うそ

 

 

 

 探し物をしていたのだ。今にも雨が降り出しそうな、黒い雲の下を。
 嫌な予感はあった。猫が顔を洗うのも、燕が地面を低く飛ぶのにも、それぞれ明確な理由がある。ならば、鼠は何をすれば雨が降る。何をすれば、この空を晴らすことができる。
 そんな魔法があるのなら、こんな思いをしなくても済むのだけれど。
「時間切れか」
 ナズーリンは、ダウジングロッドを翻して空を仰ぐ。尻尾に括りつけた籠の中には、一匹の子鼠が鎮座して心配そうに彼女を見つめている。我が子を安心させるように、ナズーリンは優しく微笑む。
「大丈夫だよ。雨宿りくらいはできるさ」
 帰りが何時になるかは解らんがね、と空に浮かぶ船に思いを馳せる。
 眼下に広がる鬱蒼とした森に降り、雨を凌げる場所を探す。大樹があれば問題はないが、折角だからロッドを置けるくらいの広さは確保したい。
 瘴気の漂う不浄の森は、得体の知れない胞子をそこら中にばらまいている。ただの人間であれば数分で頭がやられるだろうが、ナズーリンは妖怪鼠である。多少の不快感はあっても、思考を裂かれるほどの致命的な影響はない。それは子鼠も同じであり、ナズーリンが指を差し出すと、嬉しそうに鼻先を擦り合わせてくる。
「全く、うちのご主人様にも困ったものだね……」
 嘆き節を紡ぐのは下っ端の本分だ。自分の境遇を卑下するのでも、上司の失態を罵倒しているのでもなく、溜息を吐くのがひとつの仕事になっているのである。
 しばらく道なき道を歩いていると、頬に冷たい滴が触れた。薄暗い森の中から、更に黒く広がる曇り空を見上げる。髪に、まぶたに、手のひらに、大小さまざまな水滴が次々と落ちてくる。
「大樹でも間に合わないか……」
 土砂降りの様相を呈してきた空模様に嘆き、ナズーリンは雨の中をひた走る。濡れ鼠は性に合わない。薄暗い地下を棲み処とする鼠にも、好き嫌いを語る程度の意識は存在するのだ。
 けれど、残酷にも雨は絶え間なく降り注ぎ、灰色の髪と黒色の服を満遍なく濡らしていく。耳の中に入りこむ雨粒を掻き出し、籠に水が溜まるから子鼠は服の中に滑りこませておく。
「ちょっとだけ、我慢していておくれ。……うん、いい子だ」
 頷き、再び前を見る。
 ぬかるみ始めた地面の踏み心地に顔をしかめ、雨を浴びている感覚も薄れかけてきた頃、ようやく視線の先に寂れた小屋を発見する。
「当てにならないものだね、私の能力も……」
 愚痴る声音も知らずと上ずり、走り疲れた体から最後の力を振り絞る。
 びちゃびちゃと水音を立てながら、辿り着いた小屋の扉は小さく開いていた。一も二もなく無造作に開け放つと、独特のすえた臭いがナズーリンを出迎える。一瞬、臭気に鼻をひくつかせたものの、換気口と窓を開けて十分もすれば不快な臭いは消えてくれた。
「やれやれ……だ」
 大きく息をつき、ひとまずは上着だけでもと濡れそぼった服を脱ぐ。その拍子に子鼠が落ちそうになり、ナズーリンも慌てて子鼠を拾い上げる。
「おっと」
 子鼠はやや不機嫌そうにナズーリンを見つめ、そそくさと定位置に戻る。尻尾の先端に到達したところで、籠がないことに気付き途方に暮れていた。
 ナズーリンは床に置いた籠を指差し、尻尾を籠に寄せ、脱いだ上着をどこに掛けようかと小屋を見渡す。椅子もテーブルも、暖炉もタンスも何もない。タオルの一枚や二枚、あっても罰は当たらないと思うのだが、仮にあったとしてもこの放置具合ではカビが生えて使い物になりそうもない。
 お気に入りの服を絞るのも気が引けて、肌に張り付くインナーを摘まむ。髪や尻尾は無理やり水を飛ばすこともできるが、人工的な装飾部位は脱がなければどうしようもない。だが、ナズーリンの本質が獣であったとしても、全裸になるのはどうしても抵抗があった。
 何故なら。
「……誰か、来る」
 人間の線は薄い。全く無いとも言い切れないが、この雨の中、魔法の森を遮二無二駆け回っても平気でいられるのは、妖怪か、人間離れした人間くらいなものだろう。後者はむしろ妖怪に近い。
 かすかに警戒を強め、子鼠の入った籠を背後に移す。上着を手に掛けたままでは両腕の自由が利かないが、埃っぽい床に広げておくのも如何なものか。
 その逡巡の間に、水を蹴散らす足音はいっそう激しさを増し、ついには扉を押し開けて小屋の中に転がりこんできた。
「うにゃあぁぁ――っ!!」
 ――がらがらどっしゃん。
 もし家具が備わっていたら、あらかた薙ぎ倒して大惨事にでもなっていようかというところだが、不幸中の幸いか、闖入者は勢いのままさんざん転げ回って向かいの壁に激突するくらいの被害で済んだ。
 ごうん、と小屋全体が揺さぶられる震動の刹那、子鼠がびくんと体を震わせた。
 両足を壁に寄せ、肩と頭を床に付けた格好で、その妖怪は辛そうにうめく。
「い……ったぁ……」
 逆立ちに失敗したような惨めな姿でも、同じ空間に自分以外の何者かがいることには気付いているようだ。視線を巡らせ、鼻をひくつかせ、ついでに尻尾も震わせて、黒猫は逆さまの視界から招かれざる客の存在を気取った。
「……ねずみ?」
 目を細め、素早く身をくねらせて、すぐさま正常な視界に帰る。四肢を床に根付かせ、爪を立てて小さく牙を剥くその姿勢は、狩る者の所作に他ならない。
「ねずみ!」
「待った」
 天敵の存在に怯まなかったかといえば嘘になるが、互いに言葉を交わせる妖だ。服飾は本能の檻であり、言語は理性の鑑である。なればこそ、話し合いが通じる可能性も十分に考えられ。
 ――だんっ!
「ああ駄目だった」
 退避。
 一切の躊躇なく床を蹴り、びしょ濡れのままナズーリンに襲いかかってくる。それは捕食者の瞳というよりか、戯れに鼠を転がす稚児の笑みだ。ゆえにやたらと嬉しそうで、猫であることを除けば、ナズーリンから見ても十分に微笑ましい表情であった。
 対角線上を直進する猫に対して、壁沿いに移動する。機動性なら鼠も負けていないが、こちらは子鼠を抱えているのだ。鼠と来れば目の色を変えて襲いかかってくる猫と違い、鼠には守るものがある。抱えている使命もある。寂れた小屋に骨を埋めるほど、往生際は良くないつもりだ。
「まあまあ。運動も良いが、濡れたままでは風邪をひいてしまうよ」
「動いてれば乾きも早くなるよ!」
「ああやっぱり無駄か」
 壁沿いに接近する猫に対し、今度は対角線上に撤退する。飛行が可能ならどこまでも高く昇れるのに、この天井はあまりにも暗く低い。この雨の中に舞い戻るのもやむなしか、と薄汚れた窓の向こうを眺め。
 ――ごおぅん!
「なんだなんだ」
「にゃー!」
「ああもう周りが見えてないな」
 説得を諦め、ナズーリンは迫り来る第三者への警戒を強める。じゃれつく猫をいなしながら、砲弾のような闖入者が一体どこに着弾するのか、冷静に、視覚と聴覚及び第六感を駆使して判断する。
 結果。
「わからん」
 音がうるさい。
 猫は喧しいし、ごおんごおんと鳴り響く謎の爆音も鬱陶しい。なるようになれ、とナズーリンは開けっぱなしの扉に猫をおびき寄せ、先ほど猫が転がった軌道上に彼女を誘いこんでから、自分は即座にその領域から離脱した。
「ふにゃ」
 爪が壁を研ぎ、目標を見失って、猫がきょろきょろと周囲を見渡す。
 彼女の視点が、小屋の中央で腕組みしているナズーリンに合い、猫は何度目が知れない臨戦態勢を取る。
 対して、ナズーリンは手のひらを裏返し、無意味に指を鳴らす。
「肉食獣は視野が狭い」
 一瞬、猫が不思議そうに首を傾げた。
 直後。
「だあぁぁ――っ!!」
 ――ごおぉん。
 何の音なのか不明だが、轟音であることは疑いようもない。
 嵐のように吹き抜けるそれは、雨の中から躍り出て、扉をくぐり猫を突き飛ばして勢いを殺されながらも、最終的には壁に激突して停止した。
「うにゅぅ……」
 奇しくも、逆立ちに失敗したような格好は、黒猫のそれと全く同じだった。
 その黒猫は、巻き添えを喰らって揉みくちゃにされ、うつ伏せになって転がっている。合掌すべきかどうか迷ったが、隙を見せられる段階ではないなと自粛した。
「……いたぁい……もう、何なのよ……」
「謀られた……」
 各々の愚痴が零れる中、雨音は絶えず小屋を埋め尽くす。言葉が通るくらいには小さく、安眠の障害になる程度には大きい。無論、一連の来客が訪れた際、雨音に耳を傾けている余裕はなかった。肌に張りつく服の気持ち悪さだけは、今もなおナズーリンの精神を逆撫でしてはいるけれど。
「……ん。あ、ネコ」
「ん……、あ、カラス」
 互いに宿敵の存在を見定めて、最後に、どうしたものかと額に手をやっている鼠の存在に行き着く。
「やあ」
「なんだネズミか」
 逆さまの状態から復帰し、烏は黒い翼を震わせる。水滴が飛び、間近にいた猫がものすごく嫌そうな顔をしていた。
 烏は鼠など歯牙にも掛けていない様子で、ただ猫にばかり意識を割いている。猫もまた、縄張りが重複することの多い天敵を看過できようはずもないと、烏をはっきり『敵』として見ている。ナズーリンを『おもちゃ』として認識していたのとは対照的だ。
 今更、そのことについてどうこう言うつもりはないが。
「しっ、しっ」
「それはこっちの台詞だよ。カラスに屋根のある家は勿体ない、出て行くなら今のうちだよ」
「別にあんたの家ってわけでもないでしょ。あーやだやだ、勝手に居座ってるくせに住人面しちゃってさ。ネコっていつもそうなんだよね」
 かちん、と来たのは遠巻きに見ているナズーリンにも解った。
 赤い服を纏い、茶色の髪をした黒猫。対する烏は、長い黒髪に白い衣装を合わせた格好だが、胸に居座っている巨大な眼球が異様だった。上背は烏の方が高く、身を低くして構えている猫が見上げる形となっているが、その瞳に劣等感はない。
「ふうん。帰る場所が無いもんだから、あちこちの縄張りを荒らして平気な顔していられるカラスは違うねー」
「居場所なんてのは、勝ち取って初めて手に入れられるもんよ。自分が寝転がってるからそこが自分の居場所だなんて、図々しいにも程がある」
「なに、やるってこと?」
「怖かったら、逃げてもいいんだよ」
「はっ。ねずみじゃあるまいし」
 ナズーリンは何も言わなかった。口論に横槍を入れてもろくなことがない。
 よく見れば、烏の右腕には棒状の何かが装着されており、左手の先には黒い光球が浮かんでいる。猫にはこれといった武器はない。爪と牙と、膂力、脚力、妖術が使えれば勝機も見えようが、勝気な表情の裏に見え隠れする焦りが不安を誘う。
 雨降って地固まる、とはよく言うが。
「……はぁ、しょうがないね。全く」
 首に掛けたペンダントを外し、一触即発の戦場に視線を向ける。
 善人ぶる気は毛頭ないが、何も、進んで最悪の事態を招き入れる必要もない。
「地獄の道案内くらいはしてあげるよ! 友達もいるからね!」
「そんなと一緒にされても迷惑なの! 八雲の式を舐めるんじゃない!」
 お互い勝手気ままに叫び、狭い小屋の中をめいめいに躍動する。
 その口上より一拍早く、ナズーリンはペンダントを宙に放り投げ、紡ぐ。
「ペンデュラム」
 宣言。
 同時、得物を手に肉薄する両者の間に、二柱の紫水晶が顕現する。
 もう、止まれない。
「ぶみゃ!?」
「ぎゃう!?」
 鈍い悲鳴を上げ、仲良く水晶に激突する猫と烏。壁にぶつかったり宿敵とぶつかったり、挙句は水晶にキスしたりと忙しい獣たちである。ナズーリンは苦笑した。
「小屋をふっ飛ばす気か、このばかもの」
 とりわけ『ばか』に力を込めて、鼻と口を押さえているふたりに説教する。恨みがましい視線を送ってはいるけれど、痛みが強く余計な口を叩くこともできないらしい。
 水晶は、衝突を経て間もなく消え失せていた。
「雨宿りをしている間くらい、矛を収めて大人しくできないもんかね。君たちも人の姿を取っているのなら、もう少し理性を働かせて然るべきなんじゃないかと私は思うんだが」
 腕を組み、人差し指を立てて淡々と叱責する。
 ふたりも、激突の痛みに堪えて手を離し、思うことがあるのかじぃっとナズーリンを見つめている。
「そもそも、だ」
「ねずみのくせに……」
「えらそうにして……」
「ああもう聞いてないね君たちは」
 薄々そんな気はしていたが。
 いよいよ退散するしかない状況に陥り、それでも一矢報いたから良しとする。濡れるのは仕方あるまい、いっそ全て濡れれば諦めもつく。
「やるか」
「やっちゃおう」
 宿敵同士、意思疎通は無駄に早い。ナズーリンは咄嗟に籠を抱えて窓の縁に足を掛ける。怪しまれぬよう、相手の隙を突いたつもりだった。
「猫!」
「呼び捨てにすんな!」
 叫びながら駆け出した猫の爪は、床を蹴ると同時にナズーリンの尻尾を掴んでいる。速い。油断はなく、警戒も十分だった。が、どこかに『逃げられない』という苦手意識が存在していたのか。手負いの獣ほどよく足掻き、抵抗する。綺麗に立ち回ろうとすれば、たちまち形勢を引っ繰り返されるのが獣の掟。
 ちなみに、ナズーリンは尻尾が弱い。
「あ……!」
 抗いようのない脱力感。縁に掛けた足が離れ、後ろ向きに不時着する。
 尻もちをつき、床に転がされた時には雌雄は決していた。彼女を見下ろすのは、ついさっきまで火花を散らしていたふたりの獣人。それが、共通の敵を見出した途端、同種ですら難しいほどの意思疎通を行ってみせるのだから、生物というものは本当に興味深い。
 万事休す。
 おそるおそる、ナズーリンは口を開く。
「……ちゅー」
 媚びてみた。
「ねずみだ」
「ネズミだ」
 効果はなかった。
「やっちまえー!」
「にゃー!」
「ちょぉ、きみら! 変なとこ触るんじゃなっ、や、そこはだめなんだってー!!」
 小さな小さな賢将は、哀れ獣の手に落ちて。
 寂れた小屋に雨音と悲鳴を撒き散らして、雨宿りにおける暇潰しの尊い犠牲に成り下がったのだった。

 

 

 で、何をされたかというと。
「……ばっかじゃないのか……」
 剥かれた。
 俗にいう、素っ裸である。
 恥ずかしいやら情けないやら、ナズーリンは裸のまま膝を抱えて体育座りをしている。その縮こまった姿を見、嬉々として笑っている烏もまた全裸だった。
「へへ、随分と可愛らしい感じになったじゃん」
「誰のせいだと思ってるんだ」
 ちなみに、黒猫もすっぽんぽんである。
 無論、それにはれっきとした理由がある。話によれば、烏は人工的に太陽を生み出す能力を持っており、これが服を乾かすのに最適であるらしい。そのため、装着しているものを一旦全て取っ払い、服も身も心も乾かそうというわけだ。
 黒猫は、足を使って器用にこめかみを掻いている。ナズーリンの恨みがましい視線に気付くと、嗜虐的な笑みを返して床に爪を立てる。
「しかし、私のロッドは物干し竿ではないのだけどね……」
「固いこと言わないの。私の制御棒だって、元々そういうふうに使うもんじゃないもん」
 烏は苦もなく告げて、からからと笑う。
 小屋の中央、天井に近い位置に浮かんでいる黒の人工太陽は、全方位に絶えず熱を放射し、床に設置された簡易物干し竿に吊るされたびしょ濡れの服を熱し続けている。この簡易物干し竿、制御棒の上にダウジングロッドを十字に重ねただけの適当な仕上がりだが、非常にバランスが良く、加えて回転も自在だから乾きも速い。
「まあ、なんていうの? 裸の付き合いも大事ってことだよ。うん」
「そういうのは、温泉だけにしてもらいたいものだ」
「あんた、温泉にバスタオルつけて入るタイプでしょ」
「なんだその決め付けは」
「いやなんとなく」
 ふああ、と、黒猫が退屈そうに欠伸をひとつ。
 血気盛んに鼠を追い回すより、陽気に任せてうたた寝を決めこむ方が有意義だと判断したようだ。最後にちらりとナズーリンを見て、ふんと鼻を鳴らして床に丸くなる。
 先程は激しくいがみ合っていたくせに、眠りに就こうとする猫を見る烏の目はとても優しいものだった。両手を床に付けて、だらしなく両足を投げ出している烏の体躯は、ナズーリンや黒猫のそれよりよほど成熟している。だが、最もあけっぴろげなのもまた烏だった。
 その胸の真ん中に君臨している、赤く血走った眼球の気味悪さも、彼女は全く意に介していない。慣れか、器か、それとも何も考えていないのか。
「てっきり、額に落書きのひとつでもするかと思ったが」
「しないよ、別に。こうして見ると、うちの猫と大して変わらないしね。憎まれ口を叩かなきゃ、ネコでもネズミでもちゃんと話すよ」
「鼠でも、か。歯牙にも掛けられていないのは相変わらずだね」
「だからー、そういう言い方するから駄目なんだって。そんなんだから下着まで剥かれるのよ」
「剥いたのは君たちの趣味だろう……」
「なんでそこで赤くなるの」
「知らん」
 ぷい、と烏から目線を外す。ぷっ、と烏が噴き出す。
 黒い太陽は、チリチリ音を立てながら灼熱を繰り返す。服はまだ乾かない。雨もやまない。裸の身にできることはそう多くない。
 結局、会話以上の娯楽は残されていないのだ。
「君。名前は」
「霊烏路空。おくうでいいよ、そっちの方が楽だから」
「そうか。私はナズーリン」
「ナズ」
「ナスっぽいからやめてくれないか」
「えーいいじゃん、ナスおいしいよ?」
「そういう問題ではなくて」
 おくうは、生乾きの黒髪を掻き上げて笑う。
 単純な能力でいえば最も危険であるはずの彼女が、いちばん無邪気な表情を見せる。最も非力であるはずのナズーリンが、斜に構えた態度を固持している。
 黒猫は、というと。
「むにゃ……」
 眠たそうに首をもたげ、顔を洗う。なるほど、雨が降り続いているのも頷ける。
 起こすのも忍びないから声量を下げようかとも思ったが、それを実行に移すより早く、猫はすっかり目を覚ましていた。
「眠れない……」
「すまない。起こしてしまったようだ」
「おなかすいた……」
「こっちを見るな」
「痩せてるから、おいしくなさそう……」
 それはそれで気分が悪いな、と贅沢なことを考える。
 体格はナズーリンと大差ないが、猫はその身のしなやかさが目立つ。猫背であるのに、しゃがみこんでいてもその姿がよく映える。
「うつほ……なず……」
「あ、聞こえてんだ。それじゃあ話は早いわ」
「カラスに名乗る名前は無いなあ……」
「何よ、あんたひとりだけ特別扱いしないからね。さあ観念しな!」
「とはいえ無理強いも良くないな」
「ナズりんはどっちの味方なのよ!」
「ナズりん……いやまあ何でもいいんだが」
 啖呵を切るおくうに対し、ナズーリンは至って冷静に話を進める。眠りを邪魔された影響か、それとも単に烏が嫌いなだけなのか、猫はふたりへの警戒を緩めない。それもやむなし、とある程度は割り切る。なかよしこよし、ひとつ屋根の下を過ごすことができれば万々歳なのだが、そう順風満帆に事は進まないものだ。
「偶然、私たちは同じ場所で雨宿りをしている。それだけの関係ということも、それきりの関係ということもできる。まあ、要は一期一会だ」
「説教くさい……」
「固いなー」
「君たちが軽いからそう聞こえるんだろう」
「何だとー」
 適当に怒りを露にするが、ナズーリンの言い回しにも慣れてきたようで、本気にしている様子はない。黒猫もまた、ふたりのやり取りに息を呑んだりはしない。これが、たった数分の間に積み上げられた、柔らかい信頼関係だと気付いているから。
 雨音にほだされ、口も滑りやすくなる。
「……まあ、教えてあげないでもないけど」
「お。上から目線」
「くってかかるな。話が進まん」
 ナズーリンの投げやりな口調に、黒猫は初めて頬を緩ませた。
「――橙よ。これからよろしくはしないけど」
「わかった。無理やりよろしくしてやる」
「しないもん」
「しろよー」
「こらこら」
 黒猫の橙に這い寄ろうと試みるおくうを制し、ナズーリンは黒猫の名を復唱する。覚えても二度と会うことはないかもしれない。ただ一期一会。雨が引き留めた三者の繋がりは、たとえ一瞬で終わるとしても、確かに有意義ではあるのだ。
「橙……、橙、か。八雲の式、と言っていたね」
「なんか聞いたことある名前だ」
「トリ頭だねえ。この幻想郷で八雲の名を知らないなんて、一体どこに棲んでたのよ」
「いやなに。ただ熱いだけの灼熱地獄から、ちょっとね」
 手のひらサイズの太陽を見上げ、懐かしそうに地獄を語る。ふうん、と橙は適当に相槌を打つ。
「とはいっても、式は剥がれちゃったんだけど。憎きは雨、水の類はどうしようもないもんね。藍さまにも、さんざん気を付けろって言われてたけどさ」
「らん……、ていうのが、あんたのご主人さま?」
「うん」
 力強く頷き、自慢げに胸を張る。
「あのね、ものすごく強くて、頭も良くて、尻尾がたくさんあって、とってもふかふかしてるの」
「ふかふか?」
「ふかふか……」
 ふかふか具合を思い浮かべて、橙は瞳を閉じて顔を綻ばせる。藍の姿を想像できない他のふたりは、適当に想像を膨らませて悶々とするしかない。
「ご主人様、か」
「あ、ナズっちにもご主人さまいる?」
「ナズっち……」
 もはや統一させる気もないらしい。
 ともあれ、今度はナズーリンが主人の自慢をしなければならないらしい。いっそのこと、そんなものはいないと言い切れたら楽なのだが、真剣に落ちこむ虎柄の毘沙門天を思い浮かべて、意地悪をするのも忍びないなとナズーリンはほくそ笑む。
「まあ、ね。少々うっかりしている面もあるけれど、それを除けば面倒見の良い真面目なご主人様だよ」
 語った言葉に偽りはない。経緯はどうあれ、仕え甲斐のある人物だと思っているのは確かなのだ。多少、あれこれと口を挟むことはあるけれど、それはナズーリンの性格によるものである。他意はない。
「ふうん」
 おくうは間延びした調子で呟き、ふかふかタイムから復帰した橙にも聞こえるように、雨音にも負けないくらいよく通る声で話し始める。
「うちのさとり様は、優しいひとなんだよ。たまに怖いときもあるけど、ちゃんと謝れば許してくれるんだ。そのあとは、髪も撫でてくれるし、子守唄も歌ってくれる。あんまり性格は明るい方じゃないし、そんなに強いわけでもないけど……、でも、大好き」
 大好き。
 その言葉が、いちばんよく通った。
「……君は、よくそういうことを言えるな」
「え、どういうこと?」
「なんでもない」
 不意に、嫉妬が湧く。おくうの純真さは獣が本来持つ本能的な好悪であり、彼女がそれを素直に感じているから物事の好き嫌いも容易に言える。今のナズーリンにはできないことだ。おくうの言葉を耳にしただけで、顔が赤くなっているのだから世話はない。
 だが、黒猫は烏に近い思考の持ち主であるらしい。
「うー……。私だって、藍さまのこと大好きだもん」
 負けるものかと、橙も唇を尖らせて主人に対する親愛を口にする。
「にゃはは、そういうのは最初に言わないと説得力薄いねぇ。後出しじゃんけんは無効だよ?」
 おくうはここぞとばかりに橙を煽り立て、ふたりの間に根差している何らかの決着を着けようとしている。痺れを切らしたのは、やはり橙の方だった。立ち上がり、腕を振って吼える。
「……こ、これで勝ったなんて思わないでよね!」
「おーおー、負け惜しみー」
「うにゃー!」
「いたぁっ!?」
 我慢も限界に達し、怒りのままに飛びかかる。
 喧嘩するほど仲が良い、という諺に当てはまるかは不明だが、憎しみによる争いでないのなら致命的な傷を残すこともあるまい。ナズーリンは、髪をぐしゃぐしゃにしたり腕を噛んだり頬を抓ったりしているふたりを遠巻きに眺めながら、ひとりぽつんと膝を抱えている。
 寒くはないが、手持無沙汰である。籠の中の子鼠はさっさと眠りに就いていた。上位の天敵しか存在しない空間なのに、随分と肝が据わっている。ナズーリンは苦笑した。
 それと同時に、ぽつりと呟く。
「……まあ、嫌いではないけどね」
 ずるい言い方だな、とくしゃくしゃに乾いた髪の毛を撫でる。元々、癖の強い髪の毛だが、今は際立って毛先が跳ねていることだろう。水晶を鏡代わりにして覗いてみると、案の定、ひどい有様で気が滅入る。
「おいこら、目を突くな目をー!」
「なにこれ気持ちわるい! えい」
「でも別に私は痛くないんだよね」
「えぇ……なにそれ……」
「対お燐必殺『猫背殺し』!」
「あにゃーっ!?」
 騒がしいことこの上ない。
 おくうは橙の背骨を完全に極めており、橙もギブアップに応じる余裕がないため事態は明らかに窮まっている。犠牲者が出れば喧騒は収まるだろうが、後味の悪さだけはこの雨もすすいではくれないだろう。
 ナズーリンもようやく立ち上がり、ペンダントをおくうの脇腹めがけて放り投げる。
「ペンデュラム」
 緩く弧を描き、飛んでいくそれは正八面体の巨大な造形に変わり、勝利の余韻に浸るおくうの脇腹に、ちょうどいい角度で命中した。
「ひゃぅ……!」
 衝撃そのものは弱いが、部位が部位だけに全身から力が抜ける。色気があるのかないのか判然としない呻き声を上げ、おくうが力を緩めたと同時、橙は弾かれるようにおくうの拘束から脱した。
 ペンダントは衝突してすぐ元に戻り、むず痒そうに脇腹を抱えてうずくまるおくうと、よつんばいになって威嚇する橙、そして腰に手をやって嘆息するナズーリンが残された。
 おおむね、最初から最後まで変わり映えのしない光景だ。
 全く、自分たちと来たら。
「なに笑ってるのよ」
「いや、すまない。結局、私たちは歩み寄ろうともしなかったな」
「ばっかじゃないの、そんなの当たり前じゃない」
「ああ、そうだね」
 口元を押さえて、ナズーリンはくつくつと笑う。その仕草が不気味で、好機にもかかわらず橙も手が出せない。そうこうしているうちに、おくうも脇腹の絶妙な感覚から逃れ、三竦みの関係が再構築される。
 だが、それももうすぐ終わりなのだけど。
「雨」
 窓を指そうか、天井を指そうか、少し迷って天井を選んだ。
 さり気ない動きにつられて、臨戦態勢を取っていたふたりも不意に天井を見る。
 雨音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
 窓から差しこむ光も、木の葉に遮られているものの、小屋に入った当初よりは強くなっている。
「もう、やんだみたいだよ」
 そう言って、ナズーリンはひとつ大きなくしゃみをした。

 

 

 既に乾いていた服を纏い、仮初の太陽が瞬く小屋の中、めいめいに出立の準備を整える。
 おくうは太陽と制御棒を仕舞い、ナズーリンはダウジングロッドに携え、尻尾に籠を引っ掛ける。橙は特にすることもないのか、毛繕いをして暇を潰している。流石に顔を洗うつもりはないようだ。
「よし」
 髪の跳ね具合が気になるけれど、小屋に留まって元通りになるものでもない。景気付けに頬を張り、ナズーリンは二本のロッドを振った。
「うお、危ないなあ」
「だいぶ時間を喰ってしまったのでね。どやされる前に、探しているポーズだけでも見せておかなければ……、と」
 振り回したロッドが交差し、先端の鉤が空へと引っ張られるように上向く。探し物のひとつは、大量に空に浮かんでいる。質より量、というわけではないにしろ、もうひとつの探し物については、やり方を考えなければなるまい。
 長丁場になりそうで、溜息が零れる。雨にも打たれて、少し疲れた。しかしあまり休んでいる暇もないらしい。
「お疲れのようね」
「全くだ。あまり休ませてもくれなかったからな、君たちと来たら」
「へへ、楽しかったでしょ?」
「さあね」
 素直じゃないんだから、とおくうは苦笑し、ひとり早々と小屋から立ち去ろうとする。引き留めるものは誰もいないが、特に寂しさも清々しさも浮かんでこない。初めから、一期一会だと理解している。
 運が良ければ、あるいは。
 運が悪ければ、また会うこともあるだろう。
「それじゃあね。橙、ナズーリン」
「ああ。おくう」
「二度とこっちくんなうつほ」
「やなこったー」
 背を向け、手を振り、白いマントを翻し、濡れ羽色した翼を広げる。
 大仰に空へと飛び立っていく烏の姿を、鼠も、猫も、小屋から出て見送っていた。
 時折、木の葉から滴が垂れ落ちる以外には、雨の残り香は感じられない。残された鼠は、所在なげに佇んでいる猫を見る。その視線に気付いた猫は、何食わぬ顔で鼠を睨む。しかし、そこに怒りや憎しみ、嗜虐心は読み取れない。
 ほんのちょっと、遊び心が見え隠れするくらい。
「ナズー……リン、だっけ」
「ナスじゃないよ」
「間違えないわよ。カラスじゃあるまいし」
 ふん、と鼻を鳴らし、元気よく羽ばたいていった烏に小さく舌を出す。
「私も、おつかいの途中だったんだ」
「そうか。なら急いだ方がいいかもしれない」
「うん。だから、あんたを虐めるのはまた今度ね」
「もう十分に虐められたよ」
「でも、私はまだ虐め足りないもん」
「……参るね、それは」
 肩を竦め、何度目か知れない溜息を吐く。余裕があるのか、情けないのか判然としない態度を見、橙はくすくすと笑う。
 森の中に、一歩、また一歩と踏み出し、十歩ほど進んだあたりで、急に体ごと振り返る。
「藍さまが言ってたんだ」
 おそらくは、橙が初めて見せた笑顔だった。
「誰かを名前で呼ぶってことは、そのひとの存在を認めているってことなんだよ」
「ああ。橙」
 はっきりと、ナズーリンは黒猫の名前を呼んだ。
「じゃーね! ナズーリン!」
 橙もまた、鼠の名前を力強く叫び、足元の悪い森を懸命に駆けていった。
 木漏れ日を振り払うように、泥が跳ねても一切気に留めず、黒猫は森の中に消えていく。迷わなければいいが、と心配はしてみるものの、あまり意味はないように思えた。彼女なら、確実に森を抜けて家に帰り着く。そんな気がした。
「全く、どいつもこいつも……」
 ひとり残されたナズーリンは、ふたりの去り際を思い返して口の端を歪ませる。上機嫌であると察したのか、籠の中の鼠も嬉しそうに鳴いている。
 それぞれ棲んでいる場所もわからない。活動している時間も不明瞭で、解っているのは名前だけ。会う約束など交わしてはいないし、もう会うことはないかもしれない。一期一会。
 でも、また会うことがあるのなら。
「そのときは、うちの虎でも連れて来るかな」
 虎の威を借る狐、とはよくいったものだが。自嘲。
 ゆっくりと宙に舞い上がり、しばらくの時を過ごしてきた小屋に別れを告げる。若干、天井は焦げ臭くなったかもしれないが、これからも雨宿りに訪れる者たちに偶然の出会いを用意してほしい。
 大樹の陰を越え、黒雲の隙間から漏れる光の筋の間に、何匹かの妖精が漂っている。あちらにふらふら、こちらにふらふらと、挙動が怪しい妖精に向けて、ナズーリンは航路を取る。
 仕事の時間だ。
「――さあ、行こうか」
 籠の中の鼠が鳴く。
 ナズーリンは唇を舐め、ロッドを握り、祈るように瞳を閉じた。

 

 

 

 



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2010年1月18日  藤村流
東方project二次創作小説





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