ルックイースト・プロジェクト 後

 

 

 




彼女の昔話

 さて、彼女はこの世界をそれなりに好いてはいたが、だからこそ不満点も多々として抱えていた。
 まずこの世界にはでこぼこが多すぎる。山道や坂道もそうだし、道を遮る水溜りに、流れる河川。渓谷。山河。うっそうと茂る森。通る気すら湧かない悪路。そう、それら障害物が余りにも多いのだ、この世界には。もちろん避けるなり周るなりしていけば目的地にはつけるのだが、それでは必要以上に時間を取られ体力を消耗してしまうではないか。それに彼女は綺麗好きだったし、前述した通りこの世界のことも嫌いではなかったから、もうちょっとばかしこの世界を綺麗にしてみたかったのである。

☆ ☆

 稗田家の従者で朝当番をやりたがる奴はいない。
 当主さまである稗田阿求の寝起きが余りにも悪いからだ。まず前提条件として、起きない。前日に宣言した起床時間通りに起きることはまずありえない。おまけに、ちょっとやそっとの揺すった怒鳴ったくらいではぴくりともせず、本気で目覚めさせたかったら、思い切り助走を取って蹴りを入れるくらいしないと駄目である。
「阿求さまー」
 稗田屋敷。今日もそんな阿求の餌食になるべく一人の従者が朝当番を務めている。不幸なことに快晴適温の心地よい日和だ。こんな日の阿求は息もせずに深く寝入っているのが常。
「……」
 阿求の寝室、障子の前で、従者はごくりと喉を鳴らした。まるで自分の眼前に配置されている書院造の部屋がウツボカズラのように思える。
 五回だ。
 五回目の朝当番を務めると、その従者は淑女の精神を失うと聞く。通算五回目の蹴りを阿求さまにぶち込んだ所で、淑女などどうでもいいという人生これ悟りの境地に達するためであるという。
 そして彼女は、今日で最初から数えて五回目の朝当番だった。だから事実上、目の前の部屋が食虫植物にしか見えないわけで、それはまた圧倒的に正しい形容詞といえる。もちろん虫の役は自分しかいない。
「ままよ」
 覚悟を口に出すと少しばかり安心が出来た。一歩二歩三歩と後ろに助走を取る。利き足にありったけの力を流し込んで短距離を駆け込んだ。
「阿求さま! おきてください!」
 鋭く乾ききった音を立てて開かれる障子。従者の勢いは止まらない。整理整頓されているとはとてもいえない六畳ほどの畳部屋を、まるで隼のような速度で駆け抜ける。その勢いのまま右足を大きくスイングバックし、蹴り飛ばす目標を確認。目標は仕事用の机に座って筆をさらさらと――
 ……座って?
 従者に真実を認識することは限りなく困難な作業だった。何故なら、走り出した質量は止まるのにも相応を要するからだ。だから結果として見れば凶悪な速度を持った従者の右足ももちろん止まることはなく、
「あ、どうです、今日はちゃんと起きて――」
 振り返りながら笑顔でそんな声を掛けてくる阿求さまを思いやる術は既に存在していなかったのである。
 稗田家に、アマガエルのような呻き声が響いた。


「首がもげるかと思いました」
 とは阿求の弁。
「すみませんすみませんすみません……」
 部屋の中央、従者は必死で土下座している。
 そんな従者の様子を見て、阿求は、ああいいよいいよと、ひらひらと手を振る。従者の蹴りは芸術的なくらい首筋に決まっていたのだが、阿求は部屋を二周ほど悶絶し転げまわっただけだった。ちびこい体に似合わないほどの耐久力である。
「そんなに私が起きないと思いましたか?」
 苦笑いで聞いてくる阿求。はいその通りです、と答えたかった従者はさすがに自重した。
「い、いえ……だって阿求さま、今日は地獄へ転生の刻印を頂きに行く、大切な日ではないですか。絶対に起こさなくてはいけないと気を張ってしまいまして……」
 彼女の言う通りである。今日は、阿求が転生の儀。地獄へ転生の許可を頂きに参る重要な日だったのだ。地獄の事務手続き受付時間は非常に早朝であるからして、今日の阿求は並外れた早起きを要求されていた。つまり、阿求が起きているとは夢にも思わなかったのである、従者は。
「ああー……」
 なるほどなるほどと頷いて見せた阿求。その動作は非常に緩慢で緊張感に欠けるものだった。
 従者には疑問が沸く。地獄へ向かって死ぬ契約を履行しに行くのだ、もうちょっとくらい怯えて見せたっていいのではないかと。
「それなのですが」
 話は続いていたようだ。阿求はぴっと人差し指を立てて、従者へ向い言う。
「地獄とは別の大事な用事ができましたので、今日はそっちへ行ってこようと思います」
「……は?」
 従者はぽかんと口を開けてしまった。阿求の言葉は全くの意味不明である。そもそも地獄の契約より重い用事など、この世にどれほどの数が存在しているというのか。
「あ、阿求さま……? だって、今日行かなかったら、きっと阿求さま転生できなくなっちゃいますよ……?」
「それはそれで」
 阿求はざっと立ち上がった。荷物を持ってすたすた部屋を出て行く。それが余りにも自然な動作だったから、従者はうっかり止める機会を失ってしまったのである。
「では、行ってきます」
 あの阿求さまが早起きして見せたのだ。
今日は嵐になるだろう、と従者は思った。

☆ ☆

 地獄である。
「四季さまー、件の人間、まだ来てないみたいですよー」
 四季映姫は冷静だった。
「もうこないんじゃないすかねー?」
 実に冷静だった。
 何故なら今の四季はもう新米閻魔ではないからだ。ここ幻想郷の超越者を千二百六十年も務めている。大概の不測自体は経験してきたし、またそれを処理もしてきた。年季が違うのである。
「おおお落ち着きなさい小町」
「怒りで台詞が震えてますよ四季さま」
 だから映姫は冷静に対処法を考える。
 なんだったか。確かこんなことが、昔にもあった気がするのだ。そのときの映姫はまだ新米で、今ほど沈着でもなかった。自己評価を述べていいのならば、当時の自分がスッポンなら今の自分は大きなスッポンである。
「小町、件の人間の名前は」
「稗田の阿求です」
 映姫は頭を抱えた。大体全部のことを思い出したからだ。
「地獄の契約に遅刻してくるなんて大馬鹿者は彼女以来ですね……」
「私いっつも余裕で遅刻しますけど」
 とりあえず小町は十王裁判で満足したようなのだが、映姫の冷静さはとどまる所を知らない。
「冷静によくよく当時を思い出してみると」
「はい」
 ある種の確信でもあった。実際、そいつは簡単なからくりであって、気付くのにもそう手間はかからない。そう考えるのならば、やはり当時の映姫は冷静でなかったといえる。
「確か彼女を遅刻させたのは八雲紫でしたよね」
「……そんな感じだったような気がします」
「……」
「……」
 映姫と小町の間になんとなく漂う疲弊感。その空気を持って、今回の件に関する対処法は全く持ってあっさりと滞りなく冷静に決着したようだった。
「小町、八雲紫に伝令。『稗田阿求をさっさと地獄まで連れてきなさい』」
「え、いや、でも四季さま。さすがにまだ今回の件が八雲紫起因かどうかは……」
「じゃあこう伝えなさい。『稗田阿求で遊んでるならさっさと連れて来い。そうでないなら探して連れて来い』」
 うわあ……、というような表情の小町。しかしまあ年季を帯びた閻魔様の眼光には勝てないわけで、彼女に出来ることといえば溜め息くらいのものだった。
「はいはい……じゃあ、八雲紫へ……と」
 やはり死神の能力は物理的な距離を縮めることでしかなく、場当たり的な回答と真実との距離は余計に開いていくしかないのであると。

☆ ☆

 八雲紫は眠かった。
 当然だ、彼女はまだ冬眠から覚めたばかりであったし、またそれ以上に、根本的なやる気というものがなかった。しばらくは此処マヨヒガの寝室でぐったりと惰眠を楽しむつもりだったし、また、その程度の幸福を邪魔する輩も彼女には存在し得ない。
「あー……」
 紫は布団を頭まで被り、意味のないうめき声を上げる。彼女に聞いてみるといい。この世で最高の幸福を感じる瞬間はいつか。それは二度寝する瞬間以外にありえないのだった。
「ぐぅ……」
 と、まさにその幸福が訪れようとする瞬間だった。けたたましい音を立てて障子が開く。
「紫様! 大変です!」
 式の藍である。
 いつも可愛がっているペットみたいなもんであるが、今日ばかりはそうもいかない。スキマ妖怪八雲紫、眠りと覚醒の境界は何よりも大切なものでありますから。
「らぁん……お仕置きはなにがいぃ……」
 だがしかし悲しいかな、寝起きでろれつの回らない紫の言葉は大した威力を成さなかったらしい。式の弁論は当たり前のように垂れ流されていった。
「地獄からの伝言ですよ紫様! 『拝啓八雲紫様、四季さまが怒って真っ赤に咲き乱れるこの時期に何してるんでしょうか。稗田阿求がいたらさっさとこっちによこしてください。草々』、だそうです。紫様? 聞いてますか紫様―?」
 阿呆かと。
 紫は思った。
 稗田阿求と睡眠とどっちが大切なのかと。
 やはり眠そうな、ろれつの回らない声で返す。
「稗田のなんてここにはいないし……閻魔さまと会う気もありません……って返しておいて……」
「はあ、了解しました」
 やはり式は式であるからして紫の命令は絶対である。素直に頷いた藍は、とととっと廊下を駆けていった。
 あろうことか、障子を閉め忘れて。
「うあー……」
 布団を被っていても透けてくる昼の日光に、紫は悶絶した。もう駄目だ、藍の野郎、完全に折檻を欲しがっている挙動だあいつは……。
 そこからの紫は、眠ろうとする理性と起きようとする野生との戦いであった。辛く激しい消耗戦だったが、さんざんの寝返りを駆使した末で紫の理性は勝利する。襲ってくる怠惰な眠気は美酒の味である。ようやく二度寝という勝どきをあげられるのだ。戦争の末に得る物はいつだって甘い。
「ぐぅ……」
 と、まさにその幸福が訪れようとする瞬間だった。けたたましい音を立てて障子が開こうとしたが既に開きっぱなしだった。
「紫様! 大変です!」
 殺ろうか。
 それが紫の素直な感想だった。
「藍……」
 ぎらぎらとした眼光を藍へ向かって投げた、つもりだったのだが眠気のほうが勝っていたらしく、大した脅しにもならなかったようだ。自らの式である八雲藍の伝令は当たり前のように並べられるのである。
 が、
「稗田阿求が尋ねてきました」
 ぶっ、っと紫は噴きだしてしまった。
「……え? は? 稗田のがかしら」
 今日初めてろれつの回っている言葉を吐いた紫。あまりの今さっきぶりに、眠気も吹き飛んでしまったらしい。
「はい、紫様との面会を求めています」
「……はあ」
 なんだったか。稗田の阿求か。
 確かに紫は稗田の御阿礼と少なからぬ縁を持っているが、九代目と会ったのは、幻想郷縁起が完成間近だと聞き、内容を検めに行ったあのとき一回だけである。今代では特に大きな事件もなかったし、自分が積極的にするべきこともなかったからだ。逆に言うのならば、何も大きな事件がなかった、という事実が、今まで紫が見てきた幻想郷にとっては大きな衝撃ではある。
「……で、何の用件だって?」
「はい、それなのですが」
 藍は朗々と稗田阿求の用件を述べた。
 紫はそれを聞いた。一言一句残さず耳に入れた。よくよく噛み締め、その意味を理解した。深く理解した。誰よりも理解したのだ。阿求自身よりも。
 そうして、紫は返した。
「……はいはい、分かったわ」
 藍に折檻する気も萎えてしまった。そういう意味で言えば今日の藍はツいていたと言える。この先百年程度は不幸の連続であろうくらい。
「稗田阿求をこちらまで連れてきなさい。連れて行ってあげるから、って」
 そう言って、紫は喉が見えるくらいの大あくびをした。寝たいという理性を起床と言う自然な野生で押さえつけた。
 戦争は、野生が勝利したのだと言えた。

☆ ☆

彼女の昔話2

 さて、この世界をちょっとばかし綺麗にしてやろうと決めた彼女のとった行動は、『この世界』を論理的な観点から丸裸にしてやろうということだった。でこぼこが存在するということはどういうことか。それはすなわち不自然であるということだ。彼女の知る限り、この世で一番明白であり、平坦であり、そして美麗であり綺麗であるものは論理意外にありえなかったのだ。考えてもみろ、式はいつだって百人が百人納得できる答えを出してくれる。そんな自明な概念が長い歴史の中で他に有り得ただろうか。
 世界を論理で丸裸。それを実行するには正に膨大で気の遠くなるような計算と、悠久にも近いような時が必要だった。が、しかしまあ、彼女には才能があったし、努力も惜しまなかった。何より彼女はこの世界が嫌いではなかったのだから。

☆ ☆

 マヨヒガ。紫の住処。
 まるで平屋建てのような家屋に招待された阿求は、きょろきょろと廊下を見回した。
 自分の前には九尾の狐の後ろ姿。八雲紫の座敷まで案内してくれているらしい。
 もしかしたら。
 と阿求は思った。
 もしかしたら、長い御阿礼の歴史の中でも、八雲紫の住居に来たのは自分が初めてであるかもしれない。八雲と稗田はそれなりに縁があるような気がするが、どちらかといえば稗田はちょっかいを出される側である。
 今回は、ちょっかいだしちまった。
 油揚げぶら下げて歩いてたら本当に狐はやってくるんだなあと、今更ながら自分の知識量に誇りを感じる。油揚げ代を無駄にしない程度の誇りだ。
「こちらです」
 廊下、突き当りの部屋の障子が開かれる。中にいたのはもちろん八雲紫なのであるが、どうやら着替え中だったらしく半脱ぎだ。彼女は、あら失礼、と気にした様子もなくこちらに一見をくれてから、手早く着替えその場に座った。
「いらっしゃい稗田の。挨拶はいらないわ。用件と要点だけお聞かせ願おうかしら」
 いつものように微笑とにやけの中間地点を成した笑顔。式の八雲藍から大体の事情は伝わっていると思うのだが、どうも阿求の口から直接聞きたいらしい。いや、言わせたいのか。どちらにしろ説明をしないと始まらないのだから阿求に選択肢はなかった。
「はい」
 こくりと頷きその場に座る。勧められるのを待っていたら、きっと帰るまで立ちっぱなしになるだろうし。
 すうと深呼吸をした。さてどこから説明したものかと考えたのだ。次に大きく息を吐き、阿求は喋り始めた。

「幻想郷縁起は、まだ一般に公開していません」


 阿求がそれに気付いたのは、幻想郷縁起を一通り執筆し終わり、推敲の段階に入ってからである。
 幻想郷縁起はどのように推敲されるか。それは至極単純な作業であり、というのも、ただ単に沢山の人妖に読んでもらうだけである。とにかく読んでもらって、文句をいただければいいのだ。幻想郷縁起は歴史書であり資料である。客観性が求められる。客観は主観の集合体だから、結局の所、様々な人妖に読んで叩かれるのがもっとも理に適っていると言える。だから幻想郷縁起には毎回八雲紫の検閲が入るし、巫女や魔女が突然尋ねてきたとしても稗田は快く受け入れた訳である。
 そうして叩かれ検閲され文句と主観の入り混じった幻想郷縁起。
 最後に推敲するのは誰か。
 もちろん阿求だ。
 その日、阿求はぱらぱらと幻想郷縁起をめくっていた。ようやく書きあがった書。九代目。幻想郷が結界で覆われてから始めての幻想郷縁起。幻想郷縁起を読み終えるのは、阿求の半生を読み終えるのと同義だ。もちろんすぐに終わりは来る。
 ぱたん、と阿求は幻想郷縁起を閉じた。
 問題無し。と呟こうとしたその瞬間である。
 ふ、と。
 なにか脳裏に違和感を覚えたのだ。
 無視してしまってもいい程度の、吹けば飛んでしまうような違和感ではあったのだが、阿求も餓鬼の使いではない。今の違和感を確かめるべくもう一度読み返す。
 ぱたん。読み終えた。
 分からない。分からなかった。誤字もなければ書き損じも無い。しかし脳裏にある違和感だけは消えうせるどころかその存在感を増すのである。
 泣きそうになりながら何度も何度も読み返した。そのうちに日は沈み、辺りが暗くなり始める。明かりを灯すのも忘れて読み耽る、が、分からない。本気で半ベソを書き始める阿求。
 ついには夜である。もうさすがに明かり無しで文字を読むことは難しい。見えるのは幻想郷縁起の輪郭くらいだ。明かりを灯そう。
 と思ったそのときであった。
 阿求は、開いた幻想郷縁起、その中に。
 暗闇の中でも読めるページがあることに気付いたのである。
 いや、もっと簡単に言おう。
 そのページは、見開きがまるまる白紙だった。
 だからこそ、闇の中で、そのページが、まるで白が浮かび上がるようにして目立ったのだった。
 幻想郷縁起の中ほどにあるページ。開いた二枚。それらが白紙。まるで印刷ミスのように。
 何故今の今まで気付かなかったのかが不思議だった。人妖は自分の項しか読まないから気付かなかったのかもしれないが、阿求はもちろん全てのページを通しで読んでいる。それも何度もだ。
 まあ、気付かなかったことは仕方がないし、どちらかと言えば一般公開前に気付けたことに感謝すべきかもしれない。今から調査し記述すれば間に合うのであるから。
 そう考えた阿求は、明かりをつけてそのページを見た。
 ふむ。
 どうやら、白紙というのは正確な表現でなかったようだ。ほぼ白紙、というのが正しい。
 見開きのページの一番右肩には、はっきりと人妖の名が書かれていた。この見開きは彼女のためのページだったのだ。
 夜。薄暗い部屋。
 阿求は、その名前を声に出して読んでみた。

『ルーミア』


「……というわけです」
 ひと通りの事情を話し終えた阿求は、息をついた。そして最後に言う。
「幻想郷縁起を完成させるためにルーミアを見に行こうと思うのですが、彼女の住んでいる場所が不明ですし、なにより相手は人食い妖怪ですから危険です。もしよろしければ、幻想郷の主である紫様に案内して頂けないかと」
 頭を下げ、対面に陣取った紫へちらりと視線を向けてみるが、彼女はうつむいて何事か小刻みに震えていた。
「紫様……?」
 声を掛けてみた。自分は何か彼女に不愉快な言動を取ってしまったのだろうか。しかしまあ、その杞憂は全く持って杞憂でしかなく、こちらへ向き直した紫の顔は爆笑の渦であった。
「くっくっ……いやいや、ごめんなさいね。そう、あの白紙に気付いたのね。闇の中で見つけるとは思わなかったわあ……そりゃあ、宵闇の妖怪だもの、見つけるのは闇の中よね……くく」
 ツボだったらしい。目に涙を滲ませて笑っている。阿求には全く意味が分からないのだが、八雲紫とは常々そういう妖怪だと理解している。ここは何も考えずに流すべきであると。
「では、了解していただけますでしょうか?」
 ひと通り笑い終わった紫は、指で涙をぬぐいながら返した。
「あら……助けて欲しいの?」
 やはり紫が何を意図して発言しているのか阿求には難解だったのだが、彼女に出来ることといえば素直な返答くらいしかなかった。
「はい、助けて頂きたいと存じます」
 そこでまた爆笑である。さすがの阿求もそろそろ辟易してきた。
「ああ、分かった、分かったわ……助けてといわれたら助けてあげないとね……ああ面白かった」
 ひらひらと扇子を振り、阿求の要求を呑んでみせる紫。こんなにも素直に了承してくれるとは思っていなかったから、少しばかり怪しくはある。
「……紫様、何かご存知なのですか?」
 紫はやはりへらへらと笑っている。扇子越しの視線をこちらへ移すのだ。
「幻想郷縁起のそのページは、代々白紙なのよ。先代も先々代もその前もずっとね……気付いたのはあなたが初めてみたいだけれど」
「?」
 怪訝な顔をして見せる阿求だが、紫にはそれ以上説明する気がなかったらしい。
「善は急げ。役者は揃っていた方がいいわ。藍」
 阿求の後ろでしずと立っていた藍を呼びつける。
「地獄の方へは、もう返事をしてしまったかしら」
 藍は困ったように答える。
「いえ、申し訳ありません。届ける途中で油揚げ……いえ、稗田のに捕まってしまいまして」
 うんうんと頷く紫。
「じゃあ、届ける内容を変えるわ。あの閻魔さま、来いって言っても来ないものねえ」
 あのね、と言って、紫は伝令を口にした。

☆ ☆

 映姫は冷静に大荒れしていた。
「遅い」
 今のこの気持ちを表現するのにどんなジェスチャーが最適だろう。地団駄だろうか。拳を叩きつければいいだろうか。適当に弾幕でもばら撒けば気が晴れるか。いやもっといいことがあるだろう。
「小町」
「は、はい?」
 とりあえず小町を悔悟の棒でつついてみた。理由など山のようにストックしてあるから困らない。きゃんきゃん泣き喚く小町を見て非常に癒された映姫は大きく深呼吸をした後に問うた。
「……で、例の人間は」
「ぐす……はい、まだ来てないみたいです」
 うーむ、と映姫は腕組みする。もしかすると、本気で転生する気がないのかもしれない、稗田阿求は。まあ確かに今の幻想郷の情況をかんがみれば、そう感じても仕方がないのか。
 例えてみれば、幻想郷の生死が激烈だった時代の遺産なのだ、彼女達は。
 そう、人間が必死に幻想郷へ抗っていた時代のなごりである。なごりというのはやがて音もなく溶け消えていくもので、それが稗田阿求の代だったとしても、全く不思議ではなかった。
「ただ、それは少し悲しくもある」
「何言ってんですか四季さま。妄言症ですか」
 とりあえず小町を悔悟の棒でつっつっく映姫。きゃんきゃん泣き喚く小町にぞくぞくと加虐心を満たされながら、次の質問へ移る。
「それでは、八雲紫からは返答がありましたか」
「まだみたいです……ぐすん」
 どうしたものか、と映姫は再び腕を組む。さすがに、八雲紫を犯人だと決め付けたのは性急だったかもしれない。なかなか上手く行かないものだ。
「ふーむ……」
 心残りはいくつかある。
 ただ、もうそろそろいいだろう、という気持ちももちろんある。
 結局の所映姫は閻魔でしかなくて、人間である、転生する人間である彼女達の心情を正確にシミュレーションすることは土台無理な話であるのだ。
「そうですね」
 映姫が結論を言い渡そうとしたそのときだった。
「あ」
 さっきからつつかれまくってぼろぼろになった小町がふっと耳を澄ました。彼女はこれでも死神であるからして、音の距離を縮めるくらい訳はない。ひと通りふんふんと頷いて納得した後、なにやら微妙な顔で小町は言った。
「四季さま、八雲から伝令です」
「きましたか」
 それは短く簡潔なメッセージであった。

「『おとといきなさい、ちんげんさい』」

 ……。
 地獄がしんと静まり返る。
 寒気のするような空気の硬直に三途の河がいななく。ゆっくりと口を開いた映姫の言葉を聞くのが自分しかいないことを小町は呪った。
「……小町」
「は、はい」
 無表情が怖い。
「ちんげんさい、とはどういう意味でしょう」
「え、あ、あの……四季さまがちんげんさいぽいってことじゃないかと……帽子とか色とか……」
 血管の切れる音が聞こえた気がした。
 それはぷっつん、とか、ぶち、とかそんな生易しい音ではなくて、例えれば、そう、なんだろうか、アキレス腱が切れたときには、本当にその音が聞こえるらしい。小町が知り合いに聞いたその音が、今、閻魔の頭から聞こえた音とそっくりだった。アキレス腱の切れた奴は脚が走る代わりに震えが走るのもまた同じだった。
「小町」
「……はい……」
 もはや小町には頷くことしかできなかった。次に来る映姫の台詞が余りにも正確に予想できたからだ。
「八雲紫が犯人で間違いないですね。さっさととっつかまえて断罪しましょう」
 小町は半泣きで肯定した。

☆ ☆

彼女の昔話3

 さて、彼女は優秀だったから、すさまじい時間と労力をかけ才能を削り、圧倒的な計算量を制してなんとかこの世界を論理的に真っ平らして見せた。
 芸術的な簡潔さを誇る式。そいつを当てはめて見せた世界は正に完璧としか言いようがなかったのである。
 おうとつなどない、どこまでも、どこまでも、地平線までずっと平らに続く世界。本当に、どんな不自然さ、どんなに小さなでこぼこさえなく、どこまでも、どこまでも、まるでぴかぴかに磨かれた鏡のように光を反射する世界。
 彼女は喜んだ。どうだ、どんな些細な障害さえ、どんな些細な境界さえない。これこそが本当に綺麗な世界なのだ。これこそ、誰もが迷わずに道を進んでいくことの出来る世界なのだと。
 そうして彼女は、ついに、その世界での第一歩を踏み出したのだ。

☆ ☆

「ここよ」
 ぽすんと阿求が落とされたのは、迷いの竹林のど真ん中だった。うっそうと茂った竹には太陽の光を通す隙間さえなく、辺りは日中にも拘らず薄暗い。紫はスキマから顔だけ出してこちらを覗いている。
「ここにルーミアが?」
 問う阿求。返答としてはザッツライトに近いものを期待していたのだが、やはり紫が返す答えはそれほど思いやりの気持ちは含まれていなかった。
「いえ? 場所をここにしたのは私の気分よ。ルーミアは今から持ってくるわ」
「……は?」
 ルーミアは紫が適当に見つけてこっちまで連れてくるから場所は特に関係ない、ということだろうか。阿求に理解できたのはそこまでくらいで、何故場所が迷いの竹林なのかと問われれば、八雲紫が好きだから、くらいしか思いつかなかった。
「ルーミアは確かに連れてきてあげるから。そうしたら、好きなだけ見て、話して、記憶しなさい。彼女は夜が好きだし、今日は新月の日だから機嫌が悪いかもしれないけれど、でも――」
 不自然な位置で言葉を切る紫。細めた目で阿求の周囲四箇所ほどを眺めた。歪む口端。三日月のような笑みが頬まで裂ける。突如として湧き上がった全身の怖気に、阿求はようやく不自然さを感じた。
「紫……様?」
 つい気圧されたようにして声が出てしまう。もちろん紫が答えるわけはなかった。嘲笑うような三日月の笑み。その間の沈黙が一秒だったか二秒だったかは知らないが、阿求の感じた不自然さを増大させるには十分すぎる沈黙であって、それの答えを出すように、続いた台詞は絶望するのに十分な威力を秘めていた。
「逃げられないようにしてあげるから」
 紫がその言葉を紡いだ瞬間、空気が震えた。阿求の周囲を取り囲んだ空間の前から後ろまで、四掛ける四の計十六箇所が馬鹿みたいな魔力と共に光を放つ。阿求は自分が何事か叫んだ気がしたのだが、それは全く持って意味を成していなかった。
「ルーミアも、もちろん貴女も一緒にね」
 ばいばい、とばかりに手を振りスキマに滑り込んでいく紫。阿求の周囲で点から放たれた線は互いに交差しその形を完全なものにする。地面の十六箇所を始点にし、まるでガラスの半球のように阿求を閉じ込めた結界。それは竹林に置いておくにはあまりに不似合いなもので、しかし事態の不測さを物語るにはこの上ない形容詞になり得た。
「……はえ?」
 思考展開が間に合わないのは阿求である。全く持って藪から棒だった。がんがんと拳で光の壁を叩いてみるが、当たり前のようにびくともしない。それはやはり必然であって、あちらは四桁を生きる結界師である。阿求の年齢に実に十の二乗をも掛けないと追いつかない相手なのだ。そんな馬鹿げた数字に抗えるはずがなかった。
「え? あれえ?」
 ようやく回転してきた頭で阿求は考える。紫はこう言った筈だ。『貴女もルーミアも一緒に逃がさない』、それはどういう意味か? 阿求とルーミアを同時にこの結界の中に閉じ込めるという意味である。人食い妖怪と一緒に閉じ込められた人間はどうなるか? もちろん、喰われるしかない。
「……」
 背筋を嫌な汗がつたう。追いつかなくてもいい想像力が追いつき、その効力を発揮する。結界という名の密室で飛び散る自分の肉片が鮮明に想起された。気付くと足が震えている。何が怖いって、八雲紫の得体の知れなさが怖かった。何を考えているのか全く分からなかった。人間が世界で一番恐怖するものは何か。それは無知だ。自分の知りえない闇の領域にはいつも恐怖しそれを埋めようとする。特に生活が知識に偏っている阿求は、だ。
 そういえば、と思う。
 そういえば、幻想郷縁起の白紙ページも、それは無知によるものからだ。それは知識がないから書くことができなかった。それは白紙という名の闇であったのだ。だから自分はその闇が怖く、目を背けていたのかも知れない。
 阿求は光を求めるようにして頭上を仰いだ。いくら竹林といえども隙間から太陽は見えるからだ。
「あ……」
 光は見えた。
 ただしかし、そのときの阿求が見た光は太陽と全く別物であり、人工的な金箔の鈍い輝きであり、それは大げさなほどの帽子であり、それは間違いなく口を聞く人妖の類が被っており、
「……なにをやっているのですか、稗田阿求」
 それは間違いなく幻想郷の閻魔、四季映姫ヤマザナドゥであった。
 竹やぶの中空に、死神をお供に連れて佇んでいる彼女。じろりと懐疑的な視線をこちらにくれた。どうやら情況は把握したらしい。小さな手のひらでぺたぺたと結界を叩いてから、溜め息と共に口を開く。
「これでは説法も出来やしません」
 小町、ちょっとこの結界壊しなさい、と命令する。前に押し出された死神は、二度三度大鎌を振りまわしてから、あっさり仕事を諦めた。
「四季さま、こりゃあ、あれですね。博麗とかが良く使う二重結界に、更にもう一つ同じのを重ねたヤツです。俗に言う四重結界でしょうか。こんなアホみたいな結界張るのは八雲くらいですよ」
 馬鹿だの阿呆だの酷い言われようの結界だが、その頑丈さは折り紙つきらしい。死神は既に全く破る気をなくしたようで、愛用の鎌を撫でている。
 その横で、映姫はさっきよりも大きな溜め息をつき、悔悟の棒を振り上げた。
「それでは、私が――」
 間髪入れずである。
「あら、ごめんあそばせ」
 一言で空気が緊迫した気がした。
 四重結界の内側、阿求の頭上に紫色をした下唇のようなスキマが滲み出た。結界の主が帰ってきたのである。顔を出した彼女はへらへらと笑っていた。情況や話の流れなんて全く無視を決め込んでへらへらと笑っていた。へらへらと笑って、スキマの中のものを取り出したのだ。ずるりと取り出したのだ。
「稗田の九代目はこちらをご所望かしら」
 今息を呑んだのは誰だったのだろう。
 恐らく紫以外の全員である。
 紫以外の誰も、紫の行動を理解できなかったということだ。
「はい十全」
 とんと阿求の前に置かれる妖怪。宵闇の妖怪。小さな体躯に綺麗な黄色の髪。赤いリボン。結界の中で阿求と彼女は二人きりだった。確かにこの情況を阿求は紫に頼んだかもしれない。ただ、阿求はその護衛まで頼んだつもりだった。しかしよくよく考えてみると、阿求が吐いた台詞は『案内して欲しい』それだけであり、そもそもが人食い妖怪である八雲紫に言語の裏まで取ってもらおうなどと、なんとも生ぬるい皮算用だったのだ。彼女が阿求の生命まで保証した言語はどこにもない。
 八雲紫! 貴女は何をしているのか分かっているのですか! そんな声が聞こえたが、阿求の意識の全く外側のことだった。阿求の意識の全ては目の前の妖怪に注がれている。彼女の目は赤かった。真っ赤だった。見ていると狂ってしまいそうなくらい。背筋がぞくぞくとした。何事か昔の出来事を思い出しそうだった。懐かしいようなおぞましいような口惜しいような、ずっとずっと数え切れないほどの年月を待っていたかのような。
「稗田の」
 耳の内側で響くようにして八雲紫の声が聞こえた。じんじんと熱くなる脳みそが邪魔だった。
「貴女は千年前の稗田とは違う」
 言っている言葉は理解できなかったが、それは頭の中を丸ごと絡め取るようにして流れていく。
「貴女は千年後の稗田」
 言葉はますます鳴り響くようにして内側に入ってくる。
「見なさい」
 何かに酔ったように、阿求の視界はがんがんと揺れた。こんな状態で物が見れるというのか。
「今から起こる出来事を見なさい」
 目の前の彼女は動かない。全くピクリとも動かない。――いや、今顔を上げた。
「そして知りなさい」
 こちらを見た。視線が合った。おなかがすいた、と呟いた。阿求を人間だと認識して、きらりと眼光に火が灯った。

「貴女の千年後の結末を」

 結界の中は真っ暗闇に覆われた。

☆ ☆

彼女の昔話4

 さて、理想の世界での一歩を踏み出した彼女は、一体どうしただろう。
 結論から言えば、彼女は一歩も歩くことが出来なかった。
 足を踏み出した瞬間、彼女はすっころんだのだ。全く予想しなかった事態に彼女自身が最も驚いた。
 何度も立ち上がろうとしたのだが、やはり同じように滑って転んでしまう。何故か?
 当たり前だったのだ。
 余りにも当たり前の結論だったのである。
 どんな些細な、どんな微小なおうとつさえない理想の世界。
 当たり前だ。
 そんな世界には。
 足の裏の摩擦すらなかった。
 それに気付いた彼女は、大の字になって空を見上げた。残念だった。
 この世界では歩くことさえ出来ないのだ。
 いつまでもいつまでも、彼女はずっと空を見上げていた。
 それが彼女の夢見た世界の全てであり。
 それが彼女の夢見た世界の結末だった。

☆ ☆

 彼女の第一声に、その場全ての人妖が耳を疑った。いや、正確に言うのならば、紫以外の全員、だろうか。言葉を発した彼女をまるで希少な動物であるかのように見つめ、その後に皆で顔を見合わせた。
 その事象の原因である当の本人は、そんな皆の仕草が理解できなかったらしい。もしかしたら自分の意図する所が伝わっていないのかと思ったのか、もう一度、なぞるようにして同じ台詞を口にした。
 闇の妖怪は。人食い妖怪は、口にした。
「貴女はいらないわ」
 阿求は八重歯が目立つ彼女の口をぽかんと見つめ、今日の全ての出来事は結局なんだったのだろうと深い悩みに入ろうとしていた。
「だって貴女、食べてもまずいし、この前は護衛までついていたんだもの。貴女は食べられない類の人間。人間って嘘ばかりつくのね」
 理解したように笑いを噴きだす小野塚小町。ぶすっとした表情で結界の破壊をやめた四季映姫ヤマザナドゥ。
 そして八雲紫。八雲紫は満足そうな、にやにやとした笑い顔で、しかしよく通る声を出す。
「Congratulations.」
 それはある種の宣言に近いものであった。
「おめでとう、九代目の貴女。いや、稗田の」
 阿求は、どうしたらいいものかと悩んでいた。素直にありがとうございますと喜べばいいのだろうか。しかし意味が全く分からない。指針も決めずに喜びだしたら可哀想な人一直線である。
「貴女はこれで彼女を見放題、観察し放題記憶し放題よ。心行くまで幻想郷縁起に綴ればいい」
 紫の言葉。確かにそれは嬉しかった。何故か白紙だったルーミアのページを埋める、これ以上ないチャンスである。
「この千年間、ただひたすら白紙のページを残すことでしか表せなかった貴女の記憶。それを千年間ギリギリで支えてきたあなたの無意識の意志。でも、貴女はやっとそれに気がついた。記憶からの白紙というメッセージに気がついた。ルーミアという妖怪について綴らねばいけないということを」
 普段からなのだが、今日の紫はいつにも増して饒舌だ。阿求は彼女をほっといて、ルーミアにちょっかいを出すことにした。とりあえずほっぺたをつついて引っ張ってみる。
「遠回りだったわね。だって何回も死んだもの。喰われてみたり、大切な人を奪われてみたり。とても綺麗なやり方とはいえないわ」
 リボンを解いたらどうなるんだろう。ちょっと怖くて実行する気にはなれなかった。
「でも、貴女は転生し続けた。障害物に抗い続けた。通る気も失せるような悪路を歩き続けた。そして彼女を変えたのよ。『稗田は食べられない』」
 身長を比べてみた。どうも自分と同じくらいなのが悔しくて仕方がない。
「これで貴女は幻想郷縁起に『ルーミア』を綴れる。今日、千年目にしてようやく貴女の幻想郷縁起は完成したの」
 よし、と阿求は決めた。自分を食べない妖怪なんて怖くもなんともない。稗田の家まで連れて帰って、色々聞き出してしまおうかと。
「おめでとう、千年目の貴女……って、聞いてるかしら?」
「はい?」
 全然聞いてない。阿求は嫌がるルーミアを稗田家の方向へ向かってずるずると引っ張っていた。
「……私悲しいわあ」
 ぐすぐす泣き崩れる紫。マジらしい。
 その横で、苦笑いをしている死神。不機嫌最高潮な閻魔へ向かって意見した。
「四季さま、どうも今回は八雲に踊らされたみたいですねえ。ちんげんさい……ぷ」
 映姫のこめかみはびきびきと音を鳴らしているのだが、さすがにここまで分かってしまうと怒るに怒れないらしい。ひととおり小町をきゃんきゃん言わせた後、口を開いた。
「稗田阿求」
 名指しされた阿求はびくりと肩を揺らす。結界に囚われたときは天の助けに見えた閻魔様が、今は文字通り地獄からの使者に思えた。
「『罪状 半日のちこく』」
「……申し訳ありません」
 素直に謝り頭を下げたが、突き刺さる映姫の視線が肌にも分かるくらい痛い。映姫が阿求に問い正すことはやはり自明であり、それは阿求自身も予想していた事柄だった。
「転生の儀は、行うのですか」
 簡潔で無駄のない質問だが百の意味を籠めている。ふと、他の三人の視線が阿求に集まっていることに気付く。ルーミアはぐねぐねしている。
 三人分の視線の威圧感。彼女らは四桁を生きる人妖である。阿求の年齢に実に十の二乗をも掛けないと追いつかない相手なのだ。そんな馬鹿げた数字。
 しかし阿求は物怖じせずに自然な口調で答えた。
 だって、産まれたときから決めていたのだから。
「もちろん、転生はしますよ」
 それを聞いた映姫の顔は、なんともいえない表情だった。悲しいような嬉しいような、不甲斐ないような期待するような失望するような、喜んだような怒ったような。それは複雑すぎるもので、まだ二桁しか人生を生きていない阿求には到底読み取れるものではなかった。
 映姫は言う。
「それは、何故」
 何故転生を続けるのか、という意味だろう。
 確かに、そう思うのは自然である。幻想郷縁起は既に対妖怪としての役割を終えた。物事の本質は時代の変化に耐えられない。真実は文化よりも磨耗が早い。御阿礼ももやは過去の幻想郷を思わせる残り香でしかないのかもしれないし、それをこれからも漂わせる義務などどこにもなかった。
 それでも、何故、と聞かれるのならば。
 阿求はこう答えるだろう。
「私の――」
 幻想郷縁起はどのように推敲されるか。それは至極単純な作業であり、というのも、ただ単に沢山の人妖に読んでもらうだけである。とにかく読んでもらって、文句を頂く。
「私の書いた幻想郷縁起を読んで、沢山の人妖が笑い合いながら語り合い、文句を言ってくれました」
 それだけだ。それだけでよかったである。
「そんな幻想郷が、私は大好きです」
 そんな茶番を、これからも続けていきたいのだ。
「また千年後、この幻想郷がどうなっているのか、この目で見てみたい。その歴史を、幻想郷縁起で綴っていきたい。幻想郷という道を歩いていきたい」
 すっと、映姫の目を見据えた。
「それが理由では、いけませんか」
 やはり彼女の表情は複雑で、その真意を阿求が読み取ることは困難だった。
 今か今かと待つが、返事はない。まさかここまで来てばっさりと切られてしまうのだろうか。阿求の真っ直ぐだった視線が揺らぐ。映姫の眼光から逸らそうとされた、そのときだ。
「その道がものすごい悪路でも、よね」
 紫が言葉を投げかけてきた。呼応するように、小町も喋る。
「平坦な道ばっかじゃつまらないからね。汗まみれになって駆け上がるくらいが丁度いい……ですよね、四季さま」
 発言を促された映姫はすっと目を閉じる。
 そうして、大きな、大きな大きな、今日一番大きな溜め息をついた。
「人は摩擦があるから歩いてゆけるものです」
 そんな事を言う。
「稗田阿求、貴女が今日、宵闇の妖怪に食べられなかったのも、貴女のご先祖様がすさまじい摩擦の中を潜り抜けてきたからなのですよ」
 すっすっと悔悟の棒を左右で薙ぎに払い、阿求の方へ肩口から真っ直ぐ向ける。
「あなたはそれに感謝し、また、それを次代へと連綿に伝えていくべきです。それが貴女の積める善行」
 その超越的な権力は、千年前と変わらず健在である。
「稗田阿求」
 彼女はゆっくりと、承諾の言葉を吐いた。
「貴女の転生を許します」
 阿求はほころんだ。どういう表情をしたらいいのか分からなかったのだが、自然とほころんだのだ。
「ですが、千年のちこくです。貴女は私を千年も待たせた。今代の地獄のお勤めは厳しいですよ」
 迷いの竹林に諦めたようなうめき声が響く。
 竹林の地平線に見える太陽は既に沈もうとしていた。オレンジが世界を塗らす。明日も多分あいつは地平線から上がってくんだろうなあという期待を一身に受けながら沈むのだ。
 明後日はどうだろう。
 一年後は。
 では、千年後は。
「あれ小町、八雲紫はどこへ」
「あー……あの野郎、四季さまに説教食らう前にトンズラしやがったな……」
 どんな世界になっているだろうか。
 まあ、幻想郷の住人のことである。
 今日も千年後も、のらりくらりと暮らしているに違いないのであると。
「四季さま、八雲から伝言です」
「読みなさい」
 違いない。


『それではまた、千年後にでも』









 

 

 

 



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2008年4月19日 うにかた

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