Kick the Earth, Shake the Moon.
冬の訪れを知り、魔法の森には小さな魔女が踊る。
凍りついたかのような硬い大地に、闊達なステップが刻まれる。冷え切った夜気に、快活な息遣いが風を呼ぶ。
森の深奥、月光の細く射し込む開けた場所に、白と黒を帯びた少女が妖精のように踊っていた。ごてごてと達磨みたいに着膨れしてるくせに、軽快そのものの足運びで。
毛糸の手袋越し、少女はパートナーに指を絡めている。だが向かい合うは人にあらず、それはちょっと大ぶりの箒。
少女は箒を逆さに握り、振り回し、その柄先で冷たい大地をがりがりと削っていた。この非道な処遇に、パートナーたる箒は文句のひとつも吐かずに付き合っている。
奔放きわまりない輪舞を照らし出すのは、頭上遥か、中天に浮かぶ望月の皓々たる輝きだった。いつもは緑の濃いこの森だが、時候も冬に至れば幾分かは風通しが良くなる。いささか湿度が控えめとなるのに加えて、月明かりもよく透るのだった。緑の天蓋の隙間を貫いて、冴え冴えとした月光は、少女の足元に思いがけず濃い影をにじませている。
金色の照明の下、少女は冬色の大地を蹴る。右へ左へすいすい滑り、時にくるりと円を描く。
帽子の鍔が落とす影の下、そのヘイゼルの瞳はきらきらと生気に輝き。顎先まで包む臙脂色のマフラーの上、その口の端はきゅっと吊り上がって、傍らに深いえくぼを作っていた。
ひりつくような寒気にちょっぴり引きつり気味の、だがしたたかなまでの笑顔。
月に見守られながらの舞踏は、やがて閉幕に向かう。歩調を徐々に落としていき、そして最後にドレスの裾をふわり優雅に摘み上げながら、少女はステップを締めくくった。
不意に降りた静寂の中、少女の手の中で箒がくるんと半回転。房が地を掃き、柄先が天を指す。
「よし、完璧」
少女は満足げに笑むと、とどめとばかりブーツの踵で地面をかつ、と蹴りつけた。彼女の立つ大地には、箒で引っかき刻まれた太い線が縦横に走っている。
夜空の月も照覧あれ――その線が構成するは、一軒の家を中心に据えた巨大な魔法陣だった。家屋や周囲の樹木をも図形の一部に組み込んだ、なかなか壮大にして緻密な、それは召喚術の陣。
少女は円陣の外に立つと、空を、月を仰ぎ。それら全てを我が胸に掻き抱こうとするかのように、大きく腕を開いた。にやりと、どこか業を感じさせる魔性の笑み。
「さあ、時は来たれり、だ。――我は開拓者、我は我が名の下に道を拓き、地を均し、汝にこれを捧ぐ。……とまあ、細かいことはいいから、とっととこっちへ来いってんだ」
乱暴なことこの上ない、だがれっきとした呪力のある言葉を並べると、小さな魔女は右手の箒を高々と掲げた。
そして朗々たる声で召喚対象の名を呼んだのだ。
「いざ来たれや! 愛しの温泉ちゃん!」
冬を迎えるにあたり、居宅の地下に温泉脈を召喚、床暖房に活用するのは、もはや霧雨魔理沙にとって年中行事であった。
地勢を入れ替えてしまうのだから、大掛かりなことこの上ない術であり、実行に際しては満月の夜を選ばなければならないなどの条件が課せられ、さらに多大な準備とキノコとが必要となった。喚んだら喚んだで、春にはまた元の場所へ送還してやらなければならない。でないと今度は暑くてかなわなくなる。
このように、なにしろ手間の掛かる作業だったが、しかしそんな骨折りも惜しくないと思えるほどに床暖房の魅力とは偉大なものなのだった。
故に、魔理沙は喚ぶ。
月が激しく揺れ動いた。
そう見えたのは、観測者たる魔理沙の立つ大地が揺動したからだろう。召喚術の起動を何よりも如実に物語る震動だった。召喚陣の中、地下の空間がごっそり別のものと入れ替わっているのだ。
揺れは無秩序かつなかなか強烈なもので、森の木々は一様に枝をざわざわと震わせた。安眠を妨害された鳥たちが泡食っていっせいに飛び上がり、ぴぎゃぴぎぃという悲鳴と羽音を夜空に響かせる。
にわかに騒がしくなった森の中心で、事の元凶たる魔理沙はと言えば、どうしたことかこれもびっくり顔でいる。最前までの余裕が失せた顔色で、箒を杖にどうにかこうにか踏ん張っているような有り様だった。
地震の発生はこの召喚術につきもので、だからもちろん、あらかじめ身構えていた彼女なのだが、
「いや、これ、強すぎない……?」
これほどの激しい揺れは、過去にないものだった。魔理沙は狼狽のあまり、危うく腰を抜かしかけてさえいた。
空中へ退避しようにも、強く不規則な揺れはその準備動作さえ許してくれない。半ばへっぴり腰となって箒にしがみつく、とてもご近所様やブン屋などには披露できない格好で、揺れが収まるのをじっと待つしかなかった。
そうやって一時間ほどもこらえていたように思えたのだが、実際にはほんの数分のことだったのだろう。ゆっくり、ゆっくりと震動は弱まっていき、やがて森には元通りの平静が戻った。
よみがえった静寂に、ふぃ、と魔理沙は安堵の息をつく。手は、額ににじんだ汗を無意識に拭っていた。背筋も冷たいものでびっしょりとなっている。
「たまげたぁ……えらく揺れたもんだな」
もう一度、深く深く息を吐いたときだった。
「ちょっと、そこの野良!」
無防備な背中へいきなり鋭い声をぶつけられ、ほとんど飛び上がらんばかりとなる。
反射的に身構えながら振り返ってみれば、そこにあるは馴染みの顔。同じ森に住むご近所さん。
「……よう、都会派虚弱魔法使いじゃないか。どうした」
取り繕うように笑みを浮かべながら、だがその声はちょっとばかりかすれてしまっていた。
「あんなめちゃくちゃしておいて、『どうした』ですって? あと虚弱じゃないから」
魔理沙のものよりやや明るい色調の金髪を月明かりに濡らして、アリスはひどく険のある顔つきでいる。その傍らには一体の人形が滞空し、アリスに同調するかのようにこくこくとうなずいていた。
「また温泉脈を召喚したんでしょ? 今回はまた派手に揺らしてくれて……うちの人形棚が大変なことになるところだったじゃない」
「ああ、喚んだぜ。厳しい環境に労力を惜しまず立ち挑む、それが人間のあるべき姿だからな」
言葉を交わしている内に、魔理沙はようやく一時の動揺から立ち直りつつあった。こうやって責められても、木枯らしに吹かれたほども堪えていない顔を作れるくらいまでには。
アリスは形の良い眉を、いっそう不機嫌そうにひそめた。
「美談化するな。――誰も喚ぶなとは言ってないわよ。ただね、こんな私の家にまで影響を及ぼすような大魔法、使う前にはちゃんとひとこと断れって、前に言いつけたでしょ?」
「だったな。……そんなわけでアリス、召喚したぜ」
「事後に断るな」
「なんだよもう……こんな寒い夜に、もしかしてわざわざ文句言いに来ただけか? 暇な奴だなあ」
魔理沙としては、いつまでもこんな木枯らし吹く夜気の中にとどまっていたくなかったのである。それにしたって、彼女の言はどう好意的に解釈しても、火に油を注ごうとしているようにしか思えないものだった。
効果は覿面で、たちまちアリスの体から目に見えるほどの怒気が立ち上りだす。髪先が静電気でも帯びたかのように逆立ちはじめ、碧い瞳が剣呑な色合いを帯びていった。
「できれば苦情だけで済ませたかったんだけどね……弾幕、お望みみたいだから。やってあげようじゃないの」
怒りに駆られながらも、その指先の動きはあくまで繊細だった。不可視の糸に操られ、傍らの人形がどこから取り出したのやら、ちっちゃな剣と盾を構えた。
殺気立った切っ先を向けられて、魔理沙も咄嗟に箒を構えかける。が、動いた拍子、濡れた肌着が皮膚とこすれたのである。べちゃ、と背中一面に貼りつく感覚。その冷たさ、不快感に、彼女は顔をしかめた。
思う。今夜は、これ以上の汗かきはごめんだ。
手袋で覆った左の掌をひらひらと、やる気なさげに振って見せる。
「あー、そう気色ばむなよ。わざわざ足を運んでいただいたんだ、このまま追い返すのも無体かと、そう思っただけだ」
「既に十分すぎるほど無体な言動してたじゃない。……なによ、お茶でも出してくれるって言うの?」
「まあ、うん、そうだな。とにかく上がっていけよ。お茶ついでにその身で床暖房の魅力を思い知るがいいぜ」
面倒を避けるために思いつきで並べた言葉だったが、口に出してみるとこれが案外悪くない考えに思えた。ここで百の言葉を紡ぐよりも、床暖房を体験させる方がよほど相手の冷えた心を融かすには有効ではなかろうか。なにせ床暖房はそれだけの力を秘めているのである。たぶん。
客観的には不自然なくらい軟化したように見える魔理沙の態度に、アリスは戸惑ったらしかった。顔色こそ変わっていないが、傍らの人形が困惑したように剣先を揺らしている。
ややあって、怒りを引っ込めることに決めたらしい。人形が、武器を収めた。
「合意に達したみたいだな。平和とは尊いものだぜ」
「焚きつけた当人が言うかしら」
「焚くのは風呂だけで十分ってことだ。術の準備とかで汗かいたから、お茶の前に流させてもらうぜ。お前は床にでも転がっててくれ」
「風呂はいいけど……あなたの家に転がれるような床なんてあったっけ」
ふたりは霧雨邸へと目を向ける。役目を終えた魔法陣の中心、魔理沙の小さな我が家は先刻の揺れにも動じた様子なく、静かに佇んでいた。
「でもいいわよねえ。元々散らかってるから、さっきみたいな大揺れがあっても大して変わらないんでしょ?」
「ほっとけ」
しかし、確かにさっきの揺れはひどいものだった。温泉脈召喚に伴うものとしても異常な、例年のものを凌駕する規模の震動だった。
もしかして、術式に何か手違いがあったのかな――ふと、魔理沙はそんな可能性に思い当たった。自分ではいつも通りやったつもりなのだが。
まあ、揺れも疾うに収まり、より以上の変異は発生していない。ならば気にすることもないように思えた。これはきっとあれだ、冷たい汗の不快感が、良くないことを考えさせるのだ。風呂に入れば、余計な考えも一緒に、きれいに洗い流せることだろう。
努めて景気の良い声を出し、歩き出す。
「それじゃ、行くか。お前も床暖房なしじゃ生きられない体になってしまえ」
「はいはい……けどほんと、自堕落に過ごすための手間は惜しまないわよね、あなたって」
返ってきたアリスの声に、既に憤りの響きはない。いつものすまし顔となってついてくる人形遣いと人形の気配を背中で感じながら、魔理沙は傍目に見えないくらい小さく肩をすくめた。
何をいまさらといった類の話であるが、魔理沙の家はたいそう散らかっている。
それはもう、床に寝転がれる場所どころか、足の踏み場を見出すだけでも至難というレベルの混沌ぶりである。まさしく大地震に見舞われた直後であるかのような光景は、しかし恐るべきことに、たったひとりの少女によって生み出されたものなのだ。
初めて訪れた者ならまず間違いなく驚き呆れるものだが、いま玄関に立ったふたりは、幸か不幸かそんなものにはとうの昔に馴れっことなっていた。色々と麻痺してしまっているのである。だから、扉の向こうにどのような混沌がぶちまけられていようとも、どう思うものでもなかった。何をいまさら、なのである。
「……」
だのに。
扉を開けたふたりは、そのまま足を踏み出すことも忘れて凍り付いてしまったのだ。
そこには、思いがけずすっきりとした空間があった。では混沌とはしていないのかと問われれば、そういうわけでもない。むしろ桁の違う怪異が待ち構えていたのだ。
扉の向こうには、冷ややかな岩質で構成された洞穴が、あった。
長い逡巡の末、ドアノブを握っていた魔理沙は、
「……間違えました」
とりあえず扉を閉めることにした。
それからまじまじと扉の表面を見つめ、間違いなく我が家の入り口であることを確認すると、もう一度開いた。
やはり、冷ややかな空気で満ちた洞穴が、暗い口腔を開いていた。
ずっと果てなく伸びているように見える闇、その深淵から冬の夜気よりも重く冷えた空気が流れ出てきて、頬を無遠慮に撫でていく。
「……なんじゃこりゃ」
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