氷雨抄

 

 

 

 厚い雲に覆われた空が、低く軋み音を立てる、そんな夜だった。
 墨を流し込んだかのように黒い湖面に、時折、風が小さなさざなみを立てていく。
 ふとそこに、ぽつりと波紋が生まれた。
 ぽつり、ぽつりとそれは数を増していき、見る間に湖は大小の波紋に埋め尽くされた。
 夏を間近に控えた夜の、雨。





 湖上を夜の散歩としゃれこんでいた氷精は、突然の叩きつけるような雨に、天を仰いだ。たちまちにその顔が、髪が、服が、羽が、雨滴に濡れそぼる。
 しばし惚けた表情でいた彼女は、いきなり満面の笑顔になった。羽を震わせて水滴を払うと、くるりととんぼを切る。
 そして、
「あっめあっめ、ふっれふっれ……」
 唄いながら、宙高く舞い上がった。
 激しい雨音に負けじとばかり、氷精は拙くも愛嬌に満ちた歌声を湿った夜気に響かせる。それはそれは楽しそうに。




 世の中には雨を歓迎する者もいれば、もちろん厭う者もいる。
 レミリア・スカーレットは、徹頭徹尾、後者だった。
「流水を渡れない」という吸血鬼のふざけた種族的特性に縛られて、彼女は雨中に踏み出すことができない。もし、外出中に雨降りに出くわしたりなどすれば、たちどころに立ち往生だ。
 そして、今まさに彼女は進退窮まっていた。


 湖畔に広がる林の縁。そこで木々の枝を借りて、レミリアは絶賛雨宿り中だった。
 夜の散歩に出掛け、帰ろうとしていたところで、この雨に遭遇したのである。
 これあるを予期していなかったわけではない。紅魔館を出たときから、近付きつつある雨の濃厚な匂いを嗅ぎ取っていたし、ちゃんと警戒もしていた。
 咲夜からも注意されていたのだが……それがいけなかったのだと、レミリアは半ば八つ当たり気味に考えた。あの時、咲夜がああもしつこく、過保護なまでに心配してきたから、こちらもつい意地になって危険を冒してしまったのだ、と。
 予定では、降り出す直前に戻って、心配でたまらない顔をしているであろう咲夜を「ほら、大丈夫だったろうが」と笑い飛ばしてやるつもりだったのに。
 それが、ちょっとばかりギリギリのチキンレースを楽しみすぎて、挙句、このざまだった。これでは逆に、咲夜に
「ほら見たことですかお嬢様。ささ、お風呂が沸いていますよ背中をお流ししますわうふふ」なんて表情もとい発情を許してしまうことになる。屈辱だ。
 それもこれも。レミリアは真っ赤な双眸で、雨が降りしきる光景を睨みつける。究極的には、すべてこの雨というやつが悪い。
「たかだか水滴が群れなして落ちるという些細な現象の分際で、夜の王たる私の征旅を妨げるとは、何様のつもりか、下郎が」
 恫喝してみるが、雨は意に介した様子もなく、降り続ける。当たり前だった。気象を跪かせるなど、魔法を使うにしたって、かなり大掛かりなものが必要となる。以前、親友であるパチュリーが魔法で天候を操作するのをレミリアは見学したことがあるが、なかなかに大変そうだったのを記憶している。
 現状では、レミリアが雨に屈する形を覆すことはできなかった。こうして木々に庇を借りて引きこもっているのが、本当に誇り高き吸血鬼の姿と言えるのか。レミリアは情けない心持ちになる。
 募る苛立ちに、木々の間にこもる不快な湿気が拍車を掛けていく。


 そんな不快指数最高潮という、ある意味最悪のタイミングで、彼女はそれを発見してしまった。
 吸血鬼の瞳は、例え濃い雨や霧に阻まれようとも、たやすく夜闇を見透かすことができる。その驚異的な視力が、湖上に踊る小さな影を捉えたのだ。
 あれは氷精の――名前はチルノとかなんとか言ったか。
 咲夜や美鈴から、その存在を何度か耳にしたことはあった。レミリア自身は、話したことはおろか、まともに姿を目にしたことすらなかったのだが。霊夢なども知っているらしいことから、この界隈では意外と有名人なのかもしれない。
 伝え聞くその風評によれば、曰く、馬鹿である。
 なるほど、馬鹿だ。雨の中、くるくると能天気に飛び回っているその姿に、レミリアは納得混じりの苦笑を浮かべた。
 だが、不意に憤怒の色が、その紅い瞳を鮮やかに染め上げた。
 自分と比べればはるかに脆弱なはずの氷精ごとき。それが、自分にはけして届かないところにいる。自分にはけして出来ないことをやっている。こちらはこうして林の隅で縮こまっているしかないというのに、あいつはああして元気に跳ね回っている。
 これが昼間の出来事なら、まだ我慢もきいただろう。だが、今は夜なのだ。本来なら、レミリアの時間とでも呼ぶべき時なのだ。
 なのにあいつは、この夜の王を差し置いて、夜を謳歌している――


 湧き起こる衝動のまま、普段は抑えている自らの力を解放した。
 翼を大きく広げると、漆黒の風がその体から流れ出て、辺りでつむじを巻いた。瘴気にあてられた木々の梢がざわざわと、悲鳴のような音を立てて激しく揺れた。
 口の端を鋭く吊り上げて、レミリアは血の色に染まった目で、能天気に踊り唄っている氷精を捕捉した。そして高々と右腕を掲げる。
 その紅く尖った爪の先に紅玉色の光が生まれ、開かれた掌の中に収束していく。紅い光は長々と引き伸ばされ、ついには凶悪な槍の形をとった。ハートブレイク、魂を引き裂く鮮紅の穂先。
 レミリアは自分の身長よりも長いそれを引っ掴み、そして大きく振りかぶる。左の指先で氷精を指し示し、そして紅蓮の槍を投擲した。
 ごうっ、と唸りを上げて。槍は炎のように、鮮血のように紅く輝きながら、大気を切り裂き、雨粒を蒸発させ、氷精めがけて飛ぶ。
 朱線が、湖上の闇を一直線に貫いた。
 一瞬後、湖面に盛大な水しぶきが立ち上った。雨音を凌ぐ轟音が響き渡る。
 空中高く持ち上げられた大量の湖水は、しばらくすると重力に引っ張られ、より激しい怒涛の雨となって湖に降り注いだ。
 レミリアは目を細め、水煙の奥に成果を確認しようとする。
 やがて落ち着きを取り戻した湖面に、彼女は目的のものを見つけ出した。水面に大の字になって引っくり返っている、氷精の姿。レミリアは満足げに口元を歪ませた。
 ぎりぎりで直撃はさせなかった。殺してしまうまでに理性を失ってはいない。まあ、命を奪ってしまったとて、気に病むことでもなかったのだが。
 いずれにせよ、これで大人しくなるだろう。レミリアは禍々しい笑みの端に、小さな牙をのぞかせた。


 湖では、氷精がのろのろと身を起こしはじめていた。半身だけを起こし、水面に尻餅をついた格好で、辺りをきょろきょろと見回している。何が起きたのか、いまいち理解できていない様子だった。
 ふと、その視点がレミリアの方を向いて止まった。
 やっとこっちの存在に気付いたらしい。レミリアは傲然と笑いかけてやる。
 その表情が見えたとも思えないが、それでも氷精は事態を把握したようだった。
 次の氷精の行動は、レミリアの予想外のものだった。
 てっきり尻に帆掛けて逃げ出すものだと思い込んでいたのに、彼女はまっすぐこちらへと突っ込んできたのだ。
 レミリアは驚きつつ、咲夜が氷精との交戦を経て下した評価を思い出す。曰く、あの氷精は身の程知らずで往生際が悪い。
 戸惑っている間に、氷精は目の前まで来ていた。全身びしょ濡れで、前髪が額に貼りついている。ブラウスと青のワンピースも一分の隙無く水を吸っていて、裾からぼたぼたと大粒の涙を垂らしていた。お馬鹿じゃなければ、明日は間違いなく風邪で寝込んでしまうこと請け合いの濡れっぷりだ。
 氷精はレミリアを見下ろすような形で浮かび、顔を真っ赤にして頬を膨らませ、喚きちらした。
「ちょっと、あんた、なんてことするのよ! 殺す気!?」
「……お前、私が誰か知らないのか?」
 よもやとは思いつつ、レミリアは尋ねてみる。
 氷精は怒りながら、なぜか胸を張って答えた。
「知ってるわよ。あの物騒なお屋敷のお嬢様なんでしょ?」
 知っていて、突っかかってきたのか。無謀もいいところの氷精の度胸に、レミリアは呆れ、それから諭すような口調で告げた。
「そう。私はレミリア・スカーレット、吸血鬼、悪魔の君主だ。本来なら、お前ごときが目にするにはもったいなくて罰が当たって目が潰れてしまうような存在なのだから、光栄に思っておくのね」
「むうぅ、なんでそんなに偉そうなのよ。いきなりあたいのこと殺そうとしたくせして!」
 怒り心頭といった感じで、氷精は両手に作ったこぶしをぶんぶん振り回す。
「あ、あたいは氷の妖精、氷精のチルノなんだから。この辺りであたいのこと知らないなんて、あんた、モグリね!」
「なんでお前みたいに瑣末な奴のことなど知っておかなくちゃならないのよ」
 本当は知っていたのだが、それは伏せておく。相手の空回りする様はなかなかに面白く、ちょっとは気晴らしになりそうな予感がした。


 そこにどうした偶然か、水滴がひとつぶ、頭上にかぶさる木の枝葉を潜り抜けて落ちてきた。ぽたりと、レミリアの襟元から背中へと侵入する。
「ひゃんっ」
 素っ頓狂な声を上げて、レミリアは硬直してしまった。
 背筋を冷たい滴がするりと伝っていく。それは臀部の辺りで滑り落ちるのを止めたが、レミリアは凍りついたままだった。
 呪わしい雨は、そのひとかけらでさえも吸血鬼を縛る。
 なんだ、この運命の悪戯は。運命を操るという私の能力の網さえすり抜けてきたというのか、この滴は――自分を見舞った想像外の出来事に、レミリアは信じられない思いだった。
 幸い、雨滴もひとつぶぽっちでは、大した効力を持つわけではない。レミリアの呪縛はすぐに解けたが、そんな彼女の様子を氷精は怒りも忘れた顔で、不思議そうに見ていた。
「……どうしたのよ、いきなり。雨に濡れたくらいで大げさね」
「馬鹿め。吸血鬼が雨に弱いことは知っているだろう」
「え、そうなの?」
 尋ね返されて、レミリアは愕然となった。こんなの常識の範疇ではないか。
 まさか、ここまでのお馬鹿だったとは。想像の斜め上を行っている。
 ……いや、この場合、お馬鹿なのはむしろ自分のほうだった。なにしろ、お人好しにも自ら弱点を曝け出してしまったのだから。
 自己嫌悪に陥るレミリアを、氷精は興味深げに見つめる。
「吸血鬼って、変なの。こんなに気持ちいい雨を、嫌いだなんて」
 そう言って氷精は暗い空を振り仰ぎ、雨の中でくるりと回る。
 雨粒がどれだけ顔を濡らし、口の中にまで入っても、まったく気にする風もない。むしろますます楽しそうに、くるりくるりと雨の輪舞。
 レミリアは忌々しげに氷精を睨みつけた。
「世間的にはお前の方が、くるくるぱーに見えると思うけど。だいたいな、好きとか嫌いとか以前に、私たちは雨に触れることそのものが禁忌なんだよ。雨の中を歩くことも飛ぶこともできないのっ」
 もうほとんど自棄になって解説する。
 自分でも何をやっているのだろうとは思う。こいつか、この氷精が私を調子っぱずれにしているのか?
 氷精は回るのをやめると、何やら考えながら、レミリアの全身をゆっくりと見渡した。そして、一言。
「ああ、服が濡れるのが嫌なんだ」
「なんでそうなる」
「うん、まあ、分かるわよ。そんな綺麗なお洋服、濡らしちゃうのは、ちょっともったいないかもねー」
「いや、分かってないだろ、お前」
「でもでも」
 氷精は人差し指を立てると、なぜかニヒルに笑い、ちっちっ、と舌打ちしながらかぶりを振った。
「それで雨を楽しまないってのは、もっともったいないってものよ。ちょっと待ってなさいよ、あたいがふーりゅーってやつを教えてあげる」
 そしてその指を、天に突きつける。


 レミリアはつられて顎を持ち上げるが、そこに何があるわけでもなかった。ただ、重苦しい色の雲と、降り止む気配のない雨と、それだけ。
 氷精は空を指したわけではなかった。その指は、頭上に大きな円を描く。
 するとそこに、冷気が集いはじめた。雨と大気中の水分とが氷結していき、見る間に氷の円盤と化す。
 頭上に浮かぶ円盤の中心を、氷精は下から突っつく。突かれた部分から全体がぺこんとへっこんで、円盤はボウルを逆さにしたような形状になった。
 さらに氷精はボウルの中心から指をまっすぐ振り下ろす。その軌跡に、今度は氷の棒が生まれた。
 それが仕上げだった。そこに現れたのは――氷の傘。
「ほらっ」
 氷でできた傘の柄を、氷精はレミリアに押し付ける。思わず受け取ってしまったレミリアは、手にじんじんとする冷たさを覚えた。
 傘は存外重く、しかし吸血鬼の膂力には大した負荷でもない。片手で支えながら、レミリアはそれをしげしげと観察する。
 傘を構成する氷はおそろしいほどに透明で、一点の曇りもなかった。完全な半球形ではなく、無数の平らな面から構成される多面体。例えれば細かにカットされた金剛石に近い印象だ。
 そのためだろう、角度を変えてやると、その度にどこからか微細な光を拾ってきて、ちかり、と澄んだきらめきをこぼすのだ。星の瞬きを思い起こさせる、冷ややかな輝きを。
 これが氷精の能力なのか。取るに足らない存在だと思っていた奴が、こんな芸術を成せるのか。
 レミリアは感嘆の色を隠すのも忘れ、頭の上で傘をくるくると回した。零れ落ちる光に、すっかり見とれる。


 そこへ不意に、空いている手を引っ張られた。
「これで平気でしょ。それじゃ、行くわよ」
 氷精が雨中へ引きずり出そうとしてくる。我に返ったレミリアは慌てた。
「ま、待て。傘を差したくらいでどうにかなる問題じゃ……」
 日傘を差した程度で陽光の下を歩けるようになる、そんな出鱈目な吸血鬼の主張することじゃなかったかもしれないが、事実なのだから仕方ない。雨傘があっても雨の中を往くことはできないのだ。
 レミリアは踏ん張ろうとしたが、不意を突かれたためもあって、堪えきれなかった。無情にも雨の中へと引きずり出されてしまう。
 降雨による身の呪縛を予感して目を閉じたとき、

  かろん

 頭上に、奇妙に軽快な音を、レミリアは聞いた。
 目をしばたたかせる。そして、体の自由が利くことに気付く。
 振り仰ぐと、そこは確かに、木々の守りの外だった。雨も降り続いている。なのに、なぜ自分は動けるのか。
 その問いに答えるかのように、また、かろん、と音がした。
 かろん、ころん、と。
 それは氷同士がぶつかり合う音。レミリアはようやく、何が起きているのか把握した。周囲の雨粒が冷やされて氷になっているのだ。アイシクルフォール。
 それはもはや雨とは呼べず。だから、吸血鬼を縛ることもない。
 氷の粒が、氷の傘にぶつかって、からころ軽妙な音を立てる。それに合わせて氷精が調子っぱずれに唄いだした。
「うぉーく、いーんざれーいん……ねね、どう? これでもまだ雨が嫌いだって言う?」
 同じ傘の下に立って、彼女は期待に満ちた目で顔を覗き込んでくる。
 レミリアはふっ、と鼻を鳴らした。
「これじゃあ雨ではなくて、雹とかだと思うけど」
「なに言ってるのよ。知らないの? これは氷雨って言うのよ」
「……そうとも言えなくはないか」
 だとしたら、自分は雨の下を歩いているのか。奇妙な思いで、もう一度空を見上げる。
 吸血鬼を束縛しない、それは本当に雨と呼べるのか。ならば、これはいったいなんと呼ぶべきなのか。
 かろんからん、ころんと、傘が唄う。
「ふふ……」
 思いがけず、笑い声が漏れた。
 これが雨であろうとなかろうと、どちらでもいい。こうして自由に振る舞えるのは事実なのだから。
 難しく考えないで、あるがままを受け入れることも、たまには大事なのだろう。隣にいる氷精、チルノのように。



 レミリアは翼を羽ばたかせ、ふわりと浮かび上がると、館の方角向けて飛行を始めた。
 チルノも当たり前の顔でついてくる。
 同じ傘の下。全身をカバーされているレミリアに対し、チルノは半分くらい外に出てしまっているが、気にした様子もない。
 あまりスピードを出すと、せっかくの傘も無意味になってしまうため、レミリアはゆっくりと飛ぶ。その移動に合わせて、大気を降りていく途中の雨粒が凍りついていく。
 かろからころころ、氷の粒が傘を叩く。零れ落ちて、今度は湖面を打つ。そして水に溶けて消える。
 波紋だらけの湖面を、レミリアはぼんやりと見つめていた。そこに映っているのは、いつの間にやらチルノにイニシアチヴを奪われていた自分の姿。そして呆れたことに、自分はそれを不快に思っていない。
 どうしてこんなことになったのだったか。思い返してみて、首を傾げたくなった。今夜の運命は、あまりに狂いすぎている。満月の夜というわけでもないのに。
 やがて紅魔館のある島影が見えてきた。深夜にも関わらず、館の数少ない窓からは、明かりがこぼれていた。それを目にして、レミリアは不覚にもほっとしたのだった。
 しばしためらってから、隣のにこにこ顔に告げる。
「その、なんだ、助かった。一応、礼を言っておくわ」
「ん? 助かったって、何が? ああ、服が濡れなくて済んだってことね」
 ずれた反応が返ってきて、宙でつんのめりそうになる。
 どうやら、こいつは私を助ける目的で傘を作ったのではないらしい。あくまで、そう……雨を楽しませようと、それだけを考えていたのだ。
 こらえきれず、レミリアはまた笑ってしまった。
「チルノ、お前は大したやつだな」
「お、やっとあたしのビッグさを思い知ったのね」
 チルノは得意げに胸を張った。
 それを見て、レミリアは咲夜たちから聞いていたチルノの風聞に、自分なりの評価を付け加える。すなわち、この氷精には皮肉が通用しない。すぐ調子に乗る。
 そして、どうしても憎めない。



 島に上陸した頃、雨脚はだいぶ弱まっていた。
 紅魔館の門では、美鈴が番傘を差して立っていた。今日は夜番らしい。
 レミリアは彼女に軽く労いの言葉をかけて、その前を通り過ぎる。彼女が畏まりながらも珍妙な顔つきになっているのが、おかしかった。
 玄関に降り立ったところで、扉が中から思い切りよく開かれた。
「お嬢様!」
 ドラキュラクレイドル顔負けの勢いで飛び出してきたのは、やはりと言うかなんと言うか、咲夜だった。
「ああ、よくぞご無事で。心配していたのですよぉ」
 鼻をすすりながら縋りついてくるメイド長を、レミリアは無理やり引き剥がす。頬に朱の差すのが自覚できた。
「あー、落ち着きなさい、咲夜。客が来ている」
「客?」
 咲夜は顔を上げて、そこで初めてチルノの存在に気付いた。二人の上に広げられた、氷の傘の存在にも。
 かちり、と何かのスイッチが入って、咲夜の瞳は瞬時に紅く染まっていた。
「こ……このチビ! 私だってまだ、お嬢様と雨の中のロマンティック相合傘なんてしたことないのに!」
「うわっ、この人、いつかの殺人メイドじゃないの!?」
 レミリアが制止する暇もなく、咲夜は両手にナイフを迸らせ、チルノは泡を食って飛び上がっていた。
「ま、また今度ね、レミリア!」
 ダッシュで遠ざかる氷精に咲夜がナイフを投げつけようとするが、間一髪、その手をレミリアは掴んで押しとどめていた。
「お嬢様……?」
「ふふ……あいつ、私を呼び捨てにするとは、どこまでもいい度胸じゃない。そうね、もしも『今度』があったら、お茶くらいはご馳走してやるわ」
 いつしか雨は上がり、湖には蛙たちの盛大な合唱が響いている。
 レミリアの手に残された氷の傘は、ゆっくりと大気に溶けつつあった。





 それから雨の夜になるたび、レミリアは館の最上階、湖に面したテラスに出るようになった。
 真っ暗な湖面に目を凝らしても、なかなか、あの氷精の姿を捉えることはできなかった。
 でも目を閉じて、代わりに耳を澄ませると、どこからか聞こえてくる気がするのだ。あの清涼な響きが。

 かろん、ころん――と。

 それを慰みに、紅い少女は穏やかな顔で、雨の夜を過ごす。

 

 

 

 



SS
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2005年6月30日 日間

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