商標登録三面記事

 

 

 

 射命丸文は鴉天狗であるが、その外見はうら若き少女そのものであり実に麗しい。
 背中に生えている漆黒の羽もひとつのアクセントとなり、彼女の美貌を高めこそすれ貶めることはない。人外の美貌、いわゆる妖艶さと呼ばれるものが彼女たち妖にはあますところなく備わっているのだ。
 文は、その短いスカートを翻しながらゆったりと空を飛んでいる。ネタを探して東奔西走、実際それほどの焦燥感はないものの、特ダネを探す眼は常に雄々しく光り輝いている。
 天狗は新聞作りを趣味としている者が多く、文もまたその例外ではない。彼女は幻想郷の女の子たちの騒ぎを追いかけており、その発行部数は自己申告であるから正確な数字は判明していない。
 風に流されるように、あるいは風に舞うように、文は悠然と空を漂う。鴉の濡れ羽色と茶化したくなるような黒髪が、折からの強風にあおられ、彼女の頬を丹念になぞる。
「あぅ……髪の毛、ちょっと伸びてきたかなぁ……」
 無造作になびく髪を払いながら、ゆっくりと高度を下げる。面白そうなネタを見付けたからではなく、今更ながら、お腹が空いていることに気付いたからだ。
 何者も、空腹には勝てないものである。
 くぅ、と可愛らしい腹の虫が鳴り、地に降り立った文は口をもごもごさせながら円を描くようにお腹をさする。袖も短く、スカートの丈も短いが故にお腹の調子が悪くなることも多々あるが、今回は純粋な空腹による体調不良である。
 ぐぅ、と底に響く低音が鳴り、がくりと力なく項垂れる文。はぁ、と深く嘆息し、何か食べ物はないかと辺りを見渡す。が、当然のように草や木や石が生え転がっている他は食われる余地のない場所である。
 少々我慢したところで行動不能に陥るような性分じゃないが、それでも燃料が尽きたまま取材に駆け回るのは流石につらい。天狗と言えど、外身は人の姿をしているのだ。それ相応に中身も似ており、食の喜びもそれなりに通じているつもりでもある。
「あぁ……おなかすきました……」
 愚痴る。
 悩んでも何も始まらない。止まった足を動かさなければ、勝利を勝ち取ることなんてもってのほかだ。文は、その黒瞳に再度光を灯す。
 血色のよいふとももに力を込め、歩きにくいことこの上ない靴で器用に歩き始める。歩くたびに、肩に掛けたカメラ、腰に挿した団扇が揺れ、翻るミニスカートの内側に潜む乙女の秘密が垣間見えそうになる。姿勢もぴんと筋が通っており、Y脚O脚とは全く縁のない稀な美脚である。長年彼女を支え続けてきた脚も、その肌が綻びることなく変わらぬ滑らかさを維持している。
 堅牢だった。
 スレンダーだった。
 幻想郷最速を自負するが故に彼女の体型は細く、余計な箇所が出っ張っていたり引っ込んでいたりしないのである。空気抵抗というものは、思いのほか重要な要素なのである。
 だが、文のおしりはまるい。
「確か、このあたりは……」
 手帖をぱらぱらとめくり、この付近に棲んでいる知り合いを捜す。彼女の白く細い指が指し示したのは、『魔法の森――アリス・マーガトロイド』という段落だった。

 

 

 鬱蒼とした魔法の森の一角に、時代がかった洋館がある。
 さりとて某騒霊楽団のお屋敷よりこじんまりとしているのだが、それでも女性一人が住むには大きすぎる造りとなっている。
 ステンドグラスは見上げる者を圧倒し、象牙色の外壁は第三者の来訪を頑なに拒んでいるかのようだった。だが、雰囲気そのものは排他的であるにしろ、洋館そのものは非常に整っていた。雑草も綺麗に刈り取られ、季節の花々がちらほらと窺える。まるで、此処に住む者の気位を表しているようでもあった。
 古めかしい扉の真ん前に立ち、抜け切った力をどうにかこうにか振り絞りながらこんこんと頼りなくノックする。
「す、すみませーん……」
 二度、三度と繰り返しても返答はない。空々しい懇願が空と森とに染み渡り、文がその傷ひとつない膝小僧を地面に下ろしかけた頃、
「……誰」
 少女のそれとはにわかに信じ難い声が、固く閉ざされたチョコレート色の扉の向こうから聞こえてくる。一瞬、その鈍重な響きに怯んだ文だったが、こくりと唾を飲み込んだ後、
「あの、わたし、文々。新聞のものなんですけどー」
 口ごもりながら、何とか付け入る隙を見付けようとする。
 しばし、沈黙が続く。
 森に棲む獣たちが方々に鳴き喚き、同じ獣の鴉と言えども侵入者が来た侵入者が来たと口うるさく叫びまわっているようにも思えた。
 文が何も言わないのは、お腹が減っているからだ。
 対して、洋館の主が何も語らないのは――
「……しつこいわね……」
 扉が開く。
 封じられた扉の隙間から垣間見えるのは、目に隈を浮かべ、文に負けず劣らず疲弊し切ったアリス・マーガトロイドだった。
 彼女の傍らを飛んでいるのは上海人形か蓬莱人形か、衣装が両者のスタンダードなスタイルと異なるため判別は出来ない。
 人形が元気に飛び回っているのに、それらを操る術者が憔悴していていいのだろうかという思いはあるものの、文もまた周囲を旋回しているしもべの鴉とは対照的に過度の空腹に苛まれているのが現状であるから、あまり偉いことは言えないのだった。
 双方、やや落ち窪んだ目でじろりと向かい合う。
 不気味な光景だった。
「購読の申し込みは済ませたわよ……号外だってんなら、勝手口に置いて帰ってちょうだい……」
 ふあぁ、と大口を開けて欠伸する。もはや馬鹿みたいに開いた口を隠そうという羞恥心も感じられないほど疲労している。重症だなあ、と文は同情したが、切羽詰っているのはアリスだけではない。文もまた、がけっぷちに立たされている者の一人なのである。
 文は、わずかに開かれた扉の隙間に素早く手を差し込み、アリスが怯んだついでに靴も強引に差し込んでおく。脅すつもりはない。が、ここで退いたら負けだと思った。主に、人生にまつわるあれこれの。
「すみませんんぅ……それとは関係ないんですが、緊急に取材しなければならない用件が出来てしまいましてぇ……」
「私に……?」
「はい、あなたにぃ……」
「取材は……アポイントメント、取ってからにして頂けないかしらぁ……?」
「いやいや……」
 双方、共に必死だった。
 邪魔立てするなら排除も厭わない、命を鑢で削りあうような痛ましい応酬は、不意に、何処からか響いた悲鳴によって中座した。

 ――くぅ。

 きょとんと目を丸くするのはアリスばかりで、対する文は、羞恥に頬を染め、じっと目を伏せていた。
「……あなた」
「後生です……後生なんです……」
「わかったわかったから泣くな」
「泣いてません……泣いてなんか……」
 はいはい、とぷるぷる震える文の肩を叩きながら、招かれざる客を家の中に快く招き入れる。哀愁漂う少女らの背中が、悠然と聳え立つ森の孤島に吸い込まれてゆく。
 空気を読めない鴉が鳴き、それに乗じて、森の獣が一斉に哀しみの声を上げた。

 

 

 アリスの家は、魔法使いの霧雨魔理沙と比較すると非常にこざっぱりとしている。魔理沙の家が行き過ぎだと語る者も少なくないが、当の本人は「魔導書はちゃんと纏めてる」と主張している。もしそうだとしても、中には借用したまま返済期限が過ぎている書物も数多く展示しているため、あまり偉ぶったことは言えないだろうという意見が大勢を占める。
 閑話休題。
 居間に通された文は、沈み込んだ身体をふかふかのソファに深く沈み込ませ、訝しげなアリスの視線も厭わずに全身全霊で呆けていた。口も半開きである。年を経ていても外見同様中身は乙女、腹の音を他の誰かに拝まれては、徹底的にやさぐれるより他に術がないのであった。
 たまに、ちくしょーと呟いてみる。
 アリスが鼻で笑っていた。
「失態ね。天狗らしくもない」
「万能だったら、どんなに楽か……はあ」
「天狗なら、物を食べなくてもしばらく生きていけるんじゃない?」
 向かいに座るアリスは、蓬莱人形が用意した紅茶に手を付けている。勿論、文の手元にもカップはあるものの、中身はとうに空っぽだった。
 流石は最速の女、落ち着く暇をも容易に持て余す。
 そのためか、蓬莱人形はケーキ作りに忙しい。
「食事も、心を潤すために必要な所作ですよ。私は、鴉でしたから……食に対する思い入れが、他の天狗より深いということもあるのでしょうけど」
 なるほどねぇ、と同情するようにアリスは言う。
 人生の勝者を体現したような笑みを浮かべる彼女にいくばくかの憤りを感じるけれど、文が施しを受けているという現実は変わらないのだ。
 悔しいが、立場を間違えてはいけない。
 目下のところ、文の生殺与奪権はアリスが握っているのである。
「時に」
 空腹も適度に紛れたところで、文は身を乗り出す。その勢いに気圧され、アリスも若干ソファに背中を預ける。
「自立人形の件、進展はございますか」
 質問を投げかける。
 射命丸文、文々。新聞唯一の編集者として、何時如何なる状況においてもブン屋の顔は忘れない。たとえ空腹に苛まれようと、手下の鴉がどこの馬の骨とも知らぬ鴉と恋に落ちようと、この両の眼が黒いうちは幻想郷に住む少女たちのスクープは見逃すまいと山の神に誓いを立てている。
 どこからか取り出した羽ペンをかざし、すぐにでも手帖にネタを書き込める体勢を整え、文は爛々と瞳を輝かせてアリスの言葉を待った。ついでにケーキも待っていた。待ち侘びていた。
 先程から欠伸を繰り返していたアリスは、答えるのが面倒だと言わんばかりに、今度はやや小さく口を開けて欠伸をこぼした。
「……何、こんな時でも懲りずに取材? 鴉天狗はいつからこんなにワーカホリックになったのかしら。妖怪の山も近代化の時代ね、そのうち河童が幻想郷破壊爆弾作るわよ」
「望むところです」
「望むんかい」
 会話が適度に弾んできたところで、蓬莱人形がケーキを運んでやってきた。待ってましたとばかりに手を叩く文に苦笑しながら、先に文へ持って行くよう指示する。
「わぁ……器用なんですねもぐもぐ、驚きましたもぐもぐ」
「食べるか驚くかどっちかにしなさい」
「もぐもぐ」
「食べるんだ」
 もしゃもしゃと牛が草を咀嚼するような雰囲気でケーキを貪る文を前に、アリスは目を細めながら上海が持って来たケーキを受け取る。
 出されたケーキはどちらもいちごショートだったのだが、既に食べ終えようとしている文の皿からいちごショートの雰囲気を汲み取ることは難しい。とりあえずアリスは、二等辺三角形に切り取られたケーキの先端をフォークできれいに切り分け、その中央をそっと差し込んでゆっくりと口に運ぶ。
「ん……」
「もぐもぐ」
 色気の差が出た。
「……うん、上出来ね」
「おいしいです、すごく。これならお店だって出来ますよ、いやお世辞じゃなくて」
「ふふ、ありがとう」
 素直に謝辞を述べる。
 独り暮らしが長いと、味や見た目に妥協しがちになるものだが、アリスの場合は味と見た目に強い拘りを見せる。人に見られることがないからといって、外見に手を抜くのは怠け者の言い訳である。
 人形師たるもの、みずからが作り出した人形がただ動けばよいと満足してはいられない。外身と中身が釣り合い、人と見紛うほどの能力と品格を持ち合わせ、そして「命」を内包する。人によっては魂、心とも呼ばれるそれを持った人形は、より人に肉薄する。そうなれば、人と人形の境は失せ、アリスは人を生み出す神となるのだ。
「……なんてね」
「むぐ?」
 飛躍する思考に呆れるアリスを見て、文はケーキを啄ばむ手を休める。
「それ私のケーキなんですけど」
「そうですねもぐもぐ、おいしいですもぐもぐ」
「食べるか謝るかどちらかにしなさい」
「もぐもぐ」
「食べるんだ……」
 もぐもぐと、アリスの目を見ながら咀嚼に勤しむ射命丸文に罪悪感などという殊勝な心がけが本当に存在するのかどうか疑問だが、ともあれ怒る気も失せたアリスはどっかりとソファに背中を預けた。
「……上海、蓬莱。ビスケットを用意して」
 途端、文の目がひときわ強く輝き。
 アリスは、飼い犬を手懐ける飼い主の心情を思い、あまり似合わない笑みを浮かべそうになり。

 二階のステンドグラスを打ち破る、けたたましい爆音を聞いた。

 

 

「むぐっ!」
 突然の轟音に文が喉を詰まらせるより早く、アリスは行動を開始していた。お菓子運びに派遣しかけた上海と蓬莱を引き連れ、現場に駆ける。音は東の方角から聞こえた。ガラスの砕け散った音から、相当に厚く大きなガラスだったと推測され、その規模のガラスがある部屋は、人形の安置室しか考えられない。
 ロングスカートでありながら、淑女たる素質を傷つけずあくまで優雅に進む。慌てふためき焦ることと、急ぐことは同義ではない。急がば回れ、急いてはことを仕損じる、直線だけが道ではない、最短距離にはいつも決まって落とし穴が待ち構えているものだ。
 到着する。足音はほぼ皆無だった。
「 set 」
 物音ひとつしない部屋の前に立ち、アリスは上海を右に蓬莱を左に構える。ここから先は人外魔境だ、人ならざるアリスが言うのもなんだが、何が待っていてもおかしくはない。まあ、おおむね、こういう登場の仕方をする者など数えるほどしかいないのだが、それはそれだ。
 扉を開く。
「そこまで」
 目を合わせるが早いか、アリスは安置室に置いてある全ての人形を起動する。傍観者であったならば、作り物であるはずの人形の瞳が確かに輝く異様を見ることが出来ただろう。そしてその視線に囲まれ、床に落ちた八卦炉を拾い上げようとした影が、地面に縫い付けられる瞬間を見ることも。
「ガラスの修繕費は、あなたの家にある魔導書五冊で勘弁してあげるわ」
「業突く張りー」
「良心的な方よ、これでも」
 口の端を上げ、金の髪を乱した少女と向き合う。
 片手にホウキを携え、散らばったガラスを掃除するかと思いきや、霧雨魔理沙はそれを当たり前のように肩に担ぐ。彼女にとって、ホウキは掃除をするための道具ではないのだ。
 魔法使いにとって、ホウキが掃除をするための道具ではないように。
「ま、いいとしよう。怪我も無かったことだし」
「私には、あなたが何故そんなに偉そうなのかわからないんだけど」
「ガラスがあると突っ込みたくなるのが人間だぜ」
「カラスでしょ」
 一蹴する。
「カラスと聞いて」
「あ、鴉だ」
 口の端に生クリームを付けたまま、射命丸文が颯爽と登場する。アリスが指摘するより早くクリームを拭うあたり、狙ってやっている気がしないでもない。
 包囲網はほぼ完璧である。魔理沙はみずからが突っ込んできたガラスを仰ぎ、それから周囲を取り囲む人形の群れを一瞥する。
 瞳、首、四肢が欠けているもの、大きすぎるもの、小さすぎるもの、人に似すぎているもの、人ではありえないもの、藁人形、泥人形、厄紙、式紙、おおよそ人の形をなしているものが勢揃いしている。それら全てが、魔理沙の方を向いている。
 不気味だった。背筋が凍るのを感じる。
「だが」
 魔理沙は即座に八卦炉を引っ掴み、アリスに向かって一直線に駆け出す。
 お互いに視線は逸らさず、アリスの指と魔理沙の指だけが動く。

「 restart 」

 紡ぐ。
 アリスの呪言はその場にある人形を覚醒させ、呪いじみた叫びと共に醜悪な弾丸を放出する。上海は槍を、蓬莱は剣を構え、ホウキを突き出す魔理沙に対する。
 しかし。

「命短し翔けろよ彗星! 『ブレイジングスター』!」

 咆える。  瞬く間に輝きを放ち始めた魔理沙は、ホウキに跨ったかと思うと弾丸と凶刃を弾きながらアリスめがけて一直線に突き進む。結局はどちらが速いかという刹那の判断になり、この場はアリスがその判断を過ったようにも見えた。
 事実、魔理沙はアリスに肉薄し、しかしその寸前で軌道を変える。魔理沙の狙いはアリスの撃退にあらず、目標は別にあった。
 傍らを行き過ぎる極光に目を細め、アリスは囁く。
「お願い」
 視線の先には、廊下を突き進まんとする魔理沙の背中と。
 唇に葉団扇を添えて微笑む、射命丸文が立っている。
「げげっ」
「うふふ」
 空気の軋む音が聞こえる。

「おいでませ 猿田彦」

 風鳴りと共に、天狗が翔ける。

 

 

 彗星が風と重なる時、担い手たる魔理沙は反射的に彗星の衣を脱いでいた。衝撃波を完全に解き、ただ迫り来る暴風にのみ身を預ける。
 お互いに高速で突っ込めば、どちらか、あるいは両方ともが戦闘不能に近い状態に陥る。だが、片方が運動エネルギーを殺せば、その分だけ衝撃は弱まる。単純な法則だった。
 彗星は箒星という。
 その名に則り、魔理沙はホウキを構え揚力を引きずり出し、天井に激突し、床を転げ回りながらも射命丸文との正面衝突を回避した。
「――――ッぷはぁ!」
 同時に、魔理沙は第二の目標に走り出す。
 勢いよく飛翔した文は急に停止することもままならず、アリスがいる位置を過ぎたあたりでようやくその速度を殺し切った。
 既に魔理沙は影も形もない。
「あややや……」
 大見得を切っておきながらこの体たらく。文は肩を落とした。だがアリスは愕然としている余裕もなしに、魔理沙が向かっているであろう部屋に駆け出した。
「わかるんですか?」
 その背中にぴたりと着け、文は脇目も振らずに疾走するアリスに問う。
「あいつが人形なんて掻っ攫うはずないわ。標的は限られてる、マジックアイテム、アーティファクト……残念ながら、魔法使いだけあって、ウチはその手の宝庫なのよね」
 嘆息する。絶望はしてもいられない。
 廊下を何回か曲がり、西側の部屋に辿り着く。閉めることも忘れて物色を始めている物音を聞き、アリスにしては珍しく足音もやかましくその部屋の中に飛び込んで行った。
「魔理沙ッ!」
「お。お見送りご苦労」
「それを返しなさい! 命令よ!」
「残念だが、私は式でも人形でもないんだな。どこにでもいる、普通の人間だぜ」
 ウィンクする魔理沙と対照的に、アリスは忌々しげに舌打ちする。
 開け放たれた窓の縁に足を掛け、魔理沙は数冊の本を大事そうに抱えている。ただの魔導書ならばアリスがこれほど激昂することもない。部屋があまり荒らされていないことから察するに、それらの本はわかりやすい場所に置いてあったのだろう。
「えーと、なになに……」
「読むなー!」
「6月22日 雨がじとじと お肌がべたべたして気持ちわるい」
 ぎゃー! とアリスが顔を真っ赤にして上海を投擲する。投げられた上海は愚痴ることなくまっすぐに魔理沙を目指し、握り締めた刃をもってして魔理沙の喉元を狙う。
 が、魔理沙はホウキを振り回して上海を簡単に撃退する。もとよりパニックを起こしかけているアリスのこと、狙いがいまいち定まっていない。
 魔理沙は意地悪く微笑む。
「照れるな照れるな。日記は読まれるためにこそある」
「その許可は私が出すわ! 返せ!」
「やーだもーん」
 あっかんべー、と舌を出し、魔理沙は窓から飛び降りる。アリスが窓枠に近寄ると、直後、魔法使いの少女が垂直に上昇していくさまを確認する。
 すれ違いざま、魔理沙は余裕たっぷりにピースサインをアリスに向けていた。
「あ……」
 空高く、魔理沙の姿は徐々に遠ざかる。
 幻想郷最速を自称する少女のこと、アリスの飛行速度では追いつくこともままならない。ましてや、弾幕戦の果てにあの日記を取り返すことなど、意気消沈したアリスに出来るかどうか。
 愕然とする。
 そして膝を突きそうになったアリスの背中を、一迅の風が押す。
 振り返り、アリスは風の在り処を見定める。
「幸いにも、私は天狗なのでね」
 葉団扇は下唇に、淫靡な笑みは密かに隠す。
「ご安心を。一宿一飯の恩義には報いますよ」
 構えるより早く、文は幻想郷の風をその身に纏う。
「……一宿一飯って、泊まるの?」
 念のため、アリスは尋ねる。
「ま、歓迎会の準備でもしといてください」
 文は、可愛らしいウィンクをその答えとした。
 再び、前方に向き直る。その視線の先には、今や米粒程度にしか見えぬ魔法使いの影。
「――――良い度胸ね。私を知らず、世界の最速を名乗るなど」
 風が揺れる。
 穏やかな呟きは風に舞い上がり、空気が罅割れる音と共に、射命丸文は外の世界に躍り出た。

 

 

 アリスの家から魔理沙の家まで、魔理沙が全力で飛行すればものの一分とかからずに到達できる。だが、あまりに天気がよすぎるのと、適度に感じる風が気持ちよかったから、追っ手を振り切るために全速前進を心がけることはなかった。
 アリスは基本的に無理をしない。故に、魔導書や日記を奪われても、魔理沙相手なら追っては来ないはずだ。魔理沙はそれを知っている。
 無論、今日に限り、アリスの家に文がいることも。
「来たな」
 風の音が変わる。振り返らずとも、後ろから何者かが追って来るのがわかる。ホウキを握り閉める力を強め、魔理沙は三角帽を目深に被り直した。
「伊達に最速を名乗っていたわけじゃないさ――宙を翔ける彗星の速度を、鴉にも教えてやるよ!」
 振り向かず、ただただ速く翔けることのみを追求する。風の音が耳をつんざく。青々とした風景は瞬く間に意味を持たない直線へと転じ、視覚、聴覚が役に立たなくなる。
 今は肌に感じる空気の壁が全て、いずれ生身の身体にてその壁を突破することがあるならば、たとえ何人たりとも寄せ付けぬその壁に負けて朽ち果てたとて、何を悔いることがあるだろう。
 呼吸することさえ満足に出来ない抵抗の中、魔理沙の傍らに、黒髪の少女が不意に姿を現す。
「待ちくたびれたぜ」
 口を開いても、言葉が伝わっているかどうかは怪しい。ただ、文が意味深げに微笑んだところからするに、口の動きと魔理沙の表情から、何を言いたいのかはおおよそ伝わっているらしい。
 安心した。
「彗星に挑むか。それもいいだろう」
「頼まれずとも、風はただそこに在るものよ。――残念ね。墜落する者がまたひとり、不名誉な名を刻む」
「あーん? 聞こえんなあ、風がごちゃごちゃうるさいんだ」
 文は相好を崩す。好敵手と向かい合えた愉悦、皮肉を口走る者への嘲笑、あるいは、ただ何となく魔理沙の表情が面白いからかもしれない。
 号砲は既に撃たれた。
 風に羽ばたく黒髪と、魔法使いの黒装束。漆黒の羽がひときわ大きく揺らぎ、ホウキの柄が激しく軋む。
 霧雨魔理沙と射命丸文、そのどちらが前に出たかなど、当事者にも、傍観者にも知りえないことだ。ふたりとも、隣など全く見ていない。遅れているものは前を見ればみずからの敗北を知る。だから前だけを見ていればいい。相手の背中が彼女たちのゴールだ。今はゴールの影すら見えないままに、己の限りを尽くすのみである。
 風が、彗星が、幻想郷を真一文字に切り裂いていく。
 いずこかで、何も知らない鴉が鳴いた。

 

 

 勝負の果てに何かを願うことがあるのなら、唯一達成感と呼べるものだけなのだろう。
 吹きすさぶ風は凶器となって魔理沙に襲いかかり、ひとたびホウキを握る手を緩めれば瞬く間に墜落する。樹木や家屋に激突しない程度には高い位置を飛び、鳥も今は魔理沙の下を飛んでいる。当たり前だ、彗星はあの宙から落ちてくるのだ。身を裂き、息が詰まるほどの高さにいても尚、平然と飛んでいなければ間違っている。
「――――ふッ」
 小さく息を吐く。緊張しているのか、肩が少し強張っている。視線の先を睨み続けても人の形は見えやしない。真横にいるのか真後ろにいるのか、はたまた上か下を飛んでいるのか。天狗の姿は見当たらない。
 安堵か躊躇か落胆か、その全てが混ざったような吐息が、結びかけた唇の隙間からこぼれる。
「何処にいる……?」

 魔理沙さん。

 ふっ、と、耳たぶに直接囁かれる。
「きゃっ……!?」
 危うくバランスを崩しそうになり、すんでのところで持ち直す。
 声の主はやはり射命丸文で、あろうことか魔理沙の肩に手を置いたまま、平然と話を続けている。魔理沙にも意地があるものだから、飛行速度は決して緩めない。
「おや、随分と可愛い悲鳴で」
「ばか、おまえなあ……!」
 恥ずかしいのは、茶化されたことか不意を突かれたことか。二秒ほど考えて、しかし、天狗相手に先んじていたつもりなっていた己の驕りこそが恥ずかしかったのだと悟る。
 そうだ、自分はたかが人間だ。
 それでも、この身には賭けるに値するものがある。
 魔理沙は、唇を引き結ぶ。
「ひとつ、提案があります」
「なんだよ、聞くだけ聞いといてやる」
 一言喋るだけでも体力を使う魔理沙と違い、文はいとも簡単に言葉を紡ぐ。器か、魂か、あるいは心が異なるのか。だとすれば、ただの人間が彼女たちに敵う道理があるのだろうか。
 唇を噛む。
「ただ速さを競うというのも味気ないものがありますから、弾幕も有効ということにしませんか。このまま行っても、どうせ私が勝ちますし」
「ほほう、カチンと来る物の言い方だな」
「ええ、その方が燃えるでしょうから」
「余計なお世話だ」
 言いながら、ポケットの中に手を突っ込む。ミニ八卦炉の硬質な手触りは、魔理沙を安らかな気分にしてくれる。長年、魔法と共に在り続けた魔理沙の人生を、このマジックアイテムは体現しているのだ。
 そして、この左手に握り締めているホウキもまた。
「障害物レースってことだな。ただし、ゴールは決まっていない」
「あるとすれば、それはどちらかが落ちたとき」
 速度は落とさず、ふたりは身を離す。
 あくまでレースは続行中、そこに弾幕が組み込まれるかどうかの差でしかない。いつもどおりと言えば確かにそうだと言えるし、どこか違うと言うのなら、それもまた頷ける話だろう。
 終わりのないレースに、ひとつの目標が出来た。
 鴉天狗。射命丸文。
 人ならざる妖の身に、ただの人が敵う道理はあるだろうか。魔理沙はやれやれと首を振る。陰気なことを考えるようになったものだ、出来るか否か、勝てるか否かじゃない、目の前に壁があるのなら、壊すにしても越えるにしても、いずれにしても動かなければ始まらない。
 魔理沙は、心底おかしそうに笑う。
「まったく。わたしってやつは、とことん気が触れてやがる」
 自嘲するような笑い声はしかし、どこかしら歓喜に溢れていた。その正体を知ってか知らずか、文は先んじて宣戦布告の弾幕を放つ。
 そのことごとくを回避し、魔理沙は錐揉みしながら文に突っ込んでいく。勢いは殺さず、文もまた速度を減じてはいないから、正面衝突すれば必ずどちらかが墜落する定めだ。
 けれど、魔理沙は恐れずに突貫する。
 文は目を見開く。
「正気ですか」
 言いながら、葉団扇を振り上げる。
 その天狗の鼻を折るように、やや速度が落ちた文の前を、掠めるように、嘲るように駆け抜けていく。
 振り返ると、ぽかーんと気の抜けた顔をしている文が見える。してやったりと笑いをこらえ、背中から襲い来るであろう弾幕を、旋回しながら回避する。
「正気だよ。残念ながら」
 呟き、右の手のひらを文にかざす。八卦炉は起動しているが、今はまだ使うべき時じゃない。機は必ず来る。そのために弓は引き絞っておくべきだが、弦を離す瞬間は見極めねばならない。
 星の弾幕が空に咲き、風に舞い、漂いながら天狗を包む。
「願いよ叶え。『ミルキーウェイ』」
 高密度の星屑の中に、一羽の大きな鴉が飲み込まれる。
 文は、この川を越えて来るだろう。魔理沙は構え、文が出現するであろう位置に先回りしようと試みる。が、あまりに多くの弾を生み出したせいで、どこに文がいるのか、どちらの方角から現れるのか全く見当もつかない。動き続けなければ狙い撃ちされるのはどちらも同じで、あえていうなら止まることは魔理沙の矜持が許さない。
 勝つためだけの戦いなら、手段は選ぶまい。だが、これはそんなもののための戦いではないのだ。
 魔理沙は息を吸い込み、ふと青く晴れた空を見上げる。
「――――上か?」

 下です。

 律儀な声は風の戦慄きと共に急上昇し、身をかばうように押し出された魔理沙のホウキを、至極あっさりとまっぷたつに叩き折っていた。
「あ」
 見えなかった。
 文がどこにいて、何をして、どこに行ったのか。何も見えず、視界に捉えることもままならなかった。動体視力にも限界がある。その限界を遥かに越えた先に天狗がいるのなら、一体、今の自分に打つ手などあるのか。
 絶望している余裕はない。
「……落ちる?」
 尋ねたのは、握り締めていたホウキの柄だった。
 落ちていく。
 ホウキもまた魔力を通せる媒体であるから、ひとつのマジックアイテムといえる。それをもって魔力を蓄積、増幅させ、生身では不可能なほどの飛行速度を叩き出した。
 けれども、その状態のまま空に投げ出されれば、魔理沙だけの魔力では慣性を殺し切れない。
「まずったなあ」
 頬に感じる風は、平行から垂直に転じた。
 遠く、見下ろすように文が上空を旋回している。助けましょうかと言っているように見えたものだから、魔理沙は遠慮なく舌を出しておいた。
 魔法使いは、この程度では諦めない。
 魔法という、究極に至る道を求むる者たちなら、この程度の危機など鼻歌を歌いながら乗り越えられなければならない。そうでなければ、魔法使いなどやっていられない。
 越えられなければ面白くない。
 越えていくことを面白いと思えないのなら、生きる意味がないと思っているから。
「頼むぜ。相棒」
 幸い、右にも左にも、ホウキの残骸は残されている。
 落ちていきながら、帽子に結んだリボンを解いて、壊れたホウキを結び直す。曲がりなりにもきつく縛ったとは言えないけれど、これでも魔法の媒体だ、多少の道理など越えていける。
 地面が近くなる。
 風の音が変わり、空が遠ざかり、走馬灯が駆け巡ってもおかしくない危機に瀕していると知る。人生経験として走馬灯を見るのも面白そうだったが、幸い、魔理沙にもまだやることがあった。
 結んだホウキに両脚を乗せて、静かに、ゆっくりと、魔力を通す。
「良い子だ」
 そっと、母親のような笑みを浮かべて。

 森の中から、巨大な土煙が上がった。

 

 

 

 射命丸文は腕組みをしたまま、霧雨魔理沙が落ちた場所を見下ろしている。いまだに晴れることのない土煙は、落下速度と衝撃の強さを物語っている。
「ふむ」
 助けに入るのが遅すぎた。けれども魔理沙が落下の最中に舌を出したのは、如何なる窮地にあっても奇跡の大逆転を狙っているからだと思ったのだ。それこそが、幻想郷の誰よりも人間らしい魔理沙の姿だと思ったから、あえて手は差し伸べなかった。
 風は常に心地よい。
 ひとつ、黒い羽を大きく羽ばたかせ、若干高度を上げる。
 土煙は、間もなく晴れるだろう。

「待たせたな」

 飛翔。
 下から上へ、文の前髪を切り取るように、何者かが天に向かって駆け上がっていく。
 文に確認できたのは、その影、その声が霧雨魔理沙のものである、ということくらいだった。それ以外はあまりに速く、先程の速度に慣れた文の目には、完全に捉え切れなかった。
 大地から立ち昇っていた土煙は、急上昇する魔理沙の勢いに吹き飛ばされ、見る影もなく消え失せている。
 文よりも高く飛躍し、天空に君臨する太陽の輪郭を奪い去った、霧雨魔理沙の勇姿を文は目撃した。
 それこそ、シャッターを押さずにはいられなかったくらいには。
「……イルカだ」
 ぽつりと、文は呟く。
 フレームに収められた魔理沙は、大空を優雅に泳ぐイルカに違いなかった。ホウキに跨って飛んでいた頃と比べても、今の方がより曲線的である。
 まっぷたつに折れたホウキをリボンで結び、それを足場とする。魔理沙のホウキは、折れてさえも魔法の受け皿としての機能を失ってはいなかった。溜め込んだ魔力はそのままに、今度はより爆発力のある形態で。
 太く短く。
 霧雨魔理沙の、魔法使いとしての生き様をなぞるような、空飛ぶホウキの第二形態。
 簡単な言い方をするなら、それは空を泳ぐサーフボードだった。
「よっ、と――!」
 ボードの縁を片手で掴み、魔理沙は太陽を背にくるりと円を描いてみせる。絶妙なボディバランスでもって、魔理沙はサーフボードを意のままに操る。まだ慣れていないところもあり、たまに体勢を崩すこともあるのだが、文を見下ろし、自慢げに鼻の頭を擦ってみせるその仕草は、もはや敗者の表情ではなかった。
 それでこそ、霧雨魔理沙だ。
「面白いものに乗っていますね」
「期せずして、だな。お前のせいだと言っても過言じゃないから、今度、後ろに乗せてやってもいい」
「申し訳ありませんが、私は生まれながらのこの黒々とした羽が好きなものでして」
「そうか、それは残念だな。かくいう私は、天狗の羽っていうものを体験してみたくもある」
「百年くらい修行すれば羽くらい生えますよ。きっと」
 そうかなあ、と訝しげに首を傾げる。
 この飛行形態ならば魔理沙も両手を使えるから、弾幕戦には適している。サーフボードは魔理沙の靴にぴったりとくっついて、足首を切り落としでもしない限りはボードから足が離れてるということはない。
 跳び続けることを止めた鴉と魔法使いは、しばし向かい合い、計ったように手をかざした。
 再開の合図は、それだけで済んだ。

「有為転変より有象無象へ鮮烈なる閃光を放て!
 ――『ノンディレクショナルレーザー』!」
「我は高天原から葦原中国を天照らす神。
 ――『サルタクロス』」

 同時、ふたりの姿は掻き消える。
 撃てば動く。動きながら撃つの精神に則り、ホウキからサーフボードに切り替えてもそれは変わらず、ただ若干、お互いの本気度が増した程度の戦いは続く。
 魔理沙は風のトンネルを潜り、文は縦横無尽に旋回する幾筋もの光線をジグザグに回避していく。言葉を交わす余裕は無く、視線を交える隙もない。それでも、この風が、この息遣いが、何よりも雄弁に、この戦いの意味を教えてくれる。
「喰らえッ! 『マスター……!」
「喰らいません」
 文は、突き出されたミニ八卦炉の射出口を掴み、魔理沙の手首をねじる。痛みと共によじれる魔理沙の身体に追い討ちをかけるように、空いた手のひらで葉団扇を広げる。
「させるかあッ!」
 魔理沙は咄嗟にボードで葉団扇を弾き、文が煩悶しているうちに文から距離を取る。負け惜しみぽく振りかざされた葉団扇から、樹齢百年の大樹さえ仰け反らせるほどの風が生まれた。だがその風は、かえって魔理沙の動きを速め、魔理沙自身をも楽しませる結果となった。
「楽しそうね……」
 何故だが、ボードを押さえながらぐるぐると楽しそうに吹き飛んでいく魔理沙を見て、悔しさがこみあげてくる。
 背中に生えた羽をわななかせ、この果てしもない空を泳ぐ魔理沙を追う。空に生きる者として、陸の者に遅れを取るわけにはいかない。それは他愛もない矜持であり、誰にも譲れない信念であった。
 少し、唇を噛む。
「いいでしょう」
 覚悟を決める。
 口の端にこぼれた笑みを何とするか、手加減してあげると言った頃よりも、タガを外してもいいと思えるようになったことの喜びか、それとも嘆きか。
 射命丸文。鴉天狗。
 今日もまた幻想郷のどこかにいるはずの鬼を真似て、指の関節に力を込め、骨を鳴らす。
「私も、楽しむことにするわ」
 拘りを捨て、人だの天狗だの、鴉だの妖だのという隔たりを忘れ、ただ、速さのみ、強さのみを競う。
 その一心をもって、この戦いに挑む。
 唯一、その誓いを胸に抱き、射命丸文は風に身を躍らせた。

 

 

 戦闘は加速する。
 ホウキの扱いにも慣れ、実戦の感覚を取り戻したふたりの頭に、手加減という概念は存在しなかった。
 魔理沙の軌道は、ホウキ一本に頼っていた頃よりもずっと曲線的になり、それだけ動きの予測が難しい。一方、文の軌道はもとより自由自在だから、動きの幅は魔理沙の比ではない。弾幕そのものが見当違いの方向に飛んでいることもままあり、そのたびに魔理沙は背後に気を配らねばならない。
 やはり、認めざるを得ないようだ。
 敵は、曲がりなりにも最速を謳う妖なのだと。
「は、逃げ回ってばかりじゃ、本当に欲しいものは手に入らないぜ!」
「本当に欲しいものなんてのは、実際、手の届く範囲にあるものなんですよ。そう、たとえば――!」
 文が言葉を紡いだ直後、それを言い切る前に加速する。ぐんぐん迫ってくる文の影に、魔理沙は焦りを覚えながらも更なる加速を試みる。
「ついてくんな!」
「私が行く方向に貴方がいるだけじゃない」
「小癪なー!」
 それでも、文は苦もなくその後ろにぴたりとついてくる。旋回、急カーブ、急制動も何のその、空に描かれた形のない飛行機雲をなぞるように、魔理沙と文の鬼ごっこは続く。
 右に左に、風に泳がされる凧のような不安定さで、それでも決して速度は緩めない。回転する視界は、気持ち悪さより爽快さが勝っている。逆さまの大地、裏返る青、地平線は空と地を裂き、稜線は空に突き立てられた犬歯のようで。風は波となり、耳をつんざく轟音も、聞いたことのない波音だと思えば新鮮である。
 逃げている感覚も追われている焦燥もない。
 他者を振り切ることの優越感よりも、世界の裏を覗き見れたことに対する恍惚の方が、ずっと強い。
「ずるいな」
 呟く。
「いつも、こんな世界を見てたなんて」
 向かい風に消えた言葉を、文が聞いていたかどうかはわからない。それでも、魔理沙の背中にぴたりと付けている天狗の存在は知れる。だから、少しだけ悔しかった。いつも、こんな世界を見ているのなら、少しくらいは教えてくれてもよかったのに。
 それが人と妖の違いと言うのなら。
 人には到達出来ない境地だと思っていたのなら、それは間違いだ。
 霧雨魔理沙は、今それに達したのだから。
「行くぜ!」
 魔理沙はギアを上げる。
 文は難なくそれについてくる。
「きりがないな、そろそろ終わりにしないか!」
「そうしたいのは山々なんですが、ひとまず人形師の日記を奪還しないことには」
「……あー、そんなこともあったな」
 うんうん、と懐かしそうに頷く。
「忘れてましたね」
「失敬な。ちゃんと思い出したぞ」
 懐をまさぐり、日記があることを確認する。
 そのわずかな隙を突き、文は葉団扇を振る。至近距離から放たれた衝撃波が魔理沙を襲い、一瞬、保ち続けていたバランスを崩す。
「お、おぉ!?」
 風にも煽られ、つんのめる。
 ここぞとばかりに、文は魔理沙の真横に迫り寄り、魔理沙の懐に手を伸ばす。
「あ、おま、それ禁止だぞ禁止! きゃ、いやッ、やめろって言ってんだろばかー!」
「まあまあ」
「まあまあじゃねー!!」
 バランスを取るのに精一杯な魔理沙をよそに、文はせっせと魔理沙の上着の内側をまさぐる。服の中をまさぐられている魔理沙は、恥ずかしいやらくすぐったいやらで、体勢を立て直すこともままならない。特に、文の手の動きが特別いやらしいということもないのだが、傍から見れば青空の下で不埒な行為に及んでいると捉えられてもおかしくはない。
 だからこそ、アリスの日記が二冊ほど取り出された時点で、魔理沙の我慢も限界に達した。
「ふむ、残りはあと一冊」
 かな、と続けようとした文の眼前に、有効範囲など全く考えていないミニ八卦炉があった。
 近い。近すぎる。
「ま」
「魅力的なマスタースパーク!」
 どこがだ、と突っ込む余裕もない。
 文は即座に空域を離脱、直後、それなりの太さを備えたエネルギー砲がぶちかまされる。
 横目で魔理沙を確認すると、如何にもそれっぽく見えるエネルギー砲は、魔理沙の素手から放たれていることに気付く。
 同時に、ミニ八卦炉の射出口が、文のいる方を向いていることにも。
 ――あれは、マスタースパークじゃない。
 本命は。
「し」

「マスタースパーク!!」

 まった、という時間もなかった。
 二連撃。
 白光は瞬く間に空を埋め尽くし、響いたはずの鴉の悲鳴をも空の彼方に消し飛ばした。

 

 

 服を乱し、息を荒げる少女がいる。
 二発、マスタースパーク級の魔力を放出し、魔理沙が消耗したエネルギーはかなりのものだった。
「はぁ、は……んッ、あんにゃろう……変なとこばっかさわんなよ、たく……」
 愚痴は尽きない。
 ミニ八卦炉を掴んだまま、周囲の警戒は怠らない。止まっていれば良い的だが、動き続けていれば、衝突したときの衝撃は大きくなる。それに、一度呼吸は整えておきたかった。
 まだ、相手のターンは終わっていない。
 必ず、切り返しの一撃が来る。
「何処から来る――?」
 動く。
 右に左に、相手の狙いを逸らす不安定さで、上下左右前方後方への意識を集中する。視野を広げ、固定観念を捨て、バイアスを排し、常識を忘れる。
 前は下から来た。あの時、魔理沙は空を仰いでいた。今、魔理沙がいる空よりも更に高い、天人が住まうという遥かなる天の頂を。
 魔理沙は、その動きを止め、瞳を閉じる。
「 set 」
 少女は瞳を閉じ、厳かに呟き、ミニ八卦炉を地に、人差し指を天に突き立てた。
 しばし、風が止まる。

 

 

 雲の上は空気が薄い。
 音速が遅いと呟いたのは誰なのか、少し考えて、文は眼下の雲を見下ろした。
 腕組みをしたまま睨みつける地面は遠く、今は白雲の白しか目に入らない。
 強風は文の艶やかな黒髪を揺らし、呟く言葉も、淑やかで、強かな笑みの輪郭すら歪ませる。
 だが、今はそれさえも心地よい。
「射命丸文」
 宣言する。
「参ります」

『 無双風神 』

 

 

 嵐の前の静けさ、その只中にあっても、魔理沙は微動だにせず、ただじっと機を待っていた。
 射命丸文は必ず来る、と。
 敵でありながら、そうするであろうと確信している。信頼と言い換えてもよい。相手の心理を読み、行動を先回りし、然る後に迎撃する。
 そういうものだろう、と魔理沙は思う。
「……5、4」
 雲が割れる。
 天空から突き下ろされた神速の剣は、音より速く、視認より早く魔理沙を貫くだろう。
 だからこそ、接触の瞬間を見極めなければならない。
 空に突き立てた指は何のためにある。
 大地に差し向けた武器は何の意味を持つ。
「3、2」
 カウントダウンは終わりを告げる。
 わざわざ地面を見下ろさなくても、薙ぎ倒された樹木の残骸は、魔理沙が不時着した地点は此処であるとを教えてくれる。
 ふらふらと移動していた魔理沙が、此処に辿り着いた理由は。
 不時着してから急上昇するまで、不自然に時間がかかっていた訳は。
「1」
 空から風が落ちて来る。
 指をへし折られそうな衝撃が魔理沙を襲う。
 だが、明朗快活な屈託のない笑みを浮かべて、霧雨魔理沙は空に構えた引き金を引いた。
「0!」
 ミニ八卦炉から放たれた閃光は、予め設置された地面の魔法陣に直撃、起動に必要な魔力を獲得し、自動的に、組み込まれていた魔法を発動する。
 そして、風の刃と化した射命丸文が来る。
 宣言はほぼ同着、起動も、発動も、おそらくは、笑みを浮かべた瞬間すら。
 叫ぶ。

「ふぁいあー!!」

『アースライトレイ』
 大地から天空を貫く無数の光線が、絶えることなく魔理沙の周囲から放たれ続ける。魔法の要塞と化した魔理沙の空域を突破するのは容易でなく、文でさえ潜り抜けることに躊躇いを覚えた。
 が、それは束の間に武者震いの類だと悟る。
 再起動。
「まだまだー!」
 閃光は自動的に大地から供給され、魔理沙への接近を頑なに拒絶する。
 しかし文はその間隙を縫い、存在の一片さえ漂わせぬほどの速さでもって、魔理沙への接触を試みる。
 魔理沙は大地の魔法陣にもう一度魔力を与え、更に短い間隔で光線を打ち上げるよう差し向ける。文が通った軌道には弾丸の跡が残り、その足跡を辿れば彼女が徐々に魔理沙に近付いていることがわかる。
 暴風は魔理沙を取り囲み、さながら竜巻の中心にぽつんと取り残されているような雰囲気を醸し出している。吹き飛ばされそうな帽子を目深に被り、視界は当てに出来ないから、直感を頼りに星の弾をばらまく。
 風が、魔理沙を笑っているようだ。
 何者も、風を箱に収めることは出来ないというのに。
「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるってか……!」
 自嘲する。
 いまだ、文の姿は確認できない。ただ、風の渦と、音の波が轟然と押し寄せるのみである。
 地面から放たれる閃光も、そろそろ魔力が尽きようとしている。早急に補充が必要なのだが、ここで隙を見せるのは危険すぎる。文は、姿を現さないだけで、間近に迫っているかもしれないのだ。
 歯噛みする。
 大地に向けていたミニ八卦炉を、胸の前に掻き抱く。
 静かに、口喧しい風の音を聞き、瞑想する。
「――――――、ッ」
 袖を掠め、裾を破る弾丸の衝撃に身悶えながら、決して動こうとはしない。吹きすさぶ風にその身を投げ出されそうになりながら、絶対にみずから崩れ落ちることはしない。
 倒そうと思えば、今の文ならば簡単に魔理沙を撃破できるはずだ。だが、そうはしないだろうと魔理沙は考える。何故か。実に単純な話で、そうすることが面白くないからだ。
 力を尽くすことで、戦いはその輝きを増す。
 戦いの最中にふと笑みを浮かべてしまうのも、より速く、より先んじ、より強く在ろうとする両者の意志が、掛け合わさって生まれる感情なのかもしれない。
 だといいな、と魔理沙は思う。
「来い」
 まぶたを開ける。
 魔法陣は力を失い、天を貫く剣は力を持たない。
 ここにはただ強い風だけが舞い、力のない人間は、振り落とされるしか立ち去る術を持たない。
 だが、そんなのは御免だ。
 ミニ八卦炉を右手にかざし、仁王立ちのまま待ち構える。当ててくれと言わんばかりの状況だが、文なら、必ずこの茶番に乗ってくる。
 面白いことを求めているなら。
 動かない的に矢を射て何になる。
 的は動くから楽しいんじゃないか。
 動く的ならここにあるだろう。
 さあ。
「3、2」
 カウントダウンが終わりを告げる。
 これに乗らなきゃ幻想郷の住民じゃない。
 お祭り騒ぎが大好きな妖たちを煽り立てるには、うってつけの宣言である。
 これを逃せば後は無し。
 難しい話は無しにしよう、これでおしまい、続きは無し。
 そうだと思えば、今に全てを賭けられるだろう。
 さあ。
「1」

 0。

 

 

 

 風がその形を成す。
 射命丸文の姿が揺れ、須臾の間に掻き消える。
 その幻に頼らず、魔理沙は小さく息を吸う。
 一瞬が引き伸ばされる。
 川を流れる走馬灯の列を眺めているように、魂のへその緒に繋がったまま、足元の自分を見下ろしているように。
 死と肉薄する瞬間だとしても、それから目を逸らすことは出来なかった。
 ……風が葬列を組んでいる。魔法使いの収められた棺を背負い、風に朽ちた躯を哀れんでいる。
 苦笑する。
 今際の際に、よくそんな幻を見る余裕があるものだ。
「――」
 息を止める。

 射命丸文は、目と鼻の先に居た。

 たとえでなく、お互いの鼻がうっすらと触れている。
 その程度の距離感。
 ふと、息を吐くことが怖くなった。
 右手が震える。
 何故、自分が文の胸にミニ八卦炉を突きつけているのか。
 文の挙動さえ窺えなかったのに、魔理沙は自動的に文の存在を知覚、右手を差し出した。
 文の手がこめかみに触れていることは知っている。だからどちらかが動き出せばどちらかが終わる。この短い戦いも終わる。
「ッ!」
 身をよじる。文の手が振り切られ、風が蠢く。
 短く切られた爪が頬を撫で、その向こう側に、驚愕に揺れる文の素顔がある。
 捉えた。
 右手は中心軸、半回転しても照準は文に合っている。狙いは適当、出力はありったけ、そして全てを終わらせる意志が背中を押す。
 魔砲。

『ファイナルマスタースパーク』

 

 

 

 

 ぷすん。

 

 ミニ八卦炉は、気の抜けた音を出して空転した。
「……」
 きゅるるると徐々に勢いを失い、最後には射出口に灯っていた光さえ消えてしまった。煙を吐かないだけマシな方だが、あんまりといえばあんまりな結末だった。
「不発……だと?」
 あまりの事態に、魔理沙も文も動きを止める。魔理沙に至っては頭を八時の方向に傾けたまま、ミニ八卦炉の表面を撫でたり叩いたり魔力を込めたりなどしている。
 本来ならば、確実に終わっていたはずなのだ。
 マスタースパークが射命丸文を吹き飛ばし、凱歌は高らかに霧雨魔理沙の唇から紡ぎだされる。魔理沙も、文も、それを疑わなかった。
 魔力は通っていた。ミニ八卦炉の故障も考えられるが、それよりも、起動システムが強制的にダウンさせられたような感がある。
 システムへのハッキング。そしてシャットダウン。
 だが、ミニ八卦炉を止めれば行き場を失った魔力が暴発し、戦いの場が凄絶な有様になることは明白である。今回は、魔理沙が自発的に魔力の供給を止め、意識的にミニ八卦炉を停止させたのだ。
 魔理沙自身が、しかし魔理沙が意識することなく。
 さながら、それは操り人形のようでもあり。
『良い子ね、魔理沙』
「……アリスか!」
 頭の中に響き渡る声が、アリスのものであると即座に看破した。こんなことが出来るのはアリスしか考えられない、しかし、状況が状況だ。この高度まで魔力を浸透させ、なおかつ正確に機能させる技術が、今のアリスにあるのだろうか。絶対にない、と断言こそ出来ないものの、それがどれほど困難なことか、魔法使いである魔理沙にはわかる。
 頭に血が昇っていると知りながら、魔理沙は憤りを隠せなかった。
「この、ちょうどいいところだってのにー!」
『あら、それはごめんなさい。でも、私にも事情があったものだから。具体的には、日記奪還の』
「日記なんてまた書けばいいだろー日記なんだからさー。そんなことより今はアリスだよアリス、どうしてアリスはそんなに都会派ぶってるんだい?」
『今はそれ関係ないでしょ』
「ていうか、どうして私の意志に介入できるんだ。そんな高等魔術、パチュリーでも難しいだろ……。ましてや、こんな阿呆みたいな高度だってのに……」
 苛立たしげに髪を掻き上げ、ようやく傾いていた身体を垂直に戻す。視線の先には、何やら慈悲深い笑みをたたえた文がいる。
「独り言が多いですね。寂しいんですか?」
「違うわ! アリスと話してるんだよ!」
「ああ、かわいそうに……幻覚まで……」
「うがあー! どいつもこいつもー!」
 咆える。
 頭の向こうから、アリスの苦笑いが聞こえてくるようだ。
『いくら空の上と言ったって、あんなに派手に暴れてたら冬眠中の熊でも目が覚めるわよ。それに、森の木を薙ぎ倒しておいて、おまけに魔方陣まで組んでくれちゃって』
「あ」
 魔理沙は、手のひらを叩いた。
「そうだ、魔方陣!」
『そうね、あなたがわざわざ作り出した魔方陣、その演算を組み替えて再利用させてもらったの。……あなた、式の作りがいちいち単純だから、改竄すること自体はそう難しくなかったわ。八雲の式、七曜の魔女だったらこうはいかないわね』
「……んだよ、修行が足りないって言いたいのかよ」
『視野を広げなさいってことよ。わざわざ、こんなロックも不十分な魔方陣の真上で戦うひとがありますか』
「ぐう……」
 ぐうの音は出た。
 なんで窘められなきゃいけないんだろうという不条理の果て、魔理沙は見えてないかなと思って魔方陣にミニ八卦炉を向ける。
 すると、あれよあれよという間に身体が重くなってくる。これは困った。ふと手首を見ると、何やら透明な糸のようなものが絡まっているのがわかる。
「あ、このッ、は、離せー!」
『駄目よ。あなたには、みっちりとお仕置きしてあげるから』
 眼下に、アリス・マーガトロイドらしき人影がある。
 にこやかに、それでいて笑顔を引き攣らせることも忘れずに。
『来い。魔理沙』
 墜落に相応しい速度でもって、魔理沙は遥かなる大地に誘われた。
 がくん、と力が抜ける。
「ぁ、ああああああぁぁぁぁぁぁ…………!」
 絶叫。
 文の視界から魔理沙が完全に居なくなるまで、そう長い時間はかからなかった。
 空に、久方ぶりの静寂が帰ってくる。
「ご冥福を」
 文は、静かに合掌した。

 

 

 程無くして、文の耳にもアリスの声が響く。
『おつかれさま。ご協力感謝するわ』
「いえいえ。一宿一飯の恩義、果たすことが出来て満足です」
『結局、泊まりはするのね……』
「楽しいのは好きなんですよ」
『……そうね。悪くはないかもね』
 諦めたように、アリスが呟く。
「ああ、でも」
 文は、少し残念そうに口を開く。
「戦いの決着は、明確な形で着けたかったですわ」
 しばし、沈黙が流れる。しかし、それを気まずいとは思わない。お互いに、譲れないものがあったというだけのことだ。
『……ごめんなさいね。悪いと思ったけど、あのままだと日記が焼き払われちゃうから。気が済まないようなら、今度舞台を整えてあげてもいいけど』
「まあ、そこまでして頂かなくても」
 晴れ晴れとした空に向かって、大きく伸びをして、油断いっぱいに欠伸をこぼす。
 風は頬に心地よく、髪を撫でる程度の柔らかさに頬が緩む。視界の果てには稜線が流れ、空と地とをジグザグに切り分けている。
「今日は、私の負けです」
 清々しく、文は宣言した。
 頭の向こう側で、アリスが感心したように息を吐く。
『その言葉、本人に言ってあげたら? 喜ぶわよきっと』
「言いませんよ。悔しいじゃないですか」
 くすくすと、アリスは笑う。
 文も自然と口の端に笑みを作り、みずからの意志で大地に降りていく。
 戦いは終わった。
 もはや文の歩みを遮る者はいない。が、今となれば、それもまた少し物寂しい。無い物ねだりの生き様だとしても、自分が輝ける瞬間を知っているのは幸せなことなのだろう。
 そう思う。

『さ、どこに隠しているのかしらぁ……?』
『ひぁ! あふぅ、そこ触んなってー! おま、はぅ、や、やめろって言ってんでしょー!』
『反省が足りないようね』
『ぎゃー! ぎゃはははははは! そこ足の裏だろばかー!』

「……いやはや、全く」
 微笑ましいことだと、数分前の攻防を思い返しながら、ゆっくりと降下する。
 自分もまた、アリスに懐をまさぐられるのかと、場違いな想像に舌を出し、文はその羽を大きく羽ばたかせた。

 

 黒い羽根がほんの何本か抜け落ちて、大地にひらひらと舞い降りる。

 

 

 

 



SS
Index

2008年6月30日 藤村流

 



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