風邪っぴきチルノ

 

 

 

「は? チルノが風邪?」


 肌を撫でる風にもどことなく優しさが生まれ、木枯らしの厳しさが懐かしくすら思える、そんな冬の終わりが近付いたある日。
 博麗神社の境内を掃除していた霊夢と、自前の箒を持ちながらそれを見物していただけの魔理沙の前に、珍しい客たちが訪れていた。レティとチルノ、冬の代表格ともいえる妖怪たちだ。
 神社に妖怪。一触即発といったシチュエーションに見えるが、弾幕ごっこといった雰囲気でないのは、霊夢たちにもすぐ分かった。チルノがレティの背に負ぶわれて、妙に赤い顔でうんうん唸っていたからだ。
 そして困惑している霊夢たちにレティが告げたのが、チルノが風邪を引いたという、にわかには信じがたい言葉だった。
「ありえないぜ」
 魔理沙の返した一言には、言外にいくつもの皮肉がこめられている。妖怪が風邪を引くのか。それも冷気を操る氷の妖怪が。それになにより……
「誰がバカよ、誰が……」
 さすがに察したらしく、チルノがレティの背中から抗議の声を上げた。しかしそれは、ひどく弱々しくて、いつも激しく噛み付いてくる彼女のイメージからは、あまりにかけ離れていた。
 霊夢は再び戸惑いの表情を見せる。
「まあ、百歩譲って風邪だということにしても……それでなんで、うちに来るのよ」
「ごめんなさいね。私もいきなりで狼狽しちゃって……誰を頼っていいのか分からなくて、気がついたらここに来てたのよ」
「まったく、うちは施療院でも託児所でも茶飲み処でもないって、いつも言ってるのに。誰も聞きやしない」
「本当にごめんなさい」
 霊夢の厳しい語調に、レティはうなだれる。以前に戦ったときの強気な印象とはずいぶんと異なり、霊夢は調子を狂わされた。
「ああ、もう。分かったわよ。取りあえず上がりなさいな、何もできないけど。ほら、魔理沙、あんたは布団を敷く!」


「ううー、暑いー」
 額に汗を浮かべながら、チルノは自分に乗せられていた掛け布団を蹴り除けた。裸の足を、ぼてっと敷き布団の上に投げ出す。それからじきに、
「うう、涼しすぎ……」
 かたかたと小さく震えだす。
 そばに座るレティが、溜め息混じりに布団を戻してやった。
「あなたが寒がるなんて……」
 憂い顔でチルノの額に、白い手をそっと乗せる。想像以上に高い熱にびっくりして、思わず手を引っ込めそうになるが、どうにかこらえた。
「レティの手、冷や冷やー」
 チルノは目を細め、気持ちよさげに微笑んだ。が、急に激しく咳き込む。それと共に、さらに体温が上がったのを、レティは敏感に悟った。
 咳が止まってもチルノはなお苦しげに喘いでいる。
「体が熱いよ……溶けちゃいそう……。レティ、私……死んじゃうのかなぁ」
 弱気になったせいか、目じりに涙を浮かべる。それが頬を伝い落ちる前に、レティは空いた方の手で拭ってやった。
「大丈夫。私がずっと、こうしてあげてるから」
 レティには、内心の焦りを顔に出さないようにしながら、そう言ってやることしかできなかった。


「まったく、調子が狂うったらないな」
 隣の間で襖の隙間からふたりの様子を窺っていた魔理沙は、苦々しげにつぶやいた。その後ろでは霊夢がお茶をすすりながら、何やら考え込んでいる。
 ことりと音を立てて湯飲みを置くと、おもむろに霊夢は口を開いた。
「魔理沙」
「おっと、私はどうやら急用を思い出したらしいぜ。それじゃあな」
 霊夢のただならぬ声色に何か危険なものを感じたらしく、魔理沙はいそいそと立ち上がろうとする。しかし霊夢はそのスカートの裾をしっかと掴み、捕えた。
「な、なんだよ。私には急用の予感が……」
「誰も帰るなとは言ってないわよ。ただ、帰るなら、ついでに用事を頼みたいの」
「急用の後でいいならな。その頃には忘れてるかもだが」
「急用は後になさい。あのね、あんた、あの子の風邪薬を作ってやってよ」
 魔理沙はしばし、呆けた顔になった。
「なんだ、お前、飲んだお茶に変なものでも混ざっていたか? 私は今日はまだ何も混ぜてないぜ」
「勘違いしないでよ。あの二人にここに居つかれると、冷気で屋外よりも寒いのよ。それとも、あんたが二人を引き取ってくれる?」
「速攻で作ってくるぜ」
 魔理沙は霊夢の手を強引に振りほどくと、箒にまたがって光の速さで飛び去っていった。
 それを見送り、霊夢はまた思案顔になる。
「まあ、あっちは保険程度にもならないだろうから……私で本命を当たるしかないようね」


 夜闇が空に広がりつつある。気温が急速に低下していき、境内に立ち尽くす霊夢は身震いせずにはいられなかった。
 それでも、屋内よりはマシなのだ。いまや社務所内は、厳寒の時期に逆行したかのような冷気に満たされていた。言うまでもなくレティたちの仕業なのだが、
「それにしても、こうまで冷え込むとはね。あいつら、感情が昂ぶると、余計に周りを冷え込ませる性質なのかしら」
 霊夢は星の瞬きはじめた空を見上げる。こうして外に立って、数時間。彼女は事態の解決のために動こうとするわけでもなく、ただぼんやりと無為に時を過ごしていた。そう見えた。
 不意に、霊夢の視界に異変が生じた。眉を寄せる彼女の前で、空間に切れ目が走る。虚空が見えない刃に切り裂かれ、押し開かれていき、その向こうに妖しい紫色の空間が現れた。
 そして虚空の裂け目から、ひとりの女性がひょいと顔をのぞかせる。
「どうしたの、待ち人顔で」
「あんたを待ってたのよ、紫」
 痺れを切らした顔で、霊夢はその妖怪を睨み付けた。
 紫は手にした扇で口元を隠していたが、目つきから楽しげなことが窺えた。空間の裂け目に器用に腰掛けて、霊夢と向かい合う。
「あら、嬉しいわ。冬の夜に、私への想いに身を焦がしていたのね」
「バカ言ってないで、早くあのバカをなんとかしてよ」
「バカには心当たりが多いけれど、どのバカかしら」
 紫はちらっと社務所に目をやり、目元から笑みを消した。
「なるほど、あちらのバカが大変なわけね」
「とぼけちゃって。あんたが何かしたんじゃないの?」
「どうして私が?」
「氷の妖怪に風邪を引かせるなんて器用で意味不明なこと、あんた以外にできる奴がいるとは思えないわ。またぞろ境界をいじったんでしょ。体温調節機能とか、バカの壁とか」
「やあね。いくら私でも、そこまで暇じゃないわ」
 また、かすかな笑みを目の端によみがえらせ、紫はささやいた。
「あれは誰の仕業でもない。あの子自身を原因とする、あの子自身の病よ」
「じゃあ……なに? 本当にただの風邪だって言うの?」
 紫は肯定も否定もせず、霊夢にそっと顔を寄せる。
「あの子自身の病だから……治せるのも、結局のところはあの子自身だけ。分かるかしら、霊夢?」


 レティはじっとチルノの顔を見守り続けていた。時折、チルノの額に乗せた手を左右入れ替える以外、ほとんど動いていない。
「また熱くなってきた……」
 レティは熱を持った自分の手を見下ろす。こうして熱を奪った分、チルノの体温は下がっても良いはずなのに、一向に快方へ向かう様子はない。むしろ悪化の一途を辿っている。
 今のチルノの体温は、実のところ人間の平熱と大して変わらない程度だったのだが、それでもレティには高温すぎた。触れているだけで火傷に似た苦痛を味わわねばならない。けれどレティは休むことなくチルノを冷やしつづけた。濡れタオルを乗せるよりも効率が良かったし、それにレティに触れられていることで、多少なりともチルノの表情が穏やかになるからだった。
 今、チルノは目を閉じ、眠っている。とても安らかな眠りとは言えず、全身に汗がにじみつづけ、しばしばうわごとを発していた。小さな口から漏れる言葉の大半が、レティを求める声で、それを聞くたびにレティは胸を締め付けられた。
「大丈夫よ、ずっとそばにいてあげるから」
 そうささやきかけると、伝わっているのか、チルノの顔は多少安らぐのだった。
 いつしか時の感覚も忘れ、夜になったことも知らず、レティは看病を続ける。
 静かな部屋に、突然、襖が乱暴に開けられる音と霊夢の怒声とが響き渡った。
「ああっ、もう我慢ならないわ!」
 いきなりずかずかと部屋に入ってきた霊夢は、驚き振り返るレティを怒気に満ちた目つきで見下ろし、白い息を吐いた。
「もう寝る時間だってのに、こんな寒さじゃ凍死しちゃうじゃない。あんたたち、もう出て行ってよ」
「ま、待って、チルノが目を覚ましちゃう……」
 戸惑いつつもレティはどうにか言い返したが、霊夢はまったく聞く耳を持たなかった。
「あくまで居座るってのなら実力行使よ。妖怪退治は私の本分だし、恨まないでね」
 彼女の両手にお払い棒と札、巫女の武器が揃っているのを見て、レティは相手が本気だと悟った。立ち上がる猶予もくれず、霊夢は攻撃してくる。
 近距離から飛来してきた札を、レティは咄嗟に冷気を凝縮した防壁を展開して、すんでのところで防いだ。
「やめて、霊夢! 今はチルノが……」
「巫女に問答は無用!」
 レティの必死の呼びかけを冷然と断ち切り、霊夢はさらなる攻撃を繰り返す。激しい攻勢に、レティは反撃する暇も与えられず、ひたすら守りに徹するしかなかった。
 すぐ後ろにはチルノが寝ている。一歩たりとも譲るわけにはいかない。レティは歯を食いしばり、回避行動も取らずに、その場に踏みとどまり続けた。
「うあ……なに?」
 自らの神社内であることも省みない霊夢の激しい攻撃に、さすがにチルノも目を覚ました。眼前で繰り広げられている弾幕合戦――いや、一方的な蹂躙とも呼べる光景に、目を見開く。部屋には霊夢が発する熱気と、レティのまとう冷気とが渦巻き、大気を異様なものに変質させてしまっていた。
「ちょっ……レティ!? こ、こらあ、バカ巫女ぉ! やめろ、やめろバカぁ!」
 身を起こし、懸命に怒鳴るが、霊夢は酷薄な笑みを返すばかりだった。
「あら、起きたの? なら、とっとと帰りなさいよ。溶けちゃう前にね」
 チルノだって逃げ出したいのは山々だった。が、体は重く、とても自由には動いてくれない。
 そしてそんな自分を守るため、レティがその身に勝ちすぎる攻撃を耐えているのだと知って、青褪めた。
「やめてよ、レティ。あんたじゃ勝てないよ、無理だよ。あたしのことなんかほっといて、逃げてよ」
「だめよ……言ったじゃない、ずっとそばにいてあげるって」
 そんな余裕などないはずなのに、ちらりとチルノを顧みて、レティは笑った。その笑顔と言葉に、チルノは自分の過ちと、それが取り返しのつかない結末をもたらそうとしていることを悟った。
 悟るのが遅すぎた? いいや、まだ。まだ、間に合うかもしれない。
 チルノは跳ね起きると、それまで伏せっていたのが嘘のような機敏さで浮かび上がり、レティを見下ろしている霊夢を、さらに上方から見下ろした。
「くらえ、バカやろー!」
 鋭い冷気が霊夢を狙う。レティに集中していた霊夢は、これに反応するのが遅れた。
「いっ?」
 冷気は巫女の顔を歪ませ、その呼吸までをも凍りつかせる――


 夜半に魔理沙が博麗神社を再び訪れると、ぼろぼろになった社務所の前で、霊夢がげんなりした顔で毛布にくるまり、地べたに座っていた。
「いつもながら新陳代謝の激しい神社だな」
 目の前に降り立った魔理沙を、霊夢は疲れきった目で見上げた。
「晩御飯なら済ませたわよ。調理場は無事だったから」
「寒い奴らがいないみたいだが。北へ帰ったか?」
「紫がね、言ったのよ」
 ひとり言のように、ぽつりぽつりと霊夢はつぶやく。
「チルノのあれは、心の病じゃないかって」
 冬の終わりはレティとの生活の終わり。チルノはそれを無意識に恐れていたのだろうと、紫は話した。
 これまでにも毎年、二人は別れを繰り返してきた。次の冬になれば再会できることだし、慣れもあるから、あまり悲しいものでもないのだろう。そう、周りから見ている分には思えた。当人たちだってそう思っていたかもしれない。
 だが、二人の仲は周りが思っているよりもずっと深く、そしてチルノは周りが思っているよりもずっと幼かった。当人たち自身がそれに気付いていなかったのが不幸だった。
 繰り返される別れに、チルノの精神には確実にストレスが積み重なっていた。再会で多少は癒されこそするものの、それすらも、すぐにまた訪れるであろう別れへの恐れにつながる。そして今年、冬の終わりを目前にして、ついにチルノの心は折れたのだ。 精神の負荷が、レティに留まってほしいという願いと結びついて、表面的には風邪のような症状となって現れた。自分の身を案じてほしい、ずっとそばにいてほしい、そんな子供だからこその我がままが、病の根源にあったのだ。
「まあ、私なら体調を治せるかもしれないけれど、それじゃ根本的な解決にならないのは分かるでしょ? あとはあなたなりにおやりなさいな」
 紫が去り際に残した言葉を反芻し、そして霊夢が思いついた解決策が、あの弾幕ごっこだった。荒療治もいいところだったが、ある意味、彼女らしいのかもしれない。
「ひどく苦い弾幕勝負だったけどね。もうやりたくないわ、ああいうのは。ま、とにかく、上手くはいったわよ。おかげで今夜寝る場所を失くしたけど」
「そうか……それじゃあ、これはどうするんだ?」
 魔理沙は手に持っていた一升瓶を掲げてみせた。瓶に張られたラベルでは「水道水」となっているが、中に入っているのは明らかに異質な色合いの、どろりとした液体だった。薬品を入れる適当な容器が見つからず、ありあわせに選んだのだろう。
「対妖怪用風邪薬。晩飯食うのもそこそこに作ってきたんだぜ」
「もういらないわ。湖にでも流してきたら?」
「ひどいぜ」
 しょげかえる魔理沙に、ふと霊夢は訝しげな目を向けた。
「それにしても、妖怪用の風邪薬なんてわけの分からないもの、よくこんな短時間で作れたわね。……本当に効くの?」
 すると魔理沙は一転して、にやりと凄みのある笑みを浮かべるのだった。
「すぐさま楽になれることだけは請け合うぜ」


 冬と春との境目に、二人は立ち、向かい合っていた。
「本当に、もう大丈夫なの?」
「だいじょーぶだって。ほらほら」
 気遣わしげに尋ねてくるレティに、チルノは両腕をばたばた振り回して元気なことをアピールした。レティは微笑みつつも、まだ気遣う色を消さない。
「私がいなくなっても、大丈夫?」
「………」
 チルノも幼心に理解はしていた。ここで心底からねだれば、レティはきっと留まってくれるであろうことを。自然の、そして幻想郷の摂理に逆らってでも。自分の体に掛かる負担を無視して、チルノに笑いかけ続けてくれるだろう。
 そして気が付けば、今度こそ取り返しのつかないところに辿り着いてしまうのだ。夏が訪れるまでも持たずにレティは限界に至り、消滅するだろう。永遠に。
「私はそこまでバカじゃないよ」
 チルノは胸を張って、笑って見せた。それからふと、首を傾げる。
「でも……どうしてレティは、そこまで私のことを心配してくれるわけ?」
「ん? どうしてかしらね……」
 唐突な質問に、レティは目をしばたたかせ、それから柔らかく笑った。
「そうね、チルノも自分で考えてみて。次の冬までの宿題ね」
「えー? なによそれ」
 ぶーぶー喚くチルノの頬に、レティは手を伸ばす。不意のひやりとした感触に、チルノは目を細めた。
「それじゃ、元気でね」
「あ……うん」
 最後の北風が吹き、それが過ぎ去ったときには、レティの姿はもうどこにもなかった。
 チルノはしばらくぼんやりと虚空を見つめていた。まだレティの掌の感触が残っている頬に、不意に涙が伝う。
 チルノは慌てて顔を振ると、無理やりに笑顔を作った。
「もちろん、元気でいるわよ。ちょっとだけバカだから、もうそうそう風邪なんて引かないんだから」
 そして真新しい春空の下に透明な羽を広げ、勢いよく飛び上がっていく。


 遠く去った北風に、こんな声が乗っていたのに、チルノはついに気付かないままだった。
「私は、元気なチルノが大好きだから――」

 

 

 


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2005年5月19日 日間

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