今日まで、そして明日から ―― 春

 

 

 


1.



 くるくると舞う。

「はぁ……」
 桜の花びらは私の憂鬱などお構いなしに降り注ぎ、馬鹿みたいに広い永遠亭の庭をあっという間に埋め尽くしてしまう。そりゃ、春だから仕方のないことなんだろうけど。私がこの庭をたった一人で掃除しなきゃなんないのも、納得はいかないけど、理解できるところではあるのだ。
「面倒だなぁ……」
 羽箒は先が毛羽立っている。酷使しすぎだ。
 掃除にしたって、私一人じゃ能率が悪いに決まっている。だから永遠亭に住んでる兎たちに掃除を命じた方が遥かに効率も良いと思うし、実際てゐもそうした。けど、今は私一人である。
 それは、やっぱり気ままな妖怪ウサギと気楽な野ウサギだからだろう、すぐに飽きて掃除を放り投げた。てゐは盛んに餅をついている。なんで今頃餅やねんと指摘すると、桜餅だよ! そんなことも知らないのかばかめ! と罵られた。ついでに耳も引っ張られた。
「なんであんなに元気なんだか……」
 謎である。
 まだ痛む耳の付け根を擦りながら、永遠亭でもひときわ大きな桜の下に陣取る。はらはらと舞い落ちる桜の雨は、ぼーっと見上げている分には確かに綺麗だった。ただ、地に落ちた花びらを回収する者や、長い耳の中に花びらが入って悶絶する者にとっちゃ、なかなか傍迷惑な存在なのである。
「まぁ、やつあたりなんだけど……」
 耳の中からほじくり出した花びらを、小指の上から軽く吹き飛ばす。
 靴の底から、てゐが餅をつく激しくも柔らかい振動が伝わってくる。後で食べさせてくれるかな、と淡い期待を寄せながらせっせと掃き掃除に没頭していると、私の背中にてゐらしきウサギの咆哮が飛び込んできた。振り向く。
「よっしゃー! 今からみんなのアイドルてゐちゃんが見たことねーような餅つきしてやるから、おまえら覚悟して見とけ!」
 でゅわッ! と効果音が生まれるほど軽やかに跳躍したてゐは、空中で巧みに月面宙返りをし、杵の先端をまさに臼の中心にある真っ白な餅に思い切り叩き付けた。
 ――ずどぉん。
 あれでも、てゐは長寿の化けウサギである。だからわりかし力も強い。
 つまるところ、てゐが放った超重力ムーンサルト餅ボンバーの衝撃力は凄まじく、具体的に言うと、私の傍らにある桜が花吹雪も大概にしろって勢いで私を埋め尽くしたのだった。
「おぁ! 鈴仙の身体がとんでもないことに!」
 故意か過失か、声色で判断できないのが厄介なところである。
 こうなると、耳の穴に花びらが入るとか、掃除の邪魔だとかいうレベルの問題じゃない。もう、この永遠亭から私が消去されたと言ってもいいくらい、圧倒的な物量だった。いや、立ったままの状態で覆い隠されるのはちょっと間違ってるだろ、なにか。
 そのへんは幻想郷補正でなんとかなるかもしれないけど、理不尽というか、ままならないというか。無論、呼吸もままならない。くるしい。
 でも、なんだかどうもやる気が無くて、しばらく桜の中に埋もれる。もうやだ。
「――……ぷあぁッ!」
 怒りと息苦しさが苦難を断ち切る力となり、私は桜の海から力ずくで脱出した。若干、暴走気味に能力を発動したせいか、躍動感溢れる花びらがあちこちに弾けまくってウサギたちがてんやわんやになってるけど、そのあたりは私の関与するところじゃなかった。
 が、てゐは私に杵を振り下ろす。
「あッぶない!」
 紙一重、叩き落とされた杵が地面をえぐる。
「ちぃッ! 仕留め損なったか!」
 返す刀で、足元をなぎ払う一撃が来る。砂利を削りながら猛追する杵の先端に、私は容赦なく足を乗せた。ふわ、と身体が浮き上がる。流石はてゐ、見た目にそぐわぬ剛力である。
「なッ!」
「あんたも、いい加減に――」
 勢いのまま、杵の慣性を借りて宙を回る。
 無重力。
 天地は逆に、私の身体はてゐと逆位置になる。一瞬、私の位置を見失ったてゐの後頭部に、私は容赦なくチョップを食らわせた。
「いぃッ!?」
 たたらを踏んで、勢いを殺しきれずに桜の海へダイヴする。それを見届け、華麗に着地を決めた私は、ようやく安堵の息を吐くことが許された。
「全く、手癖の悪さにも困ったもんよね……と、うん?」
 ひとつ、おかしなことに気付く。
 私が桜の花びらに埋もれていたちょうどそのあたりに、何か、縄のようなものが見えた。てゐは、うつ伏せたまま何も気付いていない。てゐの悪戯、師匠の廃棄物、姫の暇つぶしという可能性も排除出来なかった。でも、私は私の好奇心に従った。
 おそるおそる、それに近寄る。
「これ……なんだろ……」
 それは、やはり縄だった。ただ、初めから形は定まっていた。
 ちょうど首が収まるくらいに丸く括られ、支点になる部分は何重にも縄で縛られている。使い方は、全くこれっぽっちも見当が付かない――なんて言えるほど、品行方正な生き方を送ってきたわけじゃないんだけど。
 あまり、積極的には理解したくなかった。
「それ何なの?」
「うょわぁっ!?」
 てゐだ。
 聞き慣れた声であるはずなのに、状況が状況だけに耳がピンと立ってしまうくらい驚いた。それからまたへなへなと萎れる私の耳をてゐがぎゅっと握り締め、なんだかよくわからない状態で例の縄の説明を求める。
「これはつまり、ウサギの耳をふん縛ってうまいこと運搬するための道具?」
 ウサギの敵め! と憤り、ついでに私の耳に対する握力も増す。痛い。
「ああ……痛いし、言いたいこともわかるけど、違うと思うよ。多分」
「うん。私も知ってる」
 てゐは私の耳から手を離し、縄を指先でくるくると回し始めた。呑気に回転する縄の動きを見ると、本来の用途とあまりに懸け離れていて、忌まわしい気持ちも次第に薄くなる。
 けれども。
「これ、首吊り縄でしょう?」
 教師が与えた問題に答えるような、誇らしくも嬉しそうなてゐの仕草に。
 私は、胸が痛んだ。

 いくらやっても終わりが見えない掃除は後回しにして、私は思わぬ拾い物の隠蔽を優先した。
 放置しても問題はないと思うのだけど、見て見ぬ振りをするには存在感が強すぎた。だから何故かにやにや笑っているてゐからそれを取り上げ、わざわざ自分の部屋に持ち帰ったのだ。師匠に言えば、適切に処理してくれる。姫に言えば、その場で処分するだろう。てゐは、興味本位で桜の枝に引っ掛けるかもしれない。何にせよ、私の手元に残るより百倍はマシだ。
 けど。
「うーん……困ったな……」
 机に向き合い、天板に置かれた不吉な輪っかを見下ろす。何重にも巻かれたとぐろが、人間の重さを問答無用で押し付けているような気がして、私は何度か目を瞑った。でも、それから目を離すことは出来なかった。
 堂々巡りの葛藤のさなか、中庭からはウサギたちの騒ぐ声が響いていた。てゐは何度も何度も餅ボンバーを披露しているらしく、永遠亭を小刻みに揺るがす振動が数分おきに聞こえてくる。そんなに餅ばっか作って、全部食べ切れるのかなぁ。余ったら、里にでも売るんだろうけど。主に私が。
「うぅん……」
 唸り声は、次第に低く濁っていく。
 後ろに体重を掛けると椅子の背もたれは軋み、その鈍い音が私を不安にさせる。逃げ場はない。いっそ考えるのをやめれば楽になるんだろうけど、そうしたら、もっと自分が駄目になりそうだった。根拠はないけど、そう思った。
 だから、しばらくうんうんと唸り続けて。
「――レイセン」
 扉越しに師匠の声を聞き、驚いた私は、傾いていた年代物の椅子と共に床に落下した。
 ――ごちっ。
「……鈴仙、どうかしたの?」
「ッ……い、いえ! 特に、問題ありません……!」
 後頭部から落ちて問題ないわけもなかったが、敬愛する師匠の手前、己の失態を明らかに出来るはずもない。でもきっと、いくら巧妙に隠し通したところで、師匠は簡単に見抜いてしまうのだろうけど。
 私はびきびき痛む頭を押さえながら、師匠が待つ扉を開ける。そこにはやはり永遠亭に輝く月の天才、八意永琳が凛と佇んでいた。紅と蒼に分かれた服と、腰まで伸びる豊かな銀髪が印象的で、胸の辺りに穿たれた七つの点は何らかの秘孔なんじゃないかと初めて会った時は戦慄したものだ。
 師匠は、倒れた椅子と、やや涙に潤んでいる私の紅い瞳を確認し、即座に何が起こったのか把握したようだ。けれど、それに関して苦言を呈したり同情したりすることはない。いつものことだし、余計に私が惨めになるから。
 情けない限りである。
「憂鬱そうね、鈴仙」
「はぁ……毎度のことですが、色々ありまして」
「良いことね」
 はぁ、と素っ気なく返事をする。確かに、師匠くらい長生きしていれば、多少なりとも可笑しなことに慣れてしまうのだろうけど。
 師匠は廊下に立ったまま部屋の中を観察し、運良く、私には運が悪く、机の上にある縄に焦点を合わせた。つられるように、私も忌々しい縄に目をやる。
「あれは」
「えーと……見たまんまです」
 そう、と師匠は素っ気なく呟く。胸の膨らみを抱えるように腕組みすると、顎に手のひらを当ててしばらく考え込んでいた。私も、動くに動けないからそのまま立ち尽くしていた。春とは言え、廊下はまだ冷える。用事はなんだろう。まさか縄のことが気取られたわけじゃなさそうだけど、師匠の洞察力からすると考えられない話じゃない。
「鈴仙」
「あ、はい」
「使うの? それ」
 ぶんぶん首を振った。痛くなるくらい。
 対する師匠は、まんざらでもない様子だった。信用されてないんだろうか。不安だ。
「使わないなら、早めに処分した方がいいんじゃない? 姫に見つかると面倒よ、多分」
「そうですよね……多分」
 正直、師匠に目撃された時点でなかなか厄介な事態であるのだけど、直接言えるはずもなかったから、ただ師匠の言葉を待つだけだった。一応、使われますかという返しもあったけど、やめた。ウサギといえども、絞められるのは趣味じゃない。
 結局、師匠は助け舟を出すような形で、ひとつ提案してくれた。
 後から思えば、事のついでだったような気もするけど。
「なんだったら、鈴仙」
 ぴんと立てられた人差し指は、仮初の永遠を生きているとは俄かに信じがたいくらい、細く、なめらかだった。
「香霖堂。知ってる?」



2



 片手に竹籠、懐に縄。
 共に編み物であることを除けば、むしろ対照的な用途を持つ道具を抱きながら、私は里に続く道程を歩いている。何故か。ひとつは薬を売るため。もうひとつは、外界の品を香霖堂に預けるためだ。
 この品が外界から来たものだという確証はないけれど、今の幻想郷にはおそらく、死刑制度はない。自殺者も、そう多くはないだろう。妖怪という人間を脅かす存在が横行闊歩しているもんだから、命を粗末にする者はあまりいないのだ。
 里に続く道は、そこそこ長い冬から解放された草花の青さに満ち溢れている。桜の花びら、土の色、春の麗らかな陽気に包まれながら、歩む私の足取りはそこそこ重かった。竹籠も重い。いくらなんでも、詰め過ぎだ。薬。
「一緒に連れて行けば良かったかなぁ……」
 後悔先に立たず、である。
 初め、てゐが竹林の出口まで私に同行してくれるはずだった。けれど、何とも言えず重苦しい気分に他人を付き合わせる気になれなかった私は、てゐの同行を無下に断ったのだ。怒れるてゐは私の耳を血圧計の要領で何度もぎゅいぎゅい握り締め、指の跡が残るくらいになってからようやく脱兎のごとく出奔した。
 跡が残るまで律儀に待機している私も私だが、まあこのくらいなら十分に耐えられるし、それでてゐの怒りが治まるなら僥倖だ。
「ふぅ……あー、疲れた……」
 軋む腕を堪えながら歩くこと、三十分。
 人間の里が見えてきた。
「さて……と。売るかなー」
 天に向かって伸びをする。背骨が適度に鳴り、吸い込んだ空気は春の匂いがした。具体的には、ちょっと土臭い感じの。
 ブレザーのポケットから、眼鏡を取り出す。人間たちは私の瞳を直視するといろいろまずいことになるもんだから、出歩くときは特定の波を殺す眼鏡が必要になるのだ。面倒だけど、円滑な人間関係を築くには避けられない手段なのだ、と師匠は言っていた。受け売りである。
 課題は多いけど、ここまで来たら薬を売ることに集中すればいい。それ以外は、後で考えることだ。やや緩んだ頬を片手で叩いて、私は引きずるような足取りで里に下りて行った。

 里に出没する謎の薬売り、鈴仙・優曇華院・イナバとはまさに私のことである。が、その実態は月のウサギである。まぁ同じようなものであると捉えて頂ければほぼ間違いない。属性は属性に過ぎず、私を形成する一端に過ぎない。私は、もっと複雑に出来ているつもりだ。
 見た目はてゐと同じ妖怪ウサギだから、里の人間たちにもほぼ妖怪ウサギと同じ扱いをされている。ただ、耳の形が違うから何かと茶化されたり、持て囃されたり、求婚されたりする。最後のは、わりと本気みたい。でも、ハーフっていう愛の前例があるくらいだから、わりと普通にあり得ることなのかな。よくわからない。
 里の薬屋に薬を卸した後は、残りの分を広場で売りに出すのが通例だった。薬屋の店主がいつもと違う人間だったから、あまり多くを捌くことが出来ず、かなりの在庫が出ている。売り時だ。
 人が集まる日もあれば、閑古鳥が鳴く日もある。雨が降った日にゃあ人の足だって重くなる。私の足も重くなるけど、やっぱり師匠には逆らえない。
 幸いにも今日は晴れだから、観客動員数もなかなかのものだ。私の声も、自然と大きくなる。
「はい、こちらは新作の薬ですー。何に効くかは秘密ですー」
「なんじゃそりゃ!」
「そら!」
 最前列の兄妹が、私の掛け声にいちいち反応する。観客はそれを聞いて失笑し、微笑ましい表情を浮かべる。何に効くんだー、と野次る声も聞こえるが、私も知らないんだから答えようがない。押し黙ると客にも不安が伝わるから、そんなことないですよー、と必死に取り繕う。質問に対する返答になっていないことは気にしない。
「これは……えーと、何だっけ」
「なんだ!」
「だ!」
 小突いて転がしたくなる衝動に駆られるが、てゐと要領が違うから誤って怪我させたら事である。ここはぐっと我慢の子だ。でも、眼鏡越しに鋭い視線を送っておく。何事も、幼いうちから教育するに限る。
「うあ、ねーちゃんこえー!」
「こえー!」
「あぁ、もう……」
 話にならない。観客も、子どもの無邪気さにほだされる一方、薬に対する興味は完全に失せている様子だった。そも、幻想郷は基本的に健康である。感染症も少なく、風邪や成人病を除けば致命的な病はほとんどないと言っていい。死に至る病のほとんどは、人間が受け入れなければならない、寿命だ。
 だから、売れなくても別に不思議じゃない。でも、売れないとそれなりに困る。具体的には、私が師匠にあれこれ言われるのだ。大抵、説教が見当外れの方に逸れていくから、あんまり真剣に耳を傾ける必要もないんだけど。
 うんざりと頭を抱える私の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んできたのは、まさにその時だった。
「なんだ、騒がしいな」
 人の波が、彼女の方に収束する。
 師匠の声を衛星からの電波とするなら、彼女の声は大地に根付く大樹の唸りだ。二の足をしかと地面に根付かせ、不測の事態にも揺るぐことなく凛と構える。彼女の名前は、上白沢慧音という。獣人だが、人の隣に根を下ろして久しい。
 彼女は、自然に出来た人垣を掻き分けるようにして、私と向かい合った。
「今日は――薬売りの日だったか」
 確かめるような口調で、慧音は言った。
 彼女の服装は、普段と明らかに異なる黒装束で。それが生来の銀髪と好対照を描いており、不謹慎極まりないけれど、綺麗だなと思った。観客の中からも、息を飲む声が聞こえてくるようだった。
「あの……帰り、ですか。お葬式の」
「ん、あぁ……気を遣わせてしまったかな。申し訳ない」
 軽く、お辞儀をする。私もつられて頭を下げ、その拍子に遮光眼鏡が外れそうになり、慌てて掛け直した。こういう瞳をしていると、人前に出たとき難儀することが多い。それでも師匠が私を薬売りに指名するのは、何か特別な理由があると思うんだけど。どうなんだろ。実は何も考えてないのかも。
 彼女はぱんぱんと手を叩き、お開きだ、と観客に合図をした。無論、私に異議を唱える余地はなかった。慧音は、私が困っていると思って人払いをするつもりなのだし。
これ以上居座ったところで売上高に影響することもない。うるさい子どもの相手をしなくて済んだ分、得をしたと言っても過言じゃなかった。
「さあ、お前たちも」
「えー」
「えー」
 兄妹揃って、慧音の足元に絡み付く。くるくると彼女の周りを旋回する小さな影に、慧音の表情も綻ぶ。私も、ぎこちなく笑おうとして、すぐにやめた。似合いそうにない。
「あんまり、わがまま言うもんじゃないぞ」
「だって、暇なんだもん」
「もん」
「お母さん、手、合わせてた」
「おかーさんと、おんなじふくー」
 妹が、小さな手のひらで慧音の着物の裾をくいくいと引く。
 幻想郷の住民は健康そのもので、それでもやっぱり、終わりは来る。葬式だって、たまにしか無いけど、全く無いわけじゃない。どんな巡り合わせか解らないけど、今日がたまたま、そうであったというだけの話。
 それだけのことだ。
 私の表情は、変わっていないだろう。慧音は、やや引き攣った笑みを浮かべていた。勝ち負けで言うなら、多分、私の負けだ。
「……あぁ、それじゃあ、先に私の家に行ってなさい。私が面白い話を聞かせてあげるから」
「失恋話か!」
「か!」
 しつれんてなんだ、みたいな顔をしている妹の頭に手のひらをかぶせ、慧音は彼らを先導するように歩き始める。その途中、やるべきこともなく立ち竦んでいる私に目配せをして、彼女は広場の出口まで子どもたちを見送った。
 後は、疎らな人の群れが残る。あちこちから、物珍しそうな視線を浴びるものの、居たたまれなさを感じる段階はとうに過ぎた。要は、慣れた。
「……つまるところ、なんだろ」
 耳の付け根を、こりこりと掻く。春風はやや肌寒く、それでいて、強い。
「重なるものなのかなぁ……」
 不幸なこと、辛いこと、悲しいこと。
 私は、ぺたんと草むらに座りこみ、まだまだ重い籠を傍らに置いた。
 程なくして、慧音が帰って来る。顔に滲むのは安堵か諦観か、いずれにしても、喪服にはよく似合った。
「お待たせ致しました――と、人払いをしてまで語ることもないのだが」
「奇遇……なのかな。私も、です」
 おそるおそる、確かめるように喋る。
 彼女は佇み、私は座りながら、見下すでもなく、見上げるでもなく、話は続く。
 私の目線は慧音の服装に移り、彼女も苦笑しながら袖に手を挿し込んだ。
「彼岸が終わっても、変わらないものだ。時の流れというものは」
 空を仰ぎ、鳥の鳴き声に耳を傾ける。私は、その声を聞いても、美しさより儚さが耳に残る。
「薬、余ったのか」
「えぇ。基本的に、飽和状態だから。薬は」
「天才の腕も、此処では発揮するところが無いな。宝の持ち腐れか」
 同意する。幻想郷には、寿命を延ばす薬も、不死の薬も必要とされていない。ごく一部を除けば。
 慧音は、まだ空を見上げている。私と視線を合わせないのは、感情が顔に表れているせいか。そんなこと、今更気にする必要もないのに。
「――故人は、仕事が好きな男だった」
 突然、彼女は訥々と語り始めた。
 昔話をするのは彼女の趣味じゃないと思っていたけど、案外、抱え込むのは苦手な性格らしい。一端、口を滑らせると、後は慣性のままに――あるいは、惰性のままに喋り続けた。
「けれど、家庭を顧みない男でもなかった。文武両道、質実剛健を地で行く男だった」
「そこまで絶賛されると、逆に胡散臭く聞こえるけど……」
「まあ、な。事実、気立ての良すぎる性格は多くの見えない敵を作り上げる。最期まで、憎まれ口を叩く者は多かったよ。でも、手を差し伸べる者もまた多かった。彼が、多くの者に手を差し伸べたように」
 過去を振り返りながら語られる故人の偶像は、一度も会ったことのない私の中にもつぶさに映し出されていた。なるほど、慧音があれこれ語りたくもなろうというものである。何時の世も、英雄譚は耳に心地よい。
 ちょっと、捻くれた解釈かもしれないけど。
「だから――死に方にも疑問が残る」
 急に、胸の中を透かされた気分だった。すっかり忘れていた縄の感触が、突如として明確に浮かび上がる。
 生き方、死に方、いろいろある。けど、誰もが生き方に沿った相応しい終わりが迎えられるなんて、考えない方が幸せなんだ。絶対。
「……疑問、て」
「いや……」
 今頃になって、慧音は口を滑らせたことを悔やんでいるようだった。私の瞳を覗き込み、もう無かったことには出来ないと観念して、バツの悪そうな表情で結論を述べた。
 私も、そんなに熱心に聞きたかったわけじゃないけど。
「崖から落ちたんだ」
 滅多に人が立ち寄ることのない崖から、まっさかさまに、冷たい地面へと。
 それは、自殺を彷彿とさせた。
 胸が痛む。だが、これは利己的な痛みだ。別に、名も知らぬ彼を思っての痛みじゃない。
「彼は、余命いくばくもないと宣告されていた。けれど、彼は平常通りに振る舞うことをやめなかった。年老いてもなお、己が道を歩き続けた。そして」
 彼女は、目を瞑った。今は、カラスの鳴き声しか聞こえない。
 桜の花びらが、視界の端にちらほらと映り込む。はらはらと舞い散り、静かに地面を飾るそれらの美しさが、今はなんだか、無性に腹立たしかった。
「鈴仙」
「あ……はい」
 声色が変わり、彼女の表情にも柔らかいものが蘇る。私も自分の頬を軽く叩き、おそらくは陰鬱であるだろう面持ちを無理やり平均値に引き戻した。ちょっと痛い。眼鏡もずれた。
「彼の話に付き合ってくれて、ありがとう。礼を言う」
 頭を下げられない私の分も合わせて、慧音は丁寧に頭を下げる。しゃがみこんでいた私は、成す術もなく、ただ呆然と彼女の銀髪を眺めていた。下がった髪を振り上げ、背中に返した彼女の表情は、もう既に晴れやかなものに切り替わっていた。付け入る隙もない。
 強い女性だ。流石は、大樹と錯覚しただけのことはある。
「いえ……私は、何もしてなかったし」
「いいんだ、それでも。名も知らない、他人の物語に耳を傾けてくれた」
 ――それだけでも、意味はある。
 最後に、彼女は笑って。
 ありとあらゆる負の思念を振り払うかのように、颯爽と、広場を後にした。

 魔法の森と人里の境界に、香霖堂はある。
 立地条件は最悪の一歩手前で、森の中心に居を構えなかっただけ幾分かマシという程度に過ぎない。店主の愛想もそこそこ、商品は価値の不鮮明なものばかり、加えて非売品も多いとなれば、店が繁盛しないのも無理はないというものである。
 けれど、普段の生活にはあまり役に立たない店にも、ひとつ便利な側面がある。
 それは。
「あのー……お邪魔しまーす……」
 不気味に軋む扉を開け、私は居るか居ないか判然としないずぼらな店主に挨拶をした。
「うん、いらっしゃい」
 居た。
 香霖堂店主、森近霖之助。銀髪、眼鏡、仏頂面と三点セットで判別が付く幻想郷の自称知識人は、これまた年代物の椅子に腰掛け、開いているのか閉じているのか解釈に困るくらい薄い眼で本を読んでいた。大きさからすると、文庫本らしい。
 少なからず店主からの返答があったことに驚いていた私は、扉を閉めてからしばらく店内を呆然と眺めていた。相変わらず、整理されているように見え、実のところかなり適当に品物が陳列されている。秘宝館にしても、用途が謎過ぎて驚きようがない。
 ともあれ、珍品の数々を眺めているうちに落ち着いてきた。改めて深呼吸をし、やっとのことで店主に本題を切り出す。
「すみません、これ……」
 目も合わせようとしない――そりゃ、私の瞳はあまり直視すると精神に良くないけど――店主の前に、懐から取り出した例の縄を、素早く置く。あんまり、長いこと握り締めていたくなかった。
「これは……」
 店主は小説を閉じ、提示された道具を食い入るように見つめていた。何度か眼鏡を上下し、時折私の表情も窺う。勿論、今の私は他者に害を与える類の波を殺す遮光眼鏡を掛けているから、ひとまず何の問題もないのだけど。少なくともそれは店主に害がないだけのことで、私がじろじろ見られることに何の不快感も抱かない、ということにはならない。
 だから、あんまり観察しないで欲しい。
 でも店主の神妙な顔付きを見ると、私の一存だけで拒絶するのは、どうにも気が引けた。
「……失礼。妙なことを考えていたよ」
 そう言い、再び視線を外す。ほっとした。と同時に、失礼なことを考えていたのは私の方なんじゃないかと、今更になって省みる。
「最近、似たような話も聞いていたから」
 ぁ、と喉の奥が鳴る。言葉になりかけて、結局は雲散霧消してしまったけれど。
 当たり障りのない――私の生き方に影響しないはずの点と点が、あろうことか、ひとつの線に繋がってしまったような。沈痛な面持ちで俯き、小説の裏表紙に描かれた桜を見下ろす店主が、名前も知らない故人と重なって見えた。
 それこそ、無粋な錯覚だろう。
「君も、聞いたのかい。例えば、上白沢の」
 頷く。私が里の情報を得るには、上白沢か、稗田しかあるまいと踏んでいるらしい。我ながら、狭量な友好範囲で悲しくなる。
 店主は、おもむろに語り始めた。
「彼は仕事熱心な男で――この店にもよく訪れた。けれども、それは趣味と実益を兼ねていたのだろうね。彼の瞳はいつも爛々と輝いていたよ。外から流れてきた品物を通じて、知り得ぬ外の世界に夢を馳せていたのかもしれない」
 言いながら、店主も不意に夢追い人のような瞳を垣間見せた。滅多に店から出ることのない彼に過酷な冒険譚を求めるのは酷に過ぎるけれど、それでも、夢を見るのは自由だ。月を見るように、届かないものに手を伸ばすことは、誰にでも。
「葬儀は……」
 答えを知っていながら、いちいち確認する私は嫌な奴だろうなという自覚はあった。
 当の店主は気分を害した様子もなく、心なしか虚ろな表情で首を振るだけだったけど。
「あの雰囲気は、どうにも好きになれなくてね。尤も、友人に言わせれば、僕ほど葬式に似合う奴はいないみたいだけど」
 小さく肩を竦め、カウンターに置かれた首吊り縄を持ち上げる。私のように腫れ物に触る手付きじゃなくて、冷静に、価値があるか否かを検分しているように見えた。ここで言う価値とは、そのものずばり商品価値という意味じゃなく、つまるところ彼が興味を示すかどうかという意味だ。
 だから、忌まわしい品物であっても、彼が首肯する可能性は大いにある。
 曰くつきの、誰が作ったか、誰が使ったか知れない道具を押し付けることに――罪悪感がないと言えば、嘘になるけれど。
「さて、件の物品だが」
 閑話休題、と言わんばかりに、彼は首吊り縄をカウンターに戻した。あぁ、駄目だったか。なんとなく断られる気がしたから、あんまりショックは受けなかった。その代わり、縄の処分にはしばらく頭を悩ませることになるだろうけど。実際、もう頭が痛い。というか多分てゐに握られた耳がまだ痛いんだと思う。
 露骨に肩を落とす私の心を知ってか知らずか、店主は続け様に言葉を放つ。
「申し訳ないが、そこの釘にでも引っ掛けておいてくれないか」
「そうですか、わかりました……て、引っ掛ける?」
 持ち帰る、じゃなくて、引っ掛ける。要は、ここで首を吊れということだろうか。
 いやいくらなんでもそりゃあないと思うけど。ウサギだからって。
「別に、君に首を吊れと言っているわけじゃないよ。引き取るには引き取るけど、配置には気を遣う品物だからね。しばらくは、目立たないところにでも置こうと思って」
「はぁ……あ、ありました」
 カウンターの位置からぐるりと周囲を見渡すと、窓越しに映る壮健な桜と、窓枠の脇に打ち付けられた立派な五寸釘が見えた。言われるがまま、そこに縄を掛ける。だらりと垂れ下がった縄は、逆さまになると何を目的として作り上げられたものなのか、よくわからない。
「おそらく」
 独り言のように語り出した台詞に驚き、やや大袈裟な動きで振り返る。幸い、店主は再び閉じた小説に目を落としていた。窓の向こうに立派な桜が見えるんだし、どうせならそっちを見ればいいのに。折角だから、私は眼鏡を外し、窓を左右に開けた。肌寒い風が、店内に吹き込んでくる。
 背中に、低くこもる店主の語りを受けながら、私は桜の枝に留まる鳥の鳴き声を傾聴する。
「彼が落ちたのは、妖怪の山にある崖だった。死の宣告を受けてなお、人間には危険過ぎる場所を歩くのは自殺行為だろう――その意味から、自殺という線が浮上した。けれど、おそらく。彼が死んだのは、妖怪のせいでも、彼自身の絶望のせいでもない」
 くるくると舞う花びらは、青く束ねられた地面を桜色に埋め尽くす。風に枝がしなり、花びらが落ち、落ちた花びらが舞い上げられる。ウグイスの鳴き声が、右の耳から左の耳へと呆気なく行き過ぎる。
「じゃあ……あれは、事故?」
 尋ねる。お互いに、目も合わせない。後ろめたい話ではあるし、妖怪と半人半妖、睨み合えない事情もある。けれど、それ以上に、私たちはこういうふうに話し合うのが尤も自然なのだと、無意識のうちに理解しているからこうしているのだ。
 遠く――。
 私は月を、森近霖之助は、外の世界を。
 人知れず見つめているものの距離が、自分と他人を隔てている透明な壁なんだ。
「真実は、それこそ彼に聞かなければ知り得ないことだろうけどね。ヒントはある。ひとつは、彼が仕事熱心だったこと。もうひとつは、彼が薬屋を営んでいた、ということだ」
 椅子が動く音を聞き、慌しげに眼鏡を掛ける。
「折角だから、僕にも都合して頂きたい」
 私が振り返ると彼は、竹籠を指差し、皮肉るように呟いた。



3.



 幾分か空になった竹籠を抱えながら、私は、空を目指している。
 正確には幽明の境、冥界の白玉楼に続く長い階段を――いや、今日に限れば、非常に短いんだけど。
 数えてみると、十三段くらいしかない。
「うわぁ……ほんとだ……」
 龍の尻尾から人間の尾てい骨程度に縮んだ冥界の名物階段を見下ろしてから、私は空に浮かぶ冥界を覗き込んだ。本来はあまり行き来しちゃいけない場所なのだけど、要入りな場合は仕方あるまい。閻魔様だって、薬売りとなれば多少大目に見てくださるに違いない。多分。
「十三階段……か。死刑囚の」
 ぽっかりと空いた胸の空洞は、首吊り縄が消える以前から私の胸に空いていたものだ。が、長々と付き合っていると、いっそ穴が空いたまま生き続けるのも悪くない生き方であるように思えてくる。その選択が正しかったかどうか、清算を迫られるのは、きっと最期の瞬間なのだろうけど。
「――あぁ、いつぞやのウサギ」
 門の辺りをせっせと掃いていた少女が、気さくに挨拶する。魂魄妖夢。白玉楼に勤務する半人半霊の少女は、階段の方を頻りに振り返る私を見て、大仰に嘆息した。
「まぁ、十三階段なのは、贔屓目に見ても冥界ぽいと思うんだけど……」
 リボンの位置をやたらと気にしているのは、桜の花びらが髪に纏わりついているからだろう。私もそうだった。
 同情するように見上げた冥界の空は、やっぱり、桜の匂いがした。
『白玉楼に行ってごらん。面白いものが見れるんじゃないかな』
 香霖堂店主の言葉を信じ、私はのこのこと白玉楼に足を踏み入れた。
 とはいえ、無粋な好奇心を満たすことだけが目的だったわけじゃない。竹籠に薬があるように、私は薬を売りに来た。冥界は白玉楼、半人半霊の妖夢はともかく、亡霊となれば薬が必要になる事態そのものが想像できないのだけど、それでもなんとか行動に理由を与えなければならなかった。
 無粋な好奇心は、ひとつで終わりじゃなかったから。
「鈴仙、今日は何の用でしょう」
 白玉楼の庭を預かる者として、非礼がないよう丁重に構え、妖夢は告げる。
 私は少し口ごもり、舞い散る桜を背景とする少女に、今日何度吐いたか知れない台詞を口にした。
「お……」
「お?」
 妖夢は、首を傾げる。些細な仕草には、まだあどけなさが残っている。
「お薬、いかがすかー?」

 居間に通されると、正座して足が痺れる暇もなくお茶が運ばれてきた。
 器も几帳面に温められており、持つと、非常に熱かった。「うぉっちゃわぁッ!」て悲鳴が出たけど、茶碗を取り落とさなかった私は賞賛されてしかるべきだと思う。
「ご、ごめん! 温めすぎた!」
「ふぅ、ふぅー……」
 涙目で息を吹きかける私の手のひらに、妖夢はすかさずおしぼりをかぶせる。手の痛みが引くまで、妖夢は何度も何度も謝罪の言葉を繰り返し、しまいには切腹――までには至らなかったが、そうしてもおかしくない程度には思い詰めていた。
 真面目だなぁ。でも、真面目すぎると生きるのは大変そうだ。弛めすぎても駄目になるし、なかなか良い塩梅というものは見当たらない。
「本当に、大丈夫……?」
「う、うん……もう、治まったから」
 じんじんと内側から来る痛みはあるが、火傷そのものは軽い。妖夢も良くしてくれたし、跡が残ることはないだろう。患部に息を吹きかけると、まだ痺れるような痛みが走った。
「やっぱり、まだ痛いんじゃ……」
「もう、平気だってば……薬もあるしね」
 そうだ、薬はあるのだ。幸い、何の植物から採取したか不明な塗り薬があるから、それを塗れば――いいのかな。わからない。下手すると手のひらから蔦が生えてくるんじゃなかろうか。優曇華の花とか。
 やだなぁ、生きながら寄生されるの。
「駄目、やさぐれないで! お気を確かに!」
「――あら、珍しいお客さんね」
 焦りまくる従者と裏腹に、あくまで優雅に、白玉楼の亡霊が登場する。
 西行寺幽々子。明朗快活な亡霊として名高く、ふわふわ浮かび、ふらふら動く。一応は幽霊だから地上に降りることは滅多にないが、仮に降りてきても、好き好んで接触したくない存在であることに違いはない。
「ど……どうもこんにちは。私、しがない薬売りでおま」
 変な感じになった。
 けれど、流石と評していいものか、幽々子は全く動揺しない。
「いらっしゃい。丁重にお持て成し――は、妖夢が既にしちゃってるわね。ご苦労さま」
「いえ、当然のことですから」
「でも、その様子だと茶碗を温めすぎて彼女の手が火傷したみたいだけど」
「ぎく」
 ……鋭い。
 妖夢弄りを終えた幽々子は上座に腰掛け、妖夢は幽々子のために予め用意していた茶碗にお茶を注ぐ。周到である。幽々子も当たり前のようにそれを受け取り、湯飲み茶碗もちょうどいい温度に下がったせいか火傷もせずにお茶を啜る。
 不公平な気もするけど、概ねそんなもんだ。
「さて、ご覧になったように、うちにはお薬のご厄介になれるような者はあまりいないのだけど」
 ごもっともである。返す言葉もない。
 今更、隠し通す必要もないことはわかっている。眼鏡を外して、面倒になるような相手でもない。直視しておかしくなるのは、耐性のない人間だけだ。でも、これを外したら、余計なことまでぺらぺらと喋ってしまいそうだったから、私は結局そのままでいた。
 なけなしの勇気を振り絞り、痛む手のひらをちゃぶ台に置く。
「あの」
「はいはい」
 幽々子は扇を広げて、雅やかに扇ぐ。
「ここに、幽霊が来なかった……?」

 仮説だ。
 霖之助から与えられた情報、慧音が話した人物像が確かならば、相応の仮説は導き出せる。
 一人の男が死を宣告された。それは寿命だ。
 けれど、彼は頑なにありのままの姿で生きようとした。
 妖怪の山に何故行ったのか。崖から落ちた理由は何なのか。
 薬屋なら、滅多に人が踏み入らないところに生えている植物が必要になる場合もある。それが、妖怪の山にある崖の草花だった。そう考えれば、納得が行く。
 寿命なら、無理に足を運ぶ必要もなかった。けれど、彼は最期まで変わらずに生きることを選んだ。薬の材料を採るために、瀕死の身体で妖怪の巣窟に向かった。
 そして。

「幽霊なら、たくさん居るけど」
 幽々子が後ろの襖を開けると、わらわらうじゃうじゃ、風船のような幽霊たちがあっという間に居間を埋め尽くす。
「……」
「わ、わぁぁ! おまえら、もっと静かに、静粛にー!」
 聞いちゃいない。全く聞いちゃいない。
 彼ら、あるいは彼女らに遠慮と配慮という言葉は存在しないのか、ちゃぶ台を跳ね、身体を通り過ぎ、畳と襖と障子を縦横無尽に飛び回る。整理整頓、理路整然なんて四字熟語の欠けらもなく、支離滅裂、横行闊歩のオンパレードだった。目が回る。妖夢は何匹か白楼剣で叩き切っている……ように見えて、峰撃ちらしい。器用だなぁ。
 対する私は、針を突き立てられた風船のように飛び交う幽霊たちを前に、沈黙を保っていた。だが、徐々に我慢の限界が訪れ、ついに。
「お、ぉ……お」
「お?」
 幽々子が、呑気に反復する。
「多すぎるわー!」
 私は、眼鏡を剥ぎ取った。

 瞬く瞳は、忌むべき月を司る紅。
狂い、踊るは兎の遊戯。
 私が許す。
泣き叫び咆え狂い給え。
 『イリュージョン・シーカー狂視調律』

 世界は一足飛びに転変する。
 あれほど忙しなく動き回っていた幽霊たちが、私の側を通り過ぎた途端、見えない壁にぶつかったように部屋の隅に寄せ集められる。変化球なら粒揃いの魔球だらけだ。上を下への乱痴気騒ぎは、私という波が全てを飲み込み、跡形もなく消え失せた。後は、隅っこに集められた不恰好な風船たちが残される。
「……多すぎ。いくらなんでも」
「まぁ、そうよね」
 取り繕うように眼鏡を掛け直す私に、にこにこと食えない笑みで喋りかける。
 本気と冗談の区別が付いているのか、そんなものは生前の身体に置き忘れたのか、いずれにしても話が先に進まない。ため息の数なら妖夢に負けないと自負している私が、ついに他人の家でため息を吐こうかという刹那。
「例の霊なら、ほら、座布団みたいに積まれてる上から三段目の幽霊よ」
「……え?」
「ほら、早くしないと死ぬわよ」
「もう死んでると思うけど……」
「やぁねぇ、洒落よ洒落」
 幽々子はからからと笑ってた。
 私が積んだ座布団式幽霊の上から三段目を引っ張ると、その拍子に、幽霊式座布団が瞬く間にあちらこちらへ爆散した。一拍と一秒、間を置いただけなのに、例の霊を除く他の霊が居間から完全に消失していた。目を丸くする。
 幽霊は、打ち上げられた魚のように、びちびちと動いている。
「霊なんてものは、臆病なものなのよ。今だってほら、あなたの手から必死で逃れようとしてるじゃない」
 まぁ死んでるんだけどね、と付け加え、おもむろに湯飲み茶碗を傾ける。ちょうど空になった茶碗に、妖夢が急須を差し出す。見事なタイミングだった。
「でも、どうして……」
「んー、なんとなく?」
 身も蓋もない。
 生きている者と死んでいる者と、これほど意志の疎通が難しいとは。月と地球でさえ、一応は話が通じるというのに。
「あなたは薬を持ってきた。だから、薬臭い幽霊はどれか、最近送られてきた幽霊の中から選んだのよ。わざわざ。この私が」
 恩着せがましく宣言するのも、恨みがましいとされる幽霊の特徴なのだろうか。わからない。わからない、けど。
「……その、ありがとう」
「どういたしまして」
 お礼は六文で結構よ、と幽々子は手のひらを差し出す。その隣で、「幽々子様、今は全財産ということになってます」と妖夢が告げ口する。えー、と首を傾げる彼女の態度が洒落なのか本気なのか、もはや区別する意味もない。
 私は、傍らにいる幽霊と向き合った。
 冥界だからなのか知らないが、春なのに、酷く冷えた。
「あの……」
 幽霊が発する波にも、独特の波長がある。
 通例、幽霊は言葉を発せないとされる。だが、厳密に言えばそれは誤りだ。彼らは、私たちの知らない言語で立派に会話しているのだ。例えば三途の河の渡し守は、幽霊と意志疎通が可能な人物である。彼女は距離を操り、そして私は波を操ることで、生と死の境界を一時的に拡縮する。
 波長を重ね、耳を澄ます。視聴可能な範囲を幽霊のそれとリンクする。
 冥界からの声が聞こえる。私もまた、死人の声で語りかける。
 それは、月の交信に似ていた。
「暇ねー」
「暇ですねえ」
 会話は続き、亡霊と従者は固唾を飲むこともなく談笑しながら私たちを見守っていた。お茶は何杯注がれただろう。お茶請けは何回運ばれただろう。私は初めの一杯のみだったが、妖夢は主のために居間と台所を何度も往復していたようだ。
 日は傾き、見事に咲き誇る桜花を橙色の斜陽が散り散りに焼き尽くす。
 やがて全てを語り尽くした幽霊は、ふわふわ、ゆらゆら、頼りない足取りで冥界の空に舞い上がって行った。
「終わり?」
「はい」
 ここは、丁寧に頭を下げる。妖夢は、つられるように会釈したが、幽々子は相変わらずにこにこと微笑むだけだった。最初から最後まで笑い通しだったから、ちょっと気味が悪かった。
「お世話に、なりました」
「いえいえ。何か思い詰めてたみたいだったし、気が晴れてよかったわ」
「……そうなの?」
 妖夢に問えば、きょとんした顔をする。あれ。
 もう一度幽々子を見れば、彼女はやっぱり、掴みどころのない顔で笑っていた。

 竹林を行く私に降り注ぐのはもはや散りゆく桜の花びらではなく、燦々と、皓々と輝く大仰な満月だった。
 竹籠は軽く、懐に不吉な道具を後生大事に抱えることもない。心は晴れやか、であるはずだった。里に降りたことで生じた疑問も解消した。慣れない幽霊との対話で、自分もまたどこか幽霊のような心持ちになっているかもしれないけれど、表面上はそれを悟られることもない。
 行きと同じく、帰りも歩き。飛べば早い。余計なことを考えずに済む。眼鏡はとうに外している。たとえ見知らぬ誰かと視線が合っても、この満月の夜に迂闊に出歩く方が悪いのだ。竹籠に突っ込んだ眼鏡が、かたかたと軽い音を立てる。気付いたら既に壊れていそうな、淡く切ない音。
 歯噛みする。
「おかしいなぁ……納得してるはずなのに」
 長い耳はへたりこんでいる。気分と関係なしに、私の耳は普段からこんな感じだ。気に病むことはない。聞こえよがしに響き渡るフクロウの鳴き声が、如何にも不吉だなんて思っちゃいない。
 帰ろう。
 幸い、今の私には、帰れる場所があるのだから。
「……うん」
 軋み、痛む胸を手のひらで押さえ付ける。すっかり冷めた火傷の残りかすが、神経の裏側で燻っていた。
『絞首刑の縄、十三階段。それらが幻想郷に流れ着いた理由として考えられるのは、外の世界には、既に死刑制度は存在しないということだ』
 店主の言葉を思い返す。仮説に過ぎない理論も、今の私には、信憑性が高いものに感じられた。
『あるいは、自殺する者が極めて稀となったか』
 それは、多分嘘だ。
 確証はないが、きっと、嘘なのだと思った。
 幻想的な月のウサギだって、一度や二度は首を吊ろうとしたことがあるんだ。嫌になるくらい広い土地で、それを思わない者がいないはずがない。
 いずれにしろ、夢のない話だけれど。
 紅い瞳は暗闇に慣れ、月の明かりも視界を助ける。均された道には、踏み潰された桜の花びらが散らばっていた。その様相と、崖から落ちた、顔も名前も知らない誰かを重ねる。
 幽霊は、声無き声で語った。
 あれは、事故だと。
 恨むべき者も祟るべき相手もいない、ただの老いぼれの過失なのだと。
 馬鹿なことをしたものだと、後悔する様子もなく、告げた。
「仮に」
 あの幽霊は、今も白玉楼に留まっているのだろう。振り仰いでも立派な楼閣は見えないけれど、死した者がみな天に昇るのなら、空を仰ぐのも無意味なことではないように思えた。
「彼に恨みを持った者が、妖怪の山の崖にある植物から、薬を作って欲しいと言ったら……」
 それでも、彼は行っただろう。逆恨みされていると知りながら、薬屋としての依頼は断らない。
 思い出す。
 私が薬を卸していたのは、彼の店だった。私は彼の顔を覚えているはずなのに、その輪郭は酷くぼやけていた。
 ――くだらない。そんな妄想。
 立ち止まる。心臓の鼓動が速まっている。心なしか、頭も熱い。
 気晴らしに見上げた空にはまんまるいお月様が、気まずくて目を逸らした先には目も眩むようなお星様が、やたら綺麗に並べられていた。
 けたたましい野鳥の鳴き声が、耳に障った。
「なんだよ……」
 急に、自分の立っている場所が危ういものに思えた。瞬きをすれば、肩幅しかない柱の頂上に立ち竦んでいるような。一寸先は闇だ、これからも、これまでもそうだった。なまじ波を操ることが出来るもんだから、私に都合の良い情報しか集めていなかったけれど、本当は。
 本当なら。
「結局、何も変わらないじゃないか……」
 死ぬんだ。
 どこにいても、誰と話しても、どんな生き方をしても。
 誰も彼も、その結末から逃れられやしない。逃げ出しても、立ち向かっても。
 たとえ、永遠を称する薬があったとしても。
 ――きぃん、と耳鳴りがした。
「嫌だなぁ……」
 嫌な気分だ。師匠が私の部屋を訪れた瞬間より、ずっと陰鬱になった。忘れていたはずの嫌な思い出が、胸の奥に穢れた腕を突き入れられて、ぐちゃぐちゃに掻き乱された挙句、引きずり出されて公衆の面前に晒されたような。
 帰りたくなかった。
 こんな調子で永遠亭に帰れば、てゐに酷いことを言ってしまいそう。師匠にも、あるいは姫にも心無い暴言を吐きそうだった。それでも、帰る場所はひとつしかない。私が選んだ場所。拠り所になっている場所。家。
「家……か」
 家、なのだろうか。
 私が、勝手にそう思っているだけじゃないのか。
 よく、わからない。
 そんなことを考えながら、私の足は、勝手に永遠亭がある方向に進んでいた。

 不恰好に生え揃った竹林を掻き分けた先に、永遠亭が清楚に構えている。純和風建築――というには妖の手が入り過ぎているけれど、雅さは全く失われていない。ただ、若干広く、やや住みにくい。隠し通路とか落とし穴とか、住民に無断で改築するからである。てゐが。
「はぁ……」
 行きと同じか、それより重たい足取りで引き戸に手を掛ける。内側からこぼれる明かりは、満月の光とどっこいどっこいのようで、やっぱりどこか温かい。それも、錯覚に過ぎないのだろうか。
 疑い出したら切りがないから、一気に力を込める。ふん。
 ――がきょっ。
「……あれ?」
 何度引き戸を引いたところで、扉は全く開く気配がない。試しに押してみると、構造的にまずい音がした。捻るべき取っ手もなく、開けゴマ、と唱えたところで自分が惨めになるだけだった。
「あぁもう……」
 がっくりと疲れた肩を落とす私の視界に、一枚の張り紙が飛び込んでくる。
『桜餅 完売』
 らしい。
 達筆だった。
「はいはい、わかりましたよ……」
 てゐの仕業に違いないと知りながら、今は血液を沸騰させて怒り狂う気にはなれなかった。それより、早く眠りたい。嫌なことは忘れるに限る。本当は忘れちゃいけないことだしても、抱えながら生きていくには、あまりに重い。
 少なくとも、私には。
「……中庭から、入れるかな」
 庭園は廊下に面している。流石に、その全てを閉め切ることが可能だとは思えない。引きずるような歩みが若干延びたことを憂いながら、私は永遠亭の中庭に赴いた。
 一歩、一歩、柔らかい地面を踏み締める。花びらを潰し、土くれを蹴飛ばす。
 早く、部屋に行かないと。途中で誰かに会えば、変な行動に出てしまいそう。どんな表情をしているかわからないから、怖がられたり、嫌がられたりするかもしれない。その意味じゃ、玄関が閉鎖されていたのは不幸中の幸いだった。
 白壁に沿って、中庭を覗き込む。
 朝と似て、不確かな風に揺れる桜と、打ち捨てられた杵と臼が、冷たい風を受けている。夜の光が、それら全てを淡いモノクロームに染め尽くしていた。
 黒い空と月の光の対照は、幻想の匂いがする。
 ゆっくりとその空気を吸い、身体の中にある穢れたものの一緒に吐き出そうとして。
「――――あぁ」
 桜の枝に掛けられた首吊り縄と、無骨な椅子の上に立つ姫――蓬莱山輝夜の姿を、余すところなく照らし出すのが見えた。

 世界は、一足飛びに転変する。

「姫――!」
 頭の内側からシャッター音が響く。姫が振り返る。コマ送りのように連綿と続く視界が、完全なモノクロームに移り変わる。獣の視界は白黒だ。思えば能力を発動する際は色の認識が曖昧になる。極まった紅はそれ以外の波長を消す。瞳の奥に、ごろごろした塊が蠢いている。能力を使うたびに肥大するそれは例えば膿のようなもので、例えば、いつの日か私を支配する邪悪なウィルスなのかもしれなかった。
 だが、紅い視界は私と共にある。波長は歪み、私の瞳を覗き込んだ姫もまた、三半規管に異常を来たした。
「――わっ」
 よろめき、椅子から落ちそうになる。私は既に駆け出していた。私の足元から、玉砂利が、花びらが、消し飛ぶように跳ね上げられる。身体は重い。後ろに行き過ぎる黒い景色は、むしろ私を安堵させた。踏み込むたびに跳ね返る固い地面もまた、私が生きている場所の確かさを暗示しているようで、心地よかった。
 体勢を崩し、なんとか堪えていた姫がついに椅子から転げ落ちようという刹那。
「姫……!」
「きゃっ!」
 浮いた姫の身体を、私の腕がすんでのところで受け止めた。じぃん、と手のひらが痺れる。
「あ、イナバじゃない」
 必死だったから、返事は出来なかったけど。姫は、とてもじゃないけど、私より思い詰めた表情をしているようには見えなかった。
 勢いを殺せぬまましばらく走り続けて、何本目かの桜を通り過ぎた辺りで、ようやく停止する。腕の中にすっぽり収まっていた姫を降ろし、今更になってがくがくと軋み始めた膝を押さえ、荒く呼吸を繰り返す。辛い。泣きそう。
 姫は、手前勝手な真似をした私に謝礼や叱責をくべることもなく、ぼんやりと佇んでいるようだった。全く、お偉いさんは、気楽でいいなぁ。
「イナバ、ちょっとイナバ」
「ぜぇ、はぁ……んぅ、は、なんでしょう……」
 叩いているのか擦っているのか、あまり私の身を案じている様子もない姫が、私の背に触れたまま向こうの桜を指差す。
「永琳から、あなたが首吊り縄を見つけたと聞いてね。こしらえてみたわ」
 ほらあれよ、と例の桜の枝を指す。胸を打つ激しい鼓動に吐き気をもよおしながら、姫が製作立案した首吊り縄を確認する。よく見れば、木製の椅子もまた手作りのようだった。脱ぎ捨てられた靴の上に遺書があれば完璧なのに、と思い、それは投身自殺の方だろうかと考え直す。まあ、どっちでもいい。
 どうでもいいんだ。
「でも、すんでのところで気取られてしまったわ。そういうものかもしれないけど。自殺なんて」
「はぁ……」
「気付かれたいのね、己が背負っている物の重さを。縄と、自分を天秤に掛けて」
 つい、と首吊り縄を見やる。
 姫が何故私にそのようなことを言うのか、わかったような、わからないような……ただ、その言葉だけを心の穴に詰めた。
「あなたは、どう思う?」
 尋ねられ、朦朧とした意識の中で、なんとか意味のある回答を模索する。でも、言葉を飾ろうとすればするほど、なんとも胡散臭い仕上がりになりそうだった。仕方ないから、私は、感じたことを素直に口にした。
「私は、姫を見たら、つい頭がカーッとなって……それで」
 誰かが死ぬのを見るのが嫌だった。見ることで、死を思うのが嫌だった。
 多分、それだけなんだ。
「優しいのね」
 姫は微笑む。
「いえ、そんな……そんな、つもりじゃ」
 咳を挟む。いい加減、床に就きたい気分だった。
「思ったんだけど、鈴仙」
 イナバから、鈴仙に変わっている。意味があるのか、気紛れか、どっちにしても、私は私だ。
 火傷した手のひらが痛い。心臓が軋んでいる。生きている音がする。
 そんなことが、無性に嬉しかった。
「あれ、そのままにしておいたら、朝にはウサギが掛かってるかしら。頭から」
 それは、きっと無理です。
 残念ね、と残念がるふうでもなく、姫は言う。程なく、騒ぎを聞き付けた師匠とてゐが、予め待機していたんじゃないかというタイミングで登場した。本当、間が良すぎる。
「鈴仙、おかえりなさい」
「お帰りー。桜餅、残ってるよー」
 完売したんじゃなかったのか。でも、食べられるのなら、甘えよう。
「只今、帰りました……薬、売れましたよ。全部」
「そう。ご苦労さま。その様子だと、縄も押し付けることが出来たみたいね」
「押し付け……まぁ、そうですけど」
 否定はしない。
 私が、嫌なことから目を逸らそうとしたのは確かだ。それは認めなくちゃいけない。かくて首吊り縄は香霖堂に委譲されたのだけど、結局、首吊り縄は永遠亭の中庭に引っ掛けられている。姫の特注だから、首を吊ってもすぐに落ちちゃいそうだけど。
 しばらくは、あの縄を視界に入れながら生活しなくちゃいけない。憂鬱だ。ため息と一緒に肩を落とせば、同情するようなてゐのにやにや笑いと、師匠の含んだ笑みと、姫のいいこと思いついたみたいな笑みが一度に降り注がれた。
「はぁ……」
 見上げた空には、ぼんやり霞む月が漂っている。
 そういえば、今日はたくさん桜の花びらが舞っていた。
 そんな、他愛もないことを考えた。



4.



 いつか、死神と話したことがある。
『自殺なんてしませんから、さっさと自分の仕事に戻ってください』
 それから、閻魔様と出会って。お話して。
 いろいろある。いろいろあった。
 今までも、これからも。
 ……でも、やっぱり。
 ねえ。

 かつて、永遠亭は幻想郷で孤立していた。その理由は姫と師匠の人となりから説明しなければならず、面倒なので省略するが、要は、宴会だお祭りだと言っても永遠亭の妖怪ウサギや野ウサギくらいしか参加者がいなかったわけだ。
 でも、今日は。
「おらおらもっと酒持ってこーい!」
「瓢箪ならあるよーぃ」
「ぐあがぶばばばば!」
 萃香は瓢箪の口を魔理沙の口にそのまま接続し、それを見守る巫女とその他大勢の妖怪、毎度幻想郷をお騒がせしている方々が永遠亭の中庭に勢ぞろいしている。流石に白玉楼が誇る二百由旬の庭には遠く及ばないが、彼女ら全員を受け入れられるだけの余地はある。無論、ウサギや幽霊もだ。
 それぞれが陽気に花見を楽しんでいる中、私、鈴仙・優曇華院・イナバはというと。
「あぁ、鈴仙」
「あ、先日はどうも」
 中庭のど真ん中、へそと言っても過言じゃないくらいの中心地に立っている奇特な私に、上白沢の慧音さんが声を掛けてくれた。しかも私、ちょっと高い椅子の上に立っているもんだから、何もしていないのにやたらと目立つのであった。こっぱずかしい。
「何をしているんだ――と、聞くのは無粋かもしれないから、聞かないが」
「それ、聞いてるようなもんですから……」
 脱力する。慧音は笑っていた。他人事だと思って、てゐなんか指差しながら笑い転げてたからね。今もこっち見てにやにや笑ってるし。
 実際のところ、私が椅子の上に立っている理由は、晒し者の他にももうひとつあるのだけど。
 今の慧音は、きちんと正装している。喪服にあった神妙なイメージは影も形もなく、串に刺した八目鰻をかじりながら、あちこちに聳えている桜木をのんびりと眺めていた。
「願わくは」
 彼女の瞳は、桜の下で必死に餅吸いをしている妖夢に向いていた。白玉楼の階段も、元に戻ったそうだ。なんで餅を吸ってるのかは知らない。
「彼の御霊も、美しい桜を見ることが出来たら」
 ふよふよと、あちこちに浮かぶ幽霊を一瞥しながら、そっと呟く。彼女はもう片方の手に持っていた八目鰻を私に手渡そうとして、それが素早くてゐに掻っ攫われたことを知ると、腕捲りをしててゐが逃亡した方に歩き出して行った。
 亡くなった薬屋の話は、ついに聞かなかった。
 遠ざかる慧音の背中を目で追えば、口から引き抜いた瓢箪を森近霖之助の枡に差し出している魔理沙の姿があった。
「ほら、遠慮せずに飲むんだよ。辛気臭い顔して家に閉じこもってるから、自殺なんて考えるんだ。飲め飲めぇ」
「だから、自殺なんかしないと言ってるじゃないか……誤解だよ、誤解」
「ばっか、なんも考えてない奴がご丁寧に首吊り縄なんざ編むわけないだろうが! ほら飲め!」
「……結局、飲む口実が欲しいだけなのね」
 巫女が的確な意見を述べ、全くだ、と肩を竦める香霖堂店主が渋々枡を傾ける。
 途中、店主と偶然にも目が合い、彼が気軽に挨拶しようとしたら――あ、眼鏡掛けてないや――、私が意識する間もなく、後ろ向きに昏倒した。
 魔理沙が楽しそうに喚き、巫女の制止も聞かずに彼の口へ瓢箪を突っ込んだ。
 呑気なもんだ、いろいろと。
「はぁ……良い天気だなぁ」
 快晴だった。
 騒霊が華麗なアンサンブルを奏で、鰻を焼き終えた夜雀が過激なライヴパフォーマンスを繰り広げる。酔っ払った人間が呂律の回らない野次を飛ばし、炎が舞い、花びらが凍り、死神の鎌に雷が落ちた。
 ウサギが跳ね、ウサギが踊る。
 そして私は、桜吹雪の中心に。
「きれい……」
 くるくると舞う。
 私の瞳に、桜が映る。

 ――ざぁ、と花びらが鳴く。
 ふらふら、自由に漂っていた花びらが、私の号令で、きちんと整列する。
 風を失い、宙に留まる花びらは、宇宙に散りばめられた星々のよう。
 再び、さぁ、と花びらが鳴く。
 私が回れば、花びらもまたくるくる回る。
 それは仮想のプラネタリウム、一日を期に回り続ける星の宴。
 古い花びらは地面に落ちて、また新しい花びらが私を中心にくるくると舞う。
 誰かの器に花びらが落ち、誰かの髪の毛に花びらが付く。
 私もまた花びらを纏い、花びらの中に埋もれる。
 今、この瞬間だけは、誰もが言葉を失い。
 私の目が回るまで、しっかりと、桜の花びらだけを見つめていた。

「――あっ」
 全てが終わって、私は椅子から転げ落ちていた。
 椅子の上に立っていたのは、花びらを操作しやすくするためだけど、やっぱり、慣れないことはするもんじゃない。ぐわんぐわんと歪む視界は、私の上に降り注ぐ桜の花びらも適当に映していた。きれいなのに、なんだか勿体ない。でも、仕方ないか。姫に言われ、師匠に薦められて、私も良案だと思ったんだ。
 くるくると舞う花びらが、生きて、死んで、また生まれ来る命のように思えたから。
 輪廻転生の欠けらを、傲慢にも、桜の花に見た。
 春に咲き、夏を生き、秋に散り、冬に眠る。そんなことを何年も何十年も繰り返す命が、小さなことに悩んでいる私の道しるべになるような気がした。今は、選ぶべき道さえもわからないけど。
「うぷぅ……」
 お腹の底から湧き上がる気持ち悪さが、春の空に溶けてゆく。
 遠く、再開されたライヴが聞こえる。先程と異なり、落ち着いた、透き通るような旋律だった。
 茶碗を箸で叩く音、酒を呷る音、餅を搗く音。騒がしく、生きた音が耳に飛び込んでくる。
 桜の枝には、まだ首吊り縄が掛けられている。でも、それを気に病んで酒が滞る者はいない。香霖堂に首吊り縄があったって、お客の数に影響することはないだろう。だとしたら、気に病んでいた私は一体何だったのか。馬鹿みたい。
「馬鹿じゃないの……」
 面白くもないのに、笑いが止まらなかった。
 私は、これからも悩み続ける。悩みながら、生きて、生きて、生きて、それから死ぬんだ。
 そしてまた、この世界に生まれることができるどうか、今はわからないけど。
 くるくると舞い、踊りながら。
 この瞳で、遠く、届かない月を見つめて。
「……ばか」
 吐き捨てながら、めいっぱい空に手を伸ばし。
 掴もうとした太陽は、なんだかすこし、ぼやけて見えた。






 

 

 

 



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2008年3月8日 藤村流

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