zero and one-period
――みぃあ。
黒猫は静かに啼くけれども、その切ない声に反応する影はない。
薄暗い部屋の中にたった一匹、居場所を与えられて間もない稚児が小さく訴え続ける。
――みぃあ。
これで何度目だろう。ただ繰り返される声に悲哀はなく、憂いもなく、しなければならない義務のように反復しているだけ。
しかし、それを聴いた者は声の主を意識せずにはいられない、純真な嘆き。
――みぃあ。
もしかすれば、何もすることがないのでただなんとなく啼いているだけかもしれないが。
――みぃ。
それを言及する声もなく、仔猫も啼くことに意味はないとばかりに延々と嘆き続けていた。
仔猫の名はシャロンという。
夜に身を躍らせば完全に溶け込むであろう漆黒の肌と、洗い立ての靴下のように先っぽだけ染められた白い脚が特徴である。世話好きな主婦エレナ・シェリングから、半分世捨て人なレイオット・スタインバーグに引き取られた、ある意味可哀想なのかもしれない猫はしかし、レイオットの元で生活するカペルテータの手によって健やかに育てられている。
カペルテータという少女が親に向いているかは別として、動物に限らず植物の世話や日々の調理、あるいは日記を付けるなどといった、ある人種には面倒と切り捨てられる反復行為を素直に続けることが出来る。
初めの頃はただ飼育している感もあって、シャロンもカペルテータもお互いに懐いてはいなかったのだが、今では本当の親子ではないかと思わせるほどに懐きじゃれている。
尤も、表面だけではカペルテータがそのことを喜んでいるかどうかは判別しづらいのではあるが。
とかく、彼女と身元引受人らしいレイオットの仕事は危険が伴う。むしろ爆心地に自ら飛び込んでいるに等しい。
この世界ではほぼ悪魔の類として認識される魔族、その殲滅を目的とした戦術魔法士(という職は、死と隣り合わせである以上に生理的な負担を強いられる。一歩間違えれば自分もあの魔族になるという最悪の未来図を突き付けられたまま、彼らは日々を連結し続けなければならない。
あるいは、レイオットのような世捨て人属性ならば、その苦痛も比較的軽減されるのかもしれないが。
カペルテータ・フェルナンデスには、人間に備わる二つの瞳の他に、もう一組の紅い目が添えられている。何も映さない、単なる紅い球状のプレートがちょうど眉毛にあたる位置に並んでいる。
それを美しいと呼ぶか不気味と呼ぶかは、見る者によって大きく異なる。ただ大半が後者であることは、これまでCSAが辿ってきた歴史を鑑みれば簡単に想像できた。
CSAは人間が堕した――または昇華した――存在である魔族と人間とのハーフを指す。基本的な能力は人間と大差ないが、身体の表面が異様な形態を見せることがある。
また、いつ魔族になるか分からないという都市伝説にも似た恐怖から、一般民はCSAを迫害する。
カペルテータもその被害者であり、感情が欠落してしまった主たる原因ともいえる。彼女の瞳はただ風景しか映さない。光がなく、カペルテータを見る人間の中身をそのまま照り返す鏡のようでもあった。
無論、ただの猫であるシャロンには人間たちの悲哀や苦痛など理解できるはずもなく。
そもそも理解しようなどとは初めから思わずに、猫としての在り方を徹頭徹尾完遂する。
――みぃあ。
そろそろ啼くのにも飽きてきたのか、適当にあてがわれたケースから這い出る。家を留守にすることが多い家主だから、シャロンが留守番の役目を負うのもこれが初めてではない。時間になると箱から出て来る餌も、同じテイストなので正直つまらないと感じている。
しかし、そこは猫なので出されれば素直に食べる。腹が減れば食べずにはいられない。
それに、世話好きの主婦が毎日何かしら差し入れを持って来てくれるのだし。飽きることなど何があるだろう。
それでも待ち望んでいる人がいる。目の前でふらふらと揺れる指と、その温かさを欲している。困ったように、羨むように泳ぐいくつかの瞳を求めている。
たとえその紅い瞳に光が灯っていなくとも、その奥底までも闇で埋め尽くされている訳ではないから。
いつか光り輝くであろう瞳は、彼にはとても温かく思えた。
――みぃ。
待ち人は、まだ来ない。
何処からか扉の軋む音が聞こえ、部屋の空気圧が変わる。ほのかに漂う風が仔猫のひげを揺らす。誘われるように、仔猫は風の生まれた場所に足を向ける。
彼らはただいまと言わない。ここが自分たちの住処だと知っているのに、家というものに頓着している様子が一切見られない。ただ――。
「……シャロン」
淡々と彼を呼ぶ声がする。相変わらず、愛しているのかつっけんどんなのか不明瞭だ。
ただ、構ってくれることが彼にとっては何より嬉しい。
――みぃあ。
悲痛とも取れる啼き声に、今度はカペルテータが誘われる。
行き着く先に、待ち焦がれたように鼻をひくひく動かしている仔猫がいた。ケージを飛び出して、あちこちに黒い毛を撒き散らし、縦横無尽に駆け回った痕跡が居間全体に残されている。
「元気のいいこった」
遅れてやってきた家主、レイオットがぽつりと漏らす。サングラスは大概鼻のあたりに引っ掛けているのだが、今日は疲れからかいつも以上にずり落ちているようだ。
「……しかし、下手に爪研ぎしてないのは躾がなってる証拠か」
ちらり、とカペルテータを見る。
彼女は仔猫の前に掌を差し出し、指先で仔猫に触れようとしていた。仔猫もそれに同調して、目の前に現れた柔らかい温もりに脚を出す。一方、カペルテータは彼の肉球が触れるか触れないかというタイミングで指先をずらすため、延々といたちごっこが続くていく。
傍目からすれば、ただ単に仔猫がじゃれついているように見えるのだろうが、実際はその逆と言った方が正しいのかもしれない。カペルテータが仔猫にじゃれている、とレイオットには思えてならない。いつか、彼女がああいう風に仔猫と遊んでいた時のことを思い出す。
どっちがじゃれついていて、どっちが遊んでいるのか分からなかったが――。
その光景は、多分に可愛らしいと思えるものであっただろう。
今と大して変わらない。が、もしかしたらあの時から何か少し変わっているのかもしれない。わざわざその変化を探すような、面倒くさいことはしないけれど。
「……カペル」
「はい」
視線はシャロンに合わせたままで、カペルテータは返答する。レイオットも気にせずに続ける。
「俺は寝る。あとは好きにしてくれ」
「分かりました」
隣りの寝室にレイオットが引っ込む。これ以上、親子の語らいを邪魔するのも気が引けた。
レイオットの姿が見えなくなった後も、カペルテータとシャロンの無言の攻防は続き、黒猫が一瞬の隙をついて人差し指に猫パンチを浴びせて、ようやく幕を閉じることになった。
カペルテータは、しばし自分の指に擦り寄ってくる仔猫を見詰めていた。されるがままに佇み、仔猫のしたいようにさせる。
せめて、いなかった分の寂しさくらいは紛らわせるように。
――みぃあ。
やがて区切りの一啼きが告げられ、カペルテータはようやく身を起こす。まずは部屋に散らかっている毛を払わねばならない。隣人のエレナ・シェリングが顔を出してくれていたから、一週間分の毛を掃除する必要はなさそうだが、それでも一日であれ毛は溜まる。
懐いてもいるし行儀も良い。しかし彼はまだ子どもである。カペルテータはその時期をよく覚えていないから理解が及ばないが、子どもにとって遊びも重要であることは情報として知っている。
「シャロン」
――みぃあ。
叱責するような声と、言い訳するような声。そのどちらも殊更に雄弁では無かったが、多くを語るよりも遥かに強く意思を通わせているように見える。
けれども、彼女が次に告げたのは叱咤ではなく質問だった。
「楽しかったですか」
四つの紅い瞳と、二つの黒い瞳が向かい合う。
彼は、逡巡するように鼻をひくつかせた後、大きく口を開けて欠伸してみせた。
仔猫にとって、欠伸は退屈の象徴ではなく満足であることの証明だとどこかで聞いた。だからという訳ではないが、カペルテータは静かに頷きを返した。
無駄のない足取りで掃除用具を取りに向かう。締め出されると瞬時に判断したシャロンは、慌ててカペルテータの足元に擦り寄っていく。彼女たちと共に外出する際、彼が定位置としている場所に落ち着くために。
カペルテータもその意図を読み、この数日でわがままぶりが増したような仔猫を両の手で掬い上げ、自分の身体と上着の隙間に仔猫をうまく滑り込ませる。いつもこの格好を維持しているせいか、どの服も胸の辺りが伸びているのだがカペルテータは特に問題視してはいない。
――みぃあ。
据わりのいい座席に落ち着いて、心なしか満足そうに啼くシャロン。
「嬉しいですか」
また聞いてみる。が、彼は満たされて緩んだ表情を服の隙間からこぼすばかりで、カペルテータの声になど反応しない。
それでも彼女は気にするでもなく、先程決めた掃除を遂行するべく大きなロッカーを開ける。その勢いで舞ったわずかな埃が仔猫の鼻に触れ、彼は小さくクシャミをする。
微笑ましい光景でありながら、その当事者たちは一片たりとも笑顔を見せない。
大事なものは表情の裏に、必要なものは言葉の反対側に隠し、いつの日かタイムカプセルのように掘り出されることを祈っている。
「シャロン」
――みぃあ。
「猫アレルギーですか」
……妙な間が空く。無理もない。
そう真剣に問うカペルテータには、仔猫でさえ返す声を持たなかった。
――みぃ。
ただひとつ、少女の胸に抱かれた仔猫が何かを諦めるように短く啼いた。
−幕−
SS
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