心の剣

 

 

 

 只呆然と、気ままに流れる川を眺めていた。
 色の薄まった袴の腰に、一振の鞘がある。滔々と移ろいゆく奔流の先には、全く何もない。あまりに何もないから、只ずっと眺めている。
 整った髭と皺の寄った顔面、その痩躯からすれば一般的な老人と言える。逸脱しているのはその行動だが、とかく年老いたものは昔では想像すら出来なかった行為に及んでしまうもの。
 一面に咲く、彼岸花の中に一人佇む。
 風の音と水の音がよく聞こえる。呼吸さえも余計な雑音のようだ。いっそ止めてしまおうと考えて、それでは死ぬか、しかしこの身は既に半死であり、なかなか上手くはいかないものだと失笑する。
 その辺りで、背後に立つ剣呑な気配を知る。
 三途の向こうは霧が霞み、遥か彼方にあるであろう彼岸の情景は目にも見えない。死に体であるこの身なれば、その姿を先んじて拝めようかと嘯いてはみたが、やはり浅慮の極みであったようだ。
 脇に挿した両手を解いて、突き出た柄に掌を被せる。
 威嚇にしても牽制にしても、いずれにしても剣は抜かない。
「半身がこぼれているのも珍しい。つい先日も、貴方に似た幼子を見掛けましたが」
「それは、私から言うことでもありますまい」
「ご尤も。して、此度の訪問は如何なるご用件で」
 慣れた口調で語り掛けるも、陽気に振る舞う彼女と老人は初対面である。
 彼の目に、彼女の瞳に映っているのは三途の正流。
 砂利を一度強く踏み締めて、魂魄妖忌は身体を返す。白髪の髭が揺れ、かんばせに刻まれた幾本もの年輪が、彼の生涯を僅かながらに示してくれる。
 相対するのは、人間大の鎌を肩に掛ける一介の死神。小野塚小町と名乗る三途の渡し守は、その赤く染まった髪の端を優しく撫でる。
「まさか、貴方に限ってそんなこたぁないと思いますが」
「伺いましょう」
「もし自害するってんなら、一思いに殺して差し上げますから。いや、半霊の旦那はご自愛の出来る方だと思っとりますがね」
 慇懃な物言いではあるが、その言に誇張も謙遜もあるまい、と妖忌は悟った。
 死神とは、つまりそういうものだ。彼の存在を前にして、死を偽ることは許されない。彼女らほど死を尊び、死を悼み、死を慈しむものはいない。
 故に、命を軽んじることこそ死の冒涜であり、死神への侮辱である。
 妖忌は、鞘に嵌まった柄から掌を離す。敵対する気など元より無かったが、何も自ら争いを求めることはない。ましてや、この身に人を斬る力など無いのだし。
 しかし、堪えきれずに妖忌は口元を綻ばせる。
 小町にもその意が通じたのか、若干気まずそうに乾いた笑みを窺わせる。
「ご安心を。まことこの身は必要以上に綻びておりますが、無為に身体を苛め抜く趣味は御座いませぬ」
「そう、ですよねえ。いえ全く、近頃はいやに死にたがる輩が増えちまいまして。どうにも要らん世話を焼きそうになるんですよ」
 小町もまた、鎌の頭を砂利に付ける。戦意も敵意もない表れだろう。
 赤紫に染め抜かれた彼岸花の中に、半霊と死神が二人きり。その光景は、傍目からすればいやがうえにもある種の終わりを彷彿とさせるだろう。
「これは……。魂の花ですかな」
「その様で。また、人が死んだようです」
 大地と砂利の隙間から、茎のみを伸ばし花を咲かせる。
 あたかも、天上の糸を掴まんとする罪人の掌のごとく。
「お勤めは」
「いや、これでもね、最盛期よりだいぶ収まった方なんでさ。だから、今はめいっぱい働いた分の代休みたいなもんで」
 屈託なく笑う死神に、死を司る者の悲哀は見られない。
 妖忌の半身は、彼の長身痩躯とは裏腹に瑞々しい潤いに満ち溢れている。忌まわしき彩りを放つ花々の上を、綿毛のようにふらふらふわふわと浮遊する。白玉楼の庭師を勤め上げていた頃よりも、死に迫った分だけ輝きを増しているのかもしれない。
 小町の手が、近付いて来た半身の表面を撫でる。
「……あったかい」
 不思議なことを、死神が呟いた。
 自身の半身がどのような存在か、妖忌は生まれた頃より心得ている。ただ、小町の弁が単なる讒言や追従には思えなかった。しかし、正さずにはいられない我が身を呪う。
「幽霊は、現し世より冷たいものだ。誤ってはならない」
 疑念を拭い切れない釈明に、小町はただ首を振る。拒絶でも否定でもなく、己が感じたことを率直に述べる。
「でも、あたいは温かいと思うよ。それはきっと、貴方の魂が満たされているからなんだね」
 妖忌は、半身に触れる彼女とその表情を見、ひとつの確信を抱く。
 死神は、やはり死神だ。
 寿命が長いだけの半人半霊では、彼の境地に達することは出来ない。
「いやはや、参りました」
「どうしたんです?」
「私は、自身が如何に充足したかを測ることすらしなかった。長きに亘り半身に触れていながら、何の解も得ることも出来なかった。――ああ、それに」
「……それに?」
 小町が半身から手を離した隙に、半身がこれ幸いと彼女の下から遠ざかる。その行方を静かに見定め、遥か彼方から襲来する一筋の光に思いを馳せる。
 遠雷が、目には見えない彼岸の縁から、おどろおどろしく轟いているよう。
「良き、主君に仕えましたな」
「え」
 と、瞬きする間もあればこそ。
「小町ー!」
「ぃひゃあっ!」
 情けも容赦も堪忍すらない雷神の一閃は、物の見事に彼女の身体を打ち貫いた。
 意外に可愛げのある悲鳴を残し、彼岸花の座敷布団に身を滑り込ませる小町を見、妖忌はまたひとつ諦観する。
 死神もまた、呼吸をする生き物なのだ。

 

 

 三途の川を行く船は一艘に限らないが、妖忌の立ち位置から見ても、最寄の船着場に停留している船は一艘のみだ。在籍する何艘かが向こう岸に幽霊を渡していないとも限らないが、それを考慮したとしても、死神が此岸にて無駄話に耽っていたはという事実はもはや隠蔽出来ない。
 だからこその雷鳴であり、制裁の一撃でもある。
 主従関係は大きく二種に分けられる。主君が苦労するか、従者が苦労するか。小町は前者であり、妖忌は後者であった。とかく此の世は――むしろ、常世すらもままならないものである。
 人知れず、妖忌は溜息を漏らす。もう、嘆息からは引き離された身分と信じていたが。
 砂利の上では、物々しい説教が今もなお続いている。立場は違えど、妖忌も幾度と無く声を荒げたものだ。
「全く、暇潰しの合間に仕事してるんだから……!」
「すみませんすみませんすみません! ほんの出来心だったんですー!」
「貴方の場合、出来心の方がメインブレインになってるじゃない! 前より頻度が下がったとはいえ、あちこちに魂が咲いてるんだからもっともっとスパンを短く――」
 もっとですか! と悲痛な叫び声を上げる小町を他所に、閻魔の目は再び三途の流れに没頭する半人半霊を捉える。袴越しに、荒々しく彫り抜かれた彫刻のような体躯が覗き、何処ぞの達人かと彼女は目を疑った。
 その背姿が、何時か何処かで目の当たりにした雄姿であると顧みた直後――凛々しき老躯が、その身を翻す。
「貴方は」
「お久し振り、ということになりましょうか。四季映姫殿」
 妖忌は深々と低頭する。
「でしょうね。貴方は、随分とお変わりになったようだけど」
「四季殿は、お変わりなく」
 閻魔の姿は、以前相対した時と全く変化がない。細かな差異を抽出することに意味はなく、醸し出す雰囲気と存在の位相さえ同質ならば、それ以外の径庭などさして重要ではない。
「……あのー」
「しっしっ」
 部下の進言を指先ひとつで遠ざける映姫。酷い対応だが、小町の能力給を考えれば仕方のないところか。しかし、無碍にされても小町は怯まない。流石は死神、胆力だけは据わっている。
「いや、ちゃんと後で仕事しますから」
「……あとで?」
「いえ! すぐにちゃっちゃとやってのけます! お客が来たら! あ、ですからまだ来てないじゃないですかー! 死神が営業に行くのもなんか間違ってますってー!」
「小町あなた前に営業だとか言ってそのへんをうろちょろと」
「分かりましたよー! さっさと上京したての芋くさい奴らポン引きして来ますからそれでいいんでしょう!?」
 いいのだろうか、と妖忌は思ったが、他所様の職場なので余計な口出しはしないでおく。
「その前に、ちょっといいですか」
「何です」
「あの……。お二方は、以前からのお知り合いで?」
 見れば分かることをあえて尋ねられ、二人は思わず顔を見合わせる。
 半霊と閻魔の相性は決して良くはない。それは初めて対峙した時にも感じたものだ。傍らに笏を持ち、掌に柄を沿え、両者は其々の誇りを持って衝突した。
 結果、互いが得たものは酷く独善的な自己満足でしか無かったのだが――。
 妖忌が、興味深げにこちらを眺める小町の疑問に答える。
「過去に、剣を重ねたことがありましてな」
「本当、寿命だけは長いからね。私も貴方も、小町にしてもそうだけど……」
 溜息を吐く映姫に、まだ嘆息するだけの余裕があるのだなと感心する。
 一方、小町はまた別のところで感嘆しているようだった。下ろした鎌を上げ、再度その肩に引っ掛ける。見た目の華やかさと相まって、豪胆な身振りがよく似合う。
「え。四季様、剣術を嗜んでいたんですか?」
「言葉の文よ。私は笏、彼は剣。全く、突進するしか能の無い無骨極まる侍だったのだけど……。今は、どうでしょうね。二振あった剣も、見た限りでは一振しか……いえ、当時の剣とは趣きが異なるようですが」
 映姫の目の色が変わる。再会に気付いた瞬間から、妖忌の変容は理解していたが、その中でも剣の存在は彼の生涯に大きく関わって来る。裏を返せば、剣が無かったから妖忌が変わったように見えたと言った方が近い。
 変わるものだ。
 生きていれば、大概のものは。
「はぁ、そんなことよく分かりますね……」
 そうなんですか、と小町が視線で問い掛ける。
 妖忌は心中で映姫の観察眼に驚きつつ、柄を握り締めることでその答えとする。
「然り。彼の楼観も白楼も、既に我が身から離れている。腰に挿してあるものは、何、これと言った銘も無い只の竹光よ」
 鞘を地に傾け、掬い上げるように白刃の一閃を煌かす。
 薙いだものは空気でしかないが、強いて言えば、空気が切り裂かれ一帯の音が死に絶えた。
 その様に、死神は感じ取った。無論、それは紫電一閃による錯覚でしかないのだが、それにしても。
「……分かった。それ、不死鳥が住まう竹だ」
 小町が拍手を打つ。
 幻想郷の外れにあるという化け物揃いの竹雑子、そこには一人と一匹の不死鳥が棲んでいる。元より魔力を帯びていたのか、不死鳥の炎に中てられて意気を増したのか、この際その順序は問題ではない。
「ご明察。何分、暇だけは腐るほどにあるものですから。自ら竹を切り、鞘に納まる程度の形に研ぎ済ますくらいの手間隙は厭いませぬ」
「元々挿していた剣は……と、訊くのは野暮に過ぎますか」
「それは恐らく、四季殿も小町殿も知っていらっしゃるでしょう」
 白く眩く輝く刃の先を、溢れる彼岸花と剥き出しになったままの砂利との境界に突き刺す。不敵に笑えばいいものか、妖忌は少し逡巡する。
 此岸と彼岸の狭間に漂う濃霧とは裏腹に、彼岸畑の真上は至極綺麗に晴れ渡っている。おぞましいほどの紅と、透き通るほどの蒼が否応無しに対比される。正直、あまり目には良くない。目に毒と言ったら、アヤカシ竹から彫り抜いた抜き身の妖刀をこそ、面妖であると言わねばなるまいが。
「ああ、あん時の」
 小町が拳を叩く。
 映姫は、笏の端で唇の動きを隠す。それが彼女の癖であると、わずかな邂逅の時に妖忌は察していた。古人曰く、癖というものは人が本性を表す時にこそ零れるもの。
「あの時、まだあの子はいませんでしたね。それ以前に、あの頃の貴方に幼児を育て養うことが出来ようとは、只の一片も想像だにしていませんでしたが」
 さしもの妖忌も、思わず吹き出す。
「それはそれは……。いやはや、実に手厳しい」
 虚を突かれても、臆面もなくからからと大笑する。
 妖忌の昔を知る人物は、幻想郷においてもそう多くない。それ故、知られたくない過去を穿り返されても、なお心地良いと感じてしまう奇妙な思いが確かにあるのだった。
 しかし、人情深い小町はあまり得心が行かない様子。
「いやほんと、いくらなんでもちょっと言い過ぎですよ四季様。何ですか、行き遅れの僻みなん痛え!」
 笏が骨に激突する。丁度、映姫の傍らに控えていたことが悲運だった。
 妖忌の快活な笑いが収まり、小町が頬骨を押さえて苦しそうに蹲り、映姫が厳かに語り出す。
 たったそれだけのことなのに、此岸と彼岸の境界は束の間の法廷と化す。
 笏は木槌に、紅い花弁は証言台に。
 まっさらな空は青天井、背中に迫るは背水の陣。
 魂魄妖忌は、此処に来ることが何を意味するか理解していた。
 説教好きな閻魔の膝元に足を踏み入れれば、こうなることは百も承知だった。
 それでも尚。あの時は見えなかった彼岸の彼方が、今の今なら朧気ながらに見えるだろうかと夢想した。
 結果は敢えなく非と相成り、今まさに仮初の審判が下ろうとしている。
 だが、いずれ通らねばならぬ道であることに変わりはない。ならば、何を怯むことがあろう。
 竹光の柄を握り締める。審判長が、唇を開いた。
「貴方は、足取りが軽くなりましたね」
「兼ねてからの柵が、ようやく解けましたので」
「嘘でしょう」
 即座に否定する。
 妖忌は嘘とも思っていなかったが、映姫にはそう見えたようだ。
 当人にも分からない嘘があるくらいだから、見当違いと揶揄してみるのも気が引けた。妖忌が他人を虚仮に出来る性格でなかったこともあるが。
「冥界には、まだ亡霊がいる」
「おりますな」
「彼女を放ったらかしにして、貴方は現し世で何をしているのかしら」
「……ふむ」
 伸びてしまった白髪と髭を撫で付ける。どう答えたものか、一言で説明出来ないから困る。
 とうに小町も息を吹き返して、死神の鎌を肩に担いだまま妖忌の動向を見守っている。説教が始まり、外回りに行けと言われないのに託けて、傍聴人に甘んじていようという魂胆らしい。
「先日、二刀の庭師が訪れたでしょう」
「はい。あの子も頻繁に此の世と彼の世を行ったり来たりしていたけど、やはり血脈なのでしょうね」
「お恥ずかしい。けれど、私はとうに幽退した身で御座いまして。剣の継承は、既に済ませておるのですよ」
「ご隠居さん? ああ、道理で」
 どう感じたかは知れないが、一応は頷いてみる。
「それでも、貴方は少し自由過ぎる」
「ほう」
「持ち主を失った風船は、引力に逆らって空を昇る。その様がいくら優雅に見えたところで、いつかは破裂する運命にある」
「それが、私であると」
「貴方は生者とも死者とも異なる。此の世に留まり続けることは、貴方自身の均衡を破ることにもなりかねない」
 およそ二百余年前に、同様の説教を受けた覚えがある。
 まさか、その二百余年後にも同じ説教を受けることになろうとは。
 妖忌は、悪意を感じさせない程度に相好を崩した。
「何か、可笑しいですか」
「いえ、私も成長しないものだと思いまして」
「そう簡単に成長出来るものなら、私もこんなに苦労していません」
「ですよねぇ」
「あんたが言うな」
 口を挟んだのが運の尽きか、閻魔に目を付けられるサボタージュの泰斗。
 映姫の笏が、再び小町の額を捉えようとした一歩手前に、妖忌も言葉を挟み込む。年嵩が増すと、説教を受けることも楽しくなるけれど、何も言い返さぬまま、黙って信念を覆すのも情けない。
「ですが、四季殿。ひとつ言わせて頂けるなら」
「どうぞ」
 荒く、深呼吸を繰り返す。映姫は静かに待っている。
 柄にもなく、心が乱れているらしい。思えば、昔は何でも無い場所でさえ常に緊張していたものだ。心を塞ぐ動揺が失せ、目の前にあるものだけに集中出来るようになったのは何時の日か。そして、眼前に立ちはだかるものだけでなく、その裏側、それを取り巻く存在の息吹さえ捉えられるようになったのは何時か。
 人を斬れるようになったのは。
 雨を斬れるようになったのは。
 風を斬れるようになったのは。
 全てを斬れるようになったとしても、全てを守ることは出来ないと思い知らされたのは。
 何もかもが、遠く感じられる。只、継ぎ接ぎだらけの身体だけが此処にある。
「継承を終えた後、私は何をすべきか全く分かりませんでした。死ぬべきか、生きるべきか。それさえも判然とせず、訪れる日々を安穏と享受しておりました」
 神妙に、映姫は耳を傾けている。小町も同じく、生の大半を西行寺の傍らに預け続けた一人の侍の話を、余すところなく聞き遂げようと。
 風が、強くなったような気がした。生来の銀髪が視界を掠める。
「後悔や未練があるなど、考えたことも無かった。自身のためには何も残さなかった。全て、傍らにいた者たちに預けていた」
「貴方は人形だったのですか」
「否、独活の大木です」
 真実、偽ることの許されない本音だった。昔は吐き出すことも躊躇われた本心でさえ、いとも簡単に吐露出来る。それは重ねた年月が成せる業か、裁判長に謁見しているが故の安堵か。
 妖忌は、只続けた。
 長くなると思っていた昔語りは、拍子抜けするほど早く終わりそうだった。
「考えました。自身のために何かを思うことなどありませんでしたから、頭が罅割れるようでした。けれど、それが無ければ、私が此処に立っていることも無かったでしょう。為すべきことは見当たらずとも、為したいことが、まだ私の中にも残っていたのです」
 空は蒼く、地は砂利の荒い色合いと、原色鮮やかな彼岸花の紅に染め尽くされている。
 体をずらし、後ろを見やれば一面の霧、彼岸を隔てた長江がある。
 冷えた空気が肺に心地良く、踏み締める砂利は小粒ながらも非常に硬い。突き刺した竹光を引き抜こうとしても、大地と接吻した竹細工はそう易々と引き抜かれはしない。
 自身の老いを実感する前に、今此処で、こうして生きていることを嬉しく思う。
 遥かな昔。何の為に生きているのですか、と問われたことがある。
 西行寺の御心のままに、と鍔鳴りを響かせることで答えとした。
 後悔や未練が無かったのは、全て他人のせいにしていたからだ。
 何も残さなかったのは、二つの刀が手を塞いでいたからだ。
「それは、何なのですか」
 映姫が、笏を傾けて先を促す。
 妖忌は、ついぞ抜けなかった竹光の滑らかな柄を握ったまま、
「私は、世界が見たかった」
 と、誇らしげに答えた。
 西行寺家の庭師、兼西行寺家の警護役として生きる前の魂魄妖忌が、兼ねてから望んでいたこと。
 それは物見遊山の旅だった。
 世界は、誰に教わるでもなく輝きに満ちている。だから其処に立っているだけで、自分もまた同じように輝けるのではないかと愚考した。
「綺麗なのですね。此の世もまた」
「誰しもが知っていることです。貴方だけが、それを知らなかった。知ろうとはしなかった」
「この調子だと、次の魂魄もまた同じ轍を踏んでいる感が致しますが」
 遠く、白玉楼がある方角を見遣る。眉間に寄った皺は、剣士や老人のそれと言うより我が子を想い表情が緩んだと言った方が近い。
 仮初の剣を抜く。大地との抱擁を終え、持ち主の元へ帰る。
 妖忌が辛うじて残せるものといえば、西行寺の遺志と、次の魂魄、そしてこの竹光風情だ。
「では、この所業を改めるつもりはない、と」
「仰せの通り」
「……全く、物分かりが良いのか悪いのか判りませんね。それと決めた道を貫くのは、今も昔も同じですか」
「ままならないものです」
「ええ、本当に」
 溜息が漏れる。子の我がままを許す母親のように、呆れながらも彼の行く末を見守もうとするしぶとさが、そこにはあった。
「けれど、ね」
 声色が変わる。
 映姫が言わんとしていることは、自ずと理解出来た。閻魔としてではなく、一人の女性の声に変わっていたから。
「たまには、顔を見せてあげなさいな」
 ――嬉しいものよ、どちらにとっても。
 そんな、優しい言葉が聞こえた気がした。
 先程まで、水流も風音も無くしんと静まり返っていた無縁塚にも、ようやく活気に溢れた音が帰って来る。初めのうちは強く噛み締めていた唇も、いつの頃からか自然と離れていた。浅い痛みが、まだ口の端に残っている。
 剣と痛みを生きている証とした日々は既に遠く、今は身体に感じる世界が生の証だ。
「さて、そろそろお暇致しますか。小町殿のお仕事を邪魔する訳にも行きませぬ故」
「え! 別に邪魔してくれても一向に構わないんですけど嘘ですごめんなさい」
「全く……」
 振り上げた笏を下ろし、腰が引けたまま両手を合わせる小町を一瞥する映姫。
 反省する様子もなく、懲りずに暇を貪ろうとする。偽りのないあるがままの姿に、妖忌はいたく感心する。当事者間は相応に切迫した事態なのだろうが、妖忌にしてみれば白玉楼にて二人が戯れているように思えてならない。
「最後に、ひとつお願いしても宜しいかな。小町殿」
「へえ、特に構いませんよ」
 答える前に、映姫の表情を垣間見る。渋々首を縦に振った映姫に、妖忌は小さく頭を下げた。
「今、この霧を晴らすことは出来ませぬか」
「霧っすか。それまたどうして」
 下顎を抓りながら、小町は濛々とたちこめる白霧を覗き込む。
「二百年もの昔、四季殿と面会を果たした時も、私は三途の向こう岸を見ることが出来なかった」
「そりゃそうでしょう。旦那はまだ死んでいない。だからこの先を見るのはルール違反だ」
「ですので、折角ですからお目通しを願えないかと存じまして」
「はあ。その、彼岸にですか」
「はい。彼岸の、此の世とは思えぬ光景に」
 映姫に続き、小町もまた呆れ顔になる。笏の代わりに、鎌の柄で額を掻く。それから、とても言い辛そうに妖忌に告げる。
「旦那」
「はい」
「酔狂っすね」
 それは、曖昧な否定を示していた、ように思う。
 死者にしか見えない世界なら、生きようという意志があるものにそれを見せる訳にはいかない。三途の川の船頭ならば尚更だ。仕方がないと、妖忌は竹光を鞘に戻す。
 一瞬、小町は妖忌に鎌を向ける。殺気でも害意でもない、純粋に障害物を排除しようという前兆が妖忌から感じられた。だが、小町の危惧とは裏腹に、剣身は白銀の鞘に収まり、当の妖忌も小町と映姫から顔を背ける。
 視線の先には真っ白な霧、小町にしか操れない振幅と距離を誇る三途の川。
 まさか、という思いが小町の中にあった。映姫も同様なのだろうが、彼女は笏を握り締めたまま微動だにしない。妖忌は括り付けていた鞘の紐を腰から外し、鞘を掴んだまま川岸へ向かう。
「ちょっと、旦那――」
 振り向かぬまま、背中越しに声を返す。
「元来、見えぬものを見、斬れぬものを斬るという家風でしてな。見えぬから諦めるなど賢者の思惟。私は愚直なるままに、己が掌で道を拓いてみせましょう」
 何処からか発せられる小さな波が、妖忌の足元を瞬かせる。草履に浸る水の冷たさで、心が急激に引き締められる。良い塩梅だ。心と躯を重ね合わせ、自身と世界を一体にする。瞳を閉じて、外界からの情報を遮断する。
 人を斬った。雨を斬った。風を斬った。何もかもが斬れると信じ、事実何もかもを斬って来た。好まざるものも、愛しきものも。ならばこの手が斬れぬものなど何一つとして存在しない。
 だが、振り返る。その手は何も残せなかった。そんな手で、そんな業が何を生み出せる。自戒ばかりだ。そのくせ、一歩も前に進んでいない。映姫も言った、容易く成長など出来ない。その通りだ。魂魄妖忌は何も変わっていない。
 水面に波紋が立つ。微細な円は波に打ち消され、広がることもなく霧散する。
 心が泡立つ。ざわつく。呼吸をしても留まらない。
 目蓋を開ける。
 そこには、一面の白が広がっていた。
 分かっていたことだ。この手が何かを生み出すなどとは、傲慢に過ぎる。斬ることしか知らないのなら、せめて後ろを歩むものたちの為に、獣の道を斬り拓く。否、他人の為など何様のつもりだ。生きているなら、己に尽くせ。己の為、為したいことの為、目の前に立ちはだかっている朧な壁を、この手で斬って落としてみせよう――。
 開眼と同時、掌が柄に喰らいつく。落ちた腰は自重を支え、大地を強く踏み締めている足には感覚がない。自身と世界は繋がっている。接合面は切断面だ。後は、切り取り線をなぞるのみ。
 妖忌は、その一歩を踏んだ。


「天上天下唯我独尊」


 言い斬る。
 破裂ではなく断絶であるから、霧は霧としての形状を保ったまま、逆袈裟の一閃を甘んじて受け入れる。波が引き、妖忌の足元から一切の水分が消失する。竹光は遥か天空を指し、斬撃は立ちはだかる壁を薙ぐ。切断は今も続いている。須臾の後に全てが終わり、その間に妖忌は此岸から彼岸に至る。此の世とは思えぬ光景に浸り、そしてまた現し世に帰る。
 目を凝らす。
 音は聞こえず、感覚らしきものは視覚以外に興味がない。
 白が割れても、その白は延々と続いている。霧は長く、終焉は遠い。生者と死者の壁は、須臾の間に断ち斬れるほど脆弱ではない。けれど、妖忌はその既成概念すら断ち斬る。
 白から白へ、忌まわしき純白が連鎖し続けても、己が業を信じる。
 届け。
 届くのだ。
 やがて、白は尽きた。
「――……」
 何かが、開けたように思える。
 漠然とし過ぎているが、明確なものは此の世のものだ。なればこそ、我が眼が捉えている情景は、正に――。


「はい、今日はそこまで」


 割れた。
 次は十字に、突破されたはずの霧が一斉に弾け出す。声の主からすれば、その原因が何なのかは容易に知ることが出来た。だが、今の妖忌に対抗する術はない。黙って、一瞬の認識にも満たなかった邂逅の終わりを受諾する。白から白へ、輝かしき清廉潔白が溢れ出す。まるで、妖忌自身を包み込むかのように膨張する濃霧。圧倒的過ぎる敵を前に、声を震わせて笑いたくなった。
 悲しいかな、魂魄の身にてこれほど生きても、死を越えるにはまだ早かったか。
 しかし。
 この不出来な掌にも、まだ為せることがあったようだ。

 

 

 立ち入った時と同じように、一面の霧と無限に広がる奔流を呆と眺めている。
 竹光はとうに鞘へ帰り、両の掌には仄かな痺れが残っている。刻まれた景色は朧に霞んでいるが、決して忘れることはない。不確かな邂逅だったけれど、それだけは言える。
 深呼吸をする。吐息は冷たく、凍えそうなくらい冷たい空気も、半霊たる自身にはどれほどの冷気かは知り得ない。分からないことは、この年になっても数多い。まず、それを知った。
 振り返れば、死神の鎌を地に突き刺している小町がいる。憤りには遠く、呆れには程近い。
「申し訳ありませぬ、不要な迷惑をお掛け致しました」
「気にせんで下さい。まあ次はないと思ってくれて結構ですが」
「そして、有り難く存じます。此度の謁見が叶いましたことに、心より感謝の意を」
 拳と掌を合わせ、深々と低頭する。
 小町は何も言わず、地面から鎌の刃を引き抜く粗い音だけが響いた。
 鞘の紐を腰に付け直していると、今まで静観していた映姫が一歩前に出る。途中、顔をしかめながら肩を揉んでいる小町に鋭い視線を向けるが、その場はすぐに妖忌に転じた。ルール違反を許容した説教は、また今度ということだろう。責任の一端は妖忌にもあるのだから、どちらを先にするかは誰にでも分かる。
 妖忌が、再び此処を訪れるという保証はないのだし。
「これで、気は済みましたか?」
「有意義な時を過ごすことが出来ました。いくら感謝をしても足りない程です」
 頭を下げようとして、笏で制される。濃緑の髪と、金銀が織り込まれた冠が陽光によって輝き出す。
「そんなに、彼の世が見たかった?」
「見れぬものを、見ようと思ったまでに御座います」
「それならいっそ、私の下で働きなさいな」
 彼女以外の目が、一瞬で点になった。
 小町は鎌を取り落とし、妖忌も腰から鞘を落としそうになる。
 映姫自身は、そんなに驚くことかと眉間に皺を寄せていたりした。閻魔たる四季映姫の影響力がいまいち分かっていないらしい。と、切羽詰った小町が映姫の襟に掴み掛かる。
「し、四季様! それはつまり、罷免されるということですか!」
 すぐさま小町の腕を引っぺがし、乱れた服を整えながらしれっと言い返す。
「誰がです?」
「いや、あたいがですよ!」
「……ああ、なんて可哀想な小町」
「んな他人事みたいにー!」
 一人で張り切っている小町には悪いと思ったが、妖忌は鼻の頭を押さえてくつくつと笑っていた。
 映姫も何処か愉快げに微笑んでいたが、若干悪意のある冷笑に見えたのは気のせいにしておこう。
 次は何処へ行こうか。選択肢は無限にあるのだから、焦ることも迷うこともない。また、彼女たちのような素敵な人々に会いたい。昔は障害物としか認識していなかった存在も、立派に呼吸をする生き物だと気付いたから。次の出会いは、きっと素晴らしいものに出来る。
 解けかけた紐を括り付け、白銀に煌く鞘を握り締める。
 元より、竹光は牽制のつもりであった。不埒な輩が声を掛けて来ぬように、戦うのも面倒だからという物臭な理由からだった。しかし、やはり魂魄妖忌はほとほと剣に魅せられた存在らしい。こうなったら、死ぬまで離れられそうにない。否、半分は生まれた時から死んでいるか。
「四季映姫殿」
「はい。貴方が賢明であることを期待しますよ」
「……こうなったら……」
「私には勿体ないご提案、平に感謝致します」
「では――」
 小町が最後の手段とばかりに振り上げた鎌の刃を窺い、苦笑しながらも妖忌は陳謝する。
「ですが、申し訳御座いません。私には為したいことが御座いますので」
「そうですか」
 いとも容易く受け入れる。
 行き場を失った小町の鎌が、そこいらに転がっている無数の砂利を切り刻んでいた。
「残念。生真面目な貴方にこそ相応しい職場なのですけど。不正を許さず、怠慢に溺れず、異常に慣れぬ気位が必要なのです」
「それは大変嬉しい評価に御座いますが、私如きには到底務まりません。私は生真面目などではなく、酷く頑迷固陋であっただけの大木ですから」
 告げて、水際から歩き出した。
 体勢を持ち直した小町と、笏を胸の前に添えた映姫が、静かに妖忌を見守っている。
 妖忌は彼女たちと擦れ違う時、立ち止まって軽く会釈する。
「それでは。四季殿も小町殿も、どうかお元気で」
「はい。いずれまた」
「旦那も、お身体を大事になさってくださいね」
 温かい言葉に送られ、三途の岸辺から遠ざかって行く。一度歩き出したら、もう振り向くことはなかった。
 視界の大半を覆っていた霧の白も、紺碧の空と彼岸花の赤紫に取って代わる。やがて季節外れの彼岸花の群れは薄まり、閻魔のような深緑の世界が目の前に広がるだろう。
 心が躍る。
 いつかこの身体が停止するその時まで、せめて心だけは弾ませておこう。
 今際の際に、自分には何も無かったのだと悔いることのないように。
「……暑いな」
 蒼天に穿たれた白い太陽が眼にしみて、妖忌は不意に目を細める。拭った汗は透明で、すぐさま色褪せた袖に吸い込まれた。これからもっと暑くなるだろう。歩くには疲れる季節だ。ましてこの古ぼけた老体、いつ不調を訴えるか分からない。
「しかし、良い天気だなあ」
 それでも、足を止めることはなかった。
 彼岸の景色も遥か背中の向こう側。今は只、鬱蒼と生い茂る魔法の森を目指す。

 

 

 取り残された三途の岸辺、閻魔と死神が相対する。
 早く仕事に行けと目で訴える閻魔と、言われなければそれ以上のことはしない死神。
 やむを得ず、閻魔は死神に話し掛ける。傍らに控える死神は、呑気な態度で受け答えする。
「小町」
「何でしょう、四季様」
「貴方、誤魔化したわね」
「……いえ、あれはですね? 魂魄の旦那が余りにも速いもんだから、距離を広げるのが追い付かなかっただけですよ。途中、運良く旦那の緊張が解けたから何とかなりましたが」
「本当かしら」
「本当っすよ」
 魂魄の一閃は、二百由旬を瞬く間に駆け抜けると言う。ならば、小町の言葉にも信憑性があるだろう。ただ、小町が証言していること自体に問題があるのであって。
 閻魔の笏が死神の肩に重ねられる。鎌の柄の上に乗せられた笏と、穏やかな表情と据わった目の調和が取れていない上司を瞬時に見比べる。
「……惜しいことをしたわ」
「ははは、四季様目が笑ってないっすよ」
「さっき、もっと真剣に彼を勧誘すれば良かった……」
「そいつは笑えない冗談ですね。……あの、冗談って言ってくれないと非常に据わりが悪いんですけど。四季様、四季さまー?」
 小町も映姫も笑わなかった。
 どんよりとした沈黙の果て、映姫の笏が彼女の掌に帰る。
 小町も、何となく鎌を地面に下ろした。これで何回目の往復になるだろう。
「話は変わるようですけど、四季様」
「貴方もちゃんと仕事しないと首ですからね」
「変わってないー!?」
 頭を抱えるサボタージュの泰斗。勤務態度を改めるという気は毛頭ないらしい。
 映姫には、小町が何を聞きたいか分かっていた。苛め過ぎるのも可哀想だから、話を逸らしてあげることにする。
「先程の、魂魄妖忌のことでしょう。大したことではありません。何度か前の花の異変に、偶然ここで会ったまでの話です」
「ここで、ですか」
「ええ。殺されるかと思いました」
 ぽかん、と口を開けたまま硬直する小町。
 無理もない。閻魔を本気で退治しようとするものなど、どこぞの巫女をおいても他に類を見ない。
 今の魂魄妖忌を知ればどうしても腑に落ちないだろうが、昔の魂魄妖忌を知るものならば誰しもが納得する光景だろう。問題は、それを知るものが圧倒的に少ないということだが。
 映姫は、とうに戻れない過去を懐かしみながら、今を歩き続ける彼に一種の憧憬を抱く。
「まあ、彼に聞いても殺されると思ったと答えるでしょうけど」
「四季様は生粋のサディストですからねえ」
「殺しますよ?」
「嘘ですごめんなさい許してくださいまだ死にたくないです生きていたいです」
「全く……」
 後退りながら器用に頭を下げ続ける死神と、既に旅立ってしまった半霊を想う。
 場違いな感傷は程々にしておいて、映姫は小町に向かって言葉を掛ける。
 もう時間だ。溜息を付いている暇はなく、自由を羨む権利もない。映姫にも、小町にも、まだまだ為すべきことがある。彼はそれを為し、だから今がある。閻魔も死神も息の長い仕事だけれど、そのうち何とか、息抜きくらいは出来るようになるだろう。
 小町に限っては、不必要に息を抜きまくっている様子だが。
「仕事、しましょうか」
「そうですね」
 掛け合いも慣れたもの、背中合わせに仕事場へ帰る。
 小町は三途の渡し守、映姫は幽霊の審判。為すべきことを為すために、せめて今くらい、汗水垂らして働くとしようか――。

 

 

 



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2005年11月20日 藤村流

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