スイマー!!   ―― 夏

 

 

 

 端的に言えば、小町は脱ぎたかったのである。
 たったそれだけのことだったのだ、本当は。

 

 

 心頭を滅却すれば、とよく人は口にする。
 死神の世界にもその定説が通用するかどうかは定かでないけれど、暑いものは暑く、耐え難いものは耐え難く、現実はあたかも三途の河のように幅広く横たわっている。
 だから、小町は諦めた。
 夏に抗うことは季節に逆らい、自然の摂理に反することを意味する。意味のないことはやらない方がいい。茹だるような熱気に包まれながら、余計な情熱を内側から発する必要もないだろう。
 だから小町は、暑さに負け、素直にその足を三途の河に浸している。
「ふぅ……」
 船縁に腰掛け、いつ客が来てもいいように巨大な鎌を肩に担ぎ、やや猫背で気だるい笑みを浮かべている死神は、紅く迸る鮮烈な髪を猫の耳のように二箇所結わえていた。
「お客、来ないねえ……」
 嘆息し、妖怪の山から三途の河に続く中有の道を覗き込む。
 気温の高騰が幽霊の増減にどう関係するのか、小町は暇な時間をめいっぱい使って一通り考えてみた。
 筋書きはこう。
 幽霊の体温は低い。
 だもんだから、暑いのは苦手である。
 そんなわけで、幽霊は減る。
 仮説終了。
「んなわきゃねえ……」
 うだー、と仰向けに舟の中へ倒れ込む。舟に敷かれているむしろは地獄における針のむしろだが、あまりに使い古されているから針も棘もあったもんじゃない。
 地獄の貧乏性もここまできたか、と小町は鼻の頭を掻きながら思う。
「しかし……」
 天空には、灼熱の太陽が君臨している。
 雲ひとつないこのご時世、遠慮も無粋とはかりに燦々と降り注ぐ熱波の中、快眠を貪ることは困難を極める。あえて言えば、死ぬ。熱中症は死に至る病である。同時に、怠け癖もまた緩やかに滅びる病である。そんな話を上司から聞いたことがある小町も、あまりの暑さにそんな話は頭から飛んでしまった。
 ただ、底の知れない暑さが身体の中に燻るばかりである。
「脱ぎてえ……」
 さりげない呟きに反応する影もなく、無意味に卑猥な言葉は跡形もなく蒸発した。
 小町は既に袖を肩まで捲り上げており、腰帯も適度に緩めてそこはかとなく胸襟を開いている。なまじ長身で豊かな体型をしているがために、季節と態度を顧みなければ十分に扇情的であった。
 曝け出せる限界まで服を捲り上げても、やはり、肌に接している部分はいやがうえにも蒸れる。かぶれる。痒みはネズミ算式に不快指数を増やし、襟の中に手を伸ばしても痒いところには届かない。そういうものだ。
 だから、小町は這うように起き上がり、三途の河の静謐な水面を見定める。
「あー……」
 死者にも似た台詞を死神が吐き、死んだ魚のような目で本音を口にする。
「泳ぎてえ……」
 それは、偽らざる本心だった。

 三途の河を渡る者は、死すべし。
 三途の河を渡る者は、死神に全財産を譲るべし。
 三途の河は、浮かない。

 お客は来ない。
 目の前に横たわっている三途の河も、あまりの熱気に湯気を出しそうな気配すらする。実際はそんなこともないのだが、職場環境が悪化する中、幾分かの休息がなければやってられないというものだ。
「……うん」
 小野塚小町は船着場に舟を括りつけ、独り、河原に素足を浸して呆然と立ち尽くしている。その腕に、丸く、穴の空いた輪っかを抱えて。
 浮き輪である。しかも花柄の。 浮き輪であるから、水に浮く。三途の河にもその原則が適用されるかどうかはともかく、小町が河に入って涼むためには必要不可欠な道具である。
 暑いんだから、仕方がない。
「仕方ないよねえ、うん」
 小町は諦めた。
 かくて小町は、幸せそうに笑みを浮かべながら、具体的にはわーいとか言いながら、ありとあらゆるものの浮上を拒む三途の河に駆け出して行った。
「そりゃ!」
 手裏剣の要領で勢いよく放り投げた浮き輪は、波打つ河に上手く着水する。とぷん、たゆんと円を描くように上下する巨大なドーナツを見ていると、船酔いに縁のない小町ですらもどこか陶然とした心地になる。
 浮き輪が浮くことは実証された。後は実践あるのみである。
「よぉし……」
 浮き輪に繋いだ紐を手繰り寄せ、万歳の格好から浮き輪を腰に通す。小町の身体は既に太ももまで水位が達しており、それだけでも相当の涼気を感じることはできる。けれども、ここまで来たら最後まで行っちゃうか、という欲も出る。
「はあぁ……」
 恍惚の息をもらしながら、ちゃぷちゃぷと三途の河に分け入ってゆく。傍目からすれば、入水自殺にも取られかねない構図だが、幸か不幸か三途の岸辺には人も妖も幽霊すらも見当たらない。
 ふんふーんと鼻歌などくちずさみながら、三途の河に没入する小町。その水位がみぞおちに達してようやく、小町は何らかの違和感を認めた。
「む……?」
 寄せては返す波の雫が、胸の下に引っ掛かっている花柄の浮き輪にぶつかり、弾けて消える。
 砂を踏む感触は適度に重く、だがそれ以上に身体が重い。三途の河は人が浮かないように出来ている。すなわち、その摂理に逆らうためには浮き袋を筋力で賄うことが必要になる。
 一歩、一歩、踏み込むたびに三途の川底に引きずり込まれる錯覚を抱く。普段、浮くものが浮かないと、むしろ沈んでいるように感じるものである。小町も、あれぇ、と思いながら、それでもなお涼気を求めて水を掻き分ける。
 けれども、豊満な胸につっかえていた浮き輪が外れると、余裕綽々だった小町も流石に己の窮地を自覚した。
「あ、やべ」
 首筋にまとわりつく浮き輪を両手で押さえ付け、落とし穴から這い出るように身体を浮き上がらせる。が、そこは生と死を分ける三途の河、その奔流はのほほんと遊泳を試みる暢気な死神を容易に呑み込む。
 実際、着物も水を吸いに吸ってかなり重い。
 三途の河に棲む、愉快な動物たちも小町のくるぶしを噛む。十匹単位で。
「痛ぇ! あ、ちょ、こら! あたいはここの渡しもぶぼぼ! ぶば、おいこら、波が! 波がー!」
 自業自得という言葉が似合う女である。
 合掌。
「くはッ、うへぇ……こいつぁ、わりと洒落にならん事態かも……――ん」
 三途の河の藻屑と化し、穢れた魂が沈殿する泥の底に沈み化石標本になる算段を整えつつあった小町だが、溺れる者が藁を掴むように見上げた空に、見覚えのある影を見付け、好機と言わんばかりにその名を叫んだ。
「チルノぉー!」
 透き通る氷の羽、水色の髪をリボンで纏めた妖精の少女。呑気に鼻歌を口ずさみながら、小町のことなど見向きもせず、ふよふよと三途の河を横断しようとする。その白い靴に手を伸ばす。
「ふんふんふーん、しかのふんー」
 歌のチョイスに、底光りのするセンスが感じられる。小町は苦笑したい気持ちを抑え、瞬時に自身とチルノの距離を『縮める』。
 距離を操る程度の能力。
 伸ばした手のひらを握り締め、手綱を引くイメージ。掴むのはチルノの足。無論、小町の手はチルノに届かない。が、『チルノの足』に焦点を定めれば、小町の能力は『小野塚小町』と『チルノの足』の距離を縮めてくれる。
 三途の河の渡し守を務める小町は、幽霊の徳により川幅を調整する。その際、この能力が物を言う。
「――ぅえ?」
 一瞬、まばたきする間もなく三途の河の水面近くに引きずり込まれたチルノは、あれこれ逡巡する暇もまた与えられずに、その足をしっかと握り締められた。
「た、助かった……!」
 貪るように息を吸う小町とは対照的に、チルノの顔は際どく強張る。
「ぎゃあぁー! なんか死神ぽいのに取り憑かれたー!」
「ンだとこらぁ! あたいはれっきとした死神だっつーの!」
 そこかよと指摘する声はない。歴史は残酷である。
 どうにか小町を振りほどこうと足掻き苦しむチルノだが、そこは妖精、死神の必死の握力に敵うはずもない。辛うじて水面から上昇し、小町の顔に氷のつぶてを叩き付ける程度の妨害しか出来なかった。それもまた、小町には涼くて気持ちいい。
「ふう……」
 濡れそぼった小町の身体から、幾筋もの雫が三途の河に垂れ落ちる。ぐったりする。
「ぎゃー! ぎゃー!」
 やかましくわめきちらすチルノに辟易しながら、小町はチルノの足から手を離す。河から出れば、自力で飛べる。チルノも激しく警戒していることだし、無駄に怖がらせる必要もない。うるさいし。
 ふらふらと、チルノの攻撃を背中に受けながら、小町は三途の河原に帰還する。膝から崩れ落ち、べちゃっとうつ伏せに倒れ込む。弾力のある胸がクッションになり、痛みもさして感じない。
 しばし、ぐだーっと仰向けに寝そべり、猫のように羽を逆立てて警戒しているチルノを横目に見る。
「なによ! なんなのよあんたはー!」
「だから、死神だって何度も言ってんじゃないか……察しが悪いのは時代に取り残されるぞ」
「ふんっ! そんなに足が遅いと思ったら大間違いよ!」
 びしッ、と親指で誇らしげに自身の胸を指す。
 氷精、チルノ。
 自然界の具現と評される妖精の中でも、一際強力な能力を持ち、あちこち悪戯して回っては懲らしめられたり痛い目を見たりしている。
 夏は重宝される。
「あー……死ぬかと思った……」
 びしょ濡れの髪を乱暴にすくい、空から降り注ぐ光の洪水に透かしてみる。身体は冷えたが、それ以上に肝を冷やした。心頭滅却すれば火もまた涼し、心の慟哭が身体の感覚を侵すこともある。
 感心したが、やっぱり暑かった。
「うーむ……」
 唸り、不意に首を動かせば、することもなく無為に佇んでいる氷精が視界に飛び込んできた。
 小町に対する猜疑心が抜けないのか、やや遠巻きに訝しげな視線を送っている。だが、興味はあるらしい。
「火事と喧嘩は江戸の華……てか、馬鹿とハサミは使いようってところかねえ」
「だれが馬鹿よ!」
「おまえだ」

 

 ずぶ濡れになった小町の身体も、灼熱の太陽にかかれば物の数分としないうちにからから乾いてしまった。髪の毛は若干べたついているところもあるけれど、濡れた生地が肌と接してじっとり蒸れる不快感を味わうこともないのだから、もはや行動することに何の支障もない。
 小町は、傍らに立つ同胞を見据える。
「さて! 早速だが、次なる策を試そうじゃないか!」
「あんた暑苦しい」
「うっさいわー!」
「ぎゃー!」
 抱きつかれる。
 チルノは氷精であるから非常に涼しいのだが、チルノにすれば暑苦しいことこの上ない。加えて、長身の小町と妖精のチルノである。はたから見れば、チルノちゃんが襲われてるー! と叫ばれるのも致し方ないところだろう。
「あー……涼しいわぁ……」
「うがぁー! 離せ、離せよー! くっつかれると暑いの! ちょッ、ふあ、頬擦りとかすんな! 気色わるい!」
「あは、照れちゃって可愛いなーもぉー」
「うぎゃー! なんかよくわかんないけどなんかイヤだー!」
「にぅー」
 耳たぶをかぷかぷ啄ばまれながら、小町の額をびしびし叩き続ける被害者チルノ。脇の下から身体を抱き留められているため、無理やり振りほどくことも出来ない。
 燃え盛る太陽は、チルノが身体から放ち続ける冷気も緩和する。さながら幽霊のように、周囲の空気は冷え、暑さに茹だる者たちはこぞって氷精に群がるのだ。
 はた迷惑な話である。
「きゃー! わー!」
「――と、阿呆なことやってる場合でもないね」
 いともあっさり、チルノを解放する。ぺいッと放り出されたチルノは、河原の砂利に手と膝を突き、何故だか荒く呼吸を繰り返していた。落ち着きを取り戻した後、きっ、と小町を睨み付ける眼差しだけはいっぱしの女であったが。
「ん、どうした」
「け……けだものー!」
「畜生、てぇのかい。まぁいいだろう、それで溜飲が下がるんなら、あたいは止めんよ」
 でも、と付け足し、小町は三度三途の河に素足を浸す。
 つられてチルノも河を窺い、霧の果てにあるこの世のものとは思えぬ光景に身震いする。
「要は、だ」
 小町は、手のひらを水面に浸し、五本の指で丁寧に波紋を作る。
 波は、それぞれの波に等しく干渉し、瞬く間に消えた。
「あんたに、河を凍らせてもらいたい」
 叶うなら、此岸と彼岸を繋ぐ架け橋を。

 

 手が冷たい者は心が温かい、と人は言う。
 その真偽は定かでないけれど、いずれにしても、暑さ寒さも三寒四温。持ちつ持たれつ、使えるものは何でも使うべきである。
 チルノは、小刻みに波打つ川裾に両の手のひらを浸している。
 表情は真剣そのもの、後ろから声を掛ける小町の存在も、全くと言っていいほど意識していない様子だった。
 チルノには、小町の提案を拒絶することも出来た。だが彼女はそれをしなかった。何故なら、面白そうだったから。みんなをあっと言わせることが出来ると思ったから、チルノは目を爛々と輝かせ、小町の依頼を承った。
 筋書きはこうだ。
 チルノは、冷気を操る程度の能力を持つ。
 妖精として強力過ぎる力も、使いどころを間違えなければ、十二分にその真価を発揮するものだ。
 三途の河を凍らせ、浮き輪に続き、この一帯に冷気をもたらす。それが出来るのは、チルノしかいない。
「ふぅ……はぁぁ……」
 呼吸を整え、絶え間なく動かし続けていた羽もぴたりと止める。さざめく波間に漂う古木に照準を合わせ、チルノは、覚え立ての台詞を堂々と撃ち出した。

「ふるえるこころにはこごえるといきを、そこびえするやみにはれいりなるれいしょうを!
 『パーフェクトフリーズ』!」

 最大出力。
 薄氷を踏み鳴らすような音が、チルノの指から徐々に波及する。急速に冷却される三途の河は、抗う術も持たないままに、その色を濃紺から白に変えていく。
 表層から深層に、河に棲む者たちの活動を狭めることなく、人の重さに耐えられる程度の分厚い氷河を作り上げる。
 妖精は、自然の具現である。
 なればこそ、この所業は自然の摂理と言っても過言ではなかった。
「――はぁー……疲れた……」
 己の力を出し切り、疲労困憊したチルノはぺたんと砂利に座り込む。努力や根性など全くと言っていいほど縁がない妖精でも、一世一代の悪戯のためなら、普段は想像も付かない力を発揮するものである。
 というようなことを、小町は実感した。
「うわ……こいつは凄いね……」
 感心する。
 この世の最果て、彼岸の河が凍っている。
 ましてや氷精も蒸発する苛烈な熱気にあって、これほど大規模な冷却作業が瞬時に遂行できるとは、依頼した小町も唖然とするほかなかった。
 ひんやりと、冷たい風が三途の河に舞う。
「へん、これでどう?」
 尻餅を突いていたチルノも、小町の呆けた表情を目の当たりにして、誇らしげに胸を反らしていた。能力を酷使し過ぎたのか、大きく脈動する薄い胸部にえもいわれぬ感銘を受ける。
 小町は、やや熱っぽいチルノの髪の毛をくしゃっと撫でた。
「上出来だ、小童。お疲れさま」
 闊達な笑みを浮かべ、その高い靴で氷の河に滑り出した。
 一人、河原に取り残され、くしゃくしゃになった髪を面倒臭そうに整えるチルノは、唇を尖らせて不細工な仏頂面を晒していた。
「……なんか、馬鹿にされた気がする……」
 小町の熱が、温かな頭に残存している。
 やっぱりあついなぁ、と他人事のように呟き、チルノもまた凍れる河に上陸した。

 

 熱せられた氷河が放つ気化熱は、スケートリンクを包み込む空調となり遊び人の身体を癒す。
 磨り減り、平らになった小町の靴は滑走に適している。チルノの靴も氷の上を滑る程度には偏平で、時折派手に転びながらも、慣性の法則に従い氷上のダンスを楽しんでいた。
「つぃー」
「うぉぷ!」
 コツを掴み、早くも片足滑りや後ろ滑りに挑戦している小町と裏腹に、チルノは相性が合わないのか曲がろうとする度に転倒する。顔から。それでもめげずにジャンプしようとする度に転倒して後頭部を強打する姿を見ていると、いやがうえにも心が温かくなるというものである。
「なぁ、大丈夫か? 頭」
「だ……だれが馬鹿よ!」
 怒られた。
「全く……あたいだったからよかったものの、並の妖精なら氷が割れていたわね。頭が柔らかいあたいだからこそ、だわ」
 へへん、とぷるぷる震える膝を押さえながら、赤鼻のチルノは言う。
 転ばないよう、必死である。
 危なかったら飛べばいいのになあ、と小町は思うが、助言は与えない。面白いから。
「それー」
「どぅわ! おぅ押さないでよわー!」
 わー、わー、という残響音を発し、チルノは勢いよく霧の彼方に滑り出す。もう、その羽さえ見えない。
 静寂が残る。
「あー……行っちまったか……」
 遠くを眺めながら、哀愁に満ちた別れの言葉を口にする。
 三途の河に充満する濃霧は、此岸と彼岸を隔てる壁の役割も担っている。それと知らぬ者が迷い込めば、彼岸に辿り着くことなく三途の河原に戻される。要は、それくらい見通しが悪いということだ。
 三途の河の渡し守、閻魔直属の死神ですら、その全容が見通せぬほどに。
「ま、いいか。そのうち帰って来るだろー」
 楽観し、小町は優雅に滑り始める。
 氷上の滑走は涼風を生み、頭上高く降りしきる太陽の熱風を相殺する。乾いていた肌も適度な潤いを取り戻し、緩み切っていた身体も、蔓延する冷気のおかげで適度に引き締められた。
 順風満帆だった。
 チルノには感謝しているから、もし帰って来なければ助けに行くこともやぶさかではない。それまでは、こうして呑気に滑っていても罰は当たらないだろう。どうせ、この暑さじゃ、お客もやって来ないのだから――。
「ふんふんふーん、うまのふんー」
 呑気に、三途の河を走る。

 凍れる世界、現し世の果て。
 背氷、宵闇、霜柱。
 背約の罪は肉体の辱めに帰す。
 死神、小野塚小町。
 罪状、職務放棄。

「――んぁ?」
 不意に、悪寒が走る。
 恐れを知らぬ死神が、恐れ、膝を震わせる時。
 生者と死者の境界線に、凍える地獄が具現する。
 人知れず、氷が罅割れた。
「……これは……――ッ!」
 瞬時に異変を察知し、身構えた時には既に遅く。
 小町は、何処からか飛来した細長い棒に側頭部を打ち抜かれた。
「くぅ――はッ……!」
 身体を浮かされても、手のひらから受け身を取る。鳴動し続ける地盤に底冷えする違和感を覚えながら、小町は痛むこめかみに指を這わせた。本気で痛い。
 だが、どこかおかしい。
 あれは、完全に、視界の外から飛んで来た。ありえないことだ。視野が広い小町を出し抜き、防御も間に合わない速度で、標的を射抜く実力。
 覚えがあった。
「風雲、急を告げる……てヤツ?」
 それとも、万事休すかね。
 ほくそえみ、足を止める。
 地鳴りが、氷河の底から重苦しく響き渡る。
 小町を打ったものは、おそらく棒状の何かだ。それは信じ難いほどの長さを秘め、丈の長い雑草を根元から断ち切るように、三途の河と平行に振り抜かれたのだ。息を呑む。
「――し」
 その名を呟く。
 届かないと知りながら、既に届いていると悟る。地獄耳とは、よく言ったものだ。
 氷が、割れる。
 彼岸の彼方から、此岸に向けて大規模な亀裂が走る。小町の傍らを瞬く間に行き過ぎる大蛇の行進は、避けられない終わりを暗示するかのように不吉で、俊敏だった。
 氷精が魂を賭して凍り付かせた大河も、命に果てがあるように、魂に休らむ所があるように、今、終わりを迎える。
「し……四季さまぁ――!」
 がこん、と氷河が傾く。
「う、うあぁぁぁッ!」
 小町は、成す術もなく氷河の割れ目に飲み込まれる。飛べばいいのになぁ、と変なところでノリの良い自分を呪いながら、再び浮くことを赦さない河に沈む。
 方々に罅割れた氷河は、三途の河に居座る力もなく、ぞろぞろと下流に消える。筋力と飛行力を駆使してどうにか浮き上がった小町も、上流からどんぶらこと流れてきた大型の流氷に激突し、彼女もまたどんぶらこっこと流されることもなく自動的に沈没した。
 氷精もまた似たような目に遭っていたのだが、彼女は、流氷に乗ったまま気絶していた。そして鼻ちょうちんが凍り、息が出来なくなって、目覚めた途端、河に落ちた。
 ちゃぽん、と静かな音が鳴った。

 

 穏やかさを取り戻した三途の河原に、しゅんと肩を落として正座する者、口をへの字に曲げている者、異様にふくらませた腹で大の字に寝転んでいる者が、不出来な三角形を形作っている。
「小町」
「はい」
 小町は、俯いていた顔を上げる。
 そこにあるのは、年月を数えるのも面倒なほど見慣れた上司の仏頂面だった。うんざりする。それはきっと、映姫も同じなのだろうけど。
 その証拠に、重々しいため息が小町の髪を逆立てた。
「幽霊が来なくて、暇だった。それはわかります」
 私も暇でした、と付け足す。
 そりゃそうでしょうねぇ、と他人事のように言えば、鬼の形相で睨み付けられる。こえぇ。
「でも、あれは無いんじゃないかしら……」
 先刻の様相を思い返し、こめかみを押さえる我らが閻魔様。
「あなたは、もっと周囲の影響を考えて行動すべきですよ。ただでさえ、三途の河にはあなた一人が生活しているのではないのだし……」
 豪奢な帽子が崩れ落ちそうなほど深く項垂れ、絶望の重みを一身に背負う律儀な上司の姿を見るにつけ、あぁ、私はこんなに四季様を苦しめていたんだなぁ、と自責の念に駆られる小町だった。
「厄介なことにならないといいけど……」
「も、申し訳ありませんでしたぁー!」
 感極まり、小町は映姫に突撃する。足の痺れもなんのその、目標は打ち所が悪ければ呼吸困難にすら陥る横隔膜。
「四季様ぁー!」
「てい」
「あぶし」
 棒カウンター。
「だれが正座を解いていいと言いました?」
「ぶぐぐ……」
 ほっぺたに突き刺さる悔悟の棒は、心臓のそれと同等にちくちくと痛む。
 しばらく小町の頬を突いてこね回して遊んでいた映姫だったが、拷問にしても折檻にしても甘すぎることに気付き、妙に傾いている小町から棒を離す。きゃん! と定型句を吐き、砂利に突っ伏す小野塚小町。ぴゅー、と水を吐くチルノ。
 異様な光景だった。
「はぁ……もうなんでもいいですから、あそこの妖精を助けてあげなさい」
 投げやりに瀕死の氷精を指し、ぴゅーぴゅー噴水を演じている彼女の救命作業を命じる。なんでもいいと言っているあたり、映姫も相当心労が祟っているらしい。小町は同情した。
「お疲れですねぇ」
「おまえのせいだよ」
 超怒られた。
 逃げるように氷精を助け起こす小町だったが、その腹の膨れ具合に「八ヶ月か……」と感慨深げに呟く。父親が誰なのか非常に興味深かったのだが、映姫の視線が矢のように痛く、というか事実背中に棒の先端が突き刺さってかなり痛いため、無難に腹筋マッサージを施した。
 押すたびにちゃんと腹がへこむから、効果はあるらしい。妖精の体組織については謎が深まるばかりである。
「ぴゅー……ぴゅー……うげっ」
「しかし、どんだけ出るんだこいつ……」
 時折、苦しげにうめくほかは滞りなく水分が吐き出され、お腹のしこりも残りわずかと言った頃合になってようやく、チルノは口から墨を噴いた。
「うぉ、ベタな!」
「ベタなんだ……」
 映姫が感心していた。
 小町がすかさずチルノの咥内を確認すると、推察通り、ほっぺたの裏側にちっこいイカが寄生していた。
 愕然とする。
「これは……まさか、幽霊イカ!」
「なんですかそれ」
「イカの幽霊ですよ!」
 まんまだった。
 とりあえず幽霊イカをチルノから引っぺがし、けほけほと咽るチルノの心音を確かめる。
 妖精に心臓があるのか、撃たれると弾けて消える身分ならばあってもなくても大差ない気もするが、今はとくとくと鳴る心臓の鼓動に安堵した。
「ふう……全く、心配かけさせやがってからに」
「自業自得ですよ」
「映姫様が十戒ごっこするからじゃないですか。子どもみたいに」
「どっちが子どもですか……」
 映姫は呆れ混じりに嘆息し、呼吸が落ち着いてきたチルノの肩を優しく揺する。炎天下、加えて氷精という属性であっても、河に溺れてびしょ濡れになったまま放置されていれば、身体のひとつも壊そうというものだ。
「むにゃむにゃ……く、うぅん……」
 寝言をこぼすチルノを、慈悲深く見守る映姫。子どもにしか見えない氷精を見詰める映姫の顔は、母親のそれと酷似している。もうそんな年齢だからなあ、と呟いた小町の足元に悔悟の棒が突き刺さったところでようやく、チルノがむずがゆそうに目をこする。
「おはようございます」
「ん……んあ、おはよう……」
 うにゃうにゃと猫の前脚を思わせる手付きでまぶたを擦り、ぼんやりとした視界を露にする。まず目に入って来た人影の正体にも動じることなく、欠伸をして、背筋を伸ばし、今度は犬のように身を震わせる。濡れているのが気になるらしい。
 チルノが常日頃から送っているであろう目覚めの儀式をあらかた終えてから、彼女は改めて視界に移り込む人物に焦点を合わせた。一秒。二秒。お互いのリボンが風に揺れる。
「て、あんた誰よ!」
 気付いた。
 凄まじい瞬発力で後退れば、衝撃で砂煙が上がる。安全な位置まで退くと、がるるる、と狼のように威嚇し始める。指を差すのも忘れない。
「やれやれ……」
「嫌われたものですね、四季様」
「……まぁ、否定はしませんが」
 映姫は、チルノの大袈裟な態度にも全く動揺せず、ただ帽子とこめかみの隙間を指でこする程度に留めた。
「挨拶は大切ですよ?」
「それは、そうだと思うけど……なんであんたがここにいるのよー」
「勤務先が地獄なものですから。つまるところ、あなたが私に遭遇することは避けられぬ運命だったということです」
 残念でしたね、とにっこり笑う。
 案外性格悪いなあ、と小町は心の中で呟き、不機嫌極まりないと言った調子のチルノを傍観する。チルノは、共犯者である小町の存在に気付き、人差し指の指し示す先を閻魔から死神に移す。
「あ、元はと言えばあんたが変なこと吹き込んだのがいけないんじゃん! 責任取ってよ、このけだものー!」
「人聞きの悪いことを言うな! あと四季様もへーそうなのかーみたいな顔をしない!」
「あたいの身体は、もうぼろぼろになってしまったのです……うぅ」
「あぁ、なんて可哀想な妖精なんでしょう……」
 なんともノリのよい方々である。
 ぎゅっ、と堅く抱き合うことこそしなかったものの、映姫とチルノの距離が若干縮まったように感じられた。それが嘘でも幻でも、普段から妖怪やら妖精やらに煙たがられている映姫なのだから、少しぐらいは気さくに付き合える者がいてもいいんじゃないかなぁと小町は考える。
 無論、自分もまたその一人であれたら、と。
「そんなら、みんなまとめてキズモノにしてやろうかー!」
「ぎゃー! だから抱きつくのはやめろって言ってんじゃんていうかあんた速すぎるわよ! さっきまでわりと離れてたでしょー!?」
「小町、どうでもいいことにはめいっぱい能力を活用するんだから……」
 開き直る者、嬲られる者、諦める者。
 それぞれの思惑が錯綜する三途の河に、南中を行き過ぎる太陽の光が燦々と降り注ぐ。
 映姫は、きつく締められた襟のボタンをひとつ開けた。砕けた氷の気化熱か、やや冷たすぎる風が吹いている。温度差が広すぎる、というのはひとつ問題である。下手をすれば、局地的な災害を不用意に招くことにもなる。そうすれば、ぼろを纏った舟が弾け飛ぶ以上の異常気象が、必ずや地獄のお財布事情を苦しめることになるだろう。
「あまり、三途の河で暴れられては困りますよ。そのように戯れているだけなら、問題は――まあ無いとは申しませんが、小町も知っているように、三途の河には私たちが把握出来ないくらい危険な生物が……て、あなたたち話聞いてますか?」
「うあー、お前の羽って氷細工みたいだなあー」
「ちょッ、こら! 羽を引っ張るな羽を! いた、ちゃんと神経が繋がってるんだから! 真っ赤な血が通って、痛いわ! 話を聞けー!」
「むぃー」
「噛むなぁー!」
「全然聞いてませんね」
 丸っきり保護者役になってしまった映姫が、疲れた調子でぽつりと呟く。
「小町」
「ひゃっけー……と、はい?」
 肩に触れる棒の振動に振り返れば、そこに諦め調子の笑みを浮かべる映姫と、ふわふわと三途の河に近付いて来る幽霊の姿があった。
 小町は羽交い絞めにしていたチルノを解放し、そのへんに突き刺していた死神の鎌を大袈裟に振り回す。
 幽霊はふらふらと漂い、標識に相応しく上背の高い死神のところへ漂着する。
「おう、よく来たねー」
 よしよし、と子どもをあやすように幽霊の頭らしき部分を撫でる。小町の潤んだ表情を見るに、どうも幽霊で涼んでいるらしい。
「そんじゃまあ、有り金全部支払ってもらいましょうかねえ。いえ、これもひとつあたいの仕事だと割り切って頂けたんなら、こちらも嬉しい限りですわ」
 調子の良い語り口が、いやに心地よく響き渡る。
 事情がよくわからないチルノも、玩具にされた怒りも放り投げられた恨みも忘れて、仕事に耽る小町の勇姿をそのあどけない瞳に映していた。
「ふん、ふんふん……と。ふむ。旦那は、たいそう慕われてらしたんですねえ。いやなに、最近じゃあ随分と徳の少ねえ奴さんも多くなりやして、旦那みてえな徳の篤い方は珍しいんですよ。いえ、決してお世辞やおべんちゃらの類じゃあないんですがね。そう聞こえますかい? そいつあ失礼しやした」
 渡し賃を数えながら、緩いお辞儀をしてみせる。小馬鹿にしているとも取られかねない態度だが、不思議と、幽霊が気分を害している様子はなかった。実際、どう感じているのか知りようもないのだが。喋らないし。
 ひいふうみいと金勘定を済ませた小町は、きちんと仕事してますよ、と言わんばかりの笑みで映姫に手を振る。映姫はただへの字に曲げた口の端を歪ませ、早く送りなさい、と言うように顎をしゃくった。
「いやはや、人使いの荒い職場で苦労してますわ。それじゃあ、旦那。乗っていきますか?」
 鎌の先端は、死神の舟を指していた。
 幽霊がこくりと頷いたように見え、小町は人懐っこい笑みを浮かべた。
「よし! それじゃあ記念すべき本日最初のお客さんごあんな――!」
「待ちなさい小町」
 いきなり声を掛けられ、小町は石に蹴躓く。
 一歩、二歩、三歩と堪えていた小町も、河原に打ち上げられた氷の塊を踏み抜き、結局こけた。踏んだり蹴ったりである。
 チルノは笑っていた。
「……もう、なんですか、なんなんですか四季様。出鼻を挫かないでくださいよ、調子狂うなぁ」
 砂埃を叩き、愚痴りながらゆっくりと起き上がる。その身を案じるように近付いてきた幽霊の頭を撫で、涼み、諸悪の根源である映姫を適度な鋭さで睨み付けた。
 対する映姫は、部下の刺々しい視線にも微動だにせず、澄ました顔で小町を引き留めた理由を語る。
「折角ですから、私も乗せて行ってください」
「……それは、何故」
 露骨に嫌がる小町を尻目に、映姫は続ける。
「こんな機会でもなければ、小町の仕事振りを視察することなんて無いでしょうし。怪我の功名、渡りに舟と言ったところでしょうか」
 映姫は、この期に及んで屈託のない笑みを浮かべる。
 見る者によって、その笑みの色は如何様にも変わる。例えばチルノにはただ気楽な笑顔に、例えば小町には何か良からぬことを企んでいる腹黒い笑みに見える。だから。
「えー……とー……」
 口ごもる。
 よくよく見れば営業スマイルにも似た顔面の魔術を肌で感じながら、小町は先ほど味わったばかりの脂汗を流していた。夏の暑さと、重圧と、二重の汗が小町の身体にまとわりつく。
「うー……」
「構いませんね?」
 詰め寄られる。
 有無を言わせぬその口調に、是非を主張することすら叶わない。
「わ……わかりましたよ……運べばいいんでしょ、運べば……」
「はい。よろしくお願いしますね」
 映姫は、幽霊に軽く会釈する。幽霊も、心なしかこうべを垂れているように見える。
 相席になると知り、幽霊の表情も幾分か緩んだようだった。が、それは閻魔と相席するという緊張から来る震えかもしれなかった。
 もっとも、閻魔の隣に居てさえ、好奇心が居心地の悪さに打ち勝つ例もあるが。
「あ、それじゃーあたいも乗る!」
 チルノが勢いよく挙手する。
 小町は、へのへのもへじを絵に描いたような顔をしていた。
 芸達者である。
「悪いことは言いませんから、やめておいた方が賢明ですよ」
 映姫も気を遣う。が、チルノは譲らない。
「あんたに言ってるんじゃないわよ。あたいは、この死神に言ってるんだから! えー、えーと」
「小野塚小町ね」
「そう、小町!」
 誇らしげに指差し確認するチルノの指を、当の小町は軽く握り締める。か細く冷たい指は確かに子どものそれと似ていて、悪戯好きなところも我がままなところも、なんとなく許せてしまいそうになる。
「ねー、さっきはちゃんと手伝ってあげたじゃないー」
「駄目だ」
「えぇ……な、なんでよ、けち! そこのちっちゃいのは運べるのに、もっと軽いあたいはどうして駄目なのよ!」
「うーん、そりゃあ四季様はちまっこくて軽いけどさ……そういう問題じゃないんだよ、そういう問題じゃあ」
「話に関係ないところでひどく傷ついたんですけど」
 映姫が悲しそうに呟く。小町は無視して続けた。
「えーと……なんだ、何の話だったかな」
「ちっちゃいじゃん! えんま!」
「そこうるさいですよ!」
 怒った。
「ともあれ、三途の河は彼岸に通じている。彼岸は、死んだ奴の行くところだからね、生きてる奴は行くことが出来ないのさ。もし辿り着いたとしても、その時は既に死んでいるんだよ」
「嘘だー。だってあんたら生きてんじゃん」
 むにょ、と胸に触れる手付きがやけにいやらしかったから、小町はわりと強くチルノの鎖骨を押した。
「うぐょえ」
 ダメージ大。
「あたいらは特別なのさ。特別とかいう言い方が気になるなら、呪いでもいい」
「……そんな、不幸なもん背負ってるようには見えないわよ」
「あはは、そうさね」
 軽く笑い飛ばし、舟の縁に下駄を掛ける。片手で幽霊を誘い、ぶちぶちと愚痴り続けている映姫を手招きする。
「……小町」
「重いよりかいいじゃないですか」
「それは余裕ですか」
 辛辣な、しかし映姫自身をも切り裂くような台詞であった。
 映姫も体育座りで舟に乗り、取り残されたのは、季節外れの氷精だけとなった。スカートの裾を掴み、悔しそうに俯いている子どもの顔がある。妖精には、そういう表情がよく似合う。
「出航だ。達者で暮らせよー」
「うぅ……納得いかない……」
「頭で理解しようとするから無理があるんだよ。妖精だろ、理性より感覚で悟れ」
「うぅぅ……理性……?」
 無理っぽかった。
 チルノは頭を抱えて悩み続けていたが、小町はその隙によいしょと舟を漕ぎ出していた。三途の河は、舟が滑る音を吸収する。だか顔を伏せて悩んでいたチルノも、彼岸行きの舟が動いているとはすぐに気付けなかった。
「あ、待てー!」
 追いすがるチルノだったが、小町の出足がわずかに速い。彼女の足が水面を突き破り、慌しい水音を立てた。続いて、乱暴に水を蹴る苛立たしげな音も。
「じゃあなー! あんまり悪戯ばっかりしてると痛い目見るぞー!」
「うるさーい! あたいも乗せろー!」
「小町が言えた義理じゃないですね」
 それは言わない約束でしょと小町がこぼし、板ばさみにされた幽霊が居心地悪そうに俯き、映姫に諭される。やはり地獄の裁判長、幽霊の扱いには慣れている。小町は素直に感心し、河原で歯噛みしているであろう氷精の姿を拝もうとして。
 小町は後悔した。
「小町」
「……あー、はい」
 悔悟の棒が、小町の肩に触れている。ただそれだけなのに、酷く重い。
 チルノは、河原に素手と素足を浸し、呼吸を整えながら小町が乗る舟を見据えている。小町の目にも、復讐に燃える氷精の瞳は綺麗に映し出されていた。
 ビキビキと、水が急速に凝固する際に生まれる乾いた音が響く。冷風が、此岸より届く。
「――来るッ!」
 小町は、幽霊を庇いながら、来たるべき衝撃に備えた。映姫は動かない。チルノは河を凍らせようとしている。それも、先程とは比べ物にならないくらい、攻撃的な。それもまた、妖精らしい。
 遠く、近く、霧の中を切り裂くように、絶唱が木霊する。

「われまねくむいんのしょうれつにじひはなく、なんじにあまねくやくをのがれるすべもなし!
 『コールドディヴィニティー』!」

 半ばヤケクソ気味に放たれたスペルが、三途の河を氷の凶器に昇華する。
 氷結し、膨張した水の体積が氷柱のように次々と舟に這い寄って来る。轟音が地響きとなって三途の河を横断し、大蛇が大地を這いずるように、破壊は目と鼻の先にまで近付いていた。
「しゃあない、飛ぶよ!」
 舟を守るより、お客の命を守る方が先だ。死んでるけど。
 小町は幽霊のために退路を確保し、彼が舟から十分に距離を取ったことを確認した後に、船縁で体育座りをしている映姫の存在に気付いた。
「あぁぁ! なんでまだそこに座ってんですか!」
「私もお客ですから、ちゃんと守ってくれないものかと……」
「あーもうわかりましたよ! 後でべっこう飴あげますから!」
「わーいってどんだけ安上がりなんですか私」
 がこん、と冷たい暗礁に乗り上げた舟が上下に揺れる。震度七。
 馬鹿なことやってる場合じゃないなと察した二人は、足場があるうちに舟から脱出する。幸い、地獄特注の舟は質素でありながら堅牢な構造になっており、そんじょそこらの妖精に一発食らわされたところで異常を来たすところもない。みし。
「あの今みしッて言いませんでしたか四季様」
「小町がまた育ったからでしょう」
 なんだそりゃ。
「あー……しかしながら」
 空に浮かび、不恰好なオブジェと化した氷の城壁を眺める。あたかも三途の河を堰き止めるように積み上げられた万里の長城は、遥か向こうにあるはずの彼岸まで続いているようにも思えた。
「ふむ。富岳百景とは、なかなか風情が」
「無いですよ」
 舟が波に乗り上げた瞬間を切り取ったような、本来ならば決してあり得ない不自然な光景に、小町は映姫に突付かれるまでしばらく見惚れていた。
 冷風が、露出した肌に心地よい。
 幽霊も、映姫も、まんざらではない様子だった。
「……面倒臭いから、飛んで行きません?」
「駄目です」
 舌打ちしようとしたら舌を抜かれそうなので諦めたが、顔に出ていたらしくみぞおちを押された。うぐょえ、となる。
「わか……わかりましたよ。でもその前に、あの悪戯っ子を懲らしめますが、構いませんね」
「妖精はそれが仕事なのですから、あまり感情に任せないように」
「合点承知!」
 許可を得た小町は、氷壁に自分の身体を映しながら優雅に滑空する。距離を操る能力を使えば河原に到達するのは容易いのだが、能力の発動にはいくつかの条件がある。最も重要なのは、AとBの間に存在する距離を操ることが出来る、という点だ。だから、闇雲にあちらこちらへ移動することは出来ない。渡し守としては最適だが、万能の能力とは言い難い。それは、空間や時間を操る能力も同じことだろう。
 小町はあまり飛行速度が速い方ではなかったが、それでも最高速に達して数秒でチルノを補足した。彼女は河原で誇らしげに小さな胸を張っており、小町がここに来ることを予測していたようだった。微動だにしない。というか、四肢が氷漬けにされているから、動くに動けないのである。
 小町は同情した。
「ふふん、どう?」
「……あー、助けて欲しいんなら、聞かないでもないけど」
「氷はともだち」
「はいはいわかったわかった」
 わかってばかりだなあ、と小町は己の境遇に一抹の虚しさを覚える。だがそれも一興だ。初めから全てわかっているより、人生を刺激的に過ごせるというものだ。そう思えば、不慮の事態も苦にはなるまい。
「まぁ……退屈はしないかね」
「ちょっと! ぶつくさ言ってないで助けるか助けないかハッキリさせなさいよ! 痛いのよ手が! あと足も!」
「……お前、可愛いやつだよなあ」
「馬鹿にすんなぁー!」
 チルノが噴火し、小町が笑い。

 そして、氷が全壊した。

「……んあ?」
「……ふぇ?」
 のんきな、あまりにも悠長過ぎる呟きだった。
 氷を破壊したのは小町ではない。まして、彼岸に到達しているかもしれない規模の氷壁を一瞬のうちに木っ端微塵にするなど、名のある妖怪でも困難を極める作業である。それを、音もなく、気取られずに、わずか一瞬でだ。
 砕け散り、三途の河に舞い散る氷の粒は幻想的な雰囲気を醸し出していた。余裕があるなら、この光景を瞳に刻み込み、絵に描きたいと思った。だが、それ以上の現実逃避は、滅びの時を早めるだけだと小町は悟る。
 そうだ、氷精にも言った。
 理性でなく、感覚で悟れ。
「チルノ」
「あれ……今の、あんたの仕業じゃないよね?」
 首を振る。
 四肢が自由になったチルノは、照れ隠しの言葉も素直な感謝の言葉もなく、無音のまま忍び寄る異変を肌で感じていた。動けなかった。今度は、下手に動けば洒落にならないことになると理解した上で、一歩も動けなかった。
「ちッ……四季様、無事だといいけどな……」
 歯噛みする。
 やがて、河の底から地鳴りが響く。チルノのそれとは比較にならない震動が、二人の足場を激しく揺るがす。小町は咄嗟に鎌を突き刺し、チルノは小町の肩を掴んでこの異常を切り抜けようとする。
 喋れば舌を噛む地響きを経て、三途の河から、何かが具現する。
「な……なんだ、ありゃあ……」
 何か、と表現するしかなかったのは、小町が初めて目にする存在だったからだ。
 憶測で物を語るなら、龍、と形容するのが正しいのかもしれない。ただ、それには鉤爪のような手はなく、鱗もなく、肌は滑らかで、巨大な鰻のようにも見える。眼は紅く輝き、歯は鋭く、舌は長い。何かの間違いで、蛇が龍の力を宿したような――そんな、不釣合いな形状をしていた。
 いずれにせよ。
「ちょっと、まずい……かな?」
 半日で、どれほど汗を掻いたか知れない。いくら水分を補給しても、肌に潤いを与えても、次から次へと心が乾くような事態に陥る。自業自得か巡り合わせか、今は世界を呪うことしか出来ない。
 あまりに――あまりに巨大する存在が、小町のやる気を根こそぎ奪い取る。大蛇の咆哮が霧を吹き飛ばす。成す術がなかった。むしろ、下手に刺激すると余計面倒なことになるんじゃないかとさえ思った。
 だが、何もしなければ映姫に何を言われるか。もとを糺せば小町が三途の河で遊び呆けていたせいであるから、あたいは関係ないもんねーと匙を投げることは許されない。それは、小町にもわかっている。
 八方ふさがり、真の万事休すであった。
「あーもう……」
「ねぇ……ねえ、ちょっと!」
「なんだよ、今はお前に構ってる暇なんか……」
「そうじゃなくて!」
 しつこく小町の袖を引っ張る氷精に苛立ちを覚えながら、それでも彼女が指す方を一瞥する。そこには相変わらず生まれる時代を間違えたような巨体があり、その周囲を忙しなく旋回する影があった。
「あれ、閻魔じゃないの?」
 小町は目を見開き、そこにある存在を見極める。
 あまりに距離が開きすぎていて、更に対象が縦横無尽に動き回るものだから、その詳細はわからない。だが、小町は即座に状況を把握した。影は二つある。そのうち、ひとつの動きは緩やかで、もうひとつはそれを庇うように動いている。根拠は十二分にあった。
 左手は鎌を掴み、右の手のひらは対象にかざす。霧は晴れ、視界は良好だった。普段の三途の河なら考えられないことだ。今日は、そんなことばかり起こる。
「まぁ、上司に無理させちゃいかんわな」
 チルノはしきりに首を傾げていたけれど、細かい説明は後だ。今は、仕事の続きをしなければ。
 距離を操る程度の能力。
 対象を確認。『閻魔の足首』。捕捉。
 運命の糸を手繰り寄せるように、小町は、手のひらを握り締めた。
 直後。
「――――きゃあぁッ!」
 悲鳴と共に、一体の幽霊と一人の閻魔が、よりにもよって顔から滑り込んできた。
 華麗とも言えるヘッドスライディングの果て、彼女は砂利に突っ伏したまま、ぴくりとも動かなかった。幽霊はふよふよ浮いているが、小町には、次々と襲い来る未曾有の事態に困惑していることがすぐにわかった。
 無論、上司が何やら物言いたげな様子だということも。突っ伏したままでも。
「えー……と。あの。お助けにあがりました」
「助けたうちに入るの? これ」
「……」
 映姫は無言で立ち上がると、悔悟の棒を振り上げるや否や、そのまま河原に思い切り突き刺した。若干、地面が揺れる。
 小町やチルノに見られないよう丁寧に顔の砂を払い、映姫は改めて問題児たちと向き合った。
「困ったことになりましたよ、あなたたち」
「はぁ……」
 威厳を保つため毅然とした態度を取る中、小町は映姫の帽子を拾ってあげた。映姫も無言で受け取る。
「仲良いんだね、あんたら」
「まぁ、長い付き合いだからねー」
「上下の分を弁えなさい、と言いたくなる時もありますが」
 それはさておき、と牽制し、映姫は三途の河に君臨する大蛇を仰ぐ。見慣れない影に慌てふためく様子もなく、起こるべくして起こった現象を憂うように、淡々と解説する。
「あれは、この一帯を根城としている龍の亡霊です」
「龍の……霊?」
 映姫は頷いた。チルノもついでに頷く。
「じゃあ、死んでるんだ。あれ」
「本来ならば。けれど、龍は滅びても通常の輪廻には収まりません。世界を支える巨人がいるように、世界もまた龍によって支えられているのです。故に、龍の数は増減しない」
「だから、三途の河を根倉にしてるんですね。ここが境界だから」
「そうです。本来ならば、静かなものですからね。三途の河は……」
 映姫は嘆息する。遠く、同意するかのように大蛇改め死龍が咆えた。小町の胸に、罪悪感のような棘がちくちくと刺さる。
「弾幕遊びも過ぎたのでしょう。幻想郷の一大事に龍は現れると聞きますが、今回はただの牽制に近いものだと思います。生贄を与えたところで吐き出されるのが落ちでしょう」
「そりゃよかった……」
「よかったですね」
 にこやかに同意する映姫が怖い。
 対するチルノは恐ろしさがいまひとつ伝わっていないのか、先程の続きとばかりに幽霊の身体を突き抜けたり凍らせようとしたりして遊んでいる。
「うわ、こいつ凍りにくいわ!」
「幽霊で遊ばない」
 悔悟の棒がチルノの頭に炸裂する。妖精が重ねた罪はそこそこ重いのか、船底が割れるようなみしりという音が胸に響く。
 頭を抱えるチルノから棒を離し、自分の肩をぽんぽん叩きながら映姫は言う。非常事態だというのに、小町と違い随分と気楽な調子である。
「さて……やることは決まりましたね」
「龍退治ですか」
 腕捲りする気分にもなれず、小町は力なく鎌を下ろす。
 閻魔と対峙するのもなかなか相手が悪いが、死して尚世界に君臨する天下の龍が相手となれば、死神の小町と言えども一息で命の灯火が吹き消されるであろうことは想像に難くない。命は大事にしたいものだ。
 映姫は、うんざりした小町の表情を垣間見、この状況下でもくすりと微笑む。
「何を言ってるんですか。龍は滅びない、そう言ったはずですよ」
「でしょうねえ……じゃあ、一体何を」
 やっぱり生贄かと萎縮する小町に、映姫はまたも慈悲深い笑みを浮かべる。
 小町はそれと似た笑みをどこかで見たような気がしたから、必死に記憶の中を漁り、映姫の言葉でようやく答えが出た。
「当たり前でしょう。詫びを入れるんですよ」
 これは、意地悪な教官の笑みだ。

 

 三途の河に、巨大な異形がそびえている。
 川面から突き抜けた蛇の体躯は、霧を貫き、空を舞い、縦横無尽に天を泳ぐ。遮る者はなく、裁く者もない。川底に沈んでいた生ける亡霊は、久方ぶりの大気に喜びの声を放っているようにも見えた。
 放つ咆哮は三途の河に年中漂う霧を吹き飛ばし、天を引き裂く絶叫は大地を割る稲妻となる。
 伝説と化した龍の亡霊に、近寄る者は誰もいなかった。が。
「……うわ、でけえ……」
「こんなの、あたいにかかったら一撃よ!」
「さっき脆くも崩れ去りましたが」
 騒がしい三人組だった。ふわふわと頼りない飛び方ながら、少しずつ龍に接近する。
 龍の瞳が、不揃いな集団を捉える。爬虫類のようなぎょろりとした眼にも、蛙に慣れたチルノを初め、臆する者は誰もいない。むしろ、小町などは気だるさが先に来ている。
 映姫に押し出され、チルノも小町も嫌々ながら龍の前に出る。
 樹齢千年もの大樹を思わせる胴体と、ほの暗い洞窟を彷彿とさせる喉。いずれも、人を圧倒するに十分過ぎる身体だった。
「えー、ごほごほ……」
「小町」
「わかりましたよぉ……」
 龍は怖いが、上司も怖い。現実的な話をするなら、クビはやはり嫌なのだった。
 小町は腹を括り、物言わぬ龍神と相対する。
「チルノ、ちょっと」
「な、なによ……生贄にしようたって、そうはいかなあッ!」
 チルノの後頭部を掴み、強引に頭を下げる。自身も丁寧に頭を下げ、じたばたともがくチルノの身体を後頭部の一点で無理やり押し留める。
「あの、申し訳ありませんでした!」
「うぎゅ、くるしぃ……」
「こいつも、とんでもなく申し訳ないことをした、ごめんなさい、て言ってます」
「ぎゅう……」
 氷の羽がぴくぴくと悶絶している。
 龍は、興味があるのかないのか、真っ赤な舌をちょろちょろと出し入れしていた。よくよく見れば、目はつぶらである。
「まぁ、近頃はやたらと暑かったわけで御座いまして、ちょっとばかし涼を取らないとやってられない状況だったんですよ。いえ、旦那は水の底にいらっしゃったから寒暖も明暗も感じなかったでしょうけど、こちとら否応なしに大地の上をせこせこ這いずり回っている身分なものですから、いやまあこうして飛ぶこたあ出来るわけですがね」
「うゅ……」
 あちこちに脱線しながらも、小町は懸命に謝罪を繰り返す。チルノは窒息しかけていた。
「だって考えてもみてくださいよ。霧が濃いから湿度は高め、舟を漕ぐにはどうしたって身体は動くから汗も掻きますわな。あたいの格好からすると下手に脱ぐわけにもいかない、持ち場を離れればお客が来た時に難儀する。じっとしてると、ただそれだけでも暑いんです。夏だからっても行き過ぎです。こんなに暑かったら冬はどんだけ暑くなるんだろうね、ていう落語か漫才かのネタが現実に起こるんじゃないかって気さえしますよ。まあ実際にそんなことが起こったらあの巫女もせっせこ働くでしょうが、暖冬だったらあんまり動かない気もしますねえ」
 寒がりですから、と肩を竦める。
「ぅぷはあぁッ!」
 その拍子にチルノの拘束が解け、顔面を真っ赤にしたチルノが盛大に酸素を貪る。
「はー、はぁー、うぁー……こ、殺す気か!」
「妖精てな威勢のいい生きもんです、ですからこれくらいのやんちゃは見逃して頂ければ」
「なに媚びてるのよ! 気持ちわるい!」
「処世術って言うんだよ。こういうのはさ」
「えろい!」
「えろくねえ!」
 売り言葉に買い言葉、口が達者な二人であるから、やいのやいのとあちらこちらに話は逸れる。
 取り残された龍はちょろちょろと舌を出し入れすることにも飽きたのか、欠伸をするような気軽さで、くわッと口を開いた。
 ゆうに小町の身長を越える口蓋が、小町とチルノの眼前に現れる。喉の奥は完全な闇に彩られ、見る者に底知れぬ絶望を叩き付ける。
 ごく、と唾を飲んだのは小町かチルノか、あるいはその両方であったかもしれない。
「あ、えと……あのですね?」
「あ……あんたなんか、一撃よ!」
 火に油を注ぐ。
 べしべし頭を叩かれながら啖呵を切るチルノの勇ましさと対照的に、小町は龍の腹から聞こえて来るうねりのようなものに怯えた。あまりにも強すぎる風の音は、風情を通り越しておぞましいものを感じる。それと似た響きを含んでいた。
「おいこら聞いてるの! あたいは――」
 言いかけて、言葉を失う。
 風を吸い、車輪のように回転を繰り返しながら、龍の喉に局地的な台風が出現する。
 風が悲鳴を上げ、空気がうねり、引き裂かれる。小町の背後から吹く風は、龍が空気を吸い込んでいるために発生した風だ。下手をすれば、引きずり込まれる。が、身構える前に、風は止まった。
「な……なんだ……?」
 小町は、龍を窺う。
 直後。

 喉の暗闇に、光が渦巻いている。
 あれは、閃光だ。

 光の速度は時を超える。だから理性より感覚を信じて動かなければならない。小町はチルノを龍の策敵範囲から押し出し、自身も即座に攻撃対象範囲から脱出した。映姫の存在は確認しない。彼女が簡単に滅びるようなタマじゃないと心得ているからだ。
 息つく間もなく、閃光が放たれる。
「――くぁぅッ!」
 一筋の閃光は凄まじい風を伴い、紙一重で避けた小町の身体を閃光の同一線上に引きずり寄せる。旋風が着物を細かく薙ぐ。水面に着弾した光は瞬時に蒸発し、膨大な量の霧を生み出した。
「四季様……!」
 霧の中に、映姫と幽霊の影が映る。小町が叫ぶより先に閃光は生まれ、続け様に砲撃が放たれる。目を瞑ろうとして、その間もないことに絶望する。
 映姫は動かず、幽霊は彼女の背後に隠れた。
「――静粛に」
 悔悟の棒を平行に保ち、映姫は宣告する。
 閃光は瞬く間に彼女たちを包み込み――何の前兆も無いまま、跡形も無く掻き消えた。あっさり。 勿論、映姫も幽霊も無事である。ため息を吐く姿も見える。その一部始終を眺めていた小町は、きょとんと目を丸くした。
「……えぇ?」
 小町が頬を抓ると、チルノも律儀に小町のほっぺたを引っ張り、すぐに頭をはたかれていた。遠巻きにこちらを眺めていた映姫が、心配無用と言わんばかりに微笑みかける。
「――あ」 その顔を見て、不意に思い出す。映姫と、永遠亭に棲んでいるという月のウサギの会話だ。 『あなたは位相がずれているから――だから人を裁くことが出来るのね』
 そうだ。映姫は存在の位相がずれている。それが何を意味するのか小町にはよくわからなかったが、使い方次第では敵の攻撃を受け流すことも出来る――のだろう。きっと。
「すげえなあ……」
 ぽつりと、感嘆の声が出る。
 二度の攻撃が霧散したことを知るや否や、龍は口を閉じ、また興味無さげにきょろきょろとあちこちを窺い始める。龍の眼は千里眼か、幻想郷の全てを見通す気でいるのかもしれない。
 龍の興味が他に移ったことを知り、龍の背中に向かってあっかんべーするチルノの頭を、小町は鎌の柄で小突く。なにすんのよ! と律儀に反応できるだけの余裕は取り戻したらしい。
「なぁ、チルノ」
「なによ、小町」
 舌を噛んだらしく、涙目になったチルノは、赤らんだ舌を指で冷やしながら言う。
「どうせ、素直に謝る気はないんだろ」
「だって、あたいは悪くないもん」
 腕組みし、唇を尖らせるチルノ。小町は不意にチルノの頭をぽんぽんと叩き、彼女の顰蹙を買った。だが、扱い方としては決して間違っていないと思う。
 ふて腐れるチルノの気を引くように、わざわざ大袈裟な言葉を使って。
「じゃあ、面白いことしようか?」
 いつかの映姫のように、意地悪く、無邪気に笑ってみせた。

 

 霧の中に、相変わらずくねくねと蠢く影がある。
 龍は、自身が生み出した濃霧にも動じることなく、胴体を伸ばして三途の河の向こうにある幻想郷を窺おうとする。
 呑気に世界探訪を試みる龍の前に、立ちはだかる者がひとり。名はチルノ、氷精であった。
「ふふん、どうしてここにいるんだ、みたいな顔してるわね」
 龍はつぶらな瞳とちょろりと出た舌で語りかけてくる。
 チルノは自信満々に答えた。
「そんなの、あんたをぎゃふんと言わせるために決まってるじゃない! なんか暇してるみたいだからさ、あたいらが一泡吹かせてやろうって魂胆よ!」
 その魂胆を素直に暴露するチルノの勇気を称え、龍は再び大きな口を開いた。
 風が起こる。霧が龍に吸い込まれる。
 チルノは、風に逆らわず、龍の身体に肉薄する。
「……ぐぐ、ぐぅ……!」
 あわや、龍に呑み込まれる直前で、チルノは龍の鼻先にしがみつく。同時に、能力を行使して手のひらと龍の身体を巨大な氷で繋ぎ止めた。
「ぎゅぅ、はやく、はやく……!」
 対象を見失った龍は、一旦空気の吸引を停止したが、またすぐに再開する。視線の先に、チルノともう一人、見知った影が映りこんでいたから。
 やがて霧が晴れ、すっきりと開かれた視界の果てに、死神、小野塚小町が佇んでいた。
「死神様のご登場……なんつって」
 河原の上、鎌を担ぎ、チルノに負けず劣らず凛とした態度で小町は大きな胸を張っている。吹きすさぶ風に紅い髪は激しく揺れ、のぼりのように忙しなくはためく着物を押さえようともしない。
 龍と氷精と死神と、一直線上にうまいこと並んでいる。映姫と幽霊は、少し離れた場所で彼女たちを見守っていた。
 長く、ただひたすらに長ったらしい遊戯だった。あるいは禁じざるを得ない遊戯と評すべき職務放棄だったかもしれない。あれもこれも懐かしく、けれど、思い出す度に寒気が走るのは何故なのか。
 小町は、歌舞伎役者のように手のひらをかざす。
「旦那も、遊びたかったんだよねえ」
 こんなにも暑い夏だから、暇を持て余していたのだろう。
「でも、旦那は少し大きすぎる」
 上司の口癖を真似て、小町は手のひらに力を宿す。どこぞの悪魔の妹じゃないが、全ての目は右の手のひらにある。力は使い方だ、小町も三途の渡し守が最も適した職業だと思っている。だから、あまり首になりたくはないのだった。
 それに。
「――来な!」
 こんなにもマイペースな人生が送れる職場は、他にないのだから。
 龍の咽喉に、光が灯る。
 閃光は、おそらく死神をも消滅させるほどの威力を秘める。失敗は許されない。危険な賭けだ。が、面白い。賭ける価値はある。
 要領は掴んだ。残りは成功確率だ。試したことのない遊びは、興奮と同時に、計りようのない不安をもたらすものである。だが、試す価値はある。
 手のひらに手綱を収めるイメージ。対象の位置は明確な方がいい。媒体となる点も多い方がいい。チルノだけではまだ足りない。何せ余りにも大きすぎる魚である、浮きもひとつよりふたつの方が成功率は上がるものだ。
 光が灯り、閃光が小町を貫く一瞬。
 風には形がない。霧は漠然としすぎている。だが、光は確たる衝撃波となって小町を切り裂くだろう。
 『光』だ。
「――――ッ!」
 小町は、『チルノ』と『光』を掴んだ。

 距離を操る能力は、一を零にする能力でもある。
 龍と小町の距離を、限りなく零に近い一にする。
 小町が任意に指定した点――さっきは『閻魔』、今回は『チルノ』と『光』――を、小町がいる場所まで引き寄せる。 あまりにも巨大な龍そのものを引き寄せることは出来なくても、点が動けば、龍も動く。雑草を引き抜きゃ、地面の土もおのずと付いてくる。そういうものだ。
 それは、果てしなく大きな異形を釣り上げる、言わば禁じられた遊びだった。
 贅沢を言うなら。
 ――ずしゃあ。
「どうも、お疲れさん」
 あまりにも釣るのが早すぎるから、楽しむ時間が短すぎることだ。
 小町は、鼻の下を擦った。

 

「……なんという……」
 映姫は、傍観者でしかない己を呪った。
 畏れ多い事態、という他に、適切な言葉が見当たらない。
 映姫をして、世界を支えていると言わしめた龍が、大地に寝そべっている。龍はいまだにつぶらな瞳をしており、閃光は既にその矛を収めている。龍もまた、何が起こったのか理解出来ずにいるのだろう。鼻筋にへばりついたチルノも、くるくると大きな目を回していた。
 河原を占領する龍の胴体は、巨大な地上絵を思わせる。眉間を押さえてうんうんとうめく映姫をよそに、事の首謀者である小町は、龍と同じ目線に屈み込み、訥々と話を始める。
「三途の河は、いつも静かです」
 ぎょろりと光る目は、やはり、見ようによってはどこか可愛いらしいものに思えた。
「でも、たまには賑やかな時があってもいいと思うんですよ。騒げるのは生きてる奴らだけっていうのは、ちょっと勿体ない気がしませんか。幽霊の方々は無口でいらっしゃるから、あまりあれこれ言いませんけど、あたいらはその意図を汲んで、運ぶ側だけでも明るく楽しくやっとるわけです」
 チルノに遮られた弁明の続きを、小町は身振り手振りと合わせて語り続ける。
 龍は、のっそりと鎌首をもたげていた。だが、攻撃する意志はないらしい。舌をちょろちょろと出し入れしている。
「旦那も、ずっと河の底にいたんじゃ退屈でしょう。だったら、たまに三途の河から首を出してご覧なさいな。なぁに、迷惑だなんて思っちゃいけませんよ――あたいらだって、三途の河に龍が出るってんで、幽霊さんたちの冥土の土産に出来るんですから」
 最後に、小町はにやりと笑った。
 チルノの身体を龍から引っぺがし、鼻を摘まんで耐久時間を確かめる。むー、むー! と呻き始めるチルノの赤らんだ顔を見ることもなく、龍は、三途の河原に背を向ける。
「行きますか」
 振り返りもせず、龍は河に沈み始める。その背に哀愁が感じられるのは、小町の勝手な思い込みだろうか。いずれにしても、別れを惜しむ間もなく、三途の河に静寂が訪れる。
 大蛇が這った河原には、不気味な獣道が浮かび上がっている。この道を辿れば、おそらくは龍に出会えるだろう。だが、龍は不用意に近付ける存在でない。近付いていい存在でもない。付かず離れず、映姫が言ったように、上下の分を弁えることが大切なのだ。
 そのことを、小町は今更ながら痛感した。
「……んッぷはぁ!」
「あ、起きた」
「はぁ、はぁッ、うぁ……し、死ぬかと思ったわ! 三途の河を渡りかけたわよ!」
「さっきも渡りかけてただろ」
「あれはあんたが意地悪するからじゃない! ばか! ばか!」
 かなり怒っている。
 が、その姿があまりにも微笑ましいから、小町はチルノの頭を優しく撫でた。
 そのあまりの唐突さにチルノの怒りも雲散霧消し、しばし、好きなように撫でくり回される。
「…………え、これ馬鹿にしてる?」
「ちょっと」
「うがぁー!」
 再燃した。
 龍のことも忘れ、律儀に怒り狂う氷精を適当にあしらっていると、聞こえよがしな咳払いが小町の背中に突き刺さる。振り向くのも嫌だったが、振り向かないと余計に酷いことになりそうだから、諦めた。
「小町」
「……えーと、四季様?」
 映姫は、満面の笑みを浮かべていた。
 上司や教官のそれではなく、あえて近いものを挙げるとすれば、恋人に送るそれのような。
 勿論、そんなものを送られたところで、小町の背筋に寒気が走るだけなのだが。
「これで、ようやく幽霊が送れますね」
「……あの、龍の旦那は」
「十分に納得して頂いたようですから、私がどうこう言う問題ではありません。小町がやったことですし」
 悔悟の棒を置かれたわけでもないのに、罪悪感という名の責任が肩に重く圧し掛かる。
 がっくりと肩を落としている小町に、しかし映姫はなおも優しく語りかける。
「大丈夫ですよ。いざとなれば、私が責任を取りましょう」
 小町には、映姫に後光が差しているように見えた。が、それが単なる錯覚であったことは、彼女が重苦しい溜息を吐いたことから簡単にわかった。
「まぁ……送霊の遅延、裁判の停滞、渡し舟の消失、龍の逆鱗に触れる……等々、減給は免れないでしょうから。私も、小町も」
 がっくりと、肩を落とす。
 あぁ、なんだ。
 こんなところで、綺麗に落ちが付いたもんだと小町は笑った。
 なに笑ってるのよ、とチルノが小町の脇腹を捻り上げたので、小町はチルノの手の甲を抓り上げた。ぎゃあぁ、とベタな悲鳴が轟き、三途の河に漂っていた束の間の静寂をあっさりと振り払った。
「最後にゃあ、財布の中身がお寒くなりました、てなところで……」
 お後がよろしいようで、と小町は三途の河に頭を下げ、ほったらかしにされている幽霊に、気前よく手を差し伸べた。幽霊もご丁寧にこうべを垂れ、遅すぎる旅の始まりを祝福しているかのようだった。
「さぁ、参りましょうか――」
 と、さりげなく呟いた小町の肩を、映姫の手がぽんぽんと叩く。何ですか、と振り向いた小町が見たものは、映姫が三途の河を親指で指し示している姿だった。
 考える。
 考える。
 ……あー。

 

 

 舟がねえや。

 

 

 

 



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2008年2月17日 藤村流

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