――…

 

 

 

 
 
 ふと、頬に当たる陽射しがかすかな赤みを帯びはじめていることに、慧音は気付いた。教科書に落としていた視線を持ち上げ、窓へと向ける。
 窓から覗く夏の終わりの空には、まだわずかに蝉の声を聞き取ることができた。
 正面へ首を回すと、文机に向かっている生徒たちが、こっそりと上目遣いでではあったが、期待に満ちた眼差しを送ってきている。
 そうだな、とつぶやきながら教科書を閉じた。たちまち輝きだす生徒たちの瞳に、苦笑したくなるのをどうにかこらえ、努めて厳粛に告げる。
「切りもいい、今日はここまでにしよう。日直」
「先生に、礼っ!」
「ありがとうございましたっ!」
 日直の子をはじめとする生徒たちの反応速度は素晴らしいものだった。凛とした号令の下、折り目正しい礼を済ませると、教材を小脇に抱えて我先にと出口へ駆け出していく。授業中は退屈そうな表情一色だったが、今はどの顔も活き活きと解放感に満ちていて、その様を見ていると、
 ――そんなに私の授業は苦役だろうか。
 ちょっとメランコリーになる慧音先生だったが、
「せんせー、さよーならー」
 子供たちからの挨拶ですぐ我に返った。
「ああ、さようなら。道草せずに帰るんだぞ。それから宿題、忘れたら頭突くからな」
 はーい、と返事だけは非の打ち所のない寺子たちだった。慧音はとうとう我慢しきれなくなって口元を緩めてしまう。教科書でそれを隠すようにしながら、子供たちを追って寺子屋の外へ出た。
 

 空を覆う紺碧の端には、やはりうっすらと朱がにじみつつある。突き抜けるような高さの虚空に、今は蝉の声よりもよほどけたたましく、終業の鐘が響き渡っていた。
 寺子屋の前で小さな鐘を力いっぱい振り回しているいがぐり頭の少年へ、その辺にしておけと慧音は苦笑気味に言いつけた。少年は既に満足していたのか、素直に鐘を手放すと、遠ざかっていく他の子供たちを追いかけて駆け去っていった。
 慧音もゆっくりと歩き出す。すれ違う里人たちと挨拶を交わしつつ、ゆったりと街路に歩を刻む。その足は、自身の住まいが建つ区画を通り過ぎ、里のはずれへと向かっていた。
 次第に人家がまばらとなり、代わりに木立の緑が視界を占めるようになっていく。やがて陽も山の稜線に差し掛かる頃、林を背にぽつりと建つ一軒の小さな家屋の前で、やっと慧音は足を止めた。
「ごめんください」
 玄関に入ると、帽子を取って奥へと呼ばわる。眼は、足元へと落ちていた。三和土には大人ものの履物が一組と、そして真新しい子供用の履物がひとつ、並んでいる。
「あら先生、よくお越しくださいました」
 じき、奥から若い女性が顔を覗かせて、慧音を招き上げてくれた。奥まった一室へと導く。
「ナナ、慧音先生よ」
 閉じている襖の向こうへと呼びかけると、女性は慧音に後を任せたとばかり、軽い会釈を残して戻っていった。彼女の消えた先から良い匂いが流れてくる、きっと夕食の用意の途中だったのだろう。
「あ、先生? どうぞ、入って」
 部屋の中から返ってきた小さな声に促され、慧音は襖を開いた。
 襖の向こうにあったのは、初めて訪れた者ならわずかなりと面食らいそうな、そんな部屋だった。他は全て純和風という家屋の中で、その部屋だけは洋風の内装で出迎えてくれるからだ。床には淡いピンクのカーペットが敷かれ、その上に白いクロゼットとチェストとが並び、奥の壁に嵌め込まれた窓もガラス戸だ。窓際には子供用のベッドが据えられている。
 ベッドの上には、カーペットと似た色の寝巻きに身を包んだ小柄な女の子が、半身を起こした格好でちょこんと乗っていた。
「先生、こんばんは」
「こんばんは、七々子」
 慧音はベッドのそばへ歩み寄ると、女の子に勧められるまま、床に置かれていたクッションへ腰を下ろした。ベッドの向こうにある窓がちょうど正面に来る位置で、開かれているそこからは、色の翳りつつある夕風が林の木々の間をすり抜けて、ゆるやかに流れ込んできていた。
 ベッドの上の子供は、色素の薄そうな髪をごく短く刈っていた。ほとんどざんぎりにも近いその頭を軽くかしげて、彼女は慧音に微笑みかけてくる。白く透き通った肌の色によく似合う、はかない印象の笑みだった。
「今日は久しぶりに先生が来てくれるかもしれないって、そう思ってたの。鐘がね、いつもよりはっきりと聞こえたから」
「ああ、あれか」
 四半刻ほど前の、寺子屋を出たときのことを慧音は思い出した。あの、何かに憑かれでもしたかのような勢いで鐘を振っていたいがぐり頭は、もしかしたらこれを目的としていたのかもしれない。今日の授業が終わった、普段より早めに終わったのだと、遠くこの女の子にまで伝えたかったのかもしれない。
 慧音は口の端を緩めて思い出し笑いしそうになる。こほんと咳払いしてそれを隠し、
「しばらく来れなくて済まなかった」
「先生、寺子屋の他にも忙しいものね」
 女の子は小さくかぶりを振り、朗らかに笑った。
「おかげで宿題、ゆっくりやれたよ。それに、たまにみんなが遊びに来てくれるから、寂しくなかったし」
「そうか」
「あ、あとね……新しい友達もできたんだ」
 ちら、と窓の外へ眼をやった女の子の声は、静かだったが、愉快そうでもあった。あまりそういった響きの声を出すことのない子だったから、「おや?」と慧音は少なからず興味を持った。この子にこんな表情をさせるのは、いったいどんな相手なのだろう。
 だが根掘り葉掘り訊き出すのも趣味ではなかった。女の子もそれ以上のことは話そうとせず、すぐに話題は別のことへと移った。寺子屋のことを中心に、最近の里での出来事を、もっぱら慧音が話し聞かせてやる形だった。慧音の口調は固く、内容も面白みに満ちているとはとても言い難かったが、それでも女の子は興味深げに耳を傾けていた。
 そうしている内に、窓の外には夜の色が訪れていた。入ってくる風も、わずかに熱を失いつつある。
「そろそろ閉めた方がいいな。虫も入ってくる」
「ん……そうだね」
 慧音の言葉に女の子は再び窓を向き、だがすぐには動こうとしなかった。疲れたのだろうか、久々なものでつい話し込んでしまったしな――そう考えた慧音が代わりに閉めてやろうかと腰を上げかけたとき、やっと小さな手が持ち上がり、窓へと伸びた。
 窓を閉ざしてこちらへ向き直ると、女の子は柔らかく笑った。
「先生、晩ご飯、一緒に食べていってね」
「そうしてもいいが、お前の母親が困るだろう、いきなりなんて」
 慧音も笑い返す。
 閉じられた窓の向こうからは、遠慮がちな虫の音が聴こえはじめていた。秋が、近い。

 なぜか女の子の母親は、しっかり慧音の分の夕食まで用意していて、女の子の分と共に運んできてくれた。
 せっかくなのでご相伴にあずかり、さらに勧められるままうっかり風呂までいただいてしまって、気が付いたら汗を流した後の肌に触れる空気は、すっかり昼間の暑気を失っていた。髪をアップにまとめると、無防備なうなじを思いがけず涼やかな夜気に撫でられ、ほ、と吐息が漏れる。
 辞去の前に挨拶しようと、浴室を出た慧音はもう一度、女の子の部屋へ向かった。
 襖を開こうとしたところで、部屋の中から漏れ聞こえてくる声に気がついた。母親はまだ厨にいたはずだし、となると父親が仕事から帰ってきて、娘と話しているのだろうか。慧音は手の甲で軽くノックした。
 襖を開いて、あれ、と首を傾げる。部屋には女の子がひとりきりのままだったのだ。ベッド上に半身を起こし、窓を向いている。さっき閉められたはずの窓は、再び開かれていた。
 先刻と同じようにたしなめようとして、だが慧音は一瞬、発しようとした言葉を見失った。かすかに目を見開く。夜闇に沈む雑木林に、ぽつ、ぽつと小さな光がいくつか浮かんでいるのを見つけたためだった。やや緑がかった、黄色の灯火。
 目を凝らして、やっとその正体をつかんだ。蛍。何匹か、窓から近い下草にとまっているようだ。
「まだ見られたなんて……」
 つぶやいた声で、女の子がはじめて慧音の訪れに気づいたというようにこちらを振り向いた。ちょっと目を丸くして、それからはにかんだような笑みに表情を変え、
「……友達、さっき話してた。このごろね、いつも遊びに来てくれるんだよ」
 蛍たちを驚かせてはいけないとでも言うかのような小声でささやき、また窓を向く。
「あの人はね、私たちの先生。私、寺子屋へ行けないから、こうしてたまに来てくれるの」
 慧音に向けた声ではない。蛍たちへと話しかけているのだ。
「ああ……なるほど」
 慧音は入り口にたたずんだまま、彼女の視線を追う。去り行く夏の夜ににじむ小さな光彩を、じっと見つめる。まるで女の子の声に応えるかのように、蛍たちはお尻にやわらかな灯をゆっくりと瞬かせていた。
 湯上りの湿った髪をかすかな夜風に撫ぜられ、風に小さな虫の声が乗っているのを耳にする。慧音は唇の端を、微笑とも苦笑ともつかぬ角度に持ち上げた。
「なるほど」


 夜道はうっすらとではあるが細い月の光に照らされていて、特に明かりなどを借りる必要もなさそうだった。女の子の仕上げた宿題だけを土産に、慧音は家を辞した。
 細い砂利道に薄い影を落として、慧音はすぐには歩き出そうとせず、月と星たちの浮かぶ空を見上げていた。ややあってから首を林の方へと向け、地面を蹴る。ふわりと浮かび上がって、木々の梢を見下ろす高さまで昇った。
「おい、そこにいるのだろう」
 低く抑えた声で呼びかけると、黒く塗りこめられた林の中で、がさりと枝の揺れる音がした。動揺の気配。慧音はつかつかと、まるで地上を進むかのような毅然とした足取りで宙を歩み、そちらへ詰め寄る。
 重なり合う木の葉の隙間、枝の上でうずくまるようにしている影が見えた。慧音に見つかり、いきなり接近されたことに狼狽しきったか、咄嗟に逃げ出すことも思いつかなかったらしい。
 同じ枝に乗って、慧音はそいつを見下ろした。
 ぱっと見は、紅白の丸い物体という感じだった。しゃがみ、鞠みたいに丸くなって、背中のマントで頭をすっぽり包み隠しているためだ。夜目にも鮮やかなマントの裏地の赤で顔は見えないが、代わりに白いブラウスの背中とお尻とが丸見えになっていた。頭隠してなんとやら、とは言うが、こうも間の抜けた形で実践している奴を目にするのは慧音の長い半人生でもこれが初めてのことかもしれなかった。
「あー……ナイトバグ。リグル・ナイトバグ、だったな」
 びく、と紅白の鞠は身を震わせた。
 慧音はマントの端をつまんで、ひっぺがそうとする。相手は生地を掴んで抵抗したが、
「ふんっ」
 軽く頭突きを一発見舞ってやると、あっさり力を緩めた。その隙にマントを背中へとめくってやる。そいつの頭部、緑色の髪と、そこからぴんと伸びる一対の触角とが露わになった。
 やはりな、と慧音は鼻を鳴らす。
「――ったぁぃ……な、なんなの、いきなり」
 対するそいつ、リグルは、頭を抱えて悶絶しかけていた。草色の瞳に痛みと怯えの涙を浮かべて、慧音のことを見上げてくる。
「なんなの、はこっちの台詞だ。こんなところで何をやっている」
 慧音は胸の前で腕を組んで、鋭い眼差しを返した。たちまちリグルは視線を泳がせる。
「別に……」
「言いたくないなら、私が言ってやろう。あの子の窓辺を訪れていた蛍たちを操っていた、そうだろう」
「し、知らないよ」
「嘘をつけ」
 低い声で決め付ける。
「じゃあ訊くがな、どこの世界にモールス信号を発する蛍がいるっていうんだ!」
 組んでいた腕をほどいたかと思うと、おもむろにその手を前へ伸ばし、リグルの頬を両側から挟むようにする。がっちりとホールド。
「私の目はごまかせないぞ。大して意味のある内容ではなかったが、あれは間違いなく発光信号だった。何のつもりだ? 何を企んでいる」
 おでこにもっと熱いのをもう一発、いつでも叩きつけられる態勢で、問う。
「私の生徒によからぬことをしてみろ。額で満漢全席を食べられるようにしてやる」
「べ、別に何も企んだりしてないってば!」
 リグルは首を横に振ろうとしたらしかったが、万力のように顔を捕えている慧音の手がそれさえも許さなかった。
 慧音はリグルの震える瞳を覗き込むようにする。
「蛍を放って、あの子を見張らせていたんじゃないのか。目的は、何だ」
「そ、それは……」
 リグルは目を泳がせ、口ごもった。だが慧音が息を吸いながら軽く頭をそらして構えると、慌てて「言う、言いますっ。言わせてくださいっ」と悲鳴じみた声を上げた。
 慧音はうなずいて手を離してやる。リグルは少しためらってから、また視線を逸らして、
「ただの……暇つぶしだよ」
 ぶっきらぼうに言い捨てた。
「暇つぶしだと?」
「そうよ」
 慧音と目を合わそうとしないまま、リグルはぼそぼそと続ける。
「はじめは、たまたまだったのよ。そろそろうちの子たちの……蛍の季節も終わろうかって頃にね、一匹、群れからはぐれた子がいたの。探して、やっと見つけたのが、あの窓のそばだった」
 リグルが顔の向きを少し変えた。その先には、あの家の、あの窓があるはずだった。
「窓の中には、あの女の子がいたわ。蛍が光っているのをじっと見てたから、すぐに連れて帰ろうとしてたのを思い直して、少し待ってあげた。私は身を隠したままね。……結局、母親が寝かしつけに来るまで、あの子は飽きもせずに見続けてたんだけどね」
 それにずっと付き合っていたのか、と慧音は突っ込みたくなったが、口には上らせなかった。リグルの話の行き先が気になってもいた。
「もしかしてあの女の子、蛍を見るのが初めてだったのかな――帰ってから、そう思い当たった。それでなんだか気になっちゃってさ、数日してからまた行ってみたの。今度はもっと大勢の蛍を連れて。そして窓辺で光らせたら、あの子、ものすごくびっくりして……それから、ものすごく嬉しそうに笑ったの」
 思い出したのか、リグルの表情が不意に砕けた。こらえきれないというように、微笑む。とても優しく。
「それが私も嬉しくって、それから何度も蛍を連れて、あの窓を訪ねたの。窓枠にまで近づかせたら、あの子、すごく喜んでたな……窓を開けてね、蛍たちに話しかけてきたんだ」
「お前は、姿を見せないままだったんだな」
「……うん」
 リグルは目を伏せた。暗くて顔色はあまり判然としなかったが、慧音はさっきまで彼女の頬を挟んでいた掌に、ふと暖かな体温を思い出したような気がした。
「妖怪を見たらびっくりして、体に障っちゃうかと思って……あの子、体が弱いんでしょ?」
「……ああ」
 ややためらってから、慧音はひとつうなずいた。
 リグルが推察したとおりだ。あの女の子は先天的な虚弱体質で、生まれてこの方、自分の足で満足に歩いたことさえない。生後すぐの診立てでは、三歳までも生きられないだろうとの診断だったらしいが、両親が献身を惜しまず、また女の子の側もそれによく応えたためか、今日まで命を長らえてきた。ほんのわずかだが体力もついてきており、かつては部屋の窓を開けることも禁じられていたのが、今では外気に触れられるようにもなっていた。しかし、強い刺激はやはりまだ禁物なのだろう。さっき共に過ごした夕餉の時間、あの子の食べていたのがひどく味気なさそうなものだったことを、慧音ははっきりと覚えている。
 そういった事情までを、目の前の妖怪に明かす義理などない。慧音はただ、リグルに先を促した。
「それで?」
「あ、うん……でもさ、蛍に話しかけてるあの子を見てたら、きっと寂しいんだろうなって思って。できれば話し相手になってあげたかったけど、やっぱり顔を見せるのはまずい気がしたし、それで何かいい方法はないかって考えたんだ」
「それで、モールスだというのか」
 慧音の声が呆れた響きとなったことに気付いていないのか、リグルは小さくうなずく。
「光の点滅で意志を交わす方法が人間の間にもあるって、いつか聞いたことがあったから。いろいろ調べてるうちに、古道具屋でその手の本を見つけたんだよ」
 そして、モールス符号を勉強し、実践に移したというわけか。らしくもない真似をするものだ。
 慧音はなんともいえない溜め息をついた。
「その苦労は認めてやらんでもないがな。水を差すようで悪いが、モールスを認識、理解できる人間なんて、外にも幻想郷にもあまりいないぞ。普通の人間には、まず縁のないものだからな。ましてあんな小さな子供ではなおさらだ」
「へ……?」
 言われた意味を噛み砕こうというように、リグルはぱちぱちと何度もまばたきした。その顔から色がすっと引くのを、慧音は見たような気がした。
「それってつまり……」
「まあその、無駄骨だったということだな」
 言葉を選ぼうとしたつもりが、思い切り直截的になってしまった。
 リグルががっくりとうなだれる。とても演技とは見えない落胆ぶりだ。どうやら慧音を欺くためにその場しのぎの話をでっちあげていたわけではないらしい。そこまで智恵の回る妖怪だとも思っていなかったが、一応の警戒はしていた慧音だった。
 警戒が去って緩んだ心へ代わりに滑り込んできたのは、安堵ではなく、不思議な可笑しさだった。慧音はふと、自分が無意識のうちに微笑んでいたことを知った。
 リグルの頭へと、手を伸ばす。相手は反射的に身を縮こまらせたが、構わずその緑の髪に掌を乗せ、そっと撫でた。
 リグルはぽかんとした表情になり、またも激しくまばたきしている。
「さっき頭突いた詫びと、それから礼だ。あの子にあんな表情をさせてくれて、ありがとう」
「え、あ、うん……」
 緑の髪の間、一対の触覚がもじもじと揺れる。でもやっぱり、とリグルは蚊の鳴くような声でつぶやいた。
「できればちゃんと、あの子の話し相手、してあげたかったな」
「ふむ」
 リグルの頭を撫で撫でしながら、慧音は短く思考を巡らせた。蛍の鑑賞だけでもあの子には益のあることだったとは思うが、さりとてここにある小さな想いをなかったことにしてしまうのは、確かに少しばかり惜しい。
「そうだな、せっかく勉強したことが無駄だったなんて思われては、教職にある身としては、いささか遺憾だ。ここはひとつ、お前の努力に報いてやるとしようか」
「え?」
 見上げてきたリグルの鮮やかな緑の瞳に、慧音はにっこりと笑みを映してやる。
「先生に任せなさい。悪いようにはしないよ」


 翌日の夕刻、慧音はまた女の子の家を訪ねた。
 こうも日を置かずして訪ねたのはこれが初めてだったろうか。目を丸くして、それからいつになく明るい笑顔となった女の子に、慧音は不覚にも挨拶の声をかすれさせてしまった。
「こんばんは、七々子。今日は調子が良さそうだな」
「うん、だって……」
 糸のように目を細めていた女の子は、慧音が手に持っているものに気付き、小首を傾げた。
「それ、なんですか?」
「……宿題さ」
 わざとらしさのある意地の悪い笑みを浮かべた、つもりだった。意識してそういう表情を作るのが苦手な慧音だったが、なんとか意図は伝わったようだ。女の子は興味津々といった顔つきになった。
 ベッドのそばに寄って、慧音は手にしていた薄い冊子を差し出す。色褪せた和紙を束ねたもので、一番上の紙には『モールス信号一覧』と記されていた。
 夜がすぐそこまで忍び寄りつつある窓外を一瞥しながら、告げる。
「恥ずかしがり屋の蛍の言葉が分かるようになる、宿題だよ」




 最近開業した迷いの竹林の薬師に、女の子を診てもらったことがある。
 薬師はすぐに薬を処方し、たまに往診も行ってくれた。そして断言してくれたのである、女の子の体は快方に向かい、いずれ健康な人と同じ生活も送れるようになると。
 そう、さほど遠くもない未来に、女の子は立って歩き、寺子屋に通い、友達と野を駆け回ることができるようになる。その日がいつか訪れるものと信じてきた両親が彼女の成長に合わせて年毎に用意していた靴の、いっとう新しいやつをその足に履いて。慧音やみんなと同じものを食べることだってできるようになるし、両親になるべく洗う手間をかけさせないようにと短く刈っていた髪を伸ばすことだって望むままだ。
 そうしたらきっと、妖怪と出くわしたって、びっくりのあまり心臓が鼓動を止めてしまうことはないだろう。
 いずれ慧音は女の子に話してやろうと考えている。彼女と友達になりたがっている恥ずかしがり屋の妖怪がいることを。
 お互いを引き合わせてやったら、彼女らはどんな顔をするだろう。それが今はなによりも楽しみだ――柄にもない茶目っ気を胸の奥底に秘めて、慧音はふたりが夜に交わす小さなささやきを見守るのだ。
 

 

 

 

 


 女の子の指が、ベッドのふちを軽く叩く。はじめに二度、ゆっくりと。それから三度、小刻みに。つー、つー、とんとんとん。
 それが彼女の、最初に覚えた符号だった。とても嬉しそうに、誇らしそうに、慧音に披露したのだ。
「先生、ほら、私の名前」
「いや、それじゃ『七々子』にはなってないだろう」
 慧音の苦笑に、女の子は明るい笑みのままかぶりを振る。
「ううん、これでいいんだよ」
 つーつーとんとんとん。女の子は繰り返す。
「だってね、友達にはナナって、そう呼んでほしいんだもの」

 

 

 

 



SS
Index

2009年10月3日 日間

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