紅魔館と人里とのほぼ中間地点といった辺りだろうか。
 街道から外れ、足に絡みつく下草を掻き分けながら林の奥へ一分ほども歩くと、鬱蒼とした緑の景色には似つかわしくない匂いを鼻にすることができる。まるで屋台の軒先で得られるような匂い――すなわち、よくタレの効いた蒲焼きの香り、そしてアルコールの芳香である。
「“白”」
「“黒”」
 空は夜陰に閉ざされ、樹林の間となればなおのこと暗い。そんな時間、こんな場所で、かぐわしい匂いを嗅げるばかりか、人と人とが囁きあう声すら聞くことができた。
「……いらっしゃい。初顔ね。魔法使いから聞いてきたの?」
「ううん、うちの図書館にいる小悪魔から」
 辺りをはばかるように低く抑えた声を交わすのは、夜雀と紅魔館の門番であった。奇妙なことに――いやもう十分に奇妙な状況ではあるのだが、さらに拍車を掛けているのが、ふたりの格好だった。普段の服の上に灰色のコートを纏って、フードを目深にかぶっているのだ。胡散臭いことこの上ないが、素性を隠すのが目的ならば、それは果たされている。もし往来で知り合いとすれ違ったとしても、相手にそれと気付かせることはないだろう。
「ああ、あの子なら知ってるよ。毎日のように来てるから」
「そうなんだ。ちぇっ、もっと早く教えてくれれば良かったのに」
「まあ、そうぼやかない。慎重になるのは仕方ないよ。ほら、こいつで機嫌を直して。ね?」
 そう言って夜雀が掲げたのは、一本の酒瓶。
 ラベルから察するに、特段、上等なものでもないらしいが、それでも門番は目を輝かせた。星の瞬きも届かぬこの闇の底で、一筋の光明を見出したかのような、そんな表情となっている。
「ああ……」
 先刻から匂いだけは嗅がされていて、かなり焦れていたのだろう。今にも瓶をひったくって頬ずりさえしかねない彼女に、夜雀は素早くコップを渡し、瓶の中身を注いであげた。それから自分の分も注ぐと、今度は八目鰻の串焼きを取り出す。どこか別の場所で焼いたものを包んできたらしい。
 ふたりは秘密めいた笑みを交わし、コップの端を軽く重ねた。かちん、と思いがけず澄んだ音が鳴って、緩やかな夜風に流されていく。

 まるでその音を合図としたかのようだった。
 不意に木々がざわめきだした。不穏なその響きに、コップを傾けかけていたふたつの手が、ぴくりと止まる。
 夜と木々が編む闇の奥、彼方から何かが近付いてくる。葉の擦れる音の向こう、大気の千切れ飛ぶ悲鳴が聞こえる。幹の間を巧みに縫い、風の如く侵掠するものがある。
 ふたりは顔を見合わせた。黒闇の中、不思議に相手の顔が蒼褪めていると、はっきり分かった。
「新しいお客さん、てわけじゃなさそうだけど……」
「まさか、もうばれちゃったの?」
 ふたりは目顔で示し合わせると、躊躇なく手の酒を捨て、その場を離れようとした。
 だが、それでも遅かったのだ。そいつは想像を超えた速さで接近を果たしており、ついに闇の深淵から飛び出してきたのである。
 それは果たして地獄の悪鬼か、はたまた冥府の魔神か――ふたりにとっては、そちらの方がまだましだった。この暗さでは正体など判ぜられるはずもないのに、彼女らの目には、ありありと見えていたのである。紅白の衣装を纏った、巫女の姿が。
 声なき悲鳴を上げるふたりの前で、巫女は玉串握る手を高々と掲げた。
「酒精封印!」
 まばゆい光と雷鳴のような轟きが林を貫く。やがて静寂が戻ったとき、その場から酒と蒲焼きの匂いは絶えていて、ただ噎せ返るような緑の息吹のみに満たされていた。

 

 

 

暗黒時代

 

 

 

 始まりは秋の一日。

 その日、まだ朝靄漂う早暁に、魔理沙は博麗神社を訪れていた。本を恋人に夜を徹し、いささかハイな状態となっていた彼女は、この素晴らしき高揚を誰かと分かち合いたいなどと身勝手極まりないことを考え、実行に移したのである。
 せっかくの朝駆けだ、ちょいと凝った挨拶をしてくれよう。そうだ早朝スパークがよろしかろう――などとほくそ笑みながら霊夢の起臥する一室へ踏み込もうとした彼女であったが、いざ障子を開けたところで二の足を踏んだ。部屋の中から濃厚な墨の匂いが流れ出てきて、鼻を衝いたためだった。
 意外にも、霊夢は既に起きていたのだ。既に布団も畳まれた部屋の中央で、こちらにお尻を向けて正座している。
 相手がまだ睡眠中だと決め付けていた魔理沙は、これに出鼻を挫かれた。障子を開けた形のまま、しばし硬直してしまう。静謐な早暁の空気を改めて乱すのは、なかなかに勇気のいることだった。
「よ、よお、おはよお霊夢。ずいぶんと早いじゃないか」
 決まりの悪さを声に出さぬよう努めつつ、なんとか挨拶を済ます。とてもじゃないがマスタースパークなどかませる雰囲気ではなかった。
 霊夢はゆっくり、身体ごと振り返った。赤く充血した目で魔理沙のことを認めると、
「あー……おあよ」
 なんとも気の抜けた声を発した。もしかすると欠伸だったのかもしれない。
「なんだ、もしかしてお前も徹夜明けなのか?」
 布団は畳まれた後なのではなくて、そもそも敷かれていなかったのか。代わりに畳の上には何枚もの新聞紙が広げられており、その上に霊夢は座っている。そして、彼女の右手には、筆が握られていた。
 目を血走らせてまで、いったい何を綴っていたのか。書初めには十ヶ月くらい遅いぜ、などとぎこちない軽口を叩きながら、魔理沙は部屋に入り、霊夢の向こう側を覗き込む。霊夢には特に隠そうとする素振りもなかった。
 そこには予想通り、黒い毛氈が置かれ、その上に白い半紙が乗せられていた。そして半紙には、荒削りながらも繊細さを感じさせる書体で、黒々とした文字が刻まれていたのである。

 「断酒」

 と。
 魔理沙は首をかしげ、「新手のギャグか?」と尋ねた。
 霊夢は「ふざけるなよ」と返した。


 書道道具一式が片付けられ、換気のために障子が開け放たれたままの部屋で、ふたりは座布団に腰を落ち着けた。壁には、まだ湿った墨の香りを発する二文字が、既に貼り付けられている。
 ほとんど白湯に等しいお茶をすすりながら、霊夢は話し始めた。
「米がもうないのよ」
 今年も無事に収穫期が過ぎ、霊夢のところにもおこぼれのような形ではあったが、関係各所よりいくらかの米が届けられていた。今期は豊作だったため、例年よりも当社比一割ほど多くもらえて、霊夢はほくほく顔となったものである。
 ところが、それからまだ一ヶ月と経っていないのに、早くも貯蔵米が半分を切ってしまった。このままいくと年を越すことすらままならなくなる。一転して霊夢は戦慄することとなった。
 原因はすぐに知れた。酒だ。食事に用いるのとは別に、どぶろく造りにも用いていたため、通常の倍以上のペースで消費してしまっていたのである。
「なんだ、自業自得じゃないか」
 昔から似たような逸話はいくらでもある。あまりに酒造が流行して飢饉を招きそうになった時代とか、兵士が兵糧米を酒造りに浪費したため行軍すら危うくなった軍の話とか。霊夢は先人と同じ徹を踏んだのだ。
 しかし、魔理沙の当然の感想に、霊夢は目を吊り上げた。
「誰のせいだと思ってるのよ? あんたらがしょっちゅうここで宴会を開くから、こっちも自分の酒くらいは用意しなくちゃって、つい張り切っちゃうんじゃない。私は身を削ってまで和を保とうとしていたのよ、きっとそうよ」
 そうかなるほど、と魔理沙はうなずいておいた。霊夢の剣幕が怖かったので。でも本心を言えば、あまり同情する気にはなれなかった。
「とにかく、そんなわけだから。昨夜ひと晩かけて考え出した対策が、これ。私はここに無期限の断酒を誓ったのよ」
「そうか、頑張れよ」
 魔理沙は欠伸を噛み殺しつつ、うなずいた。既に霊夢の話への興味を失い、頭の中は睡魔の侵攻を受けていた。帰って寝ることに決める。霊夢がなにを始めようと関係ないし、それが面白みの欠片も無いことならばなおさらだ――



 ところが、「関係ないね」では済まなかったのである。
 その翌日、幻想郷の主だった人妖のもとに、文々。新聞が届いた。それ自体はまあ、ありきたりの出来事で、記事内容もいつもと同じかそれ以上に取るに足らないものだった。
 問題は、中に折り込みチラシが挟まっていたことだ。文々。新聞初のこのサービスが、少女たちを震撼させる。
 ガリ版で刷られたチラシの文面は、以下のようなものだった。

「  “大いなる過ちの源と訣別せよ!”

 この通告文を受け取った者ならびにその家族・同居者は、本日より禁酒の義務を負う。
 これは酒類の製造・販売・運輸・所持、そして飲酒を禁ずるものである。通告を受けた者は、速やかに所持する酒類及び原料を博麗神社まで届け出よ。拒否し、また不当に酒類の隠匿を図った者には然るべき罰が下される。酒類の処分に際し、無用な遅滞を図った者に対しても同様、実力を行使する。例外は認められない。
 本令樹立の根拠とするは、酒類のその不幸誘発性にある。酒は人妖を堕落させ、個人のみならず周囲をも破滅に導く悪魔の水である。これを排除することこそ幻想郷の秩序を守るべき私の責任と知り、ここに本令の施行を決意した。
 なお本令は、発令者によって撤回されるまで永久に有効とするものである。

                    吉日
          博麗神社 博麗霊夢
(草案協力:四季映姫・ヤマザナドゥ)」





 禁酒令の発布である。

 誰もが唖然とした。内容そのものに対してはもちろんであったが、このようなものを押し付けられたという事実に驚愕を禁じえなかったのだ。
 幻想郷で規律を持つのは、唯一、博麗の者だけである。彼女が何に縛られていようと、また新たな縛りを自らに課そうと、それは他者には無関係であるはずだった。今回のように、一部とはいえ、規律の内容を世間に知らしめ、また他者にまで当てはめようとする動きは、かつてないものであった。
 驚きが去ると、次に生まれた感情は反発だった。幻想郷の空を衝かんばかりの大ブーイングが、一斉に沸き起こった。
 チラシを送りつけられた者たちは、さっそく神社に押し寄せた。先頭に立ったのは魔理沙だった。彼女は、この馬鹿げた規律が霊夢個人の飢餓問題に端を発するものであり、幻想郷の秩序維持云々などといった御託が建前に過ぎないことを、既に皆へと伝えた後であった。
 二十人近くからなる殺気立った人妖に取り囲まれて、霊夢は怯むどころか胸を反らし、一同をぐるりと見渡した。
「あなたたちとは何度も酌み交わした、いわば飲み仲間よね」
「まあ、そうだけど」
「なら、仲間の禁酒を応援するのが筋ってものでしょうが! 一緒に断酒してくれたっていいじゃない! 連帯責任よ!」
 逆切れである。
 これに押しかけた一同は呆れ、口々に霊夢の不当性を訴えた。
 だが霊夢は動じず、むしろ薄く不気味に笑うと、背後の社務所に向かって何やら手で合図をした。すると中からふらりと小柄な影が現れる。
 恐らく、多分、萃香――と思しき子鬼だった。はっきり断言できないのは、その子鬼が全く酒気を帯びていないためである。
 酔いどれでない萃香というものを、誰が想像できようか? その想像を絶するものであるはずの事象が、眼前に具現化されていたのだ。一同の驚きはいかばかりのものだったか。
「彼女ですら、快く同意してくれたのよ? あなたたちにだって出来ないわけないわよね」
 霊夢の酷薄な笑みの隣で、素面の萃香は瞳を潤ませて悄然とうなだれている。いつも腰に帯びているはずの伊吹瓢が、そこにはなかった。
「ああ、あのふざけた瓢箪? 炒った豆で結界作って、本殿に封印したわ。もし、強引に奪い返そうなんて考えたら……」
 巫女は双眸に氷より冷たい光を閃かせ、
「瓢箪に永久TILTの呪いを掛けちゃうんだから」
 そんなことをされては、場末のバーのピンボール台よりも立場がなくなるのは明白だった。群集から慨嘆の呻き声が漏れる。
「あ、悪辣な」
「それが巫女のすることか」
 霊夢はふんと鼻を鳴らす。
「とにかく。今後、私の前で一ミクロンでも酒の匂いをさせてごらんなさい。雑巾よろしく絞り上げて、体中の血液ごと酒精を浄化してくれるから」
 取り付く島もなかった。双方の最初で最後の話し合いは、こうして決裂したのである。


 もちろん、これで人妖たちが大人しくなるはずもない。
 神社から解散した後、彼女らは思い思いに反抗の道をとった。
 
 何人かは、このような施策に加担した体制の犬とみなして、射命丸文の事務所に押しかけた。だがそこで彼女らが見たのは、ジャーナリズム魂を踏みにじられて涙する、哀れな天狗の姿だった。
「私の相棒の鴉の首を掴んで、あの人は言ったんです。『そういえば蛋白質もご無沙汰なのよね』って……。そうです、私は人質を取られたことで、権力に屈したんです。何よりも大事だと公言していた記者魂を捨てたんです。さあ、どうぞ笑ってください! 嘲ってください!」
 誰に笑えようか。詰め掛けた者たちは、ただ彼女の肩にそっと手を乗せてあげることしかできなかった。

 またある一団は、かの馬鹿げた通告文の草案を作成したという映姫のもとへ、説明を求めに向かった。
 映姫はずいぶんと嬉しそうな顔で、小町の頬をつねりあげているところであった。
「ええ、私が草稿を練ってあげましたよ。やっとあの巫女もまともに善行を考えてくれるようになったみたいで。私も説教をした甲斐があったというものです」
「ごめんなさい、ごめんなさい、堪忍して四季様」
 いやあれは善意の行動ではなくてただのエゴの押し付けだ、そう訪問者たちは訴えたのだが、聞き入れられなかった。
「だって、そうではないですか。過ぎたお酒は、人に理性を失わせ、あらぬ痴態を晒させてしまうのです。のみならず、上司の痴態を写真に収めて脅迫しようなどという恥知らずな輩までをも生む始末。そのような悪業を世に生むくらいならば、いっそお酒など断ってしまうべきでしょう」
「あいたたた、四季様、ちぎれる、ちぎれちゃう!」
 ぎゅむうぅ、と小町をつねる指に一層の捻りが加えられる。ひょっとすると、何か酒の席での嫌な思い出でもあったのかもしれない。
 考えてみれば、エゴの押し売りは映姫も得意とするところだった。そんな彼女に、もはや届く言葉もないと知った一同は、得るものもないまま引き返したのだった。

 最も過激な行動をとったのは、レミリア・スカーレットである。
「悪魔の水? だったら悪魔が口にするのは、むしろ当然じゃない」
 などとのたまい、秘蔵のスコッチを手にわざわざ博麗神社まで出向いて、霊夢の前でぐびぐび飲りはじめたのだ。
 この挑発行為に、霊夢の反応は早く、苛烈だった。
「けーっ!」
 と怪鳥の如き奇声を発しながら、いきなりの延髄切りを浴びせたのである。
 レミリアは瓶を喉に詰まらせながらもんどりを打ち、境内に転がった。そこへ霊夢は夢想封印の連打で畳み掛けた。
 夢想封印夢想封印夢想封印夢想封印散夢想封印集寂侘瞬白発中……レミリアに随伴してきた咲夜が顔色を失い竦み上がるしかなかったほどに、鬼気迫る怒涛のラッシュであった。
 そして、
「酒精封印!」
 高らかな宣言を添えてとどめの一撃が振り下ろされ、レミリア(の抱える瓶)は砕け散ったのであった。

 直後からである。霊夢の「狩り」が始まったのは。
 勧告に従って酒類を神社に提出する者は、ひとりもなかった。そこで霊夢は、予告していた通り、自ら打って出ることにしたのだ。
 ポケットの中の小瓶から秘密の地下蔵に隠されていたものまで、酒という酒は余すところなく見出され、没収された。どれほど難解な場所に秘めていようと、必ず暴かれた。
 運悪く飲酒の現場に踏み込まれた者の末路は、悲劇の一語に尽きた。詳細は描写することも憚られる。ただその悲鳴は、遠く一里先の人家まで届いたという。
 霊夢の勘と調伏能力はかつてないほどに鋭く、容赦なかった。誰もそれから逃れることなど叶わなかった。
 スキマの中に隠れて飲もうとしていた紫までもが退治られるに至って、人妖たちはようやく悟った。事は個々で対処できる限界を超えている。ここは皆が力を合わせることでしか、もはや生き残る術なし、と。
 少女たちは団結し、徹底抗戦の構えを取った。かくして、ここに血で血を洗う闘争の幕が開けたのだった。



 とある知識人は、後に述懐している。
「(前略)禁酒法と言えば、やはり二十世紀前半に米国で施行されたものが有名だろう。だがこれは穴の多い法で、そもそも飲酒そのものは禁じていなかったくらいだ。詳しくはこの書物で熟知(中略)対して今回、博麗の巫女が定めたものは、飲酒はおろか所持すら禁ずる、いわばガチ禁酒法とでも呼ぶべきものだった。(中略)双方に共通して言えるのは、現実というものとの齟齬があまりに大きかったことだ。悪法と決め付ける向きがあるのも無理からぬことだろう。これに立ち向かう動きは、起こるべくして起きたものだったのだ(後略)」

 抵抗運動は深いところで静かに、速やかに展開された。
 先頭に立ったのは霧雨魔理沙。彼女の強力なリーダーシップは、宴会の幹事役などで既に周知のものとなっていた。彼女はこの不当な弾圧に際してもそれを振るい、仲間たちを導いたのである。
 彼女はレジスタンスを結成後、まず地下ネットワークを構築、コミュニティ内の情報網の確立を図った。巫女の神出鬼没性に少しでも対抗する意図である。これにはかの射命丸文も大いに尽力していたとされる。通常の文々。新聞を刷る裏で、レジスタンスの機関紙を精力的に書き綴るその姿には、かつて権力に屈従した敗北者の影などかけらもなかった。
 平行して、各所に隠れ酒場、いわゆるスピークイージーが開かれた。香霖堂の地下といった固定営業の店もあれば、ミスティアの店に代表される移動式のものもあった。後者は、口コミや機関紙で次回の営業場所・日時を報せる形式が採られた。
 酒類そのものは、案外と簡単に用意できた。多くは自前で造られたのである。
 ここでもまた、知識人の言葉を引用しよう。
「(前略)ただ、この世紀の悪法にもわずかながら綻びを認めることができる。それは、酒造の道具の所持までは禁じなかったことだ。
 無論、積極的に許したというわけではなく、消極的に無視したという話なのだが。今となっては理由を断定することもできないが、私の推論では、道具など押収しても腹の足しになるわけでもなく、置き場に困るだけだという判断が、巫女に働いたためだと思われる。厳格に処分を指示しなかったのは、明らかな手落ちと言えたろう(後略)」
 彼女らの活動の中で最も危険を伴ったのは、酒類の輸送だった。日中の行動や主だった街道での移動を避け、深夜に細道を進み、それでも巫女に察知され、襲撃を受ける事態が多発した。
 それでも彼女らは諦めず、智慧を絞った。永遠亭のある兎は、医療用アルコールに偽装して、多量の酒の輸送を成功させた。またある氷精は、酒に気泡を抱かせて凍りつかせ、その氷塊を川に浮かべて下流へ届けたという。


 ここで奇妙な噂がある。全ての人妖が反霊夢の立場を取ったわけではないという、そんな噂だ。
 積極的に霊夢を支援しないまでも、レジスタンスの活動を密かに阻害する者がいたというのである。
 その正体や人数は明らかになっていないが、まことしやかに囁かれた噂によれば、半人半霊の庭師や悪魔の館のメイド長がそうであったとされる。かつて頻繁に開かれていた宴会の席において、からかわれたり調理や後片付けに奔走するばかりだったりと、割を食った立場を強いられた者たちに対して、こういう嫌疑が掛けられたのだ。
 結局、虚実は明らかとならぬままだった。あるいは、巫女を恐れる抵抗者たちの心理が生み出した亡霊のようなものだったのかもしれない。

 また別に、中立派に近い立場の者もいた。代表的なところでは永遠亭の姫とその従者である。
「お酒? いまさらそんなもの、なくってもねえ。もし私がお酒に頼らなければならない軟弱者だったとしたら、ここまでの永い歳月、人格破綻も起こさずに生きてこられなかったでしょう」
 現時点において彼女が正気かどうかはさておき、説得力のある言ではあった。


 二重スパイの存在などさえ囁かれるようになった抵抗運動中期からは、レジスタンスの間で、ある符牒が用いられるようになった。
 “白”と問われて、“黒”と答えるものである。
 この、鳥頭でも覚えられそうな簡単な合言葉は、彼女らの旗印たる魔女にあやかったものだとされる。もし、たとえ冗談のつもりだったとして、間違ってもこの問いに“紅”などと応じてはならなかった。事実はどうあれ、その者は霊夢のシンパとみなされ、即座に口を封じられてしまっただろう。
 このような彼女らの地味な努力は、確実に功を奏し、少女たちはどうにか酒と縁を断つことなく、日々を送ることができていた。窮屈ではあったが、週末に親しい友人たちとこっそり秘密の酒盛りを開くくらいのことはできた。
 だが――ここまで慎重に徹してなお、かの巫女を出し抜くには足りなかったのだ。



 レジスタンス結成から二週間ほどが経過した頃、突然、霊夢がそれまで以上の猛然たる攻勢を見せるようになった。
 彼女はその研ぎ澄まされた勘で、レジスタンスが広げたネットワークの一端を掴むことに成功していたのだ。それから彼女らしからぬ慎重さで、抵抗者たちに悟られぬようゆっくりとネットワークの糸を辿り、とうとう全貌を暴きだすことに成功してしまったのである。
 もはや彼女に待つ理由などなかった。その恐るべき調伏能力が、各地の隠れ酒場を暴風の如く席捲した。
 そしてレジスタンス結成より三週間目、ついに抵抗本部たる霧雨邸が、その毒牙にかかる。
 このとき、家の主にしてレジスタンスリーダーたる魔理沙は、紅魔館支部との連絡に自ら赴いていた。もし彼女が自宅にとどまっていたならば、あるいは巫女を一時的な撤退に追いやることくらいはできたかもしれない。しかし、事実はそうではなかった。

 夕刻、帰宅した魔理沙が目にしたのは、そこかしこでぼろきれのように横たわる仲間たちの無残な姿だった。
 入り口で呆然と立ちすくむ彼女の視界の端、仲間のひとりがぴくりと動きを見せた。魔理沙の片腕として共闘してきたアリスだった。
 駆け寄った魔理沙に、アリスはうっすらと目を開け、ただひと言、
「ごめんね」
 とだけ残し、再び気を失った。
 魔理沙は彼女の手を取り、無言で握り締めた。その目には怒りと決意の炎がゆっくりと燃え上がりつつあった。




 はや木枯らしの吹く時節となっていた。
 夜半、博麗神社。ぽちゃっと膨らんだ月が照らす下、本殿の屋根の頂で、魔理沙は霊夢と対峙した。
 レジスタンスは壊滅した。もはや再起も望めまい。ならば、もう、リーダーたる自分が決戦を挑み、白黒つけるしかないではないか。たとえ及ばぬとしても。
 自棄ではない。元より、自分たちにはこういう決着方法しかなかったのだ、そう信じる。
 そう、思えば霊夢の断酒宣言に立ち会ったあのとき。あの場で自分が何らかのアクションをとっていれば。あるいは、このような展開は防げたかもしれない。
 だから、胸の内を焼き焦がし続けている憤怒の火を押さえつけ、魔理沙は最後のチャンスを霊夢に与えたのだった。
「なあ。ここまでの大事になってしまって、正直、引っ込みがつかなくなっちまったんだろ? なんなら私がみんなにとりなしてやるぜ。だから……こっちへ来い、霊夢」
「……そうだとしても、もう私は引き返せないのよ、魔理沙」
 かぶりを振った霊夢の顔に一瞬、寂しげな色がよぎったように思えたのは、月影が見せた幻だったのだろうか。
 馬鹿なやつ。魔理沙はつぶやいた。
 知ってるわ。風に消え入る声。


 先手を打ったのは魔理沙だった。
 懐から抜くは、スペルカードとミニ八卦炉。掟破りの開幕マスタースパークである。
 これまで、霊夢に対して布石なしのマスタースパークが当たった試しはない。いや、誰に対してでも、そうそう当たるものではないだろう。一撃必殺の切り札を放つ際には、まず必ず当たる状況を作らなければならない――そんなことは魔理沙自身、百も承知していた。まして、鬼神の化身の如き今の霊夢に通用するはずがないことも。
 だが、だからこそなのだ。相手だって、よもやこちらがそんな悪手を打つとは考えていないだろう。その心理の隙を突く、これは一か八かの賭けだった。
 果たして、読みは当たった。霊夢は完全に虚を突かれた顔で、目を見開いている。
 その間抜け面を吹っ飛ばしてやる――カードと八卦炉が重なり、純白の光芒を生んだ。炉は砲門と化し、純粋な魔力の砲弾を前方に撃つ。膨大な反動を受け止める魔理沙の足が、屋根瓦を踏み砕いた。
 夜空を昼に変え、進路上の屋根瓦を剥がし、吹き飛ばしながら、魔砲は霊夢に襲い掛かる。
 魔理沙は直撃を確信し、しかし刹那の間も待たず、目を剥いた。魔砲の先に、より強く輝く光の弾の現出を見たためだった。
 陰陽鬼神玉。巨大な霊力の玉がマスタースパークを受け止めている。
 いや、ばかりか、押し返しつつあった。屋根の頂を踏み潰し、均しながら、ゆっくり魔理沙へと迫っていく。
 魔理沙は焦り、八卦炉にさらなる魔力を供給して押し切ろうと試みたが、効果はなかった。光の宝具は足を止めることなく、着実に近づいてくる。
 やむなく魔理沙は引いた。砲撃を切り上げ、急ぎ箒にまたがって上空へ退避。光玉を飛び越えようとする。
 そこに霊夢が待ち構えていた。
 至近距離から御札の弾雨が放たれ、魔理沙の正面を叩いた。たまらずノックバックしたところに、霊夢が追撃の動き。本殿の屋根を占領していた光玉が掻き消え、その後を継ぐべきスペルカードを、巫女は切った。
「酒精封印!」
 それは、無数の同志を震え上がらせ、屈服させてきた、終局の宣言。
 だが魔理沙は恐れない。逆に奮い立った。倒れていった仲間たちの顔が、彼女の背中を支えてくれた。
 手放しかけていた箒の制御を素早く取り戻し、姿勢を制御。襲い掛かってくる光弾の群れ――夢想封印の術中へと、自ら飛び込む。その手に新たなカードを閃かせながら。
 切り返すための手札――正真正銘、最終最後の取っておきは、無論、彗星の二文字。夜空を焦がすブレイジングスター。
 まばゆい光の奔流と一直線の炎の槍とが激突した。両者はひとつとなり、激しく明滅しながら落下する。境内の夜を斜めに切り取り、その終着点に選んだのは、神社敷地の端に建つ土蔵だった。
 凄まじい破砕音を立てて土蔵の扉を突き破り、ふたりは中に突入する。中からもぐしゃどしゃばきべちょと痛烈な破壊の音が連続して響き、――やがて不意に静寂が訪れた。



 立ち込める土埃の中、魔理沙はゆっくりと身を起こした。
 背筋を伸ばそうとして、全身を駆け巡る痛みに喘いだ。体じゅうが筋肉痛となったみたいに、ぎしぎしと軋んでいる。とっさに箒を杖につこうとしたら、これも今にもばらばらとなってしまいそうな悲鳴を上げた。
 顔をしかめて、それから魔理沙は見た。埃舞う薄闇の向こう、既に霊夢が立っているのを。
 あの渾身の一撃でも貫ききれなかったか。魔理沙は疲れきった泣き笑いの表情となった。やはり、こいつには敵わなかった。信念や情熱だけで征するには、この壁はあまりに高かった。
 とどめの攻撃が来るのをじっと待ち――しかし、霊夢は動こうとしない。
 いや、わずかではあるが、動いていた。と言うより、よろけていた。
 ふらりふらりと前後に小刻みに揺れ、見守っている内にその揺れはどんどんと振り幅を広げていき、ついに霊夢はばったりと引っくり返ってしまった。よく見れば、その上半身は何かの液体でびしょ濡れになっている。
 魔理沙はぽかんと口を開け、立ち尽くしていた。やがて、辺りの空気が奇妙に酒臭いことに、ようやく気付く。
 大の字に倒れている霊夢の周りで、いくつもの酒瓶や甕が割れ砕けていた。そこから漏れ出て周囲を濡らしているのは、間違いない、酒だ。
 霊夢は徴収した酒を、この土蔵に集めていたのだ。その一部が先刻の突入によって、容器を破壊されてしまっていた。
 そして、魔理沙は直感的に悟る。霊夢が、集めた酒には指一本触れていなかったことを。ちゃんと断酒の誓いを守っていたことを。
 それが仇となった。さっきの突入時、霊夢は多量のアルコールの中へまともに顔を突っ込んでしまった。久々の、それも多量の酒気を一度に浴びて、ひとたまりもなく溺れてしまったのだ。
「……お前が正体をなくすほど酔っ払うなんて、初めて見た気がするぜ」
 想像しえなかった結末に、魔理沙は思わず天を仰ぐ。勝利の男神が苦み走った笑みを浮かべているのを、幻視した。
「バッカス、私に惚れたか? その気持ちには応えられないが、感謝はしとくぜ」
 紙一重で掴んだ勝利を、やっと実感できたのである。


 無事だった酒瓶から適当に一本選び、それを手に土蔵の外へ出る。
 遥かな地平に横たわる稜線が、うっすらと白みつつあった。それに目を細めながら、思う――そうとも、最後まで諦めなければ。明けない夜も、乗り越えられない暗闇も、ない。
 栓を開け、ラッパ飲みに口に含む。勝利の酒は、ほろ苦かった。

 

 

 

 




SS
Index

2006年3月24日 日間

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