路傍の石
優しくされると、死にたくなる。
彼女はただ黙って私を見ていた。凛と佇んでいる姿は、ぼんやりと浮かんでいるだけの私の目をゆっくりとだが確実に潰し始めていた。
眩しい。
「御機嫌よう」
私はただ黙って聞いていた。
話すことは出来るけれど、彼女と言葉を交わすことが怖かった。
彼女は閻魔様であり、私は亡霊だ。
顕界に留まり続けている私は、きっと、裁きを受ける。
「こんなところで、何をしているんですか」
咎めるでも、責めるでもない調子だった。微笑みをかけられているなどという希望を抱くことも許されない私は、彼女がただ同情の目を向けているだけに過ぎないと解っていた。
それでも、私にはその同情すら沁みる。
「随分、遠くを見ているのですね」
彼女は私の隣に立ち、私が眺めている方角に視線を沿わせる。
ぼんやりとした私がぼんやりと眺めているのは、三途の河だ。
その向こう側には、多分、私が求めてやまないものがある。
今は、もう居ないかもしれないけれど。
「渡りませんか」
彼女は、一艘の舟を指す。舟には死神が乗っており、乗客の来訪を今か今かと待ちわびているように思えた。
私はただ、霧の深い河を眺めていた。
「渡らないのですか」
頷くこともせず、私は立ち尽くしていた。
閻魔様も、裁くのであれば、早く私を裁いて下さればいいのに。
出来損ないの私を、強引に、向こう側で引き立てて下されば。
この世に残した憂いの鎖を無理やり引き千切って、向こう側に待っているかもしれない一縷の望みと、偶然にも出会えるかもしれない。会えなくてもいい。傷つくだけでも構わない。
私はもう、死んでいるんだ。
そんな私に、優しくなんかしてくれなくていい。
「あなたは罪を犯した」
閻魔様が、裁きを申し付ける。
目も合わさない私のために、机も、槌もない寂れた場所でも、粛々と語りかける。
「ひとつは、顕界に子を残したこと。ひとつは、先立たれた女性の約束を果たせなかったこと」
――幸せに。
いつか、そんな約束をした。
でも、やっぱりそれは叶わない。
当たり前だ。
一人、たった一人が、あの団欒から欠けてしまったんだから。
「子を残したまま、女性の後を追ったあなたは」
責めるでも、咎めるでもなく、彼女は告げる。
ああ。
優しくされても、傷が出来るなら丁度いい。
私は多分、本当に死にたかったから、ここにいたんだ。
「幸せだったのですか」
閻魔様の目を見ることは出来なかった。
話すことも出来なかった。
幸せであるものか。
もう、その時には欠けていた。
戻らないんだ。
もう、二度と。
「自殺をする者は」
通例、三途の河を渡ろうとしても、舟から突き落とされることが多い。
私の全財産がどれくらいあるか知れないが、もし妻に会えるのなら、一縷の望みに賭けてもいい気がした。
けれども、未練はあった。
「あなたは、天国には行けないでしょう」
知っている。
だから多分、それも罰だ。
大切だったものを何もかも失ったまま、渡ることも、裁かれることもなく、川縁に佇んでいるだけの亡霊。振り返れば娘に会えるかもしれないのに、死んだ私が娘と触れ合えば、それは娘の傷になる。
私は死んだ。
今こうしてここに立っているのは、死んだことを否定したいからじゃない。
それは、きっと。
「後悔しているのですか」
彼女は問う。
私は頷きもせず、ただ河の向こう側を眺めていた。
「それとも、傷を抱えたまま、永遠に佇んでいるのですか」
それは、きっと。
忘れたくないからだ。
誰かを亡くし、傷跡を残して、この身を滅ぼした罪を、ずっと心に刻んでいたかった。
消滅すれば、その罪も消える。けれども、与えてしまった傷は癒えない。それは嫌だった。
死んでもよかった。
私など、さっさと消えてしまえと思った。
けれど。
「あなたは裁かれねばならない」
凛とした声で、彼女は言った。
祓われるなら、消されるのなら、それでもいい。
けれど、私が罪を犯したということを。
誰でもいいから、ずっと覚えていてください。
それが、唯一の未練です。
「だから、私があなたを裁きましょう」
閻魔様が、悔悟の棒を振り上げる。
私は消えるのだろうか。私はただ三途の河を眺めていたから、棒の行方に気を払うこともなかった。死にたいと思い、死んでからは、消えるまいと思っていた。消えないまま、罪を覚えたままずっと佇んでいようと思った。
楽になるなら、裁きなどいらない。
だから、どうか――――。
三途の河原に、一体の地蔵がある。
それは酷く傷ついており、明らかに誰かが傷つけているとわかる代物だった。
けれども、舟を渡す死神は決してその地蔵を磨きはせず、監査に訪れる閻魔も、地蔵を洗うことはない。
地蔵は、ただ黙して三途の河の向こう側を眺めている。
何故傷ついているのか、誰が傷つけているのかはわからない。
地蔵は何も語らず、晴れることもない霧の向こう側を、ずっと眺めていた。
SS
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