白梅に透かした髪を覗く紅

 

 

 

 梅の木の下で胡坐を掻いて、ぼんやりと梅の花を見上げている自分が気に入っていた。梅は桜に先んじて楚々と咲き、激しく花びらを撒き散らすこともなく静かに花の季節を終える。
 彼女が当たり障りなく生きていた時代は、花見といえば梅であって、その名残が妹紅の身体にこびり付いているのかもしれない。でも、それを抜きにしてもこの色は好きだ。紅梅、野梅、色々と種類はあるが、何より地味に咲いているのがよい。桜の花見は、酒が入ると場が荒れる。それはそれ、華やかで味があって楽しいのだけど、梅を見るときには、もう少し穏やかでいたいと妹紅は思う。
 だから、持ってきた酒は徳利の一本のみ。まだ手も付けていない。
 花びらは春風に揺れても散らず、空の青と花の白、日の光によく映えている。
「しかし、眠くなるね」
 呟く。人里から離れ、獣道からも外れた森の隅である。人はもとより、妖も滅多に立ち入らない。傍らには、大人であれば走って飛び越えられる程度の小川が流れ、たったひとりの花見客を更なる眠りへと誘う。
 何もせずとも、花を見ているだけで面白い。楽しい、という感覚には遠いが、日がな一日こうしていても飽きない自信がある。一週間ずっとこうしているのは、流石に飽きが来るだろうが。
「……おっと」
 うつら、うつらと船を漕ぐ。意識を手放すと同時に目を覚まし、そのたびにまぶたを擦って梅の花を振り仰ぐ。起きていても眠っていても、花見をしていることには変わるまい。だから時間が勿体ないと思うこともなし、ましてや蓬莱人であるならば。
 幸か不幸か、ある程度窮屈な体勢でも眠れるようになった。何かあれば、すぐにでも起きられるから助かる。幻想郷に移り住んで、昔ほど切羽詰まった事態に陥ることは無くなったが、花見の邪魔をされるのは我慢がならない。
「ん、……」
 無粋な輩には軽く火を通してやろうと心に決めて、妹紅は陽光と春風に誘われるまま、静かな眠りに落ちて行った。

 

 

 ――私の記憶に、いつも後ろ姿で現れる人がいる。
 何度声を掛けても、大きな声で叫んでも、泣き喚いてさえあの人は振り向いてくれない。決して。
 だから私は、小さな歩幅で駆け出して行って、あの人の肩を掴み、強引に振り向かせるのだ。
 でも、そのときになってようやく気付く。
 私はもう、その人の顔をほとんど覚えていないのだと。
 私を見る、私の父親であるはずの人は、何故だか困惑したような顔をしている。
 ……ああ、そうか。
 今の私は、あの頃とは似ても似つかない。
 咲き誇る梅の木の下で、一緒に花見をしていた時代はとうに過ぎてしまった。
 蕾の紅、梅の花の白は、今の私によく似ているけれど――。

 

 

 頬に暖かいものを感じて、覚醒する。
 結局のところ、その正体は散り落ちた梅の花びらだったのだけど、俯いていた顔を上げてようやく、自分ではない何かの気配に気付いた。
 同じ梅の木の下で、白い日傘を差した緑色の女性。
 名前は知っている。会話をした経験はあるが、特に親しいわけでもない。
 立っているか、座っているかの違いこそあれど、彼女も花見をしていることには違いないのだろうと、妹紅は寝惚けた頭で判断した。
 声を掛けるべきか迷い、ひとまず欠伸をしてから考える。
「邪魔をしたかしら」
 風見幽香は、悪びれた様子もない。妹紅も、特に気にはしていなかった。一人の花見も、二人の花見も変わらない。梅は誰のために咲いているのでもないし、幽香が場を荒らす性格ではないと知っていたから、妹紅は小さく首を振る。
「別にいいよ。暇だったし」
「そう」
 妹紅に向けた目線を、再び梅に返す。つられて、妹紅も花を見上げる。
 お互いに気の利いた言葉を掛けることもなく、漫然と時間は過ぎていく。空腹に苛まれたり喉が渇いたり、起こさなければならない行動もない。徳利は妹紅の傍らに置かれているが、妹紅も幽香も一瞥すらくれない。酒の匂いより花の匂いが近いから、知らずと鼻も上を仰ぐ。
「此処には、よく来るのか」
「たまには、ね。花を見るのは好きだから」
「そう」
 他愛のないやり取りも、長くは続かない。視線はずっと梅の枝に合わせて、静かな声だけが緩やかに飛び交う。風が吹いて、花びらと、妹紅の長い髪が揺れる。
 どれくらい、同じ立ち位置で花を見ていたのか。
 半刻、一刻、陽は落ちていないから、半日ということは無さそうだが。腹の底に訴えかけてくる空腹は、昼食を抜いた時に感じるそれとよく似ていた。太陽の位置を確認すると、なるほど予想した通りに傾いている。
 幽香も同じことを考えていたようで、斜陽に転じかけている太陽を細めた瞳で見据えていた。
「私が言うのも何だけど、飽きないね」
「好きなのよ。こうしているのが」
「なら、いいけどさ」
 余計な心配をした。肩を竦める。
 そろそろ立ち上がろうと、膝に手を置く。その動きに被せるように、幽香が言う。
「あなたも、好きなのでしょう」
 ――だから、ずっとそうしていたのでしょう。
 不意に、幽香と目が合った。心の内を見透かされたようで、よく考えてみると、何か特別な理由があったわけではなかったことに気付かされる。
 梅の花が好きだから、静かな花見の雰囲気が好きだから、というのは、確かにそうなのだろう。父親を思い出して、というのも、理解できる話だった。
 花びらの白、蕾の紅が、今の妹紅の姿と重なるのも。
 挙げようとすれば、いくらでも理由に挙げられる。
「そうだね」
 自嘲気味に答えたのは、好きだからということ以外に、余計な理由を見繕ってしまったからだ。
 幽香は特に何も言わない。妹紅が胸に抱いている些細な逡巡など気にも留めず、日傘を一度くるりと回して花見を継続する。
「……立ちっぱなしで、疲れない?」
「えぇ。鍛えてますから」
 隣の草むらを叩いて均しても、幽香は見向きもしない。二人の間に絶えず流れていた沈黙も、今となっては少し息苦しい。考えることがあって、考えるのが面倒だから適当に会話でもして気を紛らわしたかったのだが、なかなか思うようにはいかないものだ。苦笑する。
 仕方がないから、梅を見る。土の上には、落ちた梅の花びらがちらほらと散らばっている。満開の花もいずれ散りゆき、やがて実を付けて葉も枯れ落ち、素の身体になって冬を越え、また同じように花を咲かせる。
 生き続けるのか死に続けるのか。輪廻転生とも、不老不死とも違う。
「お酒でも呑まれては如何」
「……なんだって?」
 妹紅は問い返す。突拍子もない提案ではないが、彼女の真意が計りかねた。
 熟考する間もなく解答を求める妹紅に、幽香は相変わらずの微笑を浮かべて、言う。
「少し、現に酔っているみたい」
 ――あるいは、返らない昔日に。
 言いたいことは、すぐに解った。
「そうかい」
 諦観気味に、溜息を吐く。言われた通り、置き去りにされた徳利を掴み、麻の紐を引っ張って景気よく栓を抜く。
「たく、妖怪に諭されるとは。らしくないね」
「年寄りの言うことは聞くものよ」
「年寄り具合なら、似たようなもんだろう」
 憤るかと思ったが、幽香は愉快そうに笑っていた。なるほど、年季が入っている。
 徳利に口を付けて、斜陽と同じ角度に傾ける。わずかに唇の隙間から入り込んだ温い滴は、ほんの少しだけ妹紅の頭を整えてくれた。
 蓬莱の薬を得た身体は、死に瀕するほどの酩酊状態には至らないが、ほのかな酔いを感じられるくらいの器はある。今は亡き日を想い、枯れた季節を、地に落ちた花を憂うだけの底の深さも。
 酔ったことを口実に、普段は回らない口がいつもより滑りやすくなったとしても。
 梅の下で呑む酒の味は、いとも容易く許してくれる。
「父上と、よく花見をしていた」
 唇から離れた徳利の口に、ふっと漏れた吐息が掠って口笛のような音が鳴る。遠い、遠い昔を思い出す。家を飛び出す頃より更に前の話だから、そう何回も経験したわけではない。そのひとつひとつ、細かいところまで覚えているわけでもない。
 ただ、あの人の後ろ姿だけは鮮明に覚えている。
 時に大きく、時に縮こまった背中を。
「梅がきれいで――美味しいものを食べるとか、お酒を呑むとか、そういうことは何も無くて……ずっと、花を見ていただけだったけれど」
 覚えている。
 あまり会う機会のない父が、どう接したらいいのか解らないまま連れ出してきた梅の木の下。慣れない花見、妹紅は寡黙な父にずっと付き合った。好きだから従った。花見をする意図は解らなくても、父が隣にいることが嬉しかった。
 本当に、それだけだった。
「飽きなかったなあ」
 日がな一日、梅の花を見ていた。
 飽きもせず、父と子が二人、喋りもせずに首を上向けていた。何が楽しいのか、時折、父の横顔を見て妹紅が笑う。それを見て、父も気恥ずかしげに照れ笑いを浮かべる。
 昔の話だ。
「きれいだった」
 その美しさは、今も昔も変わらない。思い出の色が如何に鮮やかでも、美しさの芯までは変わるまい。梅は梅として、流れに従い楚々と咲く。ただひとり、道に迷ったふたりのために、道標のように咲くわけではない。
 梅の色に、妹紅が勝手に己を重ねても、知ったことかと梅は咲き、然るべき時に散り落ちる。
 ……あぁ。
「ほんとうに……」
 続く言葉に何を選ぼうか、悩んでいるうちに徳利の底は地に落ちた。幸い、中身は零れず徳利は地面に立っている。
 幽香は口を開かない。ただ黙って、妹紅の話に耳を預けて、瞳はずっと梅を見ている。
 風の温度も、少し冷たくなっていた。長居をしていると、体調を崩すかもしれない。斜陽は橙色の光を周囲にばらまき始め、梅の白を一斉に染め抜こうと試みている。
 何もかもを塗り潰そうとする太陽の強引さに顔をしかめて、幽香は徳利を握ったまま俯いている妹紅に告げる。
「そろそろ、お暇させて頂きます」
「うん」
「風邪などひかれませんよう」
「……妙に優しいね。気味が悪い」
「酷いわ。花を好む生き物には優しいのよ、私は」
「そうかい」
 言って、少々赤らんだ頬で梅の花を仰ぐ。
 朝と夕とで色は違えど、梅は梅。
 妹紅は妹紅。
「でも、本当に梅が好きかどうか怪しいもんだよ」
 皮肉げに返せば、今度は幽香が小さく首を振る。瞳を閉じて、傘を回すと同時に身を翻し、日傘に落ちた花びらを優しく弾く。
「いいえ。あなたは、梅が好きよ」
 半ば、神託の音色を帯びた台詞を残し、風見幽香は花見の席を後にした。
 随分と勝手な言い草だったが、何故か彼女の声は耳に残った。足音も立てず、気配も発さずに消えて行った後ろ姿を思い、そういえば彼女は幻想郷でも有数の実力者なのだと今更になって思い至った。妖怪として長いこと生き続けると、次第に動くのが億劫になるというのはあながち的外れでもないらしい。
「ふう」
 取り残された妹紅は、ひとり変わらず花見を続ける。
 徳利の中身はまだ半分ほど残っている。全て煽るのも、持ち帰って嗜むのもよし。選択肢はいくつかある。そのうち新しい道も思い浮かぶかもしれない。
 白から橙、そして紅、やがて藍色に変わりゆく梅の花びらを眺めて、幽香の言うように、やっぱり自分は梅が好きなのかもしれないと妹紅は思う。
 だって。
 そうじゃなければ、いつまでも座り続けてなんかいられない。
「あいたたた、お尻が……」
 腰を上げ、痛むお尻を丁寧に擦る。
 立ち上がり、高くなった目線で梅を見ると、その匂いが随分と強くなる。間近に見える花びらを、試しに指で摘まんで、鼻の先に近付ける。おいしそう、という感想は抱かなかったけれど。
「――うん」
 なるほど。
 確かに、酒は進みそうだ。

 

 

 

 



SS
Index

2010年4月18日  藤村流
東方project二次創作小説





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