hard luck & good times

 

 

 

 唐突に世界が変わった、そう感じた。
 目に入ってくる光景は何も変わっていない。北風に色褪せつつある森林の風景。
 だけど、なんて言うか――空気、風が違う。四肢で踏みしめる土の粗さが違う。木々の風にざわめく音、その響きもどこか野暮ったく聞こえる。

 それに何よりも。「奴」の気配がない。

 もう少しで追いつくはずだった「奴」の臭いが、まったく不意に消えてしまっていた。風向きは先ほどまでと同じで、私が風下を占位しているはずなのに。おまけに奴特有のでかい足跡までなくなっている。
 私は狼狽しつつも首を振り、耳と髭に意識を集める。
 以前より遥かに鋭敏な感覚を持つはずのそれらは、しかし奴の気配を掴むことに失敗してしまった。
 私はその場に立ち尽くす。ほとんど足跡と臭いだけを頼りに、ここまで来たというのに。追跡の足がかりを失って、私はいきなり荒野の真ん中に放り出されたかのような心持ちとなった。
 しばらくうろうろとその辺りを歩き回り、それからやっと状況のはらむ危険性に思い当たった。あいつは私という尾行者の存在を察知して、それで逆に罠にかけることを考え付いたのかもしれない。付け狙う立場にあったはずの私は、いつの間にか狙われる立場へと追い込まれつつあるのかもしれない。
 どこからかあいつが見ている、そんな想像に駆られ、私は急いでそばの藪の中へ飛び込んだ。音を立てないよう、じりじりと後退。後足が木の根に当たったところでぺたりと身を伏せた。
 しばし様子見。
 あくびをしたくなるほどの時間を待ったけれど、辺りに変化はない。私はそばに落ちていた木切れを口に咥えると、少し離れた場所の下草に放り投げてみた。がさがさと草が揺れ、だけどやはりそれに反応するものはない。
 どうも考え過ぎだったみたいだ。私は安堵の息をついて、それからはっとなった。
 安心してどうする。奴が近くにいないってことは、とっくに遠ざかってしまったってことじゃないか。ただでさえ臭いという道しるべを失っているのに、さらに距離を取られたら、二度と見つけられないかもしれない。
 私は藪から飛び出し、躍起になって辺りを駆け回った。
 だけど奴の姿を目に入れるどころか、臭いや足跡といった痕跡ひとつ見つけることはできなかった。
 そうこうしている間に、空が暗くなっていた。まだ夜の訪れには早いけれど、暗色の雲が広がっているのだ。吹き付ける風も湿気を帯びて重い。
 雨はいけない。冷たい水は、私から鼠を追う元気すら奪ってしまう。まったく、悪いことは重なるものだ。
 私は失意のまま、雨宿りに良さそうな大樹を選び、その根元に伏せた。体がひどく重たい。思えばここしばらく、食事も睡眠も満足にとらず、駆け続けてきたのだった。
 やがて空から水滴がこぼれてきた。しとしとと涙みたいな小雨。その不愉快な音に私は耳を倒し、目も閉じた。睡魔が忍び寄ってきて、私はまどろみの中へ落ちていく。



 ***




「不吉な黒猫め」



 小さい頃から、私は人語を解することができた。発声こそできなかったけれど、耳に入ってくる言葉の意味は理解できた。
 それは本当なら、幸運なことだったのかもしれない。だけど、私の場合はそうでもなかった。人間の悪意というものを、より直截的に知らされることに繋がったのだから。
 人間たちは私を毛嫌いした。正確には、私の毛の色を、かもしれない。
 なにしろ黒猫というのは凶事の兆しなのだ。
 生まれたなりの頃から言われ続けてきたのだから、間違いない。不吉、不吉と、往来を横切るたびに言われてきたのだから。
 だから人間に見つかると、決まってろくな目に遭わなかった。たいていは石を以って追われた。子供たちに捕まって袋詰めにされ、蹴り回されたりもした。病床の剣士にいきなり斬りかかられたこともある。
 仕方がない。だって私は凶兆の黒猫なのだから。私だって、良くないことの前触れを目にしたら気分が悪くなると思うし、あるいは力ずくででも遠ざけたいと願うだろう。人間たちの私のあしらい方は、まったくもって理に適ったものだ。
 人間なんて、不幸になろうとどうなろうと私の知ったことじゃない。でも、不運を恐れる彼らの暴力に傷つくのも馬鹿らしい話だ。私はあるとき決心して、人里を離れることにした。



 人から離れてさほども経たぬうちに、なんだかんだ言って人里暮らしにも利点があったことを、私は痛く思い知ることとなった。
 それは例えば、食料の問題。
 人里なら、特に魚には事欠かなかった。何しろあそこの魚は動かないし、陸の上にいるのだ。あとは間抜けな人間の目をちょろっと盗んでかっさらってやればいい。
 でも、里の外じゃ、そんな都合のいい食料はない。走り回る獲物を追いかけ、捕まえなければならなかった。
 それは別にいいのだ。ちょろちょろ逃げ惑う鼠なんかを追い詰めるのは、遊戯としても楽しかったから。
 困るのはまったく逆の境遇に追いやられる危険性に満ちていたことだった。外には、私や人間なんかよりも遥かに強大な妖怪などがうようよしていて、それぞれに縄張りを持っている。その領域に踏み込んだが最後、私は餌と認識され、追われる羽目となるのだ。
 惨めに逃げ惑いながら、私はこれまで追ってきた鼠もこんな気分を味わっていたのだなあ、と同情を覚えたものだ。まあ、それからも見つけたらやっぱり捕まえて食べてたのだけど。
 とにかく、まだ幼い猫に過ぎない私にとって、そこはとても生きづらい世界だった。
 だけどそれは人里に戻っても同じことなのだ。私には世界の狭間をさまようしか道はなかった。



 食うや食わず、さらに外敵から命を脅かされる日々の中で、私は急速に衰弱していった。
 そんな折だ。久しぶりに人間と出会ったのは。
 人里から離れた山野だったので、意外だった。さらに意外だったのは、その人間の行動だ。
 また罵声と共に石でも投げつけられるかと身構えた私に、その人間はとても柔らかに笑いかけてきたのだ。
「ほら、おいで」
 ちっ、ちっ、と舌を鳴らし、手招きを見せる。
 もちろん私はそんな手には乗らない。ここで迂闊に近寄ったら、尻尾を掴まれてぶんぶん振り回されるのが落ちだ。
 だけど、意思に反して私の足はそいつに近付いていく。ひらひらとした手の動きと、ちっちっちっという小気味良い音が、どうしても私の本能をくすぐるのだ。不可思議な魅了の術によって、気が付けば私は相手の腕に抱え上げられていた。
 たくましい腕を持った、若い男だった。喉を撫でられゴロゴロ悦びの音を立ててから、私はやっと我に返り、身を拘束する腕に爪を立てた。
 男はぎゃっと悲鳴を上げたが、私を放り出しはしなかった。
「大丈夫、大丈夫。怖くしないから」
 そう言いつつ私の両腕を持ち、ぶら下げる形にした。これでは爪が届かない。私は低い声を発して威嚇したが、苦笑させる効果しか男には与えられなかった。
 私に屈辱的なポーズを強いたまま、男は歩き出す。やがて山林の中にひっそりと建つ丸太小屋に着いた。
 私たちを出迎えたのは、やはり人間の若い女性だった。
「あら、あなた。その子はどうしたの?」
「すぐそこで見つけたんだ。怪我をしてるし、お腹も空いているみたいなんだよ」
「やだ、本当。すぐに手当てしてあげなくちゃ」
 どうしたことか、この人間にも私を忌避する様子はない。私は困惑したまま、家の中へ連れ込まれることとなった。



 家の中で解放された私は、それからひとしきり暴れたのだが、すぐに疲れ果ててしまった。元より衰弱していたのだから無理もない。
 抵抗する気力も枯れ果てた私を、人間たちはにこにこしながら再び抱き上げた。あれほど引っかいてやったというのに、どうしてこんな笑っていられるのか。よほどの報復を考えているのかと、私は身を縮こまらせた。
 だが、少しすると、どうも杞憂だったみたいだと気付く。いつまで経っても、人間たちに私を害する気配は見られなかった。
 お湯に浸けられるという虐待こそあったものの、その後は傷の手当をされたり、程よく冷まされたスープを与えられたりと、さして悪くもない待遇だった。
 それだけに、私の困惑は募る。彼らはいったいどういうつもりなのだろう。凶兆の黒猫を懐に招き入れるなんて、正気の沙汰とは思えない。
 だから私は警戒心を完全に緩めることはなかった。必ず彼らの目論見を見透かして、その愚かさを嘲笑ってやる。そう決心した。



 しばらくその家にいる間に、ふたりのことがおぼろげに分かっていった。
 彼らは夫婦らしく、ふたりきりでその山小屋に住んでいた。木を伐り出して、里へ売りにいくのが仕事らしい。
 どうしてこんな、人里から遠く離れているわけでもないが、決して近いともいえない場所に居を構えているのだろうか。一般的に、妖怪と比べてさしたる力を持たない者が多い人間は、寄り集まってはじめて外敵に対抗することができる。こんなところで孤立する利点なんてないはずなのに。
 そんな私の疑問は、あるときの男の独白で、ある程度解消された。
「俺たちは変わり者なんだ。だから里にいても、みんなに迷惑をかけてしまう。寂しいけど、ここで静かに暮らすのが、俺たちにとってもみんなにとっても最善なんだ」
 私は共感を覚えかけ、急いでその感情を振り払った。私はこんな愚かな人間たちとは違う。少なくとも、自ら凶事の種を招き寄せようなどとはしない。
 馬鹿な人間だ。私は喉の奥で嘲笑う。もしかしてこいつらは、黒猫が不吉の象徴だということすら知らないのではないか。
 もう何日も私と過ごしてきたのだ。いずれ彼らを見舞う災厄は、きっとかなりのものとなるのではないか。
 それを想像したとき、なぜだか胸に暗然とした雲のようなものがよぎった。一瞬で流れ去ったそれの正体を、そのときの私は明らかにすることができなかった。



 気が付けば二月ほどの時が過ぎていた。
 私はとっくに体の調子を取り戻していたが、人間たちとの生活を続けていた。彼らが自分たちの愚かしさを悟るところを目にしてやろうと、そういうつもりだった。いや、そりゃまあ、居心地が良かったってのもあるけど。
 凶兆をそばにおきながら、だけどなぜか暗愚な夫婦に禍が訪れる気配はなかった。至って平穏な日々を、ふたりと私は歩んでいた。
 だがある夜、女の泣き声が聞こえ、私は目を覚ました。
 すわ時が来たか、と飛び上がって様子を見に行ったが、あいにくと何かが発生した様子はなかった。ただ女が泣きじゃくっていて、それを男がなだめている、それだけだった。
 男が私に気付いて、いつものように胸に抱き上げた。男の腕には私が刻みつけた引っかき痕が無数にあった。まったく懲りない男の態度に、私も虚しさを覚え、いつからか爪を立てるのはやめていた。
 男は私の脇をかかえるようにして、女の前でぶらぶら振って見せた。
「ほら、俺たちにはこの子がいるじゃないか。きっと神様が、代わりにこの子を与えてくれたんだよ」
 すると女は真っ赤に泣きはらした目で私をじっと見つめ、男の腕から引き寄せ、抱きしめてきた。
 私は何がなんだか分からなかったが、
「ありがとう。私たちのところへ来てくれて」
 その声の優しさがとても心地よいものだったこと、それだけは確かだ。
 人間はその喉から、嫌悪や怒りの感情にじむ声以外も出すことができたのだ。それは、この家に来てから初めて知ったこと。
 振り返れば、この家で、この夫婦の間で、私は他にも多くのことを知った。温かい食事の美味しさ。センスのかけらもない名前を付けられ、呼ばれることのくすぐったさ。入浴というものが不快なだけでなく、体毛が乾くと爽快になれるのだという面も併せ持っていたこと。特に人間と共に眠る床の暖かさは、忘れられそうになかった。



 そして。ああ。
 私の世界を変えてしまうひと言を、人間たちは口にしたのだ。
「とても綺麗な毛並みね……まるで宝石みたい」
「ああ、見ていて吸い込まれそうだ。俺たちの子は誰にだって自慢できる美人さんだよ」
 それを聞いたときの衝撃は忘れられない。足元がぐらりと揺れる錯覚すら覚えたほどだ。かつて私の毛の色を、そんな風に表現した者などなかった。
 私は思わず、違う、とつぶやいていた。もちろん、人間の耳には意味不明な泣き声としか届かなかったろうけど。
 それでも私は訴えた。私の黒い毛は、凶事のしるしなのだと。私を見た者は縁起の悪さに慄かねばならないのだと。そのうちお前たちにも良からぬことが起きるのだと。
 ふたりは、私をなだめるかのように、背中を撫でるばかりだった。



 その夜以来、私は正体不明の焦燥感に駆られるようになった。
 一刻も早くこの家を離れなければ。この夫婦の前から姿を消さなければ、そう考えるようになった。
 でもどうして。それが自分で分からない。いまさら自分が消えたところで、夫婦が不幸を免れるとも思えない。それに、人間ごときがどうなったって、知ったことじゃないはずだ。
 わけが分からない。気が狂いそうだった。
 長い煩悶の末、どうやら私は認めなければならなかった。自分が、あの夫婦に特別な想いを抱いていることを。
 ああ、認めよう。自分はたかが人間相手に、それもとびきり愚かな連中を相手に、どうしようもなく親しみか、それ以上のものを感じるようになっている。
 だから、これ以上そばにはいられない。いまさら遅いのかもしれないけれど、だけど少しでも早く凶兆を遠ざければ、それだけ訪れるであろう凶事も、その勢いを弱めるかもしれないから。
 やっとのことで考えをまとめた私は、そのまま家を飛び出した。
 空には薄闇が広がり、星たちが瞬いていた。山道を駆けているうち、後ろから人間の足音が追ってくるのを聞いた。私はさらに足を速めた。
 行く当てなどもちろんない。めくらめっぽう、道から外れようとお構いなしに、私はひたすら脚を動かした。
 どれだけの時間を走っただろう。いつしか追跡する足音は聞こえなくなり、私は歩調をゆるめて息を整えようとした。
 その瞬間、耳を塞ぎたくなるような悲鳴が夜気を震わせた。人間の男の声だった。
 何も考えずに取って返した。そしてすぐ、私はそれを見る。
 道の真ん中を、真っ黒で巨大な岩のようなものが塞いでいた。
 岩のようなものはこちらに向けて、太い尻尾を垂らしていた。ごつい四肢を踏ん張っているそれは、岩などではなく、山犬だった。
 ただ、あまりにも大きい。私を百匹集めたよりも、ずっと、ずっと。それに独特の体臭から察するに、どうやら妖の血が混ざっているらしかった。私たちはいつからか、この妖犬の縄張りに入り込んでしまっていたのだ。
 小さな山を思わせる背中を揺すりながら、妖犬はこちらを向いた。金色にぎらぎらと光る双眸の下、大きく裂けた口の間に、あの人間の男が挟まっていた。体が変な具合に捻じ曲がって、ぴくりともしない。
「逃げて!」
 妖犬の向こうには女もいた。私に向かって叫んでいることは理解できたが、私の全身は竦みあがってしまい、どうにも動くことができなかった。
 妖犬の顎が動き、ごきり、と嫌な音を発した。顎先を赤黒い液体が多量に伝い落ち、地面に落ちて、ぱたたたたた……と雨だれのような音を立てた。
 女が何か叫び、妖犬の注意はそちらを向いた。私は変わらず、動けなかった。
 ただ。眼前で起きている凶事から目を離すこともできず、立ち尽くしていた。
 ごしゃり、と硬いものと柔らかいものをまとめてすりつぶすような音がして、女の声もそれきり聞こえなくなった。
 妖犬が再度こちらへ首を向ける。すさまじい眼光よりも、顎に、鋭い牙の間に見えた物体が、私の体をしびれさせた。
 妖犬の顎が開き、牙に貫かれていた物体が落ちた。地面にぶつかって、ぼだっ、と熟れた柿みたいに潰れ、広がった。
 金色の目を笑うように歪ませ、そして妖犬はゆっくりと去っていった。大きな体躯が視界から消えつくすまで、ずいぶんと長い時間がかかったように思う。
 私は助かったのだ。



 辺りにはむせ返るほどの血臭が漂っていた。
 私は恐る恐る、かつて人間の夫婦だったものの残骸へと近付いた。
 魚のすり身を思い出した。
 無残としか表現できない亡骸を見下ろし、私はどうにか吐き気をこらえる。そして嘲ろうとした。本当にあんたたちは愚かだ。これが、凶兆の黒猫を懐けようとした報いなのだ。
 ぴちゃ、と足元の血溜まりで何かが跳ねる音。
 私の目から零れ落ちたしずくだった。私は泣いていた。愚昧な人間たちの死に、胸がつぶれてしまいそうなほどに痛んでいた。
 夫婦との日々が唐突に終わったことで、私は自分でも意外なほど、自失した。
 ――やがて涙も尽きた頃。私の中にはある決意が芽吹いていた。
 まだだ。まだ終わらせてはならない。この凶事を、こんな形でおしまいにしてはいけない。
 そう、まだ不運に見舞われるべき奴がいるではないか。
 最後に私という凶兆を目にした者、あの妖犬。あいつだって、しかるべき災禍を味わうべきなのだ。
 そしてできることなら、その災いは自らの手でもたらしたいと、私は願った。これだけは天や他人任せにしたくはなかった。凶兆から凶事そのものへと、私はなりたかった。
 この願いに応える声は、私自身の中からあった。私の本能は、おそらくずっと昔から、その方法を知っていたらしい。
 本能がもたらした知識はとてもおぞましいもので、だけど私はためらうことなく実行に移した。
 目の前にある、人間の血肉。それへと私は、舌を近づける。







 ***



 ぴん、と髭の一部が緊張し、私は目を覚ました。
 素早く周囲に首を巡らせる。髭が感知したのは、大気の流れのかすかな変化だった。近くに何者かがいる。
「奴」か。期待と戦慄に身を緊張させる。
 いつでも、どの方向へも飛び出せるよう四肢のバネに力を蓄え、機を見逃さないよう全神経を研ぎ澄まさせた。雨の光景を私はひたすら睨む。
 そうして待つことしばし――何の気配も感知できない数分間が過ぎた。
 また空振りだったか。私は脱力し、へたりこむ。
 髭もさっきの一度きり、今は何の反応も掴まない。合計で四十本近く伸びている髭は、“あれ”以来おそろしく鋭敏になった知覚器官のひとつだけれど、まだいまいち使いこなせないでいる。
 舌が妙に乾く。私はさっきまで見ていた夢の末尾の部分を思い出した。
 “あれ”を境に、私の体は大きく変化した。髭だけでなく、目や耳も、ずっと遠くの情報を、より細かく捉えることができるようになった。体は、以前ならとても無理だった小さな隙間も通り抜けられるほどのしなやかさを得た。四肢は強靭さを増し、脚力も跳躍力も以前とは桁違いだ。
 外観こそほとんど変わらなかったけれど、ただ一箇所。尻尾が二つに分かれたのが、唯一の変化だった。
 自身の変貌に、私は不思議と驚きといったものを感じていない。なるべくしてなった、そんな気分だった。生まれつき人語を解せたのも、きっとこうなる素養があったと、そういう意味なのだ。私はそう解釈している。
 夢の残滓に、胸がわずかに痛む。前脚が濡れていることに気付いた。雨滴がはねてかかったのかと思ったが、よく見ると私自身の涙のせいらしかった。
 そこで初めて、状況が異常であることに頭が回った。雨脚は強さを増していて、いくら大樹に庇を借りているとはいえ、こうも身体が濡れていないのはさすがにおかしくないだろうか。
「やっと気付いた?」
 いきなり頭上から降ってきた声に、慄然となる。
 見上げると、枝のひとつに金色の髪をした人間の女性が腰掛けていた。
 いや――形は人だけれど、気配などは人のそれをしていない。何より、九本もの立派な黄金の尾を持っている。尾の一本一本は、狐のものに酷似していた。
 九尾の女性は肩に洋傘を広げている。不思議な話だけど、その小さな傘が、真下にいる私のことをも雨から完全に守っているらしかった。
 私はその場から飛び退こうとして、できなかった。逃げるには雨に濡れなければならない。
 九尾の女性はきゅっと口の端を吊り上げた。
「まあ、そう毛を逆立てなくてもいいよ。今のところ、お前に危害を加えるつもりはないから」
 そして枝から腰を浮かせる。ふわりと綿毛のような軽やかさで、彼女は私の前に降り立った。
 そこはかとない獣の臭いが、鼻をくすぐる。強大な力を得たはずの私を、なお遥かに見下ろすような、遠く格上に立つ獣の臭い。
 身動きできないでいる私を、彼女は深い智慧の色をたたえた瞳で、じっくりと見つめた。
「久方振りの来訪者が化け猫とは、面妖、面妖」
 実に愉快げに笑う。
 来訪者――その言葉に、私は先刻の、異界に踏み込んだかのような違和感を思い出した。
 ここはどこなのだろう。そんな疑問を見透かしたかのように、彼女は言う。
「ここは迷い家、隠れ里よ」
 迷い家、その名は夫婦との生活の間に聞いた覚えがある。なんでもそこから家財や家畜などを持ち帰ると幸せになれるのだとか。私の特性とは正反対だ。
 そんな御伽噺の舞台みたいな場所に迷い込んだことを知って、私は驚くと同時に納得もしていた。妖犬を見失ったことは、これで説明がつく。何かの拍子に私だけがここへ紛れ込んでしまったのだ。異なる世界の内と外とに別れてしまったのでは、奴の気配を辿れなくても無理はない。
 そうと知れば、早いところここを出なければならない。あいつの捜索を再開しなければ。
「ここから出たいの?」
 九尾の女性の声に、
 ――もちろん。
 焦りから、私は思わず声を出す。
 すると、彼女には私の鳴き声の意味が分かったらしかった。
「じゃあ、ついてらっしゃい」
 くるりと背を向け歩き出した彼女を、私は追うべきか迷った。でも、自力でここから脱け出せるかは怪しく、どうも選択肢なんてないように思える。結局、急いで後を追いかけたのだった。
 いつの間にか雨はすっかり上がっていた。狐の嫁入りという言葉を、なんとなく思い出した。



 目の前で揺れる金色の尻尾に何度か飛びつきたくなったけど、その衝動を抑えて歩くことしばし。また、世界を跨ぐあの感覚があった。
 そしてすぐ、鼻が奴の臭いを捉えた。髭も大気の流れを掴んでいる。近い。
 雲に覆われたままの空には、今度こそ夜の色が迫りつつあった。奴を見失ってからだいぶ経ったはずなのに、まだこんな近くにいたことは驚きだった。
 あるいは、九尾の女性が、故意にここまで導いてくれたのか。
 彼女は足を止め、こちらを振り返っていた。その、くせのある微笑は、何もかもを見抜いているかのようだった。
「ここはもう、私が守るべき領土の外。ここでさよならよ」
 私が感謝の意をこめてうなずくと、彼女は敏捷な動きで飛び上がり、森の梢の向こうに消えていった。
 それを最後まで見送ったりはせず、私は走り出す。少しとはいえ眠ったせいか、疲労はさほど残っていない。最後の道のりを、全力で疾走する。



 じき、ぬかるんだ腐葉土にでかい足跡を見つけ、それからさほどもせぬうちに奴の影が見えた。
 空はすっかり暗くなってしまっていたが、見紛うはずもない。なにより、この胃の腑が引っくり返りそうな奴の体臭。
 風下から音もなく走り寄る私を、奴は敏感に察知したらしかった。小山のような図体がうごめき、醜悪な頭部がこちらを向いた。
 私は四肢を踏ん張って急制動。爪を地面に突き立てた。
 のしかかってくるような巨体の頂上近くで、ぎらぎらした金色の瞳が私のことを見下ろしていた。訝るような間の後、奴はいきなり顎を大きく開き、吼えた。いや、笑ったのだ。
 轟音が大気を震わせ、私の髭もびりびりと揺れた。風に乗って奴の口内から悪臭が流れてくる。血と死臭。
 血肉のカスが汚らしくこびりついた牙の乱雑な並びに、私はあの夜の光景を想起する。全身の毛が逆立ち、血流が熱くなるのを自覚する。
 私はここで死ぬのだろう。そのことに後悔はない。恐怖は、なかった。
 口をいっぱいに広げ、私は吼え返した。
 見ろ、この黒猫を。お前が目に入れているのはもはや凶兆などではない、凶事そのものだ。恐れおののけ。泣いて悔やめ。お前に約束されているのは、あの夫婦が味わった以上の苦痛と、残酷な死だ。
 私の体の奥底からの叫びは、しかし奴の体毛の一本を震わせることもできなかった。奴はにまりと口元を歪め、そして無造作に前脚を振り上げた。
 叩き下ろされた一撃を、私は前に飛び出すことでかわした。今の一撃が起こした旋風と大地の揺れに、正直肝を冷やしながら、奴の体の下にもぐりこむ。顎が頭上を通り過ぎ、続いて無防備な腹が見えた。
 尻尾が二つに裂けたときから、私の爪と牙も遥かに鋭さを増していた。この武器で奴の腹を引き裂いてやりたい衝動に駆られる。だけどこの位置からでは無理だ。やむなく股の下を駆け抜けようとする。
 左の後脚で蹴りつけてきたのを横っ飛びに避け、私は正面で揺れていた太い尻尾に飛びついた。硬い毛で覆われた尾に、思い切り爪を立ててやる。ぎゃん、と胸のすくような悲鳴が聞こえてきた。
 そのまま尻尾を駆け上がり、奴の背中に飛び乗った。ちょっとした家の屋根くらいの高さはあったかもしれない。広い背中の向こうには、頸がある。
 巨大な頭を支えているだけあって馬鹿みたいに太い頸だが、でも急所であることに違いはないはずだ。できれば喉に喰らいついてやりたいところだけど――
 と、妖犬が暴れだした。私を振り落とそうと大きく何度も飛び跳ねる。着地のたび、地震みたいに森の木々が揺れ、木の葉を落とした。
 私が必死に爪を背中へ食い込ませ、抵抗していると、次に奴は腹ばいになり、身を横倒しにした。そのまま転がって背中で押しつぶす気だ。私は慌てて爪を抜き、宙を回転しながら地面に降り立った。
 振り向いたところで、奴のぎらついた瞳と視線が合った。金色の瞳は喜色で満ちていた。私の全身の血が凍りつく。
 前脚での横薙ぎの一撃が私めがけて走った。
 私は咄嗟に飛び下がろうとしたが、わずかに遅く、左耳を灼熱の痛みが貫いた。さらに風圧で吹き飛ばされ、近くの樹木に身を叩きつけられる。
 転がった地面は先刻の雨に濡れたままで、ひどく冷たたかった。
 口の中に血の味があった。私のは、人間のそれとは微妙に異なる味わいだった。
 意識が朦朧としている。左半身の感覚が奇妙に鈍い。どうも奴の爪に、左の髭をまとめて落とされてしまったらしかった。
 揺れる視界に、ゆっくりと近寄ってくる奴の姿。舌なめずりなんかして、もう私に抵抗する力が無いなどと考えている。
 事実、その通りだった。四肢に力が入らず、逃げ出すこともできない。


「ここまでかな」
 涼やかな声が降ってきて、私はびくりと頭上を仰ぐ。
 夜空を背にして、あの九尾の女性が宙に浮かんでいた。
「助けてあげてもいいわよ」
 意外な申し出だった。
 いや、意外でもないかもしれない。さっきも迷い家から出してくれたのは彼女だし。なんにせよ、この窮地を救ってくれるというのはありがたい話だった。彼女の力なら、この妖犬だってひとひねりといったところだろう。
 うなずこうとして、だけど私は危ういところで思い出した。自分が何者であるのかを。
 かぶりを振ってみせる。
 ――助けて、いらない。
「ほう」
 予想しない反応だったのだろう、女性は少し目を見開き、でも気を悪くした様子はなかった。それはむしろ嬉しそうな表情にすら見えた。
「いいの?」
 ――いいの。私は凶兆の黒猫、関わったら不幸になるよ。あなたはいい人みたいだから、そんな目に遭ってほしくない。だから、早くどこかへ行って。
「ほほう」
 女性はやはり嬉しげに、目を細めた。そして私の言葉を無視して、近くの枝に腰を下ろした。
 何を考えているのか。せっかくの忠告を聞き流されたことに腹が立ったが、それどころではなかった。妖犬がすぐそこまで近付いている。


 不思議なことに、女性と話していた時間で、わずかながら活力が戻っていた。右前左前、右後左後……うん、すべての脚が動いてくれる。
 私が立ち上がると、妖犬は驚いたように前へと運ぶ足を止めた。睨みつけてやると、その目に動揺の影がよぎったように思えた。
 そうだ、まだ終わらせてはいけないんだ。こいつの顔を、もっともっと恐怖の色に染めてやらねばならない。絶望を味わわせ、追い詰められた鼠みたいに情けない悲鳴を上げさせてやらねばならない。
 私は濡れた体を震わせて、毛に付着した泥水を払った。
 それから爪をめいっぱい伸ばす。せめてこれを奴の血で朱に染め上げるまで、倒れてなどやるものか。
 走り出した私に、奴は右前脚を振り上げ――だけどそれはフェイントだった。本命は凶悪な牙、顎を伸ばして直接噛みつきにかかってくる。
 おあつらえ向きだった。こちらは髭を半分近く失ったことで、細かな状況把握が利かなくなっている。向こうから急所を近づけてくれるのはありがたい。
 私は姿勢を低くしながら後脚で力いっぱい地を蹴りつけ、迫り来る顎の下をぎりぎりで潜り抜けた。
 そうすれば――ほら、頭上には奴の喉笛。私は地に脚が触れると同時、今度は真上に跳んだ。
 喉を覆う体毛の奥へと頭から突っ込んで、爪を肉に深々と突き刺し、同時に牙を食い込ませた。裂けた皮膚からあふれ出した血液が、私を汚す。分厚い肉の向こうで、奴の口腔が激しく唸りたてていた。
 奴はまた暴れだしたけど、無駄だ、二度と離すつもりはない。
 ありったけの力を振り絞って奴の肉を引き裂こうとしていると、不意に背中を強い衝撃が叩いた。奴が腹ばいになって、私を地面へ打ちつけたのだ。
 激痛に目まいがし、喉の奥から血の塊が昇ってきたが、爪と牙は離さずに済んだ。私はなおも肉を抉りつづけ、奴も私を圧殺しようと暴れまわる。
 体に何度も衝撃が走り、全身がばらばらになりそうな痛みが連続する。私の意識は徐々に薄れていった。
 そして、どれほどの時間が経ったのだろう。
 私の牙の間で、ぶつりと何かを断つ感触があって。
 奴の喉笛から、ひゅっ、と空気の漏れる音がした。
 直後、私は奴の喉から落下した。四肢も顎もとうに感覚を失っていた。
 妖犬はひゅーひゅーと甲高い音を鳴らしながら、気が狂ったみたいに頭を振った。苦悶の顔で口を大きく開き、そこから唾液をぼたぼた振りまく。
 そして奴はおぼつかない足取りで歩き出した。私のことなど念頭から消え失せたみたいに、あさっての方角、林の中へと踏み込んでいく。そして樹木の陰の奥へと消えていった。
 しばらくして、ずしんと大きな振動が、地面に走った。
 私は濡れた地面に転がっていた。もう尻尾の先を動かすほどの力も残っていない。体が急速に冷えていくのを感じる。
 これでいいんだ。ここで私が死ねば、不幸の種がひとつ、消えるのだから。
 私は目を閉じて、近付きつつある死を待った。
 ああ、それにしても寒い。最後にひとつだけ願うことがあるとすれば、あの夫婦の温かな寝床で眠りに就きたかった。












 なんだか暖かい。
 誰かが最後に気を利かせて、願いを叶えてくれたのだろうか。ひょっとして神様? いままで信じていなかったけど、あの世に行ったらお祈りするようにしようかしらん。
 そんなことを思いつつ、少しでも温もりを逃がさないよう、身を丸めた。不思議と全身の痛みは和らいでいた。
「目が覚めたかな?」
 優しい声がして、私はまぶたを開いた。あの九尾の女性の顔が、すぐ近くにあった。
 私の体は、彼女の胸元に抱き上げられていた。
 ――どうして。
 何が「どうして」なのかは自分でも分からなかったけれど、とりあえずそう訊いた。
 彼女は柔らかに微笑んだ。とても綺麗な笑顔だった。
「初めて見たときから、お前のことがなぜか気にかかってね」
 すべやかな手が私の体を撫でていく。すると暖かなものが体の中に染み入ってきて、触られた部分の苦痛が薄らいでいった。
「ひとまず応急処置はしたから。これで命の危険はない……あ、でも、髭を切られた猫は生きていけないって聞いたことがある。どうしよう」
 ――そういう迷信を信じちゃ駄目。
 私は反射的に言い返してから、
 ――……どうして。
 そう、再び尋ねていた。
 ――どうして、あのまま死なせなかったの?
「死にたかったのかい? どうして?」
 問い返されて、私は答える。さっきも言ったけど、私は凶兆の黒猫だから。他者を不幸にしてしまうから、だからいなくなった方がいいの。
 すると彼女はひどく悲しげな顔になった。あの人間の女の顔がそれに重なり、胸が締め付けられた。
 九尾の女性はそっと私を抱き直す。
「それこそ迷信だ。お前は、そんな存在などではない」
 でも現に、この上なく不運な最期を遂げた者たちがいる。あまつさえ、あの妖犬には私自身が災厄をもたらしたのだ。
 そんなことを教えてあげると、彼女は短い沈黙を挟んで、いきなり奇妙なことを言い出した。
「私と一緒に来なさい。私の主も、きっとお前のことを気に入るわ。私の助けを拒み、たった一人で強大な相手を打ち負かした、お前のことを。だから、ね、私たちと一緒に暮らしましょう?」
 予想外もいいところの言葉に、私は目を白黒させた。
 どうして、どうして分かってくれない。そんな腹立たしさと同時に、一方で私は惹きつけられてもいた。この女性との暮らしは、つい先日失ってしまったものと同じ、暖かなものになるだろうと予感したから。
 だけど、だからこそ、行くわけにはいかない。私は声を荒げる。
 ――だめだってば。あなたたちを不幸にしちゃうって言ってるのに。
 彼女が返してきたのは、凄みすら含まれた、自信あふれる笑みだった。
「安心なさい。私たちはちょっとやそっとの……いや、洒落にならないくらいの災厄が降りかかってきても、簡単に撥ね退けてしまえるのだから。私はともかく、私の主は、それは大した方なのだよ」
 彼女は誇らしげに語り、それにね、と付け加えた。
「私は信じていないから。こんなに綺麗なお前の毛並みが、不幸の兆候だなんて。そんなことは絶対にない」
 それは、世界を組み替える言葉。
 私は体が震えるのを感じながら、目を閉じた。まぶたの裏に映るあの夫婦に問いかける。今度こそ、私は新しい世界を得られるのだろうか。
 ――信じても、いい? あなたたちは不幸になったりしない?
「ああ。私たちも、それにお前も、誰ひとりとして不幸に屈したりすることはない。約束するよ」
 私は観念した。



 ふわりと重力のなくなる感覚。彼女が空に浮き上がったのだ。
 見上げる彼女の顔は、ずいぶんと嬉しそうなにこにこ笑顔だった。さっきまでは雲上の大妖怪といった風格すらあったのに、この緩んだ表情にはなんとなく親しみを覚える。
 ふと、彼女は視線を落としてきた。
「そういえば、お前の名前は?」
 私は口を開きかけ、だけどためらった。
 私にはあの夫婦からもらった名前があった。だけど――今の私は、もうあのときの黒猫ではなくなってしまった。夫婦の血をすすり、肉を喰らったことで生まれ変わった私に、果たしてまだかの名を呼ばれる資格はあるのだろうか。
 少しの間を置いて、
 ――ないよ。
 私は、そう告げた。
 すると彼女はさっそく私への名前を考え始めたらしかった。意外に分かりやすい表情の変化をする方だなあ、と思う。
 主とやらに紹介するより先に、決めてしまいたいのだろう。彼女は飛ぶ速度を落とし、じっくり長い時間をかけて考えに考えた。
 そして、思案で曇っていたその顔に、やっと晴れ間がさした。
「そうだな、お前の名前は――」








 ***



 ぴん

 大気の流れにかすかな変化を感じ、私の髪の一部が緊張する。人の形をとっている今、私の髭は髪の毛の中に擬態している。
 ここ、迷い家の空気がわすかに動揺していた。この感覚は、侵入者があったことを意味するものだ。
 私が気付いたのと同時――いや、もっと早くにだろう。向かいに座る私の主も察知している。手の箸を止めて、鋭い眼差しとなっていた。
「橙」
 藍様の呼びかけに、私はうなずき返した。お箸とお椀を膳の上に置いて、立ち上がる。
「見てきますね」
 それが、私の役目だから。
「寒いからな、気を付けろ」
「はい」
 藍様の言うとおり、外はまだまだ寒い。もうとっくに春の陽射しが降り注いでもよい時節のはずなのに、雪がちらつくことすらある。
 外に出て、高度を取ると、大気はさらに冷たくなる。すぐに家の中と藍様手製の料理が恋しくなったけど、もちろん引き返すわけにはいかない。両手でぱんと頬を叩き、気合を入れると、私は転がるようにして空を駆けた。



 ここは迷い家、隠れ里。
 私がここで暮らすようになって、普通の猫からすれば気の遠くなるような歳月が過ぎた。
 その間、私の懸念した凶事はまったく起こらなかった。起きるかと見えても、兆候が顕れた時点で、だいたいは藍様が処理してしまうのだ。それはもう易々と。むしろ家の掃除の方に、藍様はよほど苦労しているように映る。
 あの時に交わした約束は今なお守られているのだ。実際、災厄なんて向こうから避けて通りそうなほどに、私の主となった人は凄い方だった。そのまた主となれば、これはもう途方もなく凄い。ちょっと眠り癖がひどいのが珠に瑕だったけれど。次に会えるのはいつだろう、いつもなら啓蟄の頃には起きだしてくるのに。
 藍様に仕えるようになって、私は色々なことを学んだ。人化の方法や人語の操り方、空の飛び方をはじめとする様々な術、それに戦う方法。
 そして何より、私が凶事の兆しなどではないということ。
 それは、現実から目を逸らそうとする人間の弱い心が生み出した迷信だと、今の私は知っている。でもまったくの嘘とも言い切れない。例え迷信であろうと、信じるという行為は、現実を歪ませてしまうことがあるのだ。
 だから、そうであると信じている相手にとって、私は「凶兆の黒猫」のままでいいのだと思う。結局、不運に屈するのはその人の弱さゆえなのだから。


 そして、しかるべき相手に対しては、私は自ら望んで凶事を為そう。
 それは例えば、この幸せな日々を壊そうとする者。
 私がかつて一度は手に入れ、失ったもの。いまひとたび同じものを手にし、そのかけがえのなさに思いを馳せて。これを脅かす存在には怒りと憎悪しか覚えない。対峙することとなれば、容赦するつもりはなかった。


 今日、ここに迷い込んだ者は、どうだろう。そいつにとって、私は果たして凶兆となるのかどうか。
 なんにせよ、侵入者は適当にあしらって外へ放り出すのが私の仕事。
 早く片付けて藍様と食事の続きをしよう――それを楽しみに、私は寒空の下を急ぐのだった。

 

 

 

 



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2005年11月25日 日間

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