星に願いを

 

 

 

 私が妖精を初めて見たのは確か八才になるかならないかという時分で、その頃の私は子どもなりにやんちゃだった。だから口うるさい親の近くにいるのが嫌で、裏手の森を遊び場にしていた。
 森には様々なものがあった。見たこともない花、植物、動物、子どもの無邪気さはそれらの自然を恐れることなく受け入れ、私は家の中で閉じこもっているだけでは知り得ない多くのことを知った。
 妖精もまた、そのうちのひとつだった。

 

 

 森をしばらく進むと、名もない小さな川に辿り着く。その上流には小さな滝があり、運がよければ動物たちが水を飲んでいる様子を窺うこともできた。
 私はよく滝つぼの中で泳ぎ回っていたから、純粋に水分を求めていた動物たちには迷惑だったに違いない。けれども鈍感な動物は私の存在を厭う様子もなく、乾いた喉を潤おしていた。私も大して気にせずに泳いでいた。もし、今そのような所業に及んだのなら、下手をすれば動物たちの反撃を受けるかもしれないが。あるいは、妖精の悪戯か。
 そして、ある日のこと。
 全く偶然というほかないが、私が泳ぎを楽しもうと滝つぼにやってくると、そこには既に先客がいた。
 初め、私はそれを人間だと思った。小さな身体は見るからに滑らかで、長く透き通った黒髪と、キズやシミのない肌は、美しい女の子の体型そのものだった。だが、明らかに人間と違うところもあった。
 羽だ。
 アゲハ蝶のような大きな羽が、絹糸ひとつ纏っていない少女の背中にくっついていた。呼吸をするたびに羽ばたき、運がよければ、空を飛ぶ女の子の姿を見ることができたかもしれない。
 けれど、邂逅は一瞬で終わってしまった。
「――っ!」
 激しい物音を立てて現れた私に、彼女が気付かないはずがなかった。すぐさま身を翻し、一目散に逃げ出していった。私はその背中を目で追うことしかできず、汗ばんだ身体を水で洗い流すというそもそもの目的を果たすこともないまま、呆然とその場に立ち尽くしていた。

 

 

 もはや、滝つぼは泳ぐための場所ではなく、妖精を観察するための場所であった。
 あの妖精はもう滝つぼには現れないかもしれない、ということは考えなかった。良くも悪くも無鉄砲で、無邪気で、純粋で、全てが自分の思うままに進むと思っていた。子どもらしい考えだった。
 滝つぼを見渡せる茂みの中に隠れ、息を殺して妖精が来るのを待つ日々が続いた。はしゃぎまわるのが大好きだった昔の自分を思えば、よほどあの出会いが衝撃だったことがよく解る。
 不思議と、あの妖精は毎日滝つぼに姿を現した。警戒している素振りはあったが、きょろきょろと辺りを見渡すのは数分程度で、それからは無警戒に服を脱ぎ捨て、穢れのない身体を清らかな水に浸していた。
 妖精の身体は、幼い女の子のそれとほとんど同じだった。背丈こそ同年代の子どもより少しばかり低いものの、すらりと伸びた四肢に、やや浮き上がった肋骨と、ほんのすこし膨らんだお腹を見れば、羽さえなければ里の広場に紛れていても解らないくらいであった。
「……、ふぅ……」
 時折、妖精は人間の言葉を喋った。私は、彼女と話がしてみたいと思った。けれども、このままではそんな他愛のないことも難しいと解っていた。
 私は妖精の憩いの場を覗き見ている部外者で、妖精は人間を避けている。馬鹿正直に姿を現せば、あっという間に居なくなってしまうだろう。それでは意味がなかった。
 だからしばらくは、特に何も考えず、ただ黙って妖精の姿態を眺め続けていた。
 綺麗だな、と思いながら、いつかあの子と話せる日が来ればいいなと、無邪気に心を躍らせて。

 

 

 突然、妖精が滝つぼに来なくなった。
 最初は、具合が悪かったとか、忙しかったとか、それらしい理由をつけて自分を納得させていた。その一方で、本当は人間が来るのを恐れて水浴びの場所を移したとか、ただの気紛れだとか、現実的な理由も思い浮かべていた。
 諦めれば早かったのだと思う。
 後から知ったことだが、妖精は人間の里にも頻繁に現れる。人間に悪戯を仕掛けるのが好きだから、人間がいるところには必ずといっていいほど妖精の影がある。だから、ただ単に妖精を観察したいというのなら、幻想郷縁起なり先人の知恵なりに従い、適切な手段で妖精を観察すればよかったのだ。
 けれども、私はその道を選ばなかった。
 この場所に必ずあの妖精は来るのだと、愚直に彼女を待ち続けた。這いつくばった形のまま押し付けられた雑草のベッドに寝そべり、また泳ぎに来るのだと信じた。
 三日、一週間、十日が経った。
 暇があれば、暇がなくても滝つぼの傍らで息を潜め、妖怪が跋扈する夜中になる直前まで、彼女の来訪を心待ちにしていた。
 そうして、ようやく気が付いた。
 茂みから立ち上がり、木の葉の海に隠れた夕焼け空を仰ぐ。間もなく、妖精がいた水辺に夜が降りて来る。臆病な人間は家の中で息を殺し、凶暴な妖怪が幻想郷の空を切り裂くのだ。子どもながらに、その恐怖は実感していた。いくら安全な世の中に変わりつつあるとはいえ、無力な人間の子どもが妖怪に立ち向かえるはずがない。怖かった。親に口すっぱく言われるまでもなく、私は夜を恐れていた。
 だが、根源的な恐怖を越えなければ、届かないものがあった。
 手に入れたいわけじゃなかった。自分のものにしたいなんて思ったこともなかった。
 ただ、このまま、何も話せないまま彼女と別れてしまうのは、どうしても耐えられなかった。
 そんな、ちっぽけな望みだったのだ。
 空は静かに橙に染まる。
 夜だ。
 星が天を巡る頃、彼女は、この滝つぼに帰って来る。
 何故、そう確信したのかはわからない。朝も昼もいなかったから、後は夜だと消去法で考えた苦肉の策だったのかもしれない。そのわりには自信満々で、これしかないという使命感を持って、私は暮れなずむ空を睨みつけていた。
 遠く、東の空の端に、一番星が輝いていた。

 

 

 お腹は空いていたが、それは些細なことだった。魚を獲って焼いて食べることもできたが、妖精に気取られると面倒だった。腹の虫が鳴り、そのあまりの大きさに妖精を驚かせるかもしれないという虞はあったものの、あり得ない可能性を取捨選択して思い悩むのは、よい暇潰しになった。
 肘に草の葉の跡がつく。唇に茎が絡みつく。地面に密着させることで空腹を紛らわすことはできたが、身体が蒸れてしょうがなかった。ずっと同じ体勢でいるのも辛い。けれども動けば妖精を見逃すかもしれない。悶々とする時間が続いた。
 暗闇は既に周囲を覆い尽くしている。
 幼い目は徐々に夜に順応する。耳を澄まし、目を凝らし、漂う草と水の匂いの中に、妖精の燐粉を嗅ぎ取ろうとする。妖精の羽が昆虫のそれと同じなのかどうか、当時の私には解っていなかったのだが、きっと空を飛ぶ時はキラキラと粉を撒き散らしながら優雅に舞うのだろうと、よくわからない確信を抱いていた。
 そうして、眠くなるほど、長い時間を待った。
 実際、何度か意識は途切れていたと思う。単純な睡眠欲というより、長時間同じ体勢を取り続けているため、脳が危険信号を出したのだろう。記憶の断絶があることを知り、体勢を確認した時には少し体勢が変わっていた。
 おかしいなと思い、音を立てないように少しずつ身体を動かしているうちに。
 私は、見た。
 暗闇の中、滝が水に落ちる大きな音の狭間で、黒髪の妖精が静かに泳いでいる様を。

 

 

 言葉を失う。
 月光は、滝つぼの周りと妖精を皓々と照らし出していたけれど、彼女はみずから光を放っているように見えた。水から顔を浮き上がらせ、貪るように空気を吸い込む。羽が濡れても、特に気にしている様子はない。不思議な感覚だった。想像している妖精像が、気付かないうちに崩れているような。
 それでも、悪い気はしなかった。
 私が――傲慢なことだけれど、私だけが、妖精の真の姿を見ているような気がしたから。
 嬉しかった。
 もっと近くで、その姿を見たいと思った。
 動けば、きっと気付かれるに違いない。逃げられたら、今度こそ会えなくなるかもしれない。不安と願望とが激しく衝突していた。妖精は、小さな身体を仰向けにして、泳ぐでもなく浮かんでいる。まだ膨らみの少ない胸が、呼吸を繰り返すたびに上下する。水の中で彼女の腕が動き、そのたびに川の流れに逆らってゆっくりと進む。
 不意に、妖精が水に沈む。
 流れるような動作だったから、溺れたのではなく潜ったのだとすぐにわかった。ふ、と息を吐き、緊張を解く。と、同時に、意識が途切れた。
 がくん、と首が落ち、何事かと顔を上げる。滝つぼには大きな波紋が広がっており、妖精がそこに潜ったのだと理解する。まだ、そう時間は経ってない。安心した。
「なにしてるの?」
 だから、その声は紛れもなく不意打ちだった。
 頭上から聞こえてきた声は、幼い少女のものだった。弾かれたように身体を転がすと、目の前に屈みこんだ少女の姿がある。長く黒い髪、アゲハの羽、夜に溶ける白い身体。濡れた姿態はてらてらと艶かしく輝き、私の汗ばんだ身体にも多くの水滴を落としていた。
「もしかして、ずっと覗いてたの」
 責めるような口調ではなかったけれど、私は今更ながらその行為を恥じて、声も出せずに俯いていた。妖精はくすくすと意地悪そうに笑い、裸のまま四つんばいになり、私の顔を深く覗き込んだ。
「私も、こんなに近くで人間のかお見るの、はじめてなんだ」
 そう呟いて、無垢な瞳を私の瞳に合わせた。
 神秘的な容姿は、その実、人間のそれとほとんど変わらない。けれども、瞳の輝き、通った鼻筋、薄くても柔らかそうな唇、適度に膨らみのある頬、そのどれを取っても一級品だった。妖精が妖の精と名指されるのにも、納得がいった。
 彼女は、呆然としている私に、人間らしい言葉で語りかける。
「私はスターサファイア」
 スターサファイア。
 口の中でもごもごと呟き、正確に発音できるように努める。
 そのうちに、彼女は――スターサファイアは、次の興味に移っていた。
「ねえ、あなたのなまえは?」

 

 

 星が綺麗な夜だった。
 滝つぼから少し離れた場所に、大樹も草もない一角がある。そこから見える満天の星を、寝転がったまま眺めているのは気持ちがよかった。私は、名前を教えてくれたお礼にと、彼女にこの場所を教えてもらった。その彼女は今、私の隣で大の字になって遠い星空を眺めている。
 裸のまま話すのは、子どもながらとても恥ずかしいことだったから、スターサファイアに服を着るように勧めた。どうしてそんな人間みたいなことしなきゃいけないの? と聞かれると、答えに詰まった。恥ずかしいから、という答えはいまいち正鵠を射ていないように感じたが、とにかくそう答えるしかなかった。どうにか彼女を納得させ、私たちは晴れてこの場所に辿り着いた。
「綺麗でしょう?」
 小さく、私は同意した。
 今が何時かわからないが、こうして巡り巡る星を眺めていると、知らぬ間に長い時間が経っているような錯覚を抱いた。不意に、寝そべっているスターサファイアの手を握ろうと思い、手を伸ばしたら、もうそこに彼女の手はなかった。
 スターサファイアは、天を指差していた。
「北極星」
 ぽつりと呟く。
 憧れのような、あまりにも遠い存在を語る時のように、切なささえ感じる響きだった。
「あそこにじっと座っていて、ずっと昔から、自分勝手に光ってるの」
 凄いでしょう、と私に問いかける。
 私は頷くしかなかった。正直、スターサファイアの真意を上手く飲み込むことができなかった。けれども、指差した方角にどんと構えている一際大きな星は、確かに無数の星々の中で群を抜く輝きを帯びていた。
 彼女は不意に身体を起こし、押し付けていた羽をぱたぱたと動かす。そのたびにパラパラと撒き散らされる雫は、私がかつて期待していたような燐粉ではなかったけれど、醸し出す美しさは私が想像していたものと一致していた。
 私も起き上がり、彼女の隣で膝を抱え込む。
 他愛のない会話、名前だけを伝え合い、それ以外の大切なことは何ひとつ解っていない二人。人間と妖精。お互いに子どもでありながら、私はいつか大人になり、スターサファイアは妖精を演じ続ける。それはおそらく、幼い私の憧れだったように思う。こうでありたいと願ったのは、陶器のような美しい身体だけでなく、あまりにも奔放で、自由すぎる生き方そのものだったのだと。
 私は、また会えるかな、と尋ねた。
 黒髪の妖精は、くすくすと笑った。笑顔の意味はわからなかった。
 けれども、それを美しいと感じた。
「会えるかもしれないし、会えないかもしれないわね」
 そんな、と半ばヒステリックに私は叫んでいた。叫んだ私自身が驚いていたくらいだったのに、彼女は全く動揺することなく、神秘的な笑みを星の輝きに透かしていた。
「でも、会っても会わなくても、きっとあなたは嫉妬するわ」
 どうして、彼女はこうも捉えどころがないのだろう。
 星が絶えず動き回っているように、彼女の心もまたひとところに定まらないのだろうか。
 だから、こんなにも自由に、無邪気に笑えるのだろうか。
 わからなかった。
 それは私が人間だからかもしれないし、子どもだったからかもしれない。妖精であればわかったのかもしれないし、大人であったらわかったのかもしれない。けれども、仮定は何の意味もなさなかった。私は小さな子どもであって、その時でなければ、きっとスターサファイアという妖精に出会うこともなかっただろうから。
「人間は成長するけれど、妖精は成長しない。だからあなたは、子どものままでいる私を見て、きっと嫉妬するでしょう。だって、人間は嫉妬する生きものだもの。知ってるわ」
 人間を間近で見たのも初めてだというのに、人間の本質を知り尽くしたかのように語っていた。
 私は、何も言えずに俯いていた。
 子どもながらに、これが最後だと気付いてしまった。
 あんなにも愚直に、彼女に会うためならどんなことでもする、どんなことでもできると本気で信じていたくせに、彼女に別れをほのめかされると、途端にその決意が脆く崩れ落ちてしまう。呆気ないものだった。
 泣きそうになって、項垂れていた私の視界に、スターサファイアの顔が滑り込んできた。
「人間って、泣き虫なのね」
 ただそれだけを言い、私のほっぺたを両手で挟み、強引に顔を上げる。
 真正面に、スターサファイアの穢れひとつない顔があった。何をするのか、何をされるのか、予想がつかなかったといえば嘘になるけれど、本気だと信じられたのは、それが終わった後になってのことだった。
「かわいそうだから、おまじない」
 そっと、彼女の唇が近付いてくる。
 乾き切っていない唇はまだ潤いが残っていて、触れられている手のひらも、彼女の体温に温められてほのかな温もりを帯びている。胸の鼓動が速くなる。恥ずかしい。誰も居ないのに、こうして寄り添っているのがひどく恥ずかしいことのように思えた。けれども、離れることはできなかった。できるなら、ずっとこうしていたいと思った。幼い瞳に、スターサファイアの無垢な表情を深く焼き付けたいと思った。
 だから、目は閉じなかった。
 そうしなければ、夢だと疑ってしまいそうだったから。
「……、ん……」
 かすかな吐息と一緒に、彼女の唇が、私のそれと重なった。
 柔らかく、湿り気のある唇が触れ、感触を確かめる間もなく、スターサファイアは身体を離した。綺麗な瞳はとろけたように滲んでいて、その笑顔も、どこか妖艶なものに変わっていた。
 それも、彼女が私の顔から手を離したところでいつもの無邪気な笑みに切り替わり、呆けている私にすぐさま問いかけて来る。
「ね。元気出た?」
 私は、小さく頷いた。
 それが、星の妖精――スターサファイアと過ごした、最後の思い出だった。

 

 

 恥ずかしいことに、私はそのまま深く寝入ってしまい、起きた時にはもう彼女の姿はなかった。
 ただ唇の感触を思い出し、あの出来事が夢でなかったことを確かめるしかなかった。
 家に帰れば親に怒鳴られ、しばらく外出禁止の命が下った。やんちゃ盛りの私はその合間を縫っては例の滝つぼと星空が美しく見える広場に足を運んだのだけど、やっぱり、彼女の姿を見ることはなかった。
 それから、星が何百何千と巡り巡って、私が彼女のことを思い出すことも稀になったくらいに時間が過ぎた。
 幼い頃はあんなに喧しかったのに、所帯持ちになった途端、昔を知っている人が腰を抜かすくらい落ち着いてしまった。いちばん大きかったのは、男の子に間違えられるくらいやんちゃ坊主だった私が、妊娠して子どもを産んだことだろう。もう無茶はできないなと思った。あまり無茶と感じるような出来事も、あの妖精の一件しか思いつかなかったが。
 ともあれ、幼少期は遠い昔のこと、今は私に似たやんちゃ坊主――これは本当の男の子だけど――を抱えるお母さんだ。昔、親にあれほど怒られていた私が、あちこち走り回る子どもを叱っているのは何故だか不思議な気もするけれど、あの時、親がどんなことを思って私を怒鳴りつけたのか、その理由がすこしだけわかったような気がする。
 ずっと、子どもではいられない。
 けれども、この生き方に後悔はしていないつもりだ。
 初めてのキスの相手が女の子だったというのは、ちょっと残念だったかなとは思うけれど。
「ねー」
 五才になる息子が、キャベツを千切りしている私の裾をくいくいと引く。
 どうしたの、と問いかけると、息子はおもむろに扉の向こう側を指差し。
「羽が生えた女の子がいるの」
 どうしたらいい? と視線で問いかけてくる。
 私は、包丁を振るう手を止めて、息子と同じ目線に屈みこむ。そうして小さな頭をよしよしと撫で、これからどうすればいいのか、唯一無二の答えじゃないけれど、私なりに考えた助言を送る。
 多分、どう接しても間違いじゃないのだろうけど。

 

「遊んでやんな。それも、思いっきりね」

 

 神秘的には程遠く、それでも私なりに全力の笑顔で、きょとんとする息子にエールを送った。

 

 

 

 



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2007年7月18日 藤村流

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