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「はい」
蓮子が放り投げた缶詰を、私はよろめきながらも丁寧に受け止めていた。過剰な色彩の包装を眺めていると、間もなく丸々とした桃の絵に行き当たる。するとなんだ、私は荷物持ちということか。
確かにここは近所のスーパーで、蓮子の買い物に私が付き合っているという構図は見るからに明らかである。だけれども、店に入る前段階において私は傍観者の立場であり、救いの手を差し伸べることもなければ彼女の財布の紐に縋りつくこともない言わば神の視点にあったのだ。
それが、数分もせずにこの有様か。
神は死んだ。
「ほら、そんな不貞腐れた顔してないで、缶詰持ってよ」
次から次へと、蓮子は私の腕に缶詰を積む。おいそこは胸だ。
「わかった、わかったから、ちょっと買い物カゴ持って来るまで待ちなさいよ。重いわよ」
「そんなの、1.5リットルのミネラルウォーター3掛けした末のカゴを持ってる私はどうなるのよ。グラム1000円、片方1.5kg超過のメリーの比じゃないわよ?」
はい、とまた私の胸に缶詰置くのはやめてほしい。というか、1.5kg超過ってそういう意味か。
グラム1000円が高いか安いか、周囲の目を見ればなんとなく理解出来るような気もするが、あまり積極的に理解したくもない題材である。
私は、若干屈辱的な格好で買い物カゴを取りに行った。
良い晒しものである。
「――よい、しょ」
言った後で、実におばさんくさい台詞だと後悔する。だが生きている限り前に進んでいるが故に年は取るわけだから、それもまた一興だと素直に受け入れられるだけの素養は持ちたいものである。
今はちょっと無理だけど。
ガラガラと缶詰をカゴに揺り落とし、桃やら蜜柑やら洋梨やら、果実系に偏った蓮子の食生活に一抹の不安を感じながら、周囲の好奇な視線を掻い潜るように蓮子のもとに舞い戻った。
「あ、お帰り」
「もう、今日は買い物しないって決めてたのに……」
「私のお金だからいいじゃない、メリーも贅沢出来るわよ」
「そりゃ、魅力的な提案かもしれないけど……て、缶詰ばっかりね。なんだか」
蓮子のカゴは、ほぼ半数が缶詰という極まった偏重振りを呈していた。鯖の味噌煮、豚の角煮、秋刀魚の蒲焼、桜肉や鯨肉なども各種取り揃えている。海豹や熊の肉は、残念ながら無い。
サプリメントに占領されていないだけマシかもしれないけれど、蓮子が貧相な身体を強いられている一因が垣間見えたように思えて、私は咄嗟に蓮子の腕を掴んでいた。彼女もぎょっとした顔で立ち止まる。
「蓮子……」
「え、なに、同情?」
同情するならホルモンをくれよ、と蓮子は私の胸に訴える。ちなみに女性ホルモンの方だろう。でもまぁ、そのあたりは遺伝子の関係もあるから仕方ないじゃないかな。うん。
いやに誇らしげな私の態度が気に食わないのか、蓮子は私を諭すように語る。
「まぁ、何時の世も学生さんは厳しい食生活を堪能しなきゃならないってことで。どうしても気になるんなら、今夜はメリーがご馳走してくれてもいいのよ?」
ね? という純な訴えに、ぐ、と声が詰まる。ニヤニヤと笑う蓮子の意地悪な笑みは、彼女の視線が豚の缶詰に落ちたことで、あっさりと掻き消された。
人の波は留まることを知らずに流れ続け、生鮮食品売り場から漏れるスピーカー越しの大声も、一体どれだけの人が耳を傾けているかわからない。
悲しいかな、健康という単語は今や形骸化している。
医学薬学遺伝子学の発展は、人間の寿命を延ばし、同時に食の安全ももたらした。遺伝子組み換えに対する不信感は、世界的な食糧難という逼迫した――あるいは操作された――危機意識に容易く塗り潰され、そして味も良く値段もお手頃と来れば世間に浸透しないはずがない。添加物も少なく、保存料も着色料も人体に影響しないものばかり。嗚呼、素晴らしきは科学の発展か人の業か。神は死んだ。だから我々が神にならなければ――て、そこまで書いてあったか。途中までは、教科書の受け売りだけれど。
ぼんやりとした情報は、隣人の台詞に上書きされる。
「絞められて」
嫌な予感がした。
蓮子が黙ると、場が凍る。それは、常に喋り続けている蓮子――と同様に私も喋り続けているんだけど――が黙り込むことの違和感がそうさせているのだと、私は思う。回遊魚が泳ぐのをやめるとマグロになる……てのは、意味が違うかもしれないけど。
蓮子は私が理解出来ると思って難しいことばかり口にするが、私にも理解出来ないことはある。かなり。そりゃあ、頑張って噛み砕こうとはするけれど、それでもやっぱりどうしても届かない領域はあるものだ。
例えば。
「首を切られて、血を抜かれてさ」
「蓮子、ここは公共のスーパーです。蓮子」
「知ってる」
フフ、とそれでも口の端を歪める蓮子は本当に性質が悪い。ギアが上がったのかアクセルを踏みっぱなしなのか、あまり車が走らないこの街では、そんな語句さえただの比喩に成り下がっているけれど。
私は。
「養豚場にいる豚と、ここに詰まっている豚が、丸っきり同一の存在だなんて、にわかには信じられないわよね」
蓮子の科学者然とした思想に、どうしても到達出来ない。
蓮子は、観察している。目の前の切り売りされている豚と、空気の良い土地で栽培されている豚の形を照合し、その過程を想像している。
それは多分、科学的な思考なんだろう。
私は、ちょっと感傷的になってしまうけど、蓮子は違う。物事の善悪を抜きにして、一足飛びに事象を解読する。そこに人間としての意志は介在しない。あるのは観察者の意識だけだ。
「……そうかな」
と、そこまで考えて、私は自分の額を突いた。真っ赤なカゴの中に、色とりどりの缶詰が幾つも放り込まれている。果物も、切断されている以上は原型を留めていない。生物も、果物も、そういう意味では大差ないのだ。
いずれにしても、考えすぎである。
少し、頭が痛い。
「ねえ」
「何よ」
蓮子が問う。私は、俯きかけていた首を起こした。
彼女は、手の中で器用に缶詰を回していた。
「人間もさ。数世紀前の姿と、今現在の姿が、全く変化していない――なんてことは、無いと思わない?」
にやり、と笑いながら。
若き科学者は、至極残酷な事実を宣告した。
――ような、気がした。
「蓮子」
「うん」
何故か誇らしげに佇む彼女の胸に、陳列棚から取り出したツナ缶を押し付ける。うぎゅ、どむっ、と鈍い音が上手い具合に重なった。ざまあみろ。
「ろくでもないこと言ってないで、さっさと食料品を探す。重いんだから、缶詰」
わざとらしくカゴを揺らし、蓮子にカゴの中身を見せ付ける。だが、彼女は胸から転げ落ちそうになったツナ缶を握り締めたまま、恨み節を吐きかけることに夢中なようだった。
「痛い……」
「私も痛いわよ、頭」
これ見よがしにこめかみを押さえる。
「メリーみたいに、豊満な胸があるわけじゃないのに……」
「……見ないでよ」
「見せびらかしてるのに……」
「誰がだ」
調子に乗ってまた桃の缶詰を乗せようとする蓮子に、返す刀でコーン缶を突き付ける。だが二回目ともなるとどちらも学習しているようで、蓮子の缶は私のカゴに、私の缶は蓮子のカゴに吸い込まれていた。
かつん、と硬い音が鳴る。
同時に、喧騒が戻って来る。普通に考えれば喧騒は初めから私たちを取り巻いていて、私たちだけが結界の中に隠れていたのだろう。
結界は、特定のサークルにいる者が勝手に作るものだ。
そこには、魔法も、科学も、信仰も関係ない。
あるのはきっと、強烈な思い込みくらいなもので。
「まぁ、余談はこれくらいにして」
蓮子がカゴを片手に歩き始める。冗談とは言わなかった。その意味を、しばし考える。
追いすがるように私も歩き出し、手に持っていた乾パンの缶を元に戻した。本当、何でもある。きっと何でも揃うに違いない、この街では。
合成という魔法を使って。
魔法の世界では何も叶わない魔法で、きっと、何でも。
「……考えすぎかな……」
そんな私を、隣にいる蓮子は目ざとく探し当てる。
思い悩んでいる時、気が利く友人というものは、助けられもするし、陥れられたりもする。難儀なものだ。彼女は、低脂肪の牛乳に手を伸ばしながら、心配そうに語りかける。
「どうしたのメリー。カロリー計算でもしてた?」
「別に、体重がどうだろうと宇宙には行けるわよ」
多分。
「そうね、多分」
まぁ軽い方が先に着くかもしれないけど、などと口憚ることなく宣言し、軽くステップする蓮子の背中に冷凍たこ焼きを押し付け、適度に暖房の掛かった店内から程遠い温度に蓮子はうすら寒い悲鳴を上げた。ざまあみろー。
と、このあたりで店員さんに怒られた。
ほんとすみません。
蓮子のカゴはほぼ満杯になり、彼女の偏った食生活を憂えた私が放り込んだ有機栽培のじゃがいもも数個放り込まれ、料理が面倒くさいと渋る蓮子も無事に会計を済ませた。私は、買い物しないと決めていたのに、やっぱりチョコを買ってしまった。ちょっと高めの。
致命傷には程遠いが、真綿で首を絞めるような、緩やかな死を感じる。
ため息。
「財布の紐、締めないといけないわよね……」
「でも、今時財布持ってる人も少ないけどね。携帯で済むから」
それもまた一種の魔法で、一種の偏重主義だとも思うのだけど。
途中で立ち止まれないのは、発展し続けなければ死んでしまう科学の業が、人の性か。
袋詰めや釣り銭の計算に忙しい蓮子は、暇を持て余して缶詰を回し始めた私に、しなくてもいい話の続きを提案した。
「ね、さっきの続きなんだけど」
「聞かなくちゃ駄目?」
だめー、と両手で大きくバッテンを作る。そんな嬉しそうにやらなくても。
「最近……と言ってもかなり昔からだけど、食卓に上げられている刺身と、海で泳いでいる魚が、同じ生き物なんだって理解出来ない子どもが多くなってるらしいのよ」
それはおそらく、豚にも通じる話だ。
けれど、その類の話を嬉々として友人に語りかける彼女も、なかなか悪趣味である。あるいは、こうして呑気に付き合っている私もまた、同じ類であるのかもしれないが。
いずれにせよ、瑣末なことだ。
これから語られる、どうしようもない結論に比べれば。
「どっこい、しょー」
蓮子は、ミネラルウォーターが3本入った袋をいとも簡単に吊り上げながら、淡々と言う。台詞だけなら、蓮子の方がよほどおばさんくさい。
ただ、それを指摘しても彼女は怯まない。笑いながら怒りはするだろうけど。
「じゃあさ」
嫌な予感はした。
けれど私に出来るのは、この幸せそうな蓮子の笑みを受け流すことも出来ないままに受け入れることだけで、結局は、それが一番平和な解決法なのだと知っている。
だから、私は。
「妖怪の中には、普段食べている人間の肉と、そのへんを歩いている当たり障りの無い人間が、同じ存在だと気付かない奴もいるんじゃないのかな?」
この料理しようのない結論を、生のまま飲み下すしかないのだった。
たとえ、彼女の結論が役に立つ日が来るにしろ。
それは、私たちにとっての絶望にしかならないのだから。
SS
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