花の叢雲
強さを求めることに理由はない。
強いて言えば、只の暇潰しなのだ。
……ああ、それでも。
最近は、随分と暇になったものだ。
満天の灰色に、牽制の意味を込めて大きな傘を広げる。
雨は嫌いではないが、身体が濡れてじっとり蒸れるのは非常に気持ち悪い。
この時節、ただ外に居るだけでそのような危険と隣り合わせだから、賢明な者なら通気の良い部屋で息を潜めているだろうし、むしろ何らかの故あって身体を濡らしたいと望む者なら、何も持たずに外界へ躍り出るだろう。
当の幽香は、そのどちらを選ぶこともない。
簡単な話だ。掌に感じる微かな傘の重みが、梅雨を楽しむ術を教えてくれる。
この森も、小雨が舞えばいつもに増して歩き難くなる。地面は露の重みに負けて柔らかくふやけてしまうし、力強い生命力を誇示していた枝葉も、長く雫に打たれればその分だけ低く項垂れてしまう。
人の目には、それが死んだ世界に映るかもしれない。
馬鹿げた妄想だ、と幽香は思う。詰まらないから、地面に咲いた傘の花をくるくると回す。
「――くるくる、と。変なトンボがとまったかしらね」
「トンボ違う」
何処からか、不機嫌な女の声がした。
特に敵意を感じないので、しばらく待つことにする。その間も、掌で傘を回し続ける。
「あなた、随分と暇ね……」
「よく分かったわね」
「そんなもん見りゃ分かるわよ」
幽香の前に姿を現したのは、傍らに一体の人形を置いている洋風の少女。
青と白を基調にした簡素なドレスと、肩の辺りまで伸びた流麗な金の髪が特徴的だ。
加えて、片腕に携えているのは禁呪の法が刻まれた文書。
見覚えがあるな、と言うことは告白しないでおいた。
「こんな泣き出す寸前の天気に、よくもまあ好き好んでそこらへんを放蕩出来るわね。ほとほと感心するわ」
「良い感じね。その調子で私を崇め奉りなさい」
軽く踏ん反り返る。
口にはしなかったが、何となく相手がうわーと言ったような気がした。
「一体、何様なのよあんた……」
彼女がげんなり肩を落とすので、幽香もそれなりの誠意を見せることにした。
それが余計に彼女の神経を逆撫でるにしても、何もしないよりは生産的だろう。
「まあ、強いて言うなら風見幽香様ということになるけど」
「……風見、幽香ね。ああそう」
ふうん、と思わせぶりに溜息をひとつ。
礼儀がなっていないのはどちらだろう、と腰に手を掛ける人形師を見ながら思う。
だからせめて、幽香は礼儀正しいところを見せてやろうと考えた。
「お初にお目に掛かります。多分」
「こちらこそ。多分」
「どうもねアリス」
「しっかり覚えんじゃない!」
怒られた。
目の前の少女――アリス・マーガトロイドは幽香に借りがある。過去、魔界の秘奥を用いても己の技量が足りずして呆気なく敗北を帰した。……ような記憶が、幽香の頭の隅っこにこびり付いている。
これまた、随分と昔の話を穿り返して来たものだ。感心する。腕組みして、ふーん、へえーとか頻りに感心したような空気を出してみた。
「……あんたねえ」
と、アリスのこめかみに何らかの筋がそそり立つ。顔は笑っているが、目は笑っていないというあれだ。
「一応言っておくけど、私はなかなか強いから気を付けた方がいいわよん」
「……結構な自信ね。夢遊病患者みたいに当てもなくふらふらしてる妖怪とは思えないわ」
「別に当てが無い訳じゃないんだけどねぇ。単に、花がいっぱいある場所に居たいだけで」
「あんたは蜂か」
アリスも闘う気があるのかないのか、天衣無縫の妖怪に翻弄されているのか、なかなか相手の懐に踏み入ろうとしない。無理もない、彼女は一度幽香に敗北しているのだ。足が進まないのも当然と言える。が。
幽香には、他にも何か――詰まらないことなのだろうけど――理由があるようにも思えた。
「んで、蜂じゃないあなたが私に突っ掛かって来たのはなんでかしら。他人を暇人呼ばわりするくらいだから、さぞや高尚な訳があるのでしょうけど」
「……そんなんじゃないわ。ただちょっと見覚えがあったから、本人かどうか確かめたかっただけで」
「本人だった?」
「それは、まだ分からないわ。ここいらの連中は、本当のことを言わない奴が多すぎるから」
「その言い草だと、私もその一行に含まれているみたいね」
「みたいじゃなくて事実その通りなのよ。傘といい仕草といい行動理念といい、何もかも胡散臭いったらありゃしない」
幽香は、改めて自分の傘を観察する。
純白の骨格と純真無垢な布皮。傘は太陽や神の力を象徴するという。神に会ったことはあるが、それに勝る力を秘めた自分は一体どういう存在なのか。上には上が居て、そのくせいくら上ったところで行き着く先は青天井。
……ああ、だから暇だと思ったのだ。
上を見上げても切りがないから、仮初の太陽になって花を照らしてやろうと。
真の太陽からすれば、こっちもひとつの白い花弁に見えるのだろうが、そんな中間管理職のような存在が居てもいい。
あちらこちらを渡り歩く、奔放な花があってもいい。
「復讐、かしら」
「違うわ。意趣返しよ」
「どっちにしても、やるからには本気でね。じゃないと詰まらないし、まあ、本気だから禁書なんか持ち出しているんでしょうけど。にしても物騒ね」
言った後で、アリスの表情が固まる。
何か、触れてはいけない箇所を突いてしまったようだ。
「……半分あたりで、半分はずれ」
「半々だったら後半の台詞要らないと思うけど」
「うるさい黙れ」
黙らされた。
自嘲するアリスの顔は、こう言っては何だかとてもよく似合っている。
いろいろと苦労が絶えないのだろう、とどごぞの巫女や魔法使いを顧みながらにして思う。
「八つ当たりは良くないわ。でも憂さなら晴らしてあげるわよ、一方的に」
「そうね。特に思い入れもないからね、あんたには」
「嘘」
ぽつり、と一つの雫が傘を打つ。
遠く、冷たい風が頬を撫ぜた。
間もなく雨が通り過ぎるだろう。紫陽花は、雫に濡れてこそ美しく輝くものだけれど、どうせなら乾いた花弁が雨粒に打たれていく様相をも眺めてみたいものだ。
「兎にも角にも、全力でやるに越したことはないわ。閑静な道程を遮られた訳だから、私もそれなりのお礼をしなければならないし。この期に及んで本気出さないとか調子に乗ってると、ついうっかり殺しちゃうかも」
せめて、可憐に笑ってみた。
嘘偽りも打算もない微笑に、アリスの魂がどれだけ抜かれたのか。
結局グリモワール・オブ・アリスが紐解かれることはなく、人形師は人形師のまま、最強を自負する妖怪の前に立ち塞がってみせた。
「へえ」
どこか、感心したような言葉が口から零れた。
多少、アリスという人材を侮っていたのかもしれない。
アリスは、淡々と話し始める。自嘲も謙遜も邪心もなく、ただ目的を遂行する理論的な兵装と化したかのように。
「本当言うと、ここには私以外に強い奴なんて腐るほどいる。紅魔の魔女も、人間の魔法使いも、普通の巫女も、月の天才も。数え上げりゃ切りがないし、数えたところで次々増えるからいたちごっこもいいところよ」
「そう、肩身が狭いのね」
「同情してくれなくてもいいわ。私は、魔法使いであることを誇りに思っているから」
構える。右に人形、左に魔導書。しかして左手は完全に塞がっている。
万全と言うならば、せめて左手を解放するべきだ。
「ちっぽけな矜持だけどね。そんなものが、今の私にとって掛けがえのない――」
左手を前に突き出す。
呟かれたスペルは、魔導書を解放するものではなく――否、順序が逆なのだ。
魔導書は只の増幅装置であって、真に効力を発揮するのは――。
「……人形!」
傘によって生まれた死角から、一体の人形が刃を振るう。
左側面から飛び込んで来る刃を、素手で受け止める。痛みはない、浅い鈍痛があるだけだ。
人形の瞳は紅く輝き、無表情であるはずの存在が活き活きと蠢いているように思い。
「――掛けがえのない、存在意義なのよ」
武装した四体の人形が、樹木の隙間から襲い掛かる。
逡巡は、その実一瞬だった。
右腕が振り翳した純白の傘に、次々と突き刺さる人形の剣、槍、斧、鋏。
左の掌に収まったままの人形は、ちょうど左手から精製した弾丸で吹き飛ばしておいた。
上空に留まっていた灰色の天井が、幽香の髪に無数の雫を落とす。
今回は、彼女もまた何らかの故によって、身体を濡らす類に属してしまうらしい。
まあ、それでもいいか。
どうせ天井には届かないのだ、ならば地上で踊るとしよう。
優美に舞い揺らぐ白い花弁は、さぞや美しく見えるだろうし――。
「幽華に咲かせ白染めの傘。
――『花鳥風月、嘯風弄月――』」
幻想郷に花が咲く。
枯れない花は種を残さず、災いのみを撒き散らす。
……ああ、それはなんて美しく、鬱陶しく、潔い存在なのだろう。
華やかな傘を中心に巻き起こった弾丸が、人形を凶器とまとめて打っ飛ばす。
一気に視界が開けると、相変わらず自信に満ち溢れた人形師の顔がある。
「良い顔してるじゃない」
「そいつはどうも」
「伊達に年齢重ねてないわね」
「あなたに言われたかないわ」
「……ふ」
違いない。
可笑しくて、幽香は掛け値なしの自嘲を浮かべる。
「じゃあ、次は私から」
「宣言するのも、なかなか潔いわね」
「そりゃあ、ね」
最強だから。
幻想郷の花が舞う。
降り注がんとする雨を溶かすように、熱く、眩く、輝かしくも儚げに――。
OS
SS
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