一日一東方 暫定版

二〇〇八年 六月七日
(地霊殿・水橋パルスィ)

 


stand by me

 

 

 変な奴に絡まれた、というのが第一印象だった。
 そも、深く掘られすぎた井戸の穴が、いつまでも塞がれていないのが問題だったのだ。そこから興味本位の侵入者が現れないとも限らない。橋姫の身分からすれば、あちら側に渡るに相応しい者を見極めないといけないから、選定作業が増えるのはあまり好ましくない。というより、単に面倒なだけだ。
「はあ……」
 嘆息する。座り込んだ岩はごつごつと硬く、座り心地は悪い。棲家に帰れば椅子くらいはあるが、素直に帰らせてくれそうもない。このお客様は。
 鍵山雛と名乗る厄神は、じっとこちらを見下ろしている。見下すでもなく、見限るでもなく。そうしてくれた方がやりやすいのに、彼女はただ、何も思わずに水橋パルスィを眺めているだけなのだ。
「あなた、何か用なの?」
「貴女に」
 指を指すでもなく、スカートの前に手を重ねたまま、厳かに言う。
 雛の周囲には、ふわふわと、見る者を不安にさせる毒々しい塊が浮いている。あれが厄か、とパルスィは見定めた。ならば、彼女がここに降りてきたのも理解できる。人の厄を預かるというのなら、この身から燃え立つ嫉妬の炎に惹かれて、吸い寄せられてきたのも頷ける。
「そう。私は、特に無いわ」
 最後にひとつ、ため息を吐いて、パルスィは突き放すように立ち上がった。雛の眼はパルスィの瞳に合わせようとしているけれど、パルスィは決して目を合わせない。雛の瞳に如何なる感情が浮かんでいようとも、パルスィはそこに隠された意図があるのだと邪推する。
 背を向けて、歩き出そうとする。背中に雛の視線を感じるも、立ち止まる義理はない。二歩、三歩、鳴り響く靴音は洞窟の深淵に吸い込まれ、吐き出す重苦しい息もまた、底のない闇に沈む。
「可哀想」
 パルスィは振り返った。
 最も大切なものを犯されたような、凄まじい形相をして雛を睨む。かすかな、声を発した本人しか聞き取りようのない小ささにもかかわらず、パルスィはそれを聞き咎めた。
「……帰れ」
 宣告する。
 雛は微動だにしない。パルスィの苛烈に過ぎる緑眼を受けてもなお、退かず、怯まず、真摯な眼差しのみをパルスィに送っている。そこに同情の色がわずかにでも滲んでいれば、パルスィは雛を八つ裂きにするつもりでいた。
 だから、これが最後通牒だ。
「二度と、そんな言葉を口にするな」
 口にするだけでも虫唾が走る、というふうに顔をしかめて、パルスィはその場を飛び立った。
 後に残された厄神は、ただ呆然と、橋姫が飛びゆく軌跡を見つめるのみであった。
 あたりを漂う忌まわしい厄の塊が、ふわり、ゆらり、と漂っている。

 

 

 三日が経ち、パルスィがふらりと洞窟の中を漂っていたら、あの厄神に再び遭遇した。
 三日前と同じように、身体をふわりと宙に浮かせて、ゆっくりと、くるりくるりと回り続けている。瞑想するように瞳を閉じ、回転している彼女を目の当たりにして、パルスィは深く嘆息した。あの日は興味本位で声を掛けたが、今回は無視することもできる。が、目を瞑っていても、パルスィの存在には気付いているのだろう。
 彼女が厄を引き受ける神ならば、この身から爛れ落ちる嫉妬の煙を、彼女は決して見逃すまい。
 雛の横を通り過ぎようとして、不意に、雛が声を発する。
「ごきげんよう」
 立ち止まり、パルスィはわざとらしく額を掻く。
「帰れと言ったはずだけど」
 雛は、きょとんとしている。まんまるの眼はただまっすぐにパルスィを見つめ、パルスィはその眼差しが過度に重く感じられ、咄嗟に顔を背けた。
「……あなたは、何故ここにいる」
「お話、したいと思ったから」
「誰と」
「貴女と」
 パルスィは失笑した。
「それは、何のために? 言っておくけど、こないだみたいなことを理由に挙げたりしたら、いくら神様でも殺すわよ」
 緑眼の底が輝き、その瞳に射竦められた雛の表情が、わずかに翳る。その表情の変遷を見て、パルスィは顔をしかめた。
「……何なのよ。あなた」
 くしゃくしゃと、金の髪の毛を掻き乱す。気が殺がれる。思い通りの反応はするが、決して、最後の一線は踏み越えない。パルスィが張り巡らせている地雷は、たった一言だけでも立派に起動する。三日前に雛が呟いたあの言葉だけでも、パルスィが雛を縊り殺すだけの理由にはなっていた。あくまでも、パルスィにとって十分な理由、ではあるけれど。
 なら、どうしてあのときに絞めなかったのだ。
 自問自答して、結局は答えの出ない問いだと知る。きっと、気が向かなかっただけだ。次に雛があの言葉を言えば、パルスィは必ず行動に移す。その確信だけ、心の片隅に焼き付けて。
 パルスィは、雛に向き直る。
「なら、あなたはどんな話をしてくれるの?」
 片手を広げ、試すように問いかける。
 雛は、人差し指で自分の頬に触れ、思い悩むように首を傾げた。この期に及んで、何を話すか考えていないということもないだろうが、いまいち憎むに憎めない表情である。パルスィは、怒りよりもため息を消化する方に重点を置くことにした。
 すっ、と浮かんでいた身体を地面に降ろし、そこいらの岩に腰を下ろす。それから、じっとパルスィの緑眼を見つめ、無言の圧力をかける。なかば脅迫にも似た視線に辟易しながら、パルスィも同じように適当な岩に腰を落ち着ける。
 雛から少し離れた位置で、斜向かいの、声だけはよく聞こえる場所に。
 ぽすん、とスカートの真ん中に置いた手のひらは、初めからそうであるかのように、仲睦まじく繋がれたままである。封印でも掛けてあるのかと、手首に何重にも巻かれたリボンを見て、思う。
「特別なことは何もない」
 石碑に刻まれた文言をなぞるように淡々と、宣告にも似た口調で雛は語り始める。
「貴女と話すことができれば、それはどんな内容でもいいのです」
 満面の笑みには程遠い、けれどもはっきりそれとわかる微笑みを浮かべる。
 今度はパルスィがきょとんとする番で、話を振られているのだと理解するまで、しばしの時間を要した。気がついた頃には、雛の微笑みもうっすらと解けている。だが、あんな輝かしい笑みと相対せずに済むのなら、茫然自失としていた時間も無駄ではなかった。
 輝けるものに対すれば、おのずと心がざわつく。
 初めから暗く染められていれば、心が疼くこともなかったのに。
「そう」
 頷き、立ち上がる。
 重心を右に左に揺らしながら、きょとんとパルスィを眺めている雛に歩み寄っていく。そうして、雛が座っている岩の隣に座り、不思議そうにパルスィを見る雛の眼差しを、間近で受け止める。
「あなたは、厄の神様。あなたの周りにぽつぽつと浮いているそれは、聞かなくてもわかる――厄の塊でしょう。それに触れれば、目に見える災いが降りかかる。今も、あなたとこうして話しているだけでも、私に不幸が訪れるかもしれない。今でなくても、近い未来、ろくでもないことが起こらないとも限らない。――ていうのに。それを知りながら、あなたは私に話しかけた」
 パルスィの眼は雛の瞳の中心を捉え、わずかでも視線を逸らせば何かやましいことがあると容易に知れる。やましさは心に棲む梅毒であり、わずかな起因さえあれば、それを引き金として精神を骨抜きにすることもできる。
 そしてパルスィは、そういう能力を持っているのだ。
「私なら、地下に棲む呪われた力を持つ者たちなら、不幸になっても構わないと思っていた?」
 互いの瞳に、それぞれの緑が映し出される。みじろぎひとつせず、気圧されもたじろぎもしない。まばたきのひとつやふたつ、あってもおかしくはないはずなのに、眼球が乾燥して自然に落涙することさえ厭わず、ふたりは表情ひとつ揺り動かさぬままに睨み合う。
「妬ましいでしょう」
 緊迫した場を捻じ切るように、パルスィは口の端を歪める。
「あなたは誰にも触れない。親しげに今日一日の出来事を語ることも、仲睦まじく寄り添い合い酒を酌み交わすことも、あなたの存在がそれを許さない。……因果なものね。あなたは人間のために厄を引き受けているのに、それがあるせいで、近付ける者を選ぶんだから」
 一度、雛がまばたきをする。乾き切った眼球が涙腺を刺激し、雛のまなじりから涙を溢れされる。たった一筋、頬を伝う涙の雫を見ただけでも、パルスィは雛と話している価値があると思った。
 そこに、痛みや悲しみの意図が無くとも。
「もしも」
 一度、パルスィもまばたきをする。潤いこそ感じるが、涙は出ない。出ていたにしても、そんなものを流した記憶などパルスィの中にはないから、たとえ出ていたとしてもわからなかった。
 開け放った視界の先には、涙の川を右の頬に刻んだ雛がいる。左の瞳は、まだ涙を流していない。
「ただの人間でいられたら、こんなにも胸が軋むことはなかったのに。こんなにも人間のために尽くしているのに、誰にも触れず、誰も近寄れない。仕方ないものね、あなたは厄神なんだから。でも、どんなに仕方ないと思っていても、羨ましいことには変わりないでしょう? 何の気兼ねもなく、人に触れ、言葉を交わし、笑い合える者たちのことが。羨ましくて、妬ましくて、……ああ、でも、妬んじゃいけない、羨ましいと思っちゃいけない。そんなことを思ってるのかもね、あなたは」
 視界の端を横切る紫色の厄を、パルスィの右手が掴み取り、即座に握り潰す。
 手のひらはただれ、焼け焦げた箇所からくすんだ血が零れ落ちる。一瞬、雛は目を見開いたが、パルスィの表情には目立った変化はなかった。落ちた血は岩を紅く汚し、脳を引き裂く痛みはパルスィの中に侵食する。けれども、顔色を変えることはなかった。
 この程度のことで、動揺するはずがなかった。
「でも、人を妬んで何が悪いの?」
 問いかける。雛の表情に変化はない。葛藤している様子も見られない。
「人とあなたは違うもの。あなたにないものは誰かが持ってる。欲しがることは、何も悪いことではないの。それは、あなたに必要なものなんでしょ? それさえあれば、あなたは穏やかになれるのよね。なら、欲しがりなさいな。意地を張って、要らないだなんて言っていないで、もっと、もっと妬みなさい。足りないだなんて嘆いていないで、誰かがそれを落とすことを願い、奪い取れるだけの力を求めて、もっと、もっと貪欲になるの」
 緑眼は輝き、雛の瞳を射竦める。
 お互いがお互いの瞳に吸い寄せられ、くらり、と雛の身体が傾く。
 堕ちた――と、パルスィが内心ほくそ笑んだ瞬間。
 雛は、パルスィの身体に抱きついていた。
「――――え?」
 きょとんとする。
 胸に圧し掛かる他人の重さは、パルスィを岩の上から転げ落とすには十分過ぎた。なかば押し倒されるように背中から地面に落ち、鈍痛と共に呻き声が漏れる。視界が途切れ、溜めていた感情が堰を切って流れ出し、手のひらの痛みがそのまま表情に現れる。皺の寄った眉間に、すこし顔を離した雛の吐息がかかる。
 他人の熱を感じる。暑苦しい。顔が近い。そんなに近くに寄られると、何をするにも面倒になる。だから、少しくらい離れていた方がいいのに。
 どうして、彼女はこんなにも近くにいるのだろう。
「私は何も要らないから」
 だから、と雛は言葉を繋いだ。
「私のものを、貴女にあげる」
 不意に、手のひらから痛みが消え失せる。雛の手のひらはパルスィの手のひらと重なり、焼け焦げた手のひらは見る間に柔らかな肌の色を取り戻し、それと反比例するように、雛の手のひらが醜く焼け爛れる。肉の焼ける匂いがして、顔をしかめる。血はこぼれ、綺麗になったパルスィの手のひらを伝い、肘の関節にまで届くような血の川を作る。
「……これだけ?」
 簡潔に問えば、雛は小さく頷く。痛みはあるだろうに、それを顔に出すことはない。けれども決して無表情というわけでもなく、どこか穏やかな、満たされたような顔をしている。
 羨ましいな、とパルスィは思った。
「そう。私が貴女に渡せるものは、これくらい。貴女は妬んでいるだけで、何も欲してはいないから」
 胸にひとつ、丸い棘が刺さる。図星を突かれたせいで、不自然に顔が歪む。笑っているのか、嘆いているのか、当のパルスィにもわからない。
「そうね。私は何も、求めてはいないのかもね」
 求めたところで手に入らないことは解り切っている。望んだところで叶わないことも知っている。鍵山雛が厄神であるように、水橋パルスィは橋姫であり、嫉妬心を操る能力を持った存在であり、それ以外の何者にもなれない。
 生まれて初めて呪った相手は自分だった。
「ね、厄神さま」
 それは、懇願に近い響きを持っていた。求めていても手には入らず、望んでいても決して叶わず。信じても裏切られ、祈りは届かず、願いは絶えた。何千何万も無駄な行為を繰り返し、それでもなお、ひとつの願いだけが残されていた。
 もし、ひとつだけ願いが叶うとしたら。
「橋姫は、今はもうただの現象でしかない。でも、私が私になる前に、幸せな世界を呪い、幸せな人間を妬んだ誰かがいたはずなの。だから、ねえ」
 無数の走馬灯が脳裏をよぎり、その中に、自分に似た影を探そうとして、やめた。
 今はもう名前さえ思い出せない幻影でも、不幸な誰かの姿を見るのは好きじゃなかった。
 悲しみに浸り切って、熱も冷めたぬるま湯の中で、誰かの慰めを待つのは嫌いだった。でも、既に過ぎ去った幻だから、名前も忘れた他人のことだから、あの子が抱いていたはずの恨み言を、肩代わりするくらいのことは、許されてもいいのだろう。
 パルスィは、声を詰まらせそうになるのをぐっと堪えて、雛に懇願する。
「あなたはどうして、あの日、泣いていたあの子のことを、もっと、もっと早く、助けてあげられなかったの……?」
 弱々しい呪いの言葉が、雛に浴びせかけられる。
 仕方のないことだ。もう、神様でも、運命を司る悪魔でも、時間を操る奇術師でさえ、叶えられない願いだ。それは既に終わったことで、もし過去に戻ることができて、泣きじゃくっていた子どもを助けてあげられても、今ここにいるパルスィが、橋姫でなくなることはないのだ。
 けれど、そう願わずにはいられなかった。
 叶わなくてもいい。聞き届けてくれなくてもいい。ただ、耳を傾けてくれるだけで。聞く者の心に痛みを植えつけることができれば。今ここに、世界を呪っている誰かがいて、かつて、世界を呪った誰かがいたことを、記憶の片隅にでも留めてくれればいい。
 たったそれだけでも、少しは救われる。
「……ふふ」
 微笑む。
 雛があまりに真面目な表情を見せるものだから、本当に、本当に可笑しく思えてしまった。こんなもの、真剣に考えることはないのに、厄神の性分か、雛の性格かはわからないけれど。
「いい子ね、あなた」
 正直な思いを告げると、雛は不意に頬を染めた。子ども扱いされたせいか、それとも単に褒められるのが苦手なのか。いずれにしろ、純朴であることに違いはない。パルスィは苦笑した。
「照れてるところ悪いけど、ちょっと、退いてくれない?」
「あっ」
 ようやく、パルスィを押し倒していることに気付いたように、雛はパルスィから身を離す。あいたたた、と背中を擦りながら起き上がろうとするパルスィに、雛は傷付いていない方の手を差し伸べる。
 何秒か、その白く透き通った手のひらを見、パルスィは鼻から息を抜く。
「悪いわね。でも、ひとりで立てるわ」
 雛の手は借りずに、ひとりで立ち上がる。首に巻いたスカーフを解き、右腕に付着した雛の血を拭き取る。そして汚れたスカーフを、傷付いた雛の手に被せた。
「私の痛みは、私のものだから。それをあなたに背負わせたまま立ち去れるほど、悪趣味な女じゃないわ。……橋姫のくせに、説得力ないけどね」
 自嘲する。
 パルスィは雛の手を丁寧にスカーフで包み、最後に優しく結んで、その上にぽんと手のひらを置く。痛みか、疼きか、それに似たもので雛の眉がぴくりと動く。
「じゃ、帰るわ」
 雛は小さく頷く。
「そのスカーフ、あなたにあげるわ。煮るなり焼くなり、好きにすればいいけど――ま、贅沢言うなら、箪笥の中にでもしまってくれると嬉しいかな」
 去り際に、そんな台詞を残して。
 立ち尽くす雛に背中を向け、硬い足音を洞窟の岩肌に響かせながら、暗闇の奥深くに消えて行く。
 ゆっくりと。振り返ることもなく。

 


 物寂しい靴音は徐々に遠ざかり、耳を澄ましても何も聞こえなくなった頃、ふわり、と雛の身体が浮き上がる。
 くるり、くるりと回り続ける厄神の周りに、ぽつり、ぽつりと紫の厄が浮かび上がる。
 今は手のひらを胸に抱き、この闇に溶けた誰かを思い、遠い過去の記憶を遡るように、儚き祈りを捧げる。
 嘆きもなく、苛立ちもない。深い喜びも、激しい慟哭もない。
 ただ、胸の中心にぽっかりと空いた空白だけが、静かにある。
 パルスィもまた、同じ穴を感じているだろうか。
 ひとりで立てるわと言った彼女は、今もまだ、ひとりで歩いているのだろうか。
 そんなふうに、歩き続けて来たのだろうか。
「また会いましょう」
 届かない言葉を告げて、くるり、くるりと厄神が回る。
 瞳を閉じて、まぶたの裏に浮かぶ微苦笑と、いつかまた他愛もない言葉を交し合えることを願いながら。

 洞窟は、厄に満ちている。

 

 

 

 



SS
Index

2008年6月7日 藤村流

 



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