死して尚屍

 

 

 

 咳をしてもひとり。

 

 喋ろうとすれば当たり前のように咳が漏れ、胸が苦しくなる。肺の内側から針に刺し貫かれたような痛みは、気が付けば、もうずいぶんと昔から感じられていたような気がする。具体的に何年前から、ということはわからない。正しく言えば、もう思い出すこともできないのだ。情けないことに。
 今日もまた、息苦しさで目が覚める。まだ生きている。今日を迎えられたという喜びと、今日を迎えてしまったという疲れが、おおよそ同じくらいの重みを占めている。生きているだけで幸せだと、生きているから苦しむのだと、そのどちらの言い分も決して間違ってはいないということを、計らずも理解してしまった。
 は、あ。
 痰が絡んだ。
 枕の形はほとんど変わらず、顔を横に向ければ、庭の景色が見える。冬なら、障子も襖も閉め切られて、今際の際の景色さえも拝めなかったかもしれない。麗らかな日差しがあますところなく春を伝え、大地を、空気を、人間をまんべんなく暖める。闇から曙、雀の鳴き声とともに一日が始まろうとしている中で、私は、平べったい布団に包まり、ただ胸にうずくまる痛みとともに一日を送ろうとしている。
 は。
「おはようさん」
 痰が絡む。
 初めて聞く声に起き上がろうとして、体が動かないことを思い出す。気付いた頃には背中に痺れが走り、声にもならない痛みが全身を苛む。目をつむり、息を殺す。歯を食いしばる。涙は出ない。
 苦痛に慣れても、苦痛はなくならない。症状が上下することはあっても、痛みは絶えずして体に根付いている。
 歪み、にじむ視界の中に、初めて見る人影が浮かんでいた。
「だれですか」
 搾り出した声は、昔と比べものにならないほど、汚く濁っていた。それでも相手は私の声をちゃんと聞き届けていて、大柄な体を低く構え、巨大な鎌を肩に担いだまま、健やかな笑みを浮かべてみせた。
「はじめまして。死神です」

 

 赤い髪をした彼女は、小野塚小町と名乗った。
「ああ、別に、お迎えに来たわけじゃないから」
 からからと、簡単そうに彼女は言う。麗らかな春の日差しが彼女の横顔を照らし、光の届かない場所で寝転んでいる私とを明確に分類する。
 またひとつ、咳がこぼれた。
「りんご、食べるかい?」
 首を振る。視界の隅に差し出された赤い塊が、視界の外に消えていく。続いて、しゃりしゃりと果物を噛み砕く咀嚼音が聞こえてくる。爽やかな甘い香りが鼻に抜けても、さして食欲をそそられないのは寂しいものだった。すこしずつ、人間味が殺がれて薄れて消えていくような、漠然とした不安を感じる。
 首を横に向けると、死神は畳に胡坐を掻いて座り込んでいた。
「すりりんごにもできるけど、どう?」
 首を振る。彼女は残念そうに差し出した手を引き、その赤いリンゴに艶やかな唇をすり寄せた。
 彼女はリンゴを食べるほかにすることもない様子で、するにしても、疲れた私の顔を覗き込むことくらいだった。ぼんやりと、うつろな目つきで彼女を眺めていると、時折、彼女と目が合った。けれども彼女は何も言わず、ただ穏やかな眼差しで私を見つめているだけだった。
 朝が早いからか、私の部屋を訪れる者もいない。死神が死に近い者にしか見えない存在なのかどうか、それは定かでないけれど、下手に騒ぎが起きないのはありがたかった。騒がしいのは嫌いではなかったのだけど、今は、すこし胸が痛む。死神は何も語らない。何をしに来たのだろう、迎えに来たのではないと彼女は言ったけれど、それでもやはり、私のところに彼女が訪れたのは何か意味があるように思えた。
 濁り切った自分の声を耳にするのが嫌だから、話をしたいという意欲も失っていた。
 もし、自分から何かを話すことがあるのなら、きっと、こういう機会しかないと思っていた。
「わたしは」
 がらがらと、舗装されていないでこぼこ道を牛車が慌しく走り去るような、耳障りな声が喉からこぼれた。
 庭のタンポポを眺めていた死神は、まぶたを擦るような仕草をしてから、私の方を向いた。
「ん、りんご?」
 懐から新たなリンゴを取り出す死神に、小さく首を振る。また食べるのかと思いきや、今度は懐にしまった。胡坐は掻いたままだったけれど、それが私の話を誠実に聞く態度だと気付いて、私はまた最初から言った。
「わたしは、地獄に落ちるのでしょうか」
 搾り出した声は醜く掠れ、私の耳にすら正しく届かなかった。
 耳を澄ましていた死神は、相変わらず悠然とした表情を崩さぬまま、すこし面倒くさそうに答えた。
「知らんなあ」
 彼女は、懐からリンゴを取り出して、飽きもせずにかじり始めた。
 無愛想なのでも、ぶっきらぼうなのでもなく、ただ本当によくわからないのだと、私にはそう聞こえた。死神も、死者の行く先はわからない。
 私は、すこし不安になっていた。
 私が行く道の先に、何が待っているのか、それがわからないのはとても怖いことだった。震えが走る。温かいはずの布団にも、足を掻き分ければ冷たい場所が残されていることを知る。
「そのへんは、近い将来、閻魔様にでも聞いてくれ。嫌でも教えてくれるから」
 苦笑いを浮かべながら、彼女は告げた。リンゴをかじる、冷たい香りが鼻腔をくすぐる。けれども、まだ、食欲は湧かなかった。
 彼女が知らないというのなら、それはもう仕方のないことだ。もとより、死ぬ前に死神に会うことができるとも思っていなかった。閻魔様に会う前にその答えを知ろうなどと、みっともないにも程がある。
 情けない。
「ん、おいしいりんごでした」
 ひとしきりリンゴを堪能した彼女は、芯だけになったリンゴを指の腹で転がしながら、ふと思いついたように質問してきた。
「でも、なんでそんなこと聞くんだい」
 純粋に、よくわからないから、彼女はそう尋ねたのだと思う。小首を傾げ、襖に預けた鎌の禍々しさが畳の醸し出す穏やかさと見事な対照を描き、日常と非日常が今まさに同居していることを実感させてくれる。私は今、死の縁に立たされていて、何の因果か、その隣に死神がいる。
「……わたしは」
 だから私は、彼女に素直な気持ちを語ろうと決めた。
 深く、息を吸う。胸が軋む。咳は出なかった。
 見えないけれど、空はきれいに晴れているような気がした。
「罪深いことをしてきました」
「ほう」
 相槌が打たれる。
「他人を傷つけて、嘘をついて、嫌なことから逃げてきました」
「ふむ」
 顎に手をついて、深く頷く。
「誰かを好きになって、誰かに好きになってもらえるような、そんな当たり前の幸せさえ許されないと思っていた」
「うん」
 短い言葉で、私の話を遮らぬよう、淡々と話の流れを繋いでいる。
 それが、とてもありがたかった。
「でも」
「でも」
 繰り返される。
「愛するひとがいます」
「うん」
「家族と呼べるものを作ることが、私にもできました」
「まあね」
 ある種の確信を持って、彼女は言う。
「よいのでしょうか」
 彼女の口が動くより先に、私は続けた。
「私のようなものが、幸福を味わってよいのでしょうか」
 矢継ぎ早に言い放ち、吐き出した息を大きく吸う。
 今度は、意識が飛ぶくらいの咳が出た。視界が眩み、ほんの一瞬、真っ白に染まる。
 現世に帰ると、相も変わらず、胡坐のまま私を見舞ってくれる死神がいる。表情は、やはり先程とどこも変わっていないように見えた。
「罰なのでしょうか」
 彼女に尋ねても、答えがないことは知っている。地獄に行くのかという問いに知らないと答えた彼女なら、私がどんなに愚痴をこぼしても、相槌以外のものは返してくれないとわかっている。
 だから、こんなにも口が滑りやすくなる。
「分不相応に幸福な時間を過ごした罰が、今の私を蝕んでいる病なのでしょうか」
 幸せから不幸の底に突き落とされることが、私に与えられた試練なのか。
 布団から出られなくなり、体も満足に動かせなくなった頃、私はそう考えるようになっていた。
「そして、これから私が通らなければならない、死が」
「まあ、ねえ」
 私の話を遮るように、死神は乱雑に自分の頭を掻く。赤くて丸い髪飾りが、ぐらぐらと揺れている。風が吹き込んでいるわけでもないのに、部屋の空気がすうっと入れ替わったような気がした。
 死神は言う。
「あんた、自分のこと嫌い?」
 一瞬、返事に窮する。
 死神は自分の手のひらを額にぺたんと押しつけ、眉間に皺を寄せ、下唇を軽く尖らせた。
「まあ、別に自分が嫌いでもいいんだけどさ」
 放り捨てるように呟いて、死神は手のひらを離した。表情はどこか詰まらなさそうで、私からもわずかに目線を外している。鎌の切っ先は、何故かすこしだけ煌めいて見えた。
「死にたがりなら、説教でもすりゃあ済む話なんだが。自分嫌いはそっちの性分だから、こっちが文句言う筋合いもないやねえ」
「申し訳、ありません」
 途中、咳を挟む。喉に絡んだ痰は、何年も前から喉の奥にへばりついているような気がする。死神は、気難しい表情を一変させ、私を安心させるように気楽な声で返答した。
「ま、謝らんでもいいよ」
 彼女は組んだ足に両手を添え、私の顔を覗き込む。今や、首しか満足に動かせない我が身をつぶさに観察されるのは、本来なら心苦しいことであるはずなのに、彼女になら、死神にならば楽に身を任せられた。神と名の付く職業だから、いくぶんか気を許しているところもあるかもしれない。無論、彼女が嘘をついている可能性は否定できないのだけど、彼女がまとっている空気は、確かに死神のそれであるように感じられた。閻魔様はもとより、死神に会ったこともないくせに、ただ死に瀕しているというだけで、そんな確信を得るのも図々しいのだけど。
 死神は言う。
「あんたがそれを罰と思うなら、それもいいさ」
 それ、が意味するものを、ひとつひとつ、頭の中で整理してみる。彼女が見ていたのは、私の病と、心の傷、あるいは、表情から読み取れる程度の、苦痛や悲哀の類でしかないのかもしれない。でも、おおよそそれくらいのちっぽけなものが、今の私を構成している全てなのだ。
 もし、付け足してもいいというのなら。
 今の私の底の底に降り積もっている、幸せの粒を。
 掘り出せなくてもいい。見えなくてもいい。ただそこに埋もれていると知っているだけでも、罅割れた心と体が満たされるような気がするから。
 私は。
「でも」
 死神は確かめるように逆接の言葉を唱え、幸せに酔いかけた私の目を醒ましてくれる。
 けれども、彼女は決して厳しい表情をしているわけでもなく、ただ安穏と、日向ぼっこでもしているかのように、頬を緩めながら喋る。
「死は来るよ」
 死神が口にすると、その言葉はよく映えた。
 なおも、幸せにすら感じられる調子で、死神は続けた。
「どんな罪を背負っていようが、どんな罰を抱えていようが、あるいは、勝手にそう勘違いしていようが、幸せの絶頂にいて、不幸のどん底にいて、今日子どもが産まれて、昨日娘が死んで、一人ぼっちで、家族に囲まれて、悔いがあって、未練がなくて、愛されて、嫌われて、信じて、裏切られて、がんばって、諦めて、走って、つまずいて、逃げて、立ち止まって、楽しんで、悲しんで、泣いて、笑って、生きて、生きて、生きて、そんなふうに」
 言葉を切る。
 穏やかに流れる朝の清涼な空気は、死神の涼やかな声を部屋の隅々まで行き渡らせる。染みがつき、耳を澄ませばもう一度、彼女のきれいな声が聞こえるくらいに。
 死神は、深く、静かに、大きく息を吸ってから、最後の言葉を口にした。
「唐突に、緩慢に、されど等しく、死は訪れる」
 涼やかに、生き死にを語るにはすこしばかり軽い調子で、死神は話を終えた。病人の傍らで欠伸をして、のっそりと立ち上がる。片手には死神の鎌を、もう片方の手には、いつか食べ終えたリンゴの芯を持って。
「そろそろ、お暇するよ」
「はい。ありがとうございました」
「息災に――てのも、考えてみりゃあ可笑しな話か。まあ、いいさね」
 不謹慎にも取れる台詞を平然と言い残し、死神は開け放された障子から部屋を出て行く。
 足音は数歩で聞こえなくなり、数秒の後には、私の隣に物騒な鎌を携えた死神が腰掛けていたなんて信じられないくらい、空虚で、乾き切った空気が部屋の中に満ちていた。それは、私が長年味わい続けていた空々しい空気だ。この空間には私ひとりしかなく、やがて訪れる死の気配が充満している。私を淡く包み込んでいるものの正体は、菩薩の掌か、獄卒の豪腕か、その答えを生きているうちに知ることはできなかったけれど。
 はあ。
 ため息をつく。
 たまたま、咳は出なかった。
「生きてこそ……死してこそ」
 そんな、辞世の句を書こうと思った。
 俳句や短歌など書いたこともないくせに、今際の際に、洒落たことをしたくなる。
 現金なものだ。
 濁った呟きは生暖かい空気に溶け、畳の隅に降り注ぐ太陽の明かりが、寒暖も満足に感じられない私まで照らし出そうとしている。リンゴの香りはもうしない。今頃になって、ほんのすこし、お腹が空いたような気がした。
 廊下の向こうから、誰かの声が聞こえる。耳を澄ませば、足音が迫っていることに気付く。
 朝餉の匂いが近付いてくる。
 限りある一日が、ようやく動き出そうとしている。
「――あぁ、おはよう」
 先んじて、私は呟いた。

 

 

 

 

 

 

 四十九日の後に行くべき先は、この魂が理解している。
 空から自身の体を見下ろす奇妙な感覚にも慣れ、この身が幽霊であるという自覚も芽生えた。ふらふら、ふわふわ、飛んでいるのか浮いているのか、おそらくは漂っているという表現が最も適切なのだろうけれど、私はあえて飛んでいるのだと言おう。鳥が羨ましいと思ったのは、布団にくるまり、いつ果てるとも知れない体を憂えていた頃だ。朝の始まりを雀の歌に聞き、一日の終わりを烏の鳴き声に聞く。首を傾けても見えない空で、自由に羽ばたいている鳥の群れを妬んだ。
 今や吹く風に溶け昇る朝日に滲む体を憂う意味もなく、空を飛び行き過ぎる鳥に嫉妬することもない。私は私であるという意識すら曖昧で、ここにあるのはかすかな記憶と気質の残滓である。それでも、私が幽霊として三途の河に訪れたということに、何か意味はあると思った。
 ゆっくりと、流れるように、流されるように、三途の河の砂利を横切る。地に足が着いていない身ならば、黙っていても河を横断できるのではないかと思えたが、何故かそれを実行に移す気にはなれなかった。
 それはきっと。
「や」
 寄せては返す波の狭間に漂う舟の縁に座っている、若い死神が呑気に手を挙げる。
 赤く燃えるような髪を、丸い髪飾りで括って流している。ゆったりとした和服に身を包み、肩に担いでいる鎌は、三途の河に広がる濃霧にも負けず劣らず雄々しい輝きを放っていた。
「今日は、あんたひとりみたいだよ。特等席だあね」
 からからと笑い、舟の中に促す。特に断る理由もないから、私は何も考えずに舟に飛び乗った。
 ぐらぐらと頼りなく揺れ、船頭の合図を待つのみとなった舟の中に、幽霊と死神が向かい合って佇んでいる。船縁に足を掛け、膝に片肘を乗せる死神の仕草は、いやに様になっていた。
「河を渡るにゃあ、お金が要るんだが」
 ひらひらと、彼女は手を振る。私は首を傾げた、つもりだったのだけど、うまくできたかどうかはわからない。そもそも首があるのかどうかさえ定かでない。彼女が微笑んでいるということは、やはりどこか滑稽な仕草だったのかもしれない。
「なあに、心配するこたあない。あんたからは、もうとっくに貰ってるさ」
 そう言って、彼女は懐からじゃらじゃらと銭の束を取り出した。
 払った覚えはないのだけれど、彼女がそう言うのなら間違いない。私は安堵して、落ち着ける腰もないのだけれど、とにかく舟の席に座り込んだ。
「そんじゃまあ、行きますか」
 鎌の代わりに舵を取り、死神は船頭に成り代わり、三途の河の渡し舟を出す。
 動き始めた景色の中、私は渡し守の鼻歌を聞く。かつて一日の始まりに聞いた鳥の歌に似て、成る程、旅の始まりに聞くにはちょうどいい旋律に違いなかった。
「この河は、乗る者によって、穏やかにもなり、荒れもする。さあて、本日の旅は、どうなりますことやら」
 皮肉混じりに呟いて、死神はまた鼻歌を唱え始める。それはあたかも、海の底から魔神を呼び出す呪文のように、あるいは、大地に眠る死者を労わる鎮魂歌のように、地へ、空へ、心へ、魂へ、透き通るように染み込んでいった。
 ぽつり、ぽつりと。
 唱える言葉も、開く口さえもないくせに、私は私の中に留まっている記憶の欠けらを話し始める。
 死神は歌うのをやめ、じっくりと、声なき声に耳を澄ませる。
「……」
 叶うなら。
 この旅が終わる頃まで、私の話を続けることができますよう。
 たとえ私の人生に相応しく、三途の河が長く伸び、荒れに荒れたとしても。
 この人生を、余すところなく語れるのならば。
 最期の最後まで長い道程であってほしいと、私は切に願っている。

 

「――ああ、そうかい」

 

 

 

 

 

 


  生きながら
  道を歩けど
  果てはなく
  死に伏しながら
  青空を見る
            』

 

 

 

 



SS
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2007年12月22日 藤村流

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