『ばりばり』

 

 

 

 妻と娘を病で亡くし、悲嘆に暮れた男は死に場所を求めて太陽の畑を訪れた。
 家にいれば家族を思い出す。家を出ても彼を慰める人は大勢いる。上白沢様も稗田様もそうであるし、声を掛けられるたびに胸が痛む。彼女たちはこれほど自分を気遣ってくれるのに、自分と来たらどうしてこうも情けないのか。いつになれば立ち直れるのか、そもそも立ち直ることができるのか。何も知らない。解らない。
 絶望した。
 この先、生きようが死のうが家族に会うことは叶わないのだ。
 もう、二度と。
「……なんて」
 広大な向日葵畑を見渡し、彼は呆然と佇む。目的とする人物の姿はなく、生ぬるい風に揺れる無数の向日葵がただただ異様だった。
 目を見張る光景にも、心は全く動かない。感動、感激といった感情が抜け落ちていた。涙が枯れ果て、目は虚ろなまま、空いた腹の中に食べ物を詰め込むだけの人形になっていた気がする。そんな有り様で、よく生きているなどと言えたものだ。
 じりじりと、髪の毛から身体を焼かれている。不思議と汗は掻かなかった。これから出会う人物に対する畏怖も、緊張も全て身体の外に置き去られている。
 眠りに就けば、幸せだった頃の記憶が思い浮かぶ。まぶたを閉じることも恐ろしい。心はとうに擦り切れたはずなのに、思い出はなおも彼の魂を苛む。忘れないで、覚えていて、と懇願する亡者の声が耳に付いて離れない。
 もう、終わりにしてほしい。
 こんな、救いのない生は。
「風見……」
 恐れ多くも、件の妖怪の名を呟く。幻想郷縁起にしたためられた人間友好度最悪であり、幻想郷における最上級の危険度を持つ妖怪。
 風見幽香。
 彼は彼女の存在を、書物の上でしか知らない。容姿や服装、活動場所は見知っているが、あくまで安全な場所から呑気に頁をめくっていたに過ぎない。
 彼女なら、一人で死ねない男を殺してくれるのではないか。
 不埒な期待を抱いて、辿り着いた向日葵の海の片隅で、男は小さく響く足音を聞く。一歩ずつ、確かに地面を踏んで近付いてくる人の重みは、確証はないけれど人のそれではないと実感させた。
 妖怪が来る。
 真昼の空の下、太陽を遮る日傘を差して、一匹の妖怪が。
「風見、幽香」
 足音が止まり、男は彼女の名を呟く。笑みを作るために、頬を綻ばせた音がした。一面の向日葵から、帰ってきた畑の主に目を向ける。
「ごきげんよう」
 風見幽香は淡い笑みをたたえている。植物を思わせる緑の髪には波打つような癖が付き、チェックの入った赤のベストとスカートが日の光によく映えている。薄く開いたまぶたの隙間から、赤く鋭い眼が垣間見えた。
 挨拶も返さず、男は生気に欠けた眼差しで幽香を見据える。幽香は真っ白な日傘を畳み、呆然と立ち尽くしている男に声を掛けた。
「貴方は、ここで何をしているのかしら」
 穏やかに問われ、暖かな日差しにほだされるように男は唇を滑らせる。
「ここに来れば、あなたに会えると思って」
「あら」
 下唇に指を這わせ、くすりと幽香は笑う。
「それは嬉しいことね。求められているというのは、悪い気分ではないわ」
 でも、と前置きをして、幽香は傘の石突を地面に付ける。
「ただ会いたいというのなら、どうして貴方の顔はそんなに歪んでいるのかしらね」
「……それは」
 一瞬、声が詰まり、この場に最も相応しい言葉を探す。けれど、正直に話す以外、適当な表現が見つかるはずもなかった。彼が彼女に求めていることなど、ひとつしかないのだから。
「私は、あなたに殺されたい」
 正確に、間違えないように言葉を紡ぐ。幽香の表情は変わらない。視線の温度にも変化はない。
「あなたなら、わたしを簡単に殺してくれると思って」
 風見幽香は美しい女性である。危険な妖怪であると知らなければ、邪な意図を持って声を掛ける者も少なくないだろう。ただ現在は幻想郷縁起によって彼女の在り様が広く認知され、気安く話し掛ける者は減り、話し掛ける場合でも一種の畏怖や敬意を持って接するのが通例である。
 自殺志願者は、風見幽香の人格を知っているからこそ懇願する。
「妻と娘を亡くした。後を追いたくても、里で死ねば迷惑が掛かる。すぐに見つかって助けられてしまう可能性もある。寿命を待つのは辛い。生きていても、もう家族には会えない。家族のことを思い出して、息が苦しい……」
 胸に爪を立てて、みずからの心臓を抉り出そうとする。けれど、人の力ではそれも叶わない。彼は確実に息絶えたい。毒死でも餓死でも溺死でもなく、四肢が千切れ、頭蓋が吹き飛び、心臓が四散するような凄惨な有り様でもなければ、本当に死んだかどうか怪しい。
 風見幽香ならば、その完膚無き死をもたらしてくれる。
 少しだけ、機嫌が悪ければ。虫の居所が悪ければ、苦虫を噛み潰すように、彼の肺腑を突き破って、踏み潰してくれるに違いない。
「ふふ」
 幽香は笑う。その笑みは嘲りの色が濃い。
「可笑しいわね。何故、私が貴方の言うことを聞かなければならないのかしら」
 至極、道理ではある。幽香には彼を殺す理由がない。風見幽香は無差別な殺人者ではないのだ。人が人を殺すには動機が要る。それが憎悪であれ、快楽であれ。
「それに。何故。貴方は私が言うことを聞くと思っていたのかしら」
 幽香は彼を弄び、揶揄している。彼の反応を愉しんでいるのは明白だった。が、彼の心境に変化はない。もとより、多少の恐怖に身が竦むのなら、初めから太陽の畑になど足を踏み入れてはいない。
「傲慢ね」
 石突の先に付着した土を、男の顔に軽く飛ばす。目の下の隈に叩き付けられた土を、彼は拭い去ろうともしなかった。そのまま傘を彼に差し向けて、幽香は瞳の底に紅い光を滲ませる。
「でも、悪くはないわ。その傲慢さは、とても人間らしい」
 意外にも、幽香は上機嫌であるようだ。彼の態度の何処が彼女の琴線に触れたのか、彼もよくわかっていない。
 幽香は再び傘を下ろし、彼の身体を頭から爪先まで舐るように観察する。その視線が、何処に肉が付いているのか、食い辛い箇所は何処か、細かく値踏みする捕食者を思わせて、彼は死を期待した。
 けれど、幽香の口から出た言葉は、彼の希望を大きく裏切るものであった。
「私は貴方を殺さない」
 ――その代わり。
「貴方が生きたいと思った時、私は貴方を殺す」
 そう言って、彼女は首に締めたスカーフを解いた。

 

 

 何をされるのか、わかっていなかったわけではない。ただ、抵抗する気になれなかっただけだ。彼女が淫行に走る理由も、朧気ながら理解はしている。世の中にはこんなに気持ちの良いことがあるのだと、妖怪の美貌でもって知らしめようというのだ。
 抗い、逆らった方が死には近付くかもしれない。けれど、彼女が彼を殺さないといった以上、たとえ自殺であろうとも彼女はそれを許すまい。
 スポンを下ろされ、瞬く間に陰茎を露にされる。手慣れていると感じても、軽口を叩いたり揶揄したりする気分にはなれなかった。
「勿体ないわね。此処まで来て、勃起もしていないなんて」
 幽香に陰茎の根元を握られても、男は勃起する気配すら見せない。冬の寒さに萎むが如く、弱々しくも惨めな姿を晒すのみだ。
「これは、責める甲斐があるわ」
 嗜虐に満ちた笑みをこぼし、幽香は萎れたそれを口に含む。
 たっぷりと唾を絡ませて、餅を啄ばむように逸物を啜る。幽香が懸命に首を振るさまを下に見て、男は奇妙な感覚に囚われていた。あの、危険極まりない妖怪が、ただの男に奉仕している。跪き、男が気持ちよくなるようフェラチオに没頭している。
 その情景だけでも、胸に迫るものがあるはずだった。普通の男ならば。
「……んにゅ、ちゅぅ……れろ、なかなか、大きくならないわねえ……不感症? でも、ないか。娘が居たって話だものね」
 唾に濡れても一向に勃起しないペニスをぬちゃぬちゃと擦りながら、幽香はそれを凝視する。目を細め、愛しげに赤黒い亀頭を撫でる。開始当初よりは硬く大きくなっているが、天を突くほど膨張しているとは言い難い。
「――呑まれなさい。その方が、いくらか楽よ」
 未だ重力に負ける陰茎を、幽香は喉の奥まで呑み込む。喉を締め、舌を巻き、唇で挟む。滑りの良い唇に扱かれ、亀頭と尿道口を丹念に舐められ、男の陰茎もようやく挿入に耐え得る硬度を備え始めていた。
 じゅぽッ、ぷちゅッ、と卑猥な水音が続き、男は頻りに顔を歪ませる。感情の正体が快感であると知っていても、それを認めることが出来ないでいる。愚かで、不器用で、誠に救い難い。
 男と女が重なるのなら、想うべきことはひとつしかないのに。
「くちゅ、ぬぽぉ……あは、きもち、いいでしょ?」
 それだけだ。
 ただ、それだけのこと。
「……こんなことをして、一体」
「気持ちいいでしょう」
 悪びれる様子もなく、幽香は赤黒く勃起したペニスに頬擦りする。唾液と、先走りの液でべとべとに濡れた男性器を、全く厭わずに手のひらと頬で挟む。
「それだけのことで……」
「それだけのことよ。でも、それだけで何が悪いの?」
 肉棒にキスをしながら、問う。食べられている、という感覚は決して錯覚ではない。返す言葉もなく、ただ幽香に弄ばれるのみ。彼女は口の端を歪め、厭らしく笑ってみせた。
 幽香はおもむろに立ち上がり、彼の肩と腰に手を添える。彼の立ち位置からすると、彼女はほんのわずか力を込めたに過ぎなかった。が、抱擁にも満たない接触は、彼を地面に跪かせるには十分なほどの威力を秘めていた。
 ――がくん、と膝が落ちる。途端、目線の高さが逆転し、男が幽香を見上げる立場になる。周囲には向日葵の海、頭上には、かくも淫靡な妖怪の美貌。
 戦慄する。
「畏れたわね」
 幽香の膝が男の肩を打ち、男は仰け反って仰向けに倒れる。向日葵を育む豊饒な土は、多少の衝撃ならば適度に吸収してくれる。ただし、転倒した衝撃から回復するためには、どうしても若干の時間を要する。
 視点の位置は更に低くなり、下腹部に跨ってくる幽香の豊満な肉体が、殊更に大きく感じられた。
「――良いわ。素敵よ、その顔」
 男の上着をめくり上げ、乳首を刺激する。快感か、困惑か、あるいはそれ以外の何らかの感情に喚起され、男が呻く。
 彼の頬に両手を添え、幽香は彼に顔を近付ける。唇を奪うでも、目を潰すでも髪を撫でるでもなく、覇気のない彼の表情をつぶさに観察している。瞳が赤い。垂れた幽香の髪が彼のまぶたを撫で、反射的に瞬きをする。視界には幽香の他に何もない。目を逸らしても、彼女の瞳からは逃れられなかった。
 畏怖と、羞恥が混じり合う。幽香の意図が読み取れない。
「可哀想に」
 憐れみの言葉を吐き捨てられる。不思議と、心は痛まなかった。彼女が、真に彼のことを心配しているのではないと知っていたから。
「いくわよ」
 頬から手を離し、幽香は男のペニスを掴む。やや腰を浮かせ、スカートの中に隠された秘部にその亀頭を導く。男の視点からは、幽香の花びらを貫こうとしている己の男根の姿は視認できない。
 ただ、根元を握る幽香の手のひらと、亀頭の先端に触れる何か柔らかい温もりが、彼の自我を倒壊されるだけの悦楽をもたらしていた。挿入していないのにこの有り様である。いざ幽香の膣に埋没してしまったら、一体どうなってしまうのだろう。
 期待より、興奮より、未知に対する恐怖が勝った。
「ほぉら」
 ――ぐ、ぷ。
 亀頭が、ゆっくりと幽香の中に入っていく。大量に分泌されていた愛液が、既に濡れそぼっていた肉棒をぬるりと包み込み、侵入を容易にする。このまま腰を下ろせば簡単に全て呑み込んでしまえるのに、幽香は亀頭を咥え込んだ状態で彼の反応を楽しんでいる。
 男は土を掻きむしり、歯を食いしばって、縦横無尽に駆け巡る快感に耐えていた。気持ちよくなってはいけないのだと、強く自分に言い聞かせるように。だが、何故気持ちよくなってはいけないのか、その答えは見付けられなかった。探そうともしなかった。だって、探せば見付かってしまうから。見付けてしまえば、もう、目を逸らすことは出来ない。
 幽香は、またひとつ腰を落とす。
 ――ず、ぷ、ぷ。
「……ぐぅ……!」
「ふふ、可愛い顔」
 幹の半分を咥え込んだ幽香の膣は、ペニスの脈動と連動して、ぴくぴくと小刻みに震えている。息を吐くたびに襞が蠢き、息を吸うたびに亀頭が膨らむ。溢れ出した体液はみな男の下腹部に落ち、汗と唾だけが各々の身体に留まっていた。
 幽香は男の鳩尾に両手を付き、わずかに体重を預ける。露にされた男の上半身は、大きな傷はひとつもなく、不気味なほど綺麗な肌をしていた。
 ――ぬりゅ、と艶めかしい音を契機として、幽香が腰を上下に振り始める。初めはただ乱暴に肉棒を擦り上げ、いたずらに快感を増幅させる。男の表情を窺いながら、射精の瞬間を見極めて動きを緩める。それでも間に合いそうになければ、無理やり膣の入口を締めて射精を遮る。
「が、ッ……」
「あら、ごめんなさい。気持ちよすぎたかしら」
 少しばかり息を荒げて、それでも余裕たっぷりに幽香は言う。翻弄され、玩具にされた男は疲労の極みに達し、声を掛けられてもまともな返事を返すことも出来なかった。
 ――ぬぷ、ぐちゅ。
 単調な上下運動から、円を描くように腰をくねらせる。限界まで肉棒を呑み込み、膣の中で苦しげに震える怒張の熱を楽しむ。身体の中で最も熱い場所を、男が貫き、女が咥える。
 スカートの中から、ぐちゅぐちゅと卑猥な音が響く。見えないからこそ、下半身を襲う快感が異常に際立つ。もしかしたら、男のペニスは幽香の膣に挿入されているのではなくて、何か別のものに食べられている最中なのではないか、という不気味な疑念が湧き起こる。
 けれど、どちらにしても大差はないのだと、男は気付いてしまった。
 ――ばり。
 直後、幽香の爪が男の胸を掻く。心臓に爪を立てるくらい、深く、傷付けて。
「痛、ぃ……」
「はぁ、ふぅ……薄いわね、反応が。生きているのか、死んでいるのか……本当に、曖昧。ふふ」
 ――ばりばり。
「う、ぎぅ……!」
「死にたいのでしょう。ならこの程度、耐えられなければ意味がない。一瞬のうちに、苦しまずに死のうなんて虫の良い話、あるわけがないわ」
 胸に六筋の赤い線が引かれ、うっすらと、次第に濃く血が滲む。あみだくじのように、その赤い川を適当に繋ぎ合わせて、最後に彼の血を舐めて遊ぶ。
 だが、傷の痛みは性交の快楽に屈する。幽香が腰を回し始めると、溢れ出す血液とは対照的に、胸の痛みは徐々に和らいで、そのうち幽香の温もりしか感じられなくなった。
 だから、それが怖い。
「う、あぁ……」
「ふ、ひゅ……好い加減、頃合いね。射精、させてあげる……」
 お互いに、我慢の限界に達しようとしていた。絶頂の瞬間は近い。男は射精を拒んだが、宙を掻く手は幽香に掴まれ、押しのけることもままならない。乱暴に、射精を導くための行為は勢いを増すばかりで、幽香の呼吸も余裕のないものになっていた。
「は、んぅ……!」
 きゅっ、と幽香の膣が一際強く締め上げられる。先程のように、射精を禁ずるための拘束ではなく、あくまでペニスを擦り上げて快感を増幅させるための動き。
 堪えられない、と男が観念した瞬間、見開いた目に幽香の勝ち誇った笑みが映る。
 ふと、幽香の表情が、今はもう思い出せない誰かの笑みと重なった。
 その正体は、身体の内側から溢れ出る衝動に掻き消され、すぐに見えなくなってしまったけれど。
 ――ぴゅっ。
「んッ、ぁ、はああぁッ!」
 ――どくん! びゅるる、ごぽぉっ!
 腰を押し付けた体勢で、放出された全ての精液を逃すまいと、幽香は膣と子宮を使って男の白濁液をごくごくと飲み干す。射精した後もしつこく肉棒を擦り上げられ、尿道口に残っている精液も限界まで搾り取られる。何ヶ月もこのような行為から遠ざかっていたのだろう、放たれた精液の量は常人のそれを大きく超えている。けれど、幽香の胎内はほぼ全ての精子をその中に収めていた。肉棒と膣の繋ぎ目から零れているのは、ほんの一搾りだ。
 ――ちゅぽ、と引き抜かれた肉棒が、まるで死んでいるかのように力無く倒れ込む。ちょうど、男もまた似たような表情を浮かべていたけれど。
「ん」
 異なるのは、男の目に浮かんだ涙。
 覇気に欠け、生気も失われた男の瞳に、吹けば飛ぶような小さな雫が浮かんでいた。
「……、……」
 ぱくぱくと、陸に打ち上げられた魚のように、空気を求めて懸命に唇を動かす。声にならない、言葉にもならない息の掠れる音。十文字にも満たない短い台詞を吐いて、男はまた口を噤む。
 彼の腰に跨り、幽香は涙の意図を問う。
「それは、誰の名前かしら」
 底意地の悪い質問だった。彼女は恐らく答えを知っているのに、あえて彼の口から答えを聞き出そうとしている。
 それでも、彼は答えなければならなかった。
「……私の、妻の」
 耳を澄まさなければ聞こえない声も、幽香は耳聡く聞き取る。
「ふうん。私と繋がっている最中に、他の女のことを考えていたんだ」
 冷ややかな視線を送るが、特に謝罪を求めている様子はない。それどころか、幽香は指先に付着した精液の残滓を舐め、男に提案する。
「どうかしら。気持ちがよかったのなら、まだ続ける?」
 後ろ手に萎えた肉棒を擦り、再び快楽の渦に溺れようとする。
 が、彼は今度こそ、明確な拒絶の言葉を告げる。
「やめてくれ……」
「あら、どうして」
 また、答えの解っている問いだ。彼は嫌気が差した。本当に、意地悪な妖怪だ。係わるべきではなかったかもしれない。だが、彼女に係わってしまったのは、自分が情けなかったから。
 弱かったからだ。
「……思い出したんだ……私が、誰を好きでいたのか……」
 誰のために、この身体を捧げようと思っていたのか。
 誰のためなら、命さえ惜しくないと思っていたのか。
 決まっている。
「……すまない……」
 掠れた声で、幽香と、既に亡くなった家族に向けて謝罪する。
 幽香からの反応はない。貼りつけたような無表情を彼に見せつけた後、手のひらをもう一度彼の胸に添える。その意図を計りかねて、彼は幽香に問う。
「……何を」
「貴方」
 直後、幽香と目が合う。
 性交の、絶頂に達した瞬間とは趣が異なる、妖怪の本来的な悦楽。
 それを両の瞳に宿して、風見幽香は膨らみのある唇を開いた。

「生きようと思ったわね」

 ――ばり。
 彼女の爪が、まだ閉じていない傷口を綺麗になぞる。鮮烈な激痛は、逃走すら許されない彼を仰け反らせるほどの衝撃を彼に与えた。それこそ、射精時の反動を越える痙攣。幽香は笑った。可笑しくて、面白くて。
「いや、だ……やめてくれ……!」
「目を見れば解る。貴方は生きたいと願った。私に、殺されたいと頼んでおきながら」
 ばりばり、と同じ傷を同じ深さで傷付けていく。痛みは倍加し、皮膚を越え筋肉を越え血管を突き破り、次第に臓器へと近付いていく。
 血が溢れていく。傷口が熱い。悲しみではなく、純粋な痛みで涙が止まらない。幽香の顔が滲み、いるはずのない家族の姿が目に浮かぶ。
 こんなに痛くて、辛い思いをして、死んでしまった家族。
 死にたくはなかっただろうに。
 もっと、生きていたかっただろうに。
 それなのに、残された自分が、早々に生きるのを諦めてしまうなんて。
 なんて――。
「死にたく、ない……死にたくないんだ……」
 なんて、薄情で、みっともない。
 弱い、人間だったのだろう。
「……生きて、いたい……」
 懇願する。それ以外に、残された武器はなかった。そのせいで、反撃を受け、致命的な傷を負うことになっても。
 生きたいのなら、醜く足掻いてでも、救いを乞わなければ。
「助けて、くれ……」
 振り絞るような男の懇願に、幽香は爪を立てて応える。
 ばりばりと、肉を食い破る音がする。
「ぎッ……!」
「でも、だめ」
 満面の笑みだった。彼女は別に人を殺すのが好きなのではない。人の嫌がることをするのが好きなのだ。可能な限り人の言い分を聞き、受け入れる素振りを見せ、言葉の片隅に潜む矛盾を突いて弄ぶ。
 死にたいと口走った男を、生きたいと乞い願う生き物に変える。
「あぁ、人間の身体を引き裂くのも久しぶり。精液の臭いもそうだけど、血の臭いも酷く懐かしいわ。温かくて、舐めると鉄の味がして」
 血に濡れた手のひらを舐めて、厭らしく微笑む。本当に嬉しそうな、甘く蕩けた声音。驚くほどに、彼女は遠い存在だった。それなのに、迂闊に肉薄し、あまつさえ「殺して欲しい」などと。
 滑稽だ。
 意識が遠のく。抵抗する気力も残っていないが、闇雲に手を振りかざして、結局幽香に払いのけられた。
 畜生、と紡いだ罵倒に、別れの言葉が重ねられる。
「では、ごきげんよう」
 ――ばり。
 痛みと共に、意識が閉じる。
 割れる。
「……ぃ、いやだ――――」
 ――ばりん。

 

 

 

 

 

 

 

「――――、ぁ」
 目が開く。
 薄汚れた天井が視界に映る。死後の世界は見たことがないけれど、中有の道も三途の川も野外にあるはずだ。まだ、自分は生きている。胸に手を当ててみれば、心臓の鼓動がある。傷は痛む。触れるたびに、涙がこぼれる。一度こぼれたら、二度と止められないかと思うほど、とめどなく溢れてくる。
 生きていた。
 ただそれだけで、胸が軋む。
 起き上がるのも苦しいから、しばらく床に就いていると、聞き覚えのある声と共に銀髪の女性が現れた。里の守護者、上白沢慧音は水と粉薬を枕の脇に置き、落ち着いた口調で事のあらましを丁寧に語ってくれた。
 彼が消えたと知るや、慧音たちはすぐさま彼を探し始めた。里に近い場所から、徐々に捜索範囲を広げ、最終的に太陽の畑に辿り着いた。危険度最上級の妖怪が潜む場所であるがゆえに、発見が遅れてしまったことを深く詫びた。
 慧音が太陽の畑に足を踏み入れ、彼の存在を確認した時、風見幽香は彼に跨って血に塗れた腕を舐めて笑っていた。慧音と目が合い、彼女は即座に姿を消したが、慧音は彼の手当てを優先した。
 出血の量に反して傷は浅く、傷口が心臓に達していることもなかった。ただ、傷跡は残るだろうと慧音は眉間に皺を寄せた。彼は、お気になさらず、と気休めの言葉を返した。
 それから三日、安静を余儀なくされた彼は、身体の回復を待って家に帰ることになった。慧音は、彼が自殺するのではないかと疑っていたようだが、彼は静かに首を振った。それだけで安心させられるとは思っていない。が、これから時間を掛けて信頼を積み重ねるしかない。
 風見幽香に対しても、おおっぴらな処置は控えてもらうように依頼した。下手に衝突しようものなら、余計な火種を生むことになる。今回の件は、彼の自業自得だ。里の外で起きた出来事なら、彼自身が処理するしかないのだ。
「――では」
 慧音の付き添いも辞し、男は痛む胸を押さえて一人で帰路に着く。
 すれ違う人の目も、今はさほど気にならない。行く道は決して希望に満ちてはおらず、光が差しているわけでもない。家に帰っても家族は無く、残されたのは詰まらない男が一人。がらんどうの空間に佇み、独り言を呟きながら死ぬまで暮らしていく。
 また、死の誘惑に苛まされる日が訪れるだろう。弱い自分が、その誘いから逃れられるとは思えない。
 だが、その死が望み通りに遂げられることも、また無い。
 何故なら。

 真っ白な傘と、緑の髪。

 俯いていた顔を上げて、ふと、その姿に気付く。
 陽の眩しさに目を細め、薄い眼差しに赤い瞳を光らせる。
 太陽の畑を棲み処の一部とし、時折、里に下りて人と言葉を交わす。
 立ち竦む彼の横を、彼女は歩く速度を緩める様子も無く、視線も交わさずにゆっくりと通り過ぎる。
 ――がくん、と彼の膝が落ち、胸の動悸が速まり、それに伴って傷口が激しく疼く。胸を押さえ、脳に響く痛みに呻き、名も知らぬ通行人に助け起こされるまで、彼は自分が何を考えていたのか解らなかった。
 振り返っても、彼女の姿は無いだろう。けれど、振り返れば、殺されそうな気がして、どうしても首を後ろに向けることが出来なかった。
 気を掛けてくれる通行人を、大丈夫です、と押しのけて、訝る視線を背に歩き出す。笑う膝を叩き、俯きがちな目線は上に、太陽の眩しさに顔をしかめながら。
 彼女は、彼を殺せなかったのか。それとも、殺さなかったのか。
 この頃になって、彼はようやく自覚した。
 己の心臓は、未だ彼女の手の中にあるのだと。
 ――ばりばりと、胸が軋む。
 彼は、これからずっと胸の傷を抱えて生きていかなくてはならない。
 あの美しい妖怪を思い出すたび、絶命しかねないほどの痛みを放つ傷と共に。
 そして、生きたいと願い、今も生きている彼は、彼女に殺される権利を持つ。
 放棄することも出来ない業を抱えて、失うことに怯え、それでも尚、生きる。
 たった一人で。
「――――は、は」
 酷い話だ。
 可笑しくて、楽しくて、彼は笑った。

 

 

 風見幽香。
 人間友好度、最悪。
 向日葵の花言葉 「私の目は貴方だけを見ている」

 

 

 

 



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2010年3月29日 藤村流

 



 

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