、お姉ちゃん。だから私は、ここの門番として、お姉ちゃんに試練を与えます」
 ふにゃあと気だるげに首を掻きむしり、立ち竦む蓮子にむにゃむにゃと語りかける。
「『朝は四本、昼は二本、夜は三本。これは?』」
 試すような表情に、蓮子は素早く答えを返した。
「それは『人間』よ。スフィンクス」幼児は四つんばい、成人は二足、老人は杖付き。神代におけるスフィンクスの試練。おあつらえ向き、と言えばその通りなのだろう。
「うん、そうだね。お姉ちゃん」猫は満足げに微笑んだ。メザシでもあげようかと蓮子は思ったが、ポケットには生鮮食品など入っていなかった。歯噛みする。
「もしかして、外れたら食べられてたのかしら。私」
「んぁ、食べられることもあるんじゃないかなぁ。でも、食べる気なら始めからそうしてると思うよ。神代と違って、そこかしこに妖を討てる英雄がいるわけじゃないしね。平和なのはいいことだよー」
 四つんばいの体勢から猫背をめいっぱいに伸ばし、間延びした欠伸を放つ。己の役目は終えたと言わんばかりに弛緩し、眠たげに顔を洗う。雨が降るな、と蓮子は思った。
「じゃ、私は行くね」
「あ、うん。門番の仕事はいいの?」
「お姉ちゃんが正解したから」
 後ろ手に扉を開け、閉めようともせずに向こう側へ駆け抜ける。蓮子も慌ててその後を追うものの、注視していたにも拘らず、少女は忽然と姿を消していた。
 扉が閉まる。その音と同時に振り返っても、通り過ぎた門は既に跡形もなく消え去っていた。嘆息する。
「……はぁ。前途多難、かしら。前進、前進」
 言い訳のように呟いて、蓮子は疲れた足を踏み出した。左右に点在する窓から、黄金色の斜陽が降り注いでいた。

 

 メリーは先の見えない廊下を歩き続け、途中に転がっている髑髏や仏蘭西人形など見向きもせずに終着点を目指していた。蓮子が消えた扉は開かなかった。迷子になったとしても、自力で帰還できる能力がなければ秘封倶楽部など務まらない。共倒れになっては元も子もないのだ。
「しかし、こんだけ長い異常だと感覚が麻痺するわね……あー、あたまいたい……」
 稀に脳を引き裂かれるような感覚に襲われ、その度にメリーは渋面を晒す。肉体と精神が徐々に蝕まれていく不快感を抱えながら、歩くこと十分。
 突然、灰褐色の扉が現れた。
 黒ずんだ深淵がおもむろに形を成し、やがて明確な輪郭を帯びる。頑丈な扉を背景に、一匹の狐が凛と佇んでいた。何の変哲もない狐と評するには、些か人間に似過ぎているきらいはあるけれど。
「あら」
 猫又でないことに戸惑い、妖怪であることに驚いた。金毛の耳に九つの尻尾、大陸風の衣装に身を包み、袖の中で腕を組み合わせている。眉と目と唇がきつく引き絞られ、ともすれば居丈高な印象を受ける。
 彼女が妖怪であるという確証はないが、メリーは疑うよりも信じることを優先した。狐が金の眼をメリーに向け、物憂げに口を開いた。
「呼ばれたか。飽きないものだな、人も妖も」
「注意書きがあっても、好んでその先に進む人もいますわ」
 的を射た発言に、どちらともなく失笑する。狐は広い袖から手を抜き、改めてその豊満な胸の下に腕を組む。
「怖れないんだね。お前たちは」
「一応、慣れていますから。私たちが望んだことでもあるし」
 射竦めるような夜叉に似た瞳も、メリーは物怖じせずに受け止める。胸に喰らい付く慟哭は受け流し、動揺を表に出さぬよう歯を食いしばる。
「無理はするな」
 くく、と意地悪く笑う狐に子どもらしさを垣間見、妖怪であることを肝に銘ずる。
「何も、取って食うと限らないんだから……とはいえ、食人より凄惨な運命などいくらでも列挙できるが……」
 小首を傾げながら、酷く淫靡な笑みを浮かべる。メリーは、己の心が凍結するのを直に感じた。声も涙も出てこない。
「冗談だよ」
 破顔一笑でもって、彼女みずからが築き上げた緊張を打ち崩す。それでも硬直が解けないメリーに向けて、狐は朗々と語りかける。
「さて娘さん。あなたには幾つかの選択肢が用意されている。お察しの通り、私の後ろにある扉を通るか、引き返すか、私と話し続けるか。手前勝手な意見としては三つめの選択など非常に有り難いのだが、結局のところそれはあなたにとっての逃避でしかないのでね。あまりお奨めはできない」
 メリーは胸に手を当てたまま、ごくりと唾を飲み込んだ。緊迫した空気はない。命の駆け引きからも遠ざかった場所にあることは自覚している。けれども、狐の尻尾が九本であるという事実が、メリーを否応無しに追い詰めていた。
 白面金毛。九尾の狐。
「字は各種取り揃えてあるけどね。どれも豪奢な耳飾りのようなものさ。実はない」
 メリーの思考を先読みし、九つの尾っぽを順繰りに蠢かせる。あたかもそれが金の稲穂であるように思え、メリーはつい呆然と揺れる尻尾に見惚れていた。
「本題に入ろう」
 狐の目が輝き、空気が一変する。
「あの方は試練などと称していたが、私からすればただの問題に過ぎない。けれど、あなたからすれば、必ずしもそうとは言えないのかもな。いずれにせよ、瑣末な問題だ」
 狐は右腕を高々と掲げる。その手のひらには何もない。まぶたを閉じ、瞑想するかのように呼吸を整え、狐は静かに告げた。
「『これ』が見えるか、人間」
 掲げられた手のひらに、台風を紫に染めて三次元化したような奇妙な球体が出現していた。それは狐が腕を下ろすと同時に手のひらを離れ、緩やかな速度でメリーに接近する。音はない。胸の内側から込み上げる気持ち悪さに、目が眩む。
 理性的な回答を行う前に、メリーは不気味な球体の進路から身を引く。あたまがいたい。結界の境目を凝視する時と似ているな、とメリーは鑑みる。謎めいた球体は廊下に不時着し、音もなく雲散霧消した。
 狐は再び袖の中に腕を通していた。癖らしい。
 見えたか、と彼女は呟き、まぶたを開けた。金色の瞳が露になる。
「『それ』が正解だ。覚えておくといい」
 そう言い残し、狐は扉を押し開けた。メリーは球体が落ちた地点と妖狐の尻尾とを見比べ、去り際の背中に何事かを問いかけようとした。だが何を聞くべきなのか判然としていなかったため、何回か喉に言葉を引っ掛けてから、メリーは言った。
「あなたは、本物の妖怪なの」
 狐は、振り返り際になびいた自分の金髪を適当に撫で、溜息混じりに答えた。
「うんにゃ。今は、ただの式神だよ」
 それっきり、狐の姿は見えなくなった。

 

 開け放たれた扉を潜り、今も昔も変わらずに歩き続けている。飽きないものだな、と嘆いた狐の台詞を思い返す。廊下の両脇には、年代物らしい調度品の置かれる頻度が上がった。鏡、机、椅子、壺、掛け軸、刀、抜き身の血塗られた凶器が廊下に突き刺さっていることも少なくなかった。
 お化け屋敷よりか秘宝館といった趣が強くなってきた頃、メリーの視界に縄文期を思わせる壺が割り込んできた。それ単体では興味を惹かない物体も、上下左右に激しく振動していればどうあっても人の目を引く。不意に足を止めてしまったメリーは、壺の底から低くくぐもった呻き声までも耳にする。
 よし割ろう、と蓮子じみた暴挙に及ぼうと袖をまくり、直後に壺の口から手が生えた。
「――――」
 比喩抜きに、メリーの心臓が停止した。
 真っ白な壁にもたれ、ずるずると床にへたりこむ。壺の鳴動より、再開した心臓の鼓動の方がやかましい。茹だる脳味噌と明滅する紅白の視界、狂ったような脈拍に合わせてとめどなく呼吸が繰り返され、メリーは軋む心臓に手のひらを押し付けた。
 悪趣味な鉢植えから生えた手は見る間に成熟し、肘、二の腕、肩、ついには頭が熟するに至った。黒い帽子を被った女性の頭は、ここはどこだと言わんばかりに閑散とした廊下を見渡していた。
 やがて対面に座り込んでいるメリーに気付き、よっと気前よく手を挙げる。
「あぁメリー、お久しぶりー」
「蓮子!」
 ようやく身のある言葉を吐けたメリーの訝しげな視線も厭わず、蓮子は壺の縁に手を掛けて一気に身体を引っこ抜いた。ランプの精さながらの奇行に、メリーは金魚のように口をぱくぱくさせる。蓮子はそれを見て笑う。
「メリー、えらくきれいな出目金みたいね」
 帽子が脱げない程度に思い切り蓮子の頭を引っぱたいてから、メリーは改めて奇怪な壺を見下ろした。蓮子の体長は当初と変わらず、腰や首が不自然に括れていることもない。蓮子もみずからが発生した壺を一瞥し、感嘆の声を漏らす。
「ありゃ、こんなに小さかったんだ……」
「蓮子、もしかして封印されてたの?」
「いえ、私は壁の梯子を登ってきただけよ。そしたら、いつの間にやらメリーが死にかけてたという」
「それはあなたのせいだからね」
「そう?」と屈託なく笑う相方の晴れやかな表情も懐かしい。ほう、と安堵の息を吐くメリーの背を叩き、蓮子は果てがないと思われた廊下の彼方に向かう。
 秘封倶楽部の二人が合流してから、廊下に窓が嵌め込まれるようになった。等間隔に並んだガラスの向こう側に、沈みかけた太陽を見ることができる。代わりに注意書き付きの扉は失せ、格調高い調度品も消え失せた。犬の遠吠えが聞こえる。ポチかな、いやメリーだよ、というか本名は何なのよ、と他愛もない応酬が繰り広げられ、不思議な屋敷の緊張も緩まりかけた頃、深淵に色が着く。
 それは扉の形をしていた。豪奢な舘にありがちな重苦しい扉だが、外見は特筆すべきところがない。メリーは、瞳を輝かせて走り出そうとする蓮子の肩を掴む。華奢な彼女らしからぬ強靭な抵抗に、蓮子は何事かと振り向いた。
「要は、『あれ』が本物だってことでしょ……知ってるわよ、それくらい」
 他人に聞かれることを前提とした独白の真意を問い詰められるより早く、メリーは火急に答えを提示した。
「冥府の門、黄泉平坂、天使の階段、蜘蛛の糸……結局のところ、私たちからすれば、あれもこれも手に余る異界に過ぎないのよね。だから『あれ』は、結界の境界。明確に定められた、顕界と異界を隔てる門扉」
 境界線を指差し、その奥に待ち構える異界の根源を睨み付ける。蓮子もメリーに倣って物々しい扉を伺い、メリーの手のひらを丁寧に解いた。
 あと数十歩で、欲し続けた深淵の奥底に辿り着く。蓮子も、メリーも同様に感動に近いものを覚えている。だが蓮子が純粋な知的好奇心の充足を望んでいるのに対し、メリーは最終的に身の安全を優先する。
 蓮子は歩き出した。その歩みに迷いはない。
「……喰われるかもよ」
 飄々とした背中に稚拙な脅しは通用しない。けれども、引き止めずにはいられなかった。ただの人間なのだ。人間は、呆気なく死ぬ。
「もう喰わされてるわよ。一杯」
 蓮子は苦笑し、扉の前に立った。
 メリーが蓮子の傍らに立ち、蓮子の一挙手一投足を注視している。射殺すような視線が蓮子の頬に突き刺さり、それでも彼女は平然とドアノブに指を掛ける。
 メリーの手のひらが、蓮子の指に重なる。制止か、協力か、その是非を問う前に、蓮子は扉を開けた。蝶番が鈍く軋み、おどろおどろしい効果音が廊下を埋め尽くす。
 境界が徐々に押し広げられ、橙色の廊下に絵の具を混ぜ繰り返した混沌が垣間見える。マーブル模様に彩られた異形の空間に魅了され、躊躇なく扉を押し続ける蓮子の手にメリーの指が掛かる。
「蓮子」
 低く抑えられた警告に、蓮子は息を飲む。
「……分かってる。危ないと思ったら、すぐに――」
 おそらくはその楽観さえ遅きに失し、震える蓮子の手首に白く細い手が絡み付いた。

 

 絡み合った三本の手にはどれも女性特有の滑らかさがあり、うち一本は筆舌に尽くしがたい白さを秘めていた。扉の隙間から這い出た純白の腕は幽霊のそれに似て、酷くおぞましい美に満ちている。
 メリーは、咄嗟にその腕を払いのけた。恐怖に戦く間もなかった。打ち捨てられた腕は扉の向こう側に去り、メリーは蓮子の肩を強引に引いた。扉は自動的に開いていく。蝶番が苦々しく戦慄いた。
「来る」パンドラの箱に希望があることを期待してはいけない。初めは絶望だ。
 未だに呆然と立ち竦んでいる蓮子の頬を、メリーは強く引っぱたいた。乾き切った破裂音が響き、蓮子の瞳にぼんやりと光が灯る。
「――あ」
「行くわよ。時間がないから、今は謝らない」
 蓮子の手を引く。瞳の色はまだ霞んでいるが、状況を判断する能力は取り戻したらしい。扉は半分ほど開いている。次元を掻き混ぜた不条理な空間に、何の生物か知れない眼球が無数に浮かんでいる。真っ黒な瞳孔が二人を捉え、眼球の群れが笑う。
「走るわよ!」
 恐怖を打ち消すように叫び、一旦は辿り着いた深淵から脱する。深淵はこちらを覗き込んでいる。扉は完全に開き切っていた。
「ねぇ、メリー」
「な、なによ」
 平静を取り戻した蓮子が、隣を走るメリーに告げる。引き返す廊下もまた先が見えず、遠近感も当てにならない。内側に感じる鼓動と、傍らを走る友人の息遣いが全てだった。
「わたし、虎子を見たわよ」
「そう。じゃあ、目的は達せられてたのね。なら、扉を開ける必要はなかった」
「うん、だからごめんね」
 可愛らしく首を曲げて謝罪する蓮子の頬を、今度は優しく叩く。心臓の鼓動がうるさい。息苦しい。くずおれたいと真に願う。
「謝るのは後よ」
「知ってるわ」下唇を噛み、息せき切って疾駆する。上下に揺れる視界を掻き分け、背後から迫る異界の息吹を振り切らんと命を燃やす。
 振り返れば気が狂うのではないか。そう思いながら、メリーは後ろを向いた。確かめておきたいことがあった。つられて振り返りそうになる蓮子を、咄嗟に制する。
「――蓮子。あなたは見ないで」
 背後の光景を確認し、メリーは前に向き直る。前方の空間が揺らいでいるように見えた。錯覚と知りながら、現実と幻想の境界が曖昧になっている実感もある。
 廊下は死んでいた。最後の扉から無限に広がる異界は、廊下の壁と床を喰らいながら徐々に拡大していた。紫色の異次元が、怒涛の波となって覆い被さろうとしている。眼球も腕も健在だ。音も匂いも何もしないのが不思議でならなかった。
 胸が痛い。呼吸がままならない。
 赤と白に点滅する視界が虚か実かも分からなかった。足音は交互に二つ、蓮子とメリーのそれぞれが重なり合い、不確かな世界にも確たる現実があると知る。
 手を繋ぐのは躊躇われた。気恥ずかしく、そして弱味を見せるのが嫌だったからだ。
 視界が狭窄し、道ならぬ道の果てが消えかかる。その合間、蓮子の拳がメリーの頬を捉え、淡い痛みがか細い意識を引きずり起こす。
 遠く、犬の鳴き声が聞こえた。聞き慣れた遠吠えだった。
「今、聞こえた」
「えぇ」蓮子も首肯し、その方角を見定める。速度は落ち始めている。足が棒のようだ。早鐘のように打ち続けられる心臓にも限界はある。けれども、その歩みを決して止められない。耳を澄ます。幻聴だとは微塵も考えなかった。事ここにおいて、全く関係のない声が脳裏をよぎるはずがない。
 声が聞こえたことに、意味はあるはずなのだ。
 メリーは、紺碧の眼を懸命に凝らす。目尻を引き絞り、射殺すようにありとあらゆる間隙を見抜く。結界の境界を計り、裏と表を裏返すようにこの異界から脱出する。そのための扉を探す。鍵ならメリーの眼球に刻まれている。
 犬が鳴いた。方向を再度確認、メリーと蓮子の視線が唯一無二のポイントに重なり、そこに逢魔ヶ刻の紅闇に染められた無骨な窓を見る。
 鍵十字の切れ目が見える。紫色の切れ目が歪む。あたまがいたい。脳が軋む、それこそが本物である証だった。
 式神は言った。『それ』が正解だと。
「蓮子!」絶叫の真意を知り、蓮子は力を振り絞って窓枠に駆け寄る。
 メリーを追い抜いた蓮子の背中に、何処からか一本の腕が忍び寄っていた。蓮子には見えていない。振り向くなとメリーが言ったから、振り返ることもないはずだ。
 メリーの背筋に、冷たいものが滑り落ちる。白く透き通った腕が、蓮子の肩を掴んだ。蓮子は振り返らず、ただポケットに手を突っ込んでいた。
 直後、伸びた腕が閃光と共に弾かれる。灰のように燻って崩れ落ちた腕を通り過ぎたメリーは、蓮子の手が握り締めている一枚の符に目を奪われた。
 もう遠い昔のことのように思える注意書き。そのどれかに、こんな符があったろうか。
「よし! 行くわよメリー!」
「調子がいいんだから、もう……」
 この時ばかりは蓮子の手癖に感謝し、メリーは蓮子と共にガラス窓に触れる。横目で睨み付けた異界の色は濃く、それも今はどれもみな偽物と分かる。まやかしも人を殺すと知れば、畏怖を抱く対象にもなり得るのだろうが、今はただただ休息が恋しい。
 蓮子が左枠、メリーは右枠を押し開け、蠢きながら侵食する異界に別れを告げた。
「ごめんなさい。私はまだ、本物になれそうもないわ」
 開かれた窓から舞い込む空気は新鮮そのもので、勢い余って窓枠を踏み越えた蓮子に引きずられ、メリーもまた、二階の高さから中庭の茂みに落下した。

 

 鳴き声の主は予想通り蓮子の飼い犬だった。彼は主人など顧みもせず、激しく揺れるメリーの胸に飛び込み瞬時に頭から張り倒された。リードは外れ、彼は屋敷の窓に向かって延々と吠え続けていたようだった。ご苦労様、と頭を撫でるメリーの唇を奪おうと舌を伸ばすも、それを察知したメリーに再び張り倒された。
 見上げた満天に輝く星の粒を頼りに、秘封と一匹は散歩を再開する。蓮子の肩に置かれた手の白さも、擦り切れて文字が読めなくなった御札も、眼球を貫く眼球の視線も、終わらない廊下も、全て二人の心に刻み込まれている。
「あぁ、もう七時過ぎちゃったんだ……」
 嘆きの言葉が疲弊し切った脚に吸い込まれ、見通しの悪い獣道を歩く気力すら殺ぎ落とす。蓮子は大笑しながらメリーの背中を叩き、木の根に蹴躓いたメリーが山の斜面を転がり落ちる一因を作った。
 ぼろぼろになって帰って来た彼女たちを待ち受けていたのは、宇佐見父の慈愛溢れる抱擁だった。実の娘に軽く殴られながら、抱きとめる腕の温かさは二人に深く染み渡った。その日の夕食はやけに美味しく、居候のメリーも山盛り三杯は軽かった。
 その夜は泥のように崩れ落ち、蓮子がベッドからメリーの布団に落下した。寝相の悪さを盾にメリーの布団に滑り込み、暑苦しいから離れろと進言されても聞き入れない。
「メリー、ごめんなさいは?」
 引っぱたかれた恨みは忘れない。何のことよ、と白を切るメリーの鼻を摘まみ、不細工に仕上げながら蓮子は意地悪く微笑む。ごめんなさいごめんなさい、と涙ながらに謝罪するメリーに満足し、「よろしい」と納得して蓮子は眠りに就いた。メリーも潰れかけた鼻を擦りながら、ごめんね、と囁いてまぶたを閉じた。遠く、犬の遠吠えが聞こえた。
 翌日、物凄く嫌がるメリーと犬を引き連れ、蓮子は再度あの洋館に赴いた。探せど探せど見付からず、結論を急げば、宇佐見母の口から過去に山火事があって好事家が建てた洋館が猫と一緒に全焼した、などというそれらしい話を聞くばかりだった。
 そうして、蓮子の実家に滞在して一週間目の朝、別れの時は訪れた。宇佐見父の抱擁は未遂に終わり、宇佐見母から預けられた無尽蔵の食料は辞退した。お土産と呼べるものは屋敷から持ち帰った御札のみ、とメリーは思っていたのだが、出立の朝、蓮子が件の御札を犬小屋の名札にせっせと打ち付けているところを目撃し、メリーは驚いた。
「それ、持ち帰るんじゃないの?」
「んー、でもねぇ、なんか使用済み核燃料ぽくて危なっかしいものが」
「あんたはそれを実家に投棄するのか」
 メリーが半眼で告げても蓮子は全く動じない。腰によじ登ってくる犬を力ずくで押し留め、メリーは御札の表面に意味のある文字が書かれていることを見咎める。擦り切れて見えなかった文字が、毛筆で丁寧に修正されている。
「結局、この子の名前って何なのよ?」
 爽やかに汗を拭う蓮子の影に、一枚の御札が飾られている。
 その中央には、でかでかと『夢想封印』の四字が刻まれていた。

 

 

 

 

怪物と闘う者は誰しも、その過程において自らが怪物と成り得ない様に気を付けなくてはならない。あなたが深淵を覗き込むその時、深淵もまた、こちらを覗き込んでいるのだから。
フリードリッヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』より
 
当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください。
宮沢賢治『注文の多い料理店』より

 

 

 

 



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発行:2006年9月24日
公開:2009年3月15日 藤村流

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