蜻蛉の器

 

 

 

 雨樋から垂れる雫が花崗岩を貫いている。白玉楼の庭園とは規模が劣るものの、永遠亭のそれもまた適当に豪奢であり絢爛であり優美である。尤もそれらに降り注ぐ有象無象の雨粒は、大地を貫き石を割ることもできない。けれども一滴の雫は何万何億と繰り返すことで岩を貫く。
 馬鹿の一念が岩をも貫くというなら、馬鹿であることを、頑迷固陋であることを軽視するのは得策ではない。八意永琳は、自室からそれらを傍観して思う。
 暇だった。何もすることがなかった。
 主君の輝夜はこの雨の中を気紛れに翔けているし、鈴仙もてゐもまた彼女たちの仕事に忙しい。ならば永琳も己が本分に従って、真剣に、半ば戯れに従事している薬の研究に勤しむのも道理だろうが、そう出来ない確固たる理由がある訳でもないのに、永琳は何をしたいとも思えなかった。暇なのに、退屈なのに、だ。
「……欝だわ」
 過去に聴いた騒霊姉妹の長女には遅れを取るものの、柱に背中を預け、敷居に尻を落ち着け、障子に裸足を押し付ける永琳もまた、陰鬱な空気に憑かれているであろうことは想像に難くない。
 風も無く、重力に倣って上から下にただ落ちる無色の雨をぼんやりと眺める。
 齷齪と、人生という名の路を走ってきたつもりは無いが、ごくたまに、後ろを振り返ることがある。長いな、早いな、疲れたな、と思う。もうすぐ終わるのではないか、挫けるのではないか、とも思う。
 この身が永久であるかどうか、永遠であるかどうかは誰も観測できない。過去の一点から連綿と続いてきたにせよ、寄る辺となる世界が崩壊してもなお漂流し続けられるかどうか。
 世界の終焉が永遠の崩壊ならば、それは永久でも永遠でもない。
 ただの一生だ。
「……末期かしらね」
 呼吸が重いのは空気が重いせいだと思い込み、溜息を一度だけ吐く。
 蓬莱の薬が永遠だ、その効能は永遠に続く、という保証はない。魂が情報を保存しているから肉体の修復は可能、ならば魂が劣化したなら徐々に破綻が生じるのか、魂は世界の崩壊にも耐えられるのか、耐えられたとして、別の世界、空も、月も、太陽をも越えた彼方の星に魂は辿り着けるのだろうか。
 永遠を求めた一念が、いつか宙を翔けることになるのだろうか。
 叶うなら、そうであればいい。
「はあ」
 外は雨が降っていた。
 天の恵みが葉を打ち池を打ち大地を打ち、有象無象の和音を奏でている。それらのざわめきが耳に心地良く、怠惰でない程度の浅い眠りに誘われる。寝てしまおうか、誰も邪魔するものはいないし。軒下の砂と庭園の玉砂利は綺麗に色が分かたれていて、内側だけを見ていると雨が降っているとはにわかに信じられない。けれども鼻に感じるしけた匂いが、服の中にまで染み渡る重たい湿気が、この小さな世界が雨に覆われていることを教えてくれる。
 永遠もまた、世界という小さな器の中に放り込まれた水のようなものだ。器が割れれば、水は流れていつかは消える。それを掬おうにも、既に昇華して溶けて無くなっている。
 ばたばたと、部屋に通じる廊下を駆ける二種類の足音を聞く。笑い声と叫び声、鳴き声、泣き声、そして笑い声。足音は失せ、また雨音しか聞こえなくなった。騒がしくても、ひとつの音しか聞こえないというのは侘しいものだった。
「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ……」
 雨樋から零れ落ちる雫を指折り数え、何回目で眠りに堕ちるか試してみる。百で飽き、千でどこまで数えたか判然としなくなった。万に届く手前、わずかに意識が途切れた。
 暇だった。永遠のようなものを得、退屈は受け入れたつもりではあった。が、暇は暇だ。
 吐くまいと思っていた二度目の溜息が零れた。
 永遠であるように望んでも、それが不可能であることは分かっている。それでも求めて、仮初の法に手が届き、見果てぬ先があると知る。この雨の向こうに、永琳が仕える主はいる。蓬莱山輝夜は、屋根に守られた通りいっぺんとうの世界から飛び出した。
 行くか、と思い立ち、行こう、と決断するまでに五分ほどかかった。
 二つある理由の一つは、服を濡らすのは兎たちに迷惑が掛かるから。もう一つは、雨が降る中を着の身着のまま飛び出すのは、夢見がちな若者がすることだと盲信していたから。
 けれども、どちらにしても構わない。輝夜は確実に濡れそぼっているだろうし、永琳にしても輝夜にしても、永遠の名を冠している以上、何かしょうもない夢を見ているようなものだろうから。

 

 

 逢魔ヶ刻も薄暮の空も、曇天があればただ真っ暗な夜に暗転する他ない。
 夕焼けに飽きたのは、朝焼けに憂えたのは、見える景色が何の変哲もない自然だということに気付いたのはいつで、それが即ち、永遠の業なのだと悟ったのはいつか。そう昔ではないはずだけれど、忘れてしまうくらいには古く錆び付いていた。
 永琳は雨の中を歩きながら、振り切ってきた鈴仙に申し訳なかったなと少し悔いた。彼女が危惧していたのは、永琳の服が汚れることでも永遠亭の頭脳が家を空けることによる防衛機能の低下でもなく、ただ、永琳と輝夜が傷付くことであった。
 立ち止まって、灰色に焼け焦げた空を仰ぐ。微細な雨粒が目に入り、涙か雨か知れないものが頬を伝う。
 鈴仙は、永琳たちが仮初の永遠を抱えているにせよ、単に、死なず、無事でいて欲しい、という願いを抱えているに過ぎない。
 だが、単純であり、真っすぐであればあるほど、その一念は岩をも貫く。
「私も、情に絆されたかしら。それとも、単に――」
 羨ましいだけか。
 何度繰り返されても、懲りることなく、飽きることなく、相対したものを想い続けられるということが。
 水を吸った服は肌に吸い付き、引っ張っても容易に剥がれない。丁寧に織り上げた髪の毛も同様で、帽子を置き去りにしてきたのが幸か不幸かは分からない。帽子を洗う手間が省けるだけマシか、と兎たちの立場に立って考える。
 べたべたの感触が気持ち悪いとは思わない。既に慣れた。同格の経験は幾度も経てきている。飽きた、と言わないのは、心境の変化か意固地な精神によるものかは分からない。が。
「さて、行きましょうか」
 もうすぐ夕食だ。輝夜もお腹を空かせているに違いない、と従者の勘が告げている。勘に頼っている時点で従者としての資格は欠落しているかもしれないが、元より従者であることが望みではない。もし従者であったなら、永琳は主君と同じ舞台には上がらなかった。
 永琳は、彼女自身がもたらした永遠の導く先を見定める。
 遠雷が鳴った。
 身体に張り付いた髪の毛を指で梳く。既に解きほぐれた銀糸の長髪を背中に流し、頬を伝う雫と、唇を潤す水を手のひらで一気に拭い去る。視界が曇っていては、守れるものも守れない。
 煙が凝り固まって出来たような空から視線を外し、鬱蒼と生え茂る竹林の中に踏み入る。
 熱が渦巻いていた。
 気温と体温で温まった水とは違う、明らかな異能の灼熱に身が震えたのは遠い過去の話だ。だが、輝夜なら武者震いが止まらないだろう。飽きと慣れはその意味合いが大きく異なる。慣れは、より円滑に物事を進ませるために欠かせない要素である。
 視界には映らない彼方で、竹が割れる轟音を聞く。雷鳴にも似たそれは、確実に、永琳の待ち人の在り処を示していた。

 

 

 桜の根本に埋まっている死体が誰にも見付からないのは、掘り出されるまでもなく存在しないか、或いは溶けて無くなったかのどちらかだ。無論、後者の場合その魂は桜に移る。ならば竹はどうか。空洞の幹に魂は移植されず、死体は掘り起こされ、そして再び肉体に帰る。
 二人が死んでいる。死んでいるのは血を流しているから分かる。胴から首が離れ、骨盤から腿が断たれているからそれは分かる。焼けただれた肉の香ばしい匂いは、雨が醸し出すそれとは一線を画していた。
 痛々しかった。
「……姫」
 呟く。独白なのか呼びかけなのか、永琳自身も判然としない。
 薬師として初めて死体を見た時は、情けないくらい吐いた。子どもの頃は蛙の解剖ですら泣いたものだ。だがそれらにも慣れ、死体を診る時も、死体を捌く時も顔色ひとつ変えずに平然と対応する鋼鉄の意志を得た。
 それでも、共に永遠を抱えた女性が朽ち果てている姿を視界に収めるというのは、吐き気をもよおすくらい辛く厳しいものだった。いっそ、嘔吐するのもいいかと思った。吐くことにはまだ飽きていない。慣れてもいない。慣れればそれは生きる糧になる。そう信じる。
 永琳は、改めて輝夜の名を呼んだ。
「姫――蓬莱山、輝夜様。大勢は決しました。火も鎮まりました。間もなく、帰る頃合です」
 雨粒が竹を叩き、柄の悪い拍手のように三者を埋め尽くす。
 燃え尽きた蓬莱山輝夜だったものは、くすぶった煙を出すことにも飽いて、飛び散った肉を掻き集め始めた。本来ならば見るに耐えない光景を、永琳はその瞳に焼き付ける。永遠とはこういうことだ。永遠の意義、魅力、役割、可能性はどうあれ、八意永琳が作り上げた蓬莱の薬という永遠の形は、このような死体置き場を、新しい肉の器に作り変えるだけの力があるのだと。
 永琳は、自覚しなければならない。
「――――、――――、ぅ、ん。ちょっと待ってね」
 声が聞こえた。まだくぐもった箇所はあるけれど、確かに蓬莱山輝夜の声音だった。
 骨盤に腿が接続し、捻じ切れそうな腕が逆方向に回り、焼け焦げた肌が水の助けを受けて滑らかな潤いを取り戻す。けれども、燃え尽きた着物まで修繕することは出来ず、しばらく生まれたままの姿で竹の海に座り込んでいた。
 ぼりぼりと、つむじの辺りを乱暴に掻く輝夜。腰まで伸びる艶やかな黒髪は、雨に濡れてより艶やかに輝いている。これが寓話にあるような竹取物語であったなら、確かに、光り輝いておらずとも翁は幼き彼女を連れ帰っていただろうと思えてやまない。
 困ったわねえ、と永琳を見上げ、輝夜の右隣に沈んでいた、人体修復中の蓬莱人に焦点を合わせる。嫌な予感はした。だが、止める間もなければ止める気もなかった。
 それらはみな蓬莱山輝夜の意、よって全ては彼女の責任によって成されるべきことだから。
「ちょうどいいから、剥ぎ取っちゃいましょう。復活すると面倒だし」
 そーれ、と首の取れた人の死体から服を奪い取る。途中、敵から激しい抵抗を受けるものの、大した労苦もなくいともあっさりと着せ替えに成功した。永琳は助太刀も仲裁もせず、ありのままの状況を受け入れている。
 もんぺとサスペンダーは若干焦げ付き、下袴にも所々に穴が空いている。それでも全裸のまま永遠亭までの一路を歩くよりはよほど健全だ。
 一通りの準備が終わり、行きましょうかと永琳が促す。
 輝夜は、自身と同じように濡れそぼった永琳に向けて、
「あらら。なんだかあなた、放り捨てられた仔犬みたいね」
 と、言った。

 

 

 雷雲は、永遠亭を経由せずに何処か別の場所に流れて行った。
 びしょびしょになった服を身に纏ったところで、もはや防寒の効果は期待できない。加えて身体の線まではっきり見えているから、素肌を露呈するよりは幾分かマシだろうけど、それでも羞恥心が完全に消え失せることはない。
 輝夜は、いい雨だわーなどと言いながら雨の中を跳ねている。陽気なのか呑気なのか、何も考えていないのか、全てを考えて行動しているのか。
「姫」
「それにしても、珍しいわね」
 不意を突いて放った呼びかけは、輝夜の声に雲散霧消した。
 永琳は口を噤み、立ち止まった主君の言葉を待つ。竹林を抜け、十分も歩けば永遠亭に辿り着く。竹林を歩いていた時間が長く、途中で幾度も立ち止まって考え事をしていたからずぶ濡れにはなっているが。
 輝夜は、泥が跳ねることなど気にも留めず、大袈裟に永琳の方を向く。
「服もびしょびしょ、髪も身体もみんなびしょ濡れだなんて。そういうのは、夢見がちな若人がやることだって、前にどこかで言ってなかったかしら」
 張り付いた髪の毛を撫で付けながら、輝夜が意地悪く語りかける。小さく緩ませた唇の端に、額から垂れた幾筋もの雫が滑り落ちる。
 丈の低い雑草を叩く雨音は、永琳が永遠亭を出た頃と大差のない喧しさで鳴り響いている。うるさいと、わずらわしいと歯噛みするよりも、変わらずに鳴り響いている雨音の風情を感じた方が健全であるように思う。
「姫は、私が若くはないと仰るのですか?」
 永琳が挑発すると、輝夜はふふふと笑う。先程の底意地が悪い笑みではなく、ごく自然に、おかしいのだから笑ってしまったとでも言うように。
「そうね、あなたは若いわ。だって、こうして雨の降る中を飛び出して来れたんだもの」
「姫、それは詭弁というものです」
「でも、あなたがそれを求めたのでしょう?」
 ふふ、と話を締めくくるように輝夜は笑った。
 彼女はよく笑う。豊かな表情は鈴仙やてゐのそれと同質で、永遠を生き――それが仮初か真作かの判断は放棄して――数々の経験を経てきた者が浮かべるにしては、全く屈託がないものだなと永琳は思う。
 長くを生きれば、多くのことに乾く。飽きる。
 いつまでも、濡れた身体のままではいられない。普通であれば。
「先程の、ご質問ですが」
「はいな」
「雨に濡れるのも、時には良いかと存じまして」
「そうなの。珍しい」
 水分を含んだ袖を唇にかざし、如何にも上品そうに驚いてみせる。お姫様らしく演じることが何故か無性に可笑しかったのだけど、主君の手前、声を詰まらせて失笑することは躊躇われた。また、永琳が必死に笑いを堪えたところで、当の輝夜にはとっくに見抜かれているのだろうし。
「それに、今日は暇でしたから」
「ああ、暇じゃあしょうがないわね」
 納得し、再び前を向いて歩き出す。永琳も彼女の後ろに続く。
 その無防備な背中に、一日の大半を費やした疑問――とも呼べない妄想、仮想、幻想――をぶつけてみたいと思った。明確な、説得力のある回答は要らない。それが他ならぬ蓬莱山輝夜の言葉であるなら、納得や理解など出来なくても、ひとまずの結論を出すことは出来る。
 だから、尋ねてみようと。永遠は、この小さな世界を飛び越えられるのか。この永遠は真の永遠なのか。求め続ければ、いつかは叶えられる夢なのかどうか、と。
 永遠亭の影が見える。塗り潰されるように濃くなっていく闇に、永琳たちの居場所もまた侵食されようとしていた。
 永琳は、輝夜に問う。
「姫」
「私はここにいるわよ。だから、そんなに焦った声を出さなくてもいいの」
「……承知しました。時に」
「はいな」
 息を飲む。開いた口に飛び込んできた雨粒もおまけに飲み込んで、素肌どころか身体の中にまで水分が回る。
「姫は、宙に憧れを抱かれますか」
 抽象的な問いは、初めから無視されることを期待しているようだった。
 二人は立ち止まらず、甘く生暖かい雨を一身に受けながらひたすらに永遠亭に向かう。
 沈黙は、永琳の口の中が渇くまで続いた。輝夜なりに間合いを計り、簡潔で、必殺の答えを模索している。それは、急かされるように足を進める輝夜の背中からも類推できた。
「宙というのは、月?」
 振り仰いだ空には、月はおろか星さえない。もしそれらが輝夜の目に映ったのなら、彼女は天に唾を吐いたか、或いはこの空気に即して冷ややかに微笑んだのか。分からない。分かったように虚勢を張るのは無意味なことだ。月は遠い。遠いのは位置であり、過去であり、精神だ。変わらない。変わらなかった。輝夜は永遠を望み、その結果として現在の輝夜がある。原因と結果を内包している輝夜が何を思い何を望み何のために生きているのか、それは、彼女にしか分からない。
 否、彼女にすら知り得ない――というのは、いささか詩的に過ぎるとは思うのだけど。
「月を含めた、概念としての一個世界です」
「永琳は、たまに難しいことを言うから嫌だわ」
「ご安心ください。私にも、まだ完全に整理できてない情報ですから」
「あなたは、研磨されていない情報を自慢げに頒布するというの?」
「姫であればこそ、です。付け加えるなら――貴女が、永遠であるなら」
 考えずにはいられない。永遠の意義、永遠の出発点と着地点、終着点、結末、その他の可能性を。なまじ長い時だけを与えられているから、頭を動かす時間は用意されている。
「永遠であるから、私は、姫にお尋ねしているのです。永遠は」
「永遠は?」
「定められた器を、越えられるか否か」
 足が止まり、踏み抜いた地面が自重によってそれ相応の窪みを作る。自然に溜まっていく雨水が、黄土色の泥と化して明確な色彩を帯びる。永琳と輝夜、合わせて四つの湖沼が誕生したところで、輝夜は掌を空に差し出す。ぽつぽつと、透明な粒が白く透き通った肌を打ちつける。
「仮に」
 唐突に放たれた言の葉を、永琳は聞き逃さなかった。が、その後に続く台詞を推測することは出来なかった。如何に天才と呼ばれようと、月人一人の深淵も覗くことが出来ない。共に長くを生きていればこそ、その差が縮まることは永劫に有り得ないが故に、これもまたひとつの永遠であると捉えることも出来ようが。
 考える前に、輝夜は続けた。
「越えられたとして、それは永遠? 仮に、越えられなかったとして。それは、永遠ではない?」
 輝夜の掌が小さな池になり、天から落ちる得体の知れない水を抱く。
 やはり、永琳は納得も理解も出来ない。月人同士、永遠を得た者同士――端的に言えば、長い時を共に在り続けた者同士――と言えども、後天的に生み出された言語という技術だけでは、心の壁を越えることはままならない。
 それでも、理解を放棄し、心を噛み砕くことを怠りはしない。
「――姫」
「言葉に囚われ過ぎね、永琳。私たちは何処かの誰かが作った『永遠』という単語を着ている訳ではないのよ。私たちが永遠なら、たとえこの小さな箱庭が壊れてしまっても、それはひとつの永遠でしょう」
 輝夜は、掌に出来た湖を裏返し、乱雑に大地へと還した。小さな世界がひとつ崩壊し、彼女は寂しそうに笑った。
「たとえ、私たちが死んでも。あなたが定めた永遠の形を、私たちは遵守する。
 それが、私たちの永遠」
 蓬莱の薬が生まれた経緯は、他愛のない笑い話に端を発するものだった。
 細かいことは忘却の彼方にあり、全てを知ることは叶わない。それでも、永琳が作り上げた永遠が、確かな永遠であると輝夜は頑なに信じている。それがいつか呆気なく崩れ去ってしまうものだとしても、紛れもなく、疑う余地もない程に全き永遠であると。
「越えられるのなら、宙をも越えましょう。でもそうしたら、まだまだ長い付き合いになりそうね」
 うんざりと、朗らかに語りかける主君の微苦笑が、途方もなく得がたいもののように思える。
 永琳は、頬に張り付いた銀の髪を引き剥がし、何だかよく分からない感情に押し流されて歪んでしまった表情を必死に取り繕い、ひとまず輝夜と同じようによく分からない微苦笑を浮かべながら。
「――はい。喜んで」
 と、言った。

 

 

 星は長生きね、と小降りになった雨を浴びながら呟いた。
 人の命は幾星霜、蓬莱人の命は未来永劫と言えど、星の命、宙の命は過去から未来へ連綿と光を繋ぎ続けている。敵わず、届かず、越えられない永遠がそこにはある。
 だが、たとえ一欠けらのちっぽけな命が紡いだ、ささやかな永遠と言えど。それを永遠と定め、それを永遠と信じている者がいるのなら。
 空から落ちた光のような雫は、びしょ濡れになった服に染み込んで音も立たない。その閃光のひとつひとつを身体に染み込ませて、一歩ずつ、時に泥が跳ねるように、雨粒が目に飛び込んで涙するように、立ち止まりながら、揺らぎながら前に進む。永遠亭は近い。十分の道程は三十分にも引き伸ばされ、あたかも死を前にして意地汚く生を永らえようと足掻く人間のようでもあり。
「着いたわー」
 長かったですね、と言い、誰のせいよ誰の、と笑う。姫が戯れているからです、それは詭弁というものよ、しかし姫がそれを望んだのでしょう――。
 短くも長い道程を経て、二人は永遠亭の正門に到着した。振り仰げば薄暗い雲が竹林の隙間から垣間見え、無愛想な面を引っ下げて空と宙に厚い隔たりを作っている。或いは、竹林に置き去った蓬莱の不死鳥ならばこの曇天をその焔にて突き破ることも出来ただろうが、そうしてまで得る平生は長くは続かない。それを、二人は知っていた。
 だから二人は、何事もなかったかのように、濡れ鼠を模した格好で引き戸を開ける。
 ただいま、と。おかえりなさい、とありのままに返される言葉を期待しながら。
 それもまた言葉に囚われているような気もするのだけど、頭の中で捏ね繰り回しているよりは、口から出して形にする方がよほど健全だと思うのだ。
「ただいまー」
「あ、お帰りなさ――――っていうか誰ですかあなたはー! あ、そう言えば竹やぶに棲んでる蓬莱人がそんな格好してるって師匠が! 奇襲、これは奇襲ね! てゐー! てゐー! って師匠もいるじゃないですかー!」
 がーん、と何処からか聞こえる衝撃音を交え、大袈裟に頭を抱える鈴仙・イナバ・優曇華院。忙しないことこの上ないが、それも全て輝夜と永琳を想っていればこその動揺であると信じたい。苦笑し、呆れ返っている輝夜の横顔を見るに、退屈を紛らわす程度の効果はあったようだから、鈴仙の誤解に対する処分を考える手間は省ける。永琳は安堵し、しきりに目を泳がせている鈴仙に言った。
「ウドンゲ」
「……うわ、でも何だか本物っぽいし――って、はい!」
 真贋の区別は付かずとも、師の声に反応する程度の気概は持ち合わせているらしい。
 優しく、それでいて、鋭く、躊躇いもなく、続け様に次の言葉を。
「ただいま」
「あ――お帰りなさい、ませ。師匠」
 多少淀みながらも、鈴仙もまた、自然に言葉を返す。
「でも、やっぱりびしょ濡れなんですね……」
 げんなりと、肩を落とす仕草がよく似合う。ふふ、と輝夜が隣で笑い、つられて永琳も口の端を歪ませる。鈴仙も何故だか力なく笑っている。きっと、鈴仙は知らない。永遠に在る者の業も、その行く先も、永遠の本質も。けれど、永遠であるからこそ答えられる問いがあるように、永遠でないからこそ応えられる希望もある。
 因果なものだ。
 だが、それも一興、それもまた人生と笑うことが出来たら。
「ちょっと、ウドンゲ」
 小さく、人差し指で手招きする。鈴仙は警戒する。じり、と後退り、永琳の前進を牽制する。
「な、なんですか師匠。いまだかつてないくらい嫌な予感がするのですけど、って、ちょー!」
 叫ぶ鈴仙、抱き付く永琳。無論、濡れ鼠と化した永琳の身体はぐしょぐしょで、飛び付いて抱き締めればその分だけ鈴仙も甚大な被害を被る。されども鈴仙の抵抗も虚しく濡れ鼠の謀略により月の兎は濡れ兎と化し、何やら出所不明な団体が出来上がってしまう始末。
「これで、ウドンゲも同罪ね」
「なんですかそれえ……」
 鈴仙を押し倒した格好のまま、わー、鈴仙と永琳が濡れ濡れでぐしょぐしょになってるー、と他愛もない妄言を吐き散らかしながら駆けて来るてゐの騒がしい足跡を聞く。流れている雫は涙か雨か汗の類か、何にしろ、何もしないままでは流れないものであることは確かだ。
 鈴仙にとっての破滅の足音が徐々に近付いてくる。
 だが、破滅を過ぎても彼女の日々は続き――それは俗に言う永遠ではないにしろ、終わるまでは限りが無いかのように続いて行く。同様に、永遠を生きる者も、その限りない日々を延々と、いつか終わってしまうにしても延々と、飽きることなく続けて行く。
 だから、この破滅も、生温い体温も、くすくすと笑う声も、喧しい足音も、五感に触れ、六感を撫でる全てのものが、永遠であり、悠久であるのだと。


「楽しいわね、永琳――」


 そう、信じている。

 

 

 



OS
SS
Index

2006年5月24日 藤村流

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