あなたのために摘んだ魂、ひとつ摘まんでくださいな

 

 

 

 夜の街道に、かたかたと震える男の影があった。
 道を塞ぐように立ち、不器用な手付きで刀を構え、目の前にいるはずの「何か」にそれを向けている。かたかたと震えているのは歯で、腕で、心だった。
 何も見えない。月明かりは切れ味のよい刀を照らして、何かを斬るための道具を美しく光り輝かせているのに、夜の街道は闇に落ちて何も見えないのだ。
 汗が滴り落ちる。暗闇は透明である、夕暮れの橙も、朝焼けの緋も、空の青も、こけた頬の土気色した肌の色も、何もかもを等しく澄んだ闇に落とす。
「妖怪め!」
 男が狂おしく咆える。獣とは名ばかりの、恐怖をめいっぱい押し殺した人間の叫びだった。
 呼びかけに応えるように、月光を吸い込んでいた闇がひとところに収束する。それは少女の輪郭を成し、年端も行かない童女を形作った。
 少女は笑う。年齢相応の、昼間に見れば微笑ましいとしか言いようのない笑顔だった。
「呼んだ?」
 下唇に指先を置いて、少女は男に問いかける。
 返事の代わりに刀の切っ先を高く持ち上げて、男は鈍い光を宿した瞳で少女を睨む。
「人喰いの妖怪め」
 靴の裏を擦り、じりじりと前に出る。少女は動かない。男が何を言っているのかわからない、といったふうに、きょとんと目を丸くしている。
「おかしいなあ」
 首を傾げ、男に尋ねる。
「最近、人間を食べた覚えはないんだけど」
 記憶違いじゃないかしら、と付け加えてみても、男は何も答えない。その間も、少しずつ距離は縮まっている。少女は唸り、考えてもどうしようもないことがわかると、まあいいやと諦めた。
「まあいいや。そんなことより、なんでそんな物騒なもの持ってるの」
「……おまえを殺すためだ」
「ふうん、退治するつもりなんだ」
 殺す、殺すと連呼する男は、それ以上意味のある言葉を発することもなく、振れば少女の体に刀が届く間合いに踏みこんだ。喉もとに刀を突きつけられた少女は、張り詰めた空気を散り散りに引き裂くように、緊張感の失せた声で喋り始める。
「私はルーミア。あなたのお名前は?」
「……」
「折角だから、私を殺すって意気込んでるあなたの名前を、覚えておこうかと思って。ただの人間に付き合うのも久しぶり。狩りは面倒だからきらい。でも人間は好きよ、たまによくわからないことをするから。わけのわからない因縁をつけて刀を振り回したり、通りすがりに妖怪を叩き落としたり、本当に飽きないわ。楽しい」
 流暢に喋る妖怪に向けて、男はぎこちなく刀を振り上げ、力の限り振り下ろす。
 ルーミアが体をずらすと、刀は吸い込まれるように地面へ叩き付けられた。踏み固められた地面は刀でも切れず、乾いた音が震動となって男の手のひらに伝わり、痺れたような呻き声に変じて男の口から漏れた。
 くすくすと、少女は可笑しそうに笑う。
「ほら、うまく狙って。私を殺すんでしょ?」
 冗談めかして両腕を広げ、ルーミアは男を挑発する。震える手のひらで、しっかと柄を握り締め、男は再びルーミアと相対する。肩で息をして、目も虚ろで、ルーミアを見ているのか、底の知れない夜の闇を睨んでいるのか、それさえも判然としない。
 刀の柄に、小さな袋のようなものが括りつけられている。今にも落ちそうに揺れ、それでも結び方が強いためか、男が震えても刀を振りかざしても一向に落ちる気配を見せない。
「夜はいいね。涼しいし、何も見えないから、いろんな色に煩わされないで済むもの」
 横薙ぎの一閃は、後ろに体を引いて回避する。袈裟薙ぎの一閃は左に体をずらして回避する。我武者羅に振り回される刀は、体を動かさなくても勝手に外れてくれる。たまに、頬や腕に刃が触れて浅い痛みが走るけれど、致命傷には至らない。
 刃の切っ先が地面に落ちる。
 心得のない者が鉄の棒を延々と振り回していれば、力尽きるのも時間の問題だった。それでも、今にも気絶しそうなほど呼吸を乱して汗を掻いていても、男はルーミアの喉もとを突ける高さにまで刀を持ち上げていた。
「がんばるね」
 小馬鹿にしているのではなく、素直に感心している様子だった。だが、男は歯軋りする。気合を込め、眼前に立つ異形を打ち破るために柄を握り締める。
「……おまえにわかるものか」
 か細く震えた声で、何事かを喋る。
 聞き取り辛いから、静かな夜に耳を澄まして、ルーミアは次の言葉を待った。
「あいつは死んだ! 腕と、脚を全部喰われて、もう長くないと言われても、ずっと笑っていたあいつが、もういない……。そうだ、おまえに殺されたんだ!」
「そんなこと言われても、ねえ」
「あいつは『何も見えない』と言いながら死んでいった!」
 叫ぶ。憤りに満ち、唾を撒き散らしながら。
 だから彼は、闇をまとう妖怪に目星を付けた。決して通らない理屈ではない、が。
 ルーミアは溜息をついた。
「ダメだよ。そんなんじゃ、全然ダメ」
「何も見えなくなっても、おれの手を取って、庭の花を触りに行って……」
「だからそれじゃダメなんだ。因縁つけるにしても、取り繕うこともできないんじゃ、殺されてあげる気にもなれないわ」
 叱責する。
 男は、何故ルーミアに怒られているのかもわからず、憤怒に凝り固まった瞳をわずかに丸くしていた。だが、それも一瞬のこと、男は何度目かも判然としない攻撃に移る。
 持ち上げた刀がルーミアの頭に振り下ろされるわずかな間、彼女は右肘を上に曲げ、だらしなく広げた手のひらを空に向けた。
 そして少女は嘲り笑う。
「罰ゲーム」
 光。
 世界を覆う全ての闇を貫くように、光の柱が四本、ルーミアを取り囲むように現出する。
 刀の軌道はそのうちの一本に阻まれ、男はたたらを踏んで後退する。ひィ、という悲鳴は、今までひた隠しにしていた怯えが、ルーミアの力を目の当たりにしてようやく押し出されたものであった。
 ルーミアは言う。
「襲うつもりはなかったけど、気が変わった。勘違いをしている人間には、お仕置きしてあげないと」

 ね?

 四柱の光が、理性を持った竜巻のように蠢き始め、そのどれもが男に向かって突進する。
 喚きながら、必死に逃げ惑う男の背中に向けて、ルーミアは左の肘を上に曲げ、指を弾く。
 男の頭上に、星屑のような光がひとつふたつ、瞬きする頃には総計百以上の光弾が生まれ、ほうほうの体で四柱をやり過ごした男の体に降下し始める。
「ひィ……!」
 うめく。
 ひとつひとつに大した殺傷力はないけれど、空から石が落ちてくるような、村八分にされているかのような疎外感を催させる痛みだった。頭を抱え、逃れ得る場所はないかとあちらこちらに動き回る男を嘲笑うように、局地的な流星群は薄暗い街道を眩く埋め尽くした。
 それから、およそ一分。
「あはっ」
 光が消え、闇が落ちる。
 後に残るのは、服を焼き焦がし、刀をつっかえ棒にして体を支えている男がひとり。
 両腕を広げ、月の光をその身に浴びて佇んでいる妖怪がひとり。
 攻守が入れ替わり、明暗が分かれた。
「よくがまんしたね。えらいえらい」
 子どもを褒め称えるような口調で、ルーミアは言う。大きく広げていた両腕を下ろし、代わりに右の人差し指に小さな光を灯す。呼応するように、男は崩れ落ちそうな体で刀を構える。切っ先は見苦しく震え、どこを狙っているのかもわからない。
 白く灯った指先を、やや乱暴に男へ向ける。
 同時に、男は駆け出した。
 ふたりの距離は歩いて五歩もない。男が駆け寄ってルーミアを斬るのが早いか、ルーミアの弾丸が男を打倒するのが早いか。
「ばいばい」
 射出する。
 迎撃のために弾を斬ることはせず、男は身をよじりながら弾を回避しようとする。が、結局は右胸のあたりに光の弾を受けて、肺から空気が押し出されて妙な呻きが漏れる。
 それでも、後ろ向きでなく、前のめりに倒れようとしているのは、ルーミアを斬ろうという意志が頑なであったせいか。
「もうひとつ」
 今度は左の人差し指に大きな光を灯し、崩れ落ちる男の背中に差し向ける。
 光は夜の道を照らし出し、不鮮明だった彼らの姿に淡く彩りを添える。
 今にも地面に突き刺さりそうな刀のその柄に、お守りのような何かが括りつけられていた。さっき発見して、さほど気にも留めなかった物体が、攻撃的な光を浴びて明確な輪郭を帯びる。
 ルーミアは、後ろ髪を引かれながらも光弾を放つ。
 光と闇は瞬きを繰り返し、コマ送りにも似た視界の断絶が起こる。目を瞑れば、一秒よりももっと先の世界に辿り着きそうな、眠りに落ちて無意識に麗しい朝を迎えたような、時間の断絶。日常的なタイムスリップ。認識の誤差。
 中途半端に停止した時間の中で、ルーミアは、光に照らし出された刀のお守りを見る。
「……あ」
 くしゃくしゃに丸められた紙くずのような、長い年月をかけて漬けられた梅干のような、小さくて丸いかさかさした袋。見覚えがある。皮を剥くと中に小さな小さな実があって、それはとてもとても紅くて、まるで熱く灯る魂のような色をしていて――。
「ほおずき」
 呟く。
 光の弾は男の背中に吸い込まれ、しかし男が急に足を踏ん張って起き上がったせいで、直撃を免れた。
 雪崩が山を下るように、弾は男の背中を滑り降り、暗い地面に不時着する。
 ルーミアは一瞬、ほおずきの存在に気を取られ、弾が外れたこと、男が倒れずに立ち上がったこと、刀が大地でなく空を向いていたこと、その全てを失念していた。
 ただ思ったのは、もう少し光が長く続いていたら、あのほおずきを目に焼き付けられたのに、ということくらいで。
「――あれ?」

 ぞぶ、ん。

 刀がルーミアの胸を貫く。
 胸郭の隙間を縫い、狙ったかどうか定かでないけれど、切っ先は少女の肌を突き破り、背中からその凶刃を突き出していた。
 ルーミアひとりが、自らを貫いた刃をきょとんと見下ろしている。
 男は、感触を確かめる間もなく柄から手を離し、歯をかたかたと鳴らしながらゆっくりと後退っていた。目は虚ろで、喜びに打ち震えるのでも、達成感に咽び泣くのでもなく、ただ声にならない声を漏らしているだけだった。
 一方、ルーミアは。
「……ああ、そういうことね」
 ようやく、己が立たされている状況を把握する。
 刺さった刀を抜こうとして、柄に手を伸ばすも、結局は届かなかった。指先こそ鍔に掛かったものの、めいっぱい腕を伸ばした状態では、引き抜くこともままならない。ルーミアは諦めて、地面に膝を突き、うつ伏せになると刃がより深く刺さってしまうから、面倒くさいけれど横向きに倒れた。涼しいというよりは、少し冷たい。
 咳きこむ。痰が絡んだのかと思ったが、床に何か液体のようなものが散らばっているところを見ると、どうやら血が混じっているようだ。気が滅入る。
「いッ、たあ……」
 眉間に皺が寄る。目を瞑る。掻き毟ろうとした胸に突き刺さった刀が邪魔で、満足にもがくこともできなかった。
 苦しげに呻いているルーミアを、男が近寄ってきて恐る恐る見下ろす。とどめを刺すこともせす、死に瀕している様子をただ黙って観察している。虚空を漂わせていたルーミアの視線が、男の視線と交わる。目が合う。
 ルーミアは言う。
「『何も見えない』」
 男の目が見開かれる。震えは止まり、何かを呟こうとした口が半端な形で固まる。
 ルーミアは続ける。
「『腕が痛い、脚が痛い、胸が痛い、全部、全部痛いの……。お願い、助けて、側にいて、離れないで……。わたしをひとりにしないで……』」
 男の息が荒くなる。ほんのわずかな光さえ失われたルーミアの瞳に、怯え切った哀れな男の姿が映りこむ。
「『でも、おかしいわ。どうして、わたしの胸に刀が刺さっているのかしら』」
 息か、唾を飲みこむ深い音が聞こえる。
 やめろ、と声にならない息を漏らして、男は涙を流していた。
 だが、ルーミアは言い続けた。
 男が失ってしまった人間の言葉を真似て、男に相応の呪いを掛けるために。

「『まあ! あなたは、わたしを殺してしまったのね!』」

「――、ぁ、あ、うああぁぁ!」
 叫ぶ。
 夜を、闇を、この場にいる命を引き裂くように、意味をなさない悲鳴を放ち、里に続く道を駆けて逃げ帰る。刀を持ち去るどころか、ルーミアを殺し切ることもせず、恐怖のままに逃げ出した。それほど、ルーミアが最後に放った呪いの言葉は、男の心に深く突き刺さったということか。
 ひとり取り残された妖怪は、目蓋を閉じる余裕もなく、力なく腕を垂らして、だらしなく地面に寝そべっている。胸から、唇から、だらだらとみっともなく血が溢れ出している。紅く濁った命の水は、夜の闇においては黒一色に染められて、ふと空を見上げて雨でも降ったのかと疑うこともできた。
 しん、と静まり返った街道に、月光は穏やかに舞い降りる。血だまりは徐々に広がり始め、地面に落ちたほおずきの皮をひたひたと濡らす。
 月の光はほおずきのうちを露にすることもない。
 紅は黒に帰り、光は白に戻る。
 そうして、夜は更けていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――眩しい。
 幻想郷に朝が訪れ、闇に覆い隠されていた街道の全容を、太陽の光が明確に照らし出す。
 明るい世界の真ん中で、ひとりの少女が事切れている。胸から背中までを長い刃に貫かれ、虚ろに開いた瞳は何も映さず、腕は乾き切った血の海に垂れ、物言わぬ骸となって横たわっている。
 その上空を横切る影がひとつ、ふわりと風を纏い、少女の傍らに舞い降りた。
 黒い翼を羽ばたかせ、一本下駄の片方を、鴉天狗は苛立たしげに地面に打ち付ける。
「遅かったか」
 少女を前に舌打ちをしようとして、その前に為すべきことを為そうと決める。
 血液がべっとり付着した刀の柄を躊躇いもなく握り締め、少女の肩に片一方の手を置く。
 瞳を閉じ、呼吸を止め、一瞬の後に開眼する。
「――、ひゅッ!」
 歯の隙間から呼気が漏れる。
 同時に、少女を貫いた時と寸分の狂いもない軌道で、少女に突き立てられた刀を引き抜く。
 ぷちゅる、とかすかに赤黒い血液が傷痕から零れたが、地面に溜まった血液の量と比べれば微々たるものであった。鴉天狗は、面倒そうな仕草で露払いを行い、返す刀でその凶刃を乱暴に放り投げ、思い切り地面に突き刺した。刀は震え、柄に括りつけられたほおずきが激しく跳ねる。
「起きてください」
 鋭く、朝の澄んだ空気を打ち据えるような厳しい調子だった。
 死者を鞭打つにしても酷に過ぎる物言いだが、それが決して物言わぬ骸に投げかけた言葉でないことは、彼女がじっと少女の瞳を睨んでいることからもわかる。
 溢れかけた血も止まり、柔らかい日差しも徐々に熱を増してきた頃、変化が起こった。
「……、む」
 唸る。声は少女があげたものだった。
 黒ずんだ紅に淀んでいた瞳は光を取り戻し、澄み切った美しい赤に帰る。
 昨夜、ルーミアと名乗りをあげた少女は、何事も無かったかのように目を覚ました。
 両手を伸ばして欠伸を漏らし、眠たげに目蓋を擦り、胸を擦って傷口に指を突っ込んでは「いたい」と呻く。そして本来そこにあるべき刃がないことを知ると、ようやく自分を睨みつけている何者かと焦点が合う。
 おはよう、という他愛も無い挨拶が、相手の機嫌を損ねる結果にしかならなくても。
「おはようございます、目覚めて早々に恐縮ですが、わたしく射命丸文から貴女にご質問がございます」
「えー、答えるの面倒くさい」
「答えなさい」
 風が吹く。冷たい。
 脅迫に等しい詰問を浴びせかけられても、ルーミアは地面に胡坐を掻いてきょろきょろとあたりを見渡していた。何を探しているのか、四つんばいになってあちこちを見て回り、自らを貫いた刀を発見するや否や、「おお」と場違いな歓声をあげた。
「やってくれたねぇ、まったく」
「やってくれましたよ、ええ」
 愉快に語るルーミアに対し、文の表情は芳しくない。明らかな敵意を感じる。ルーミアに対してではなく、ルーミアをこのような状態に貶めた人間に対して、文は確かに憤っていた。
「妖怪が、ただの人間にいとも容易く殺されるとは……。情けない」
 嘆きの言葉に対しても、ルーミアは何の反応もしない。地面に突き刺さった刀を抜いて、己の血で赤黒く染まったほおずきを掌の上で転がす。危機感も緊迫感も微塵も感じ取れないルーミアに業を煮やし、文は強く言葉を投げた。
「貴女を殺したのは誰ですか」
 ルーミアは、手に乗ったほおずきを握り潰す。くしゃり、と乾いた感触が掌に埋没する。
 握った手を開けば、皮は砕け散り、掌には紅いほおずきの実が残される。
 それは、魂の色に似ていた。
「ん……、わかんない。勝手に因縁つけられて殺されたんだもん、私の方が知りたいよ」
「そうですか、ならば、一緒にその人間を捜しに行きましょう。いくらなんでも、顔を見れば誰だかわかるでしょう?」
「かもね。でも、あなたはどうしてそいつを捜してるの」
 過去、ルーミアは文の取材を受けたことがあるが、縁という縁はそれくらいである。ルーミアの敵討ち、意趣返しを決行するにしては、些か腑に落ちない。
 釈然としないルーミアに、文は苦笑を返す。
「……どうして? 知れているでしょう、妖怪が殺されたのです、その人間に少々お話を窺いたいだけですよ。『貴方はどうして妖怪を殺したのか』と。私たちの棲み処で」
 その、凄絶ともいえる文の笑みに、ルーミアは得心が入った。
「……ああ、見せしめ?」
「人聞きの悪い。ただの尋問ですよ」
 文の棲み処、妖怪の山における天狗が支配している空間は、おいそれと立ち入れる場所ではない。そんな場所に、尋問と称して何の力もない人間を連れて行けば、一体どういう火種が生まれるのか。想像するのは容易だった。
「お願いしますよ。正直、私自身あまり穏やかな気分ではない。どこぞの妖怪が殺されたと噂する輩がいて、詳しい話を聞こうにも、半獣はだんまりを決めこむばかり。話になりません」
 額を押さえ、かぶりを振る。文の見立てでは、半獣は誰かを庇っている。匿っている、としてもおかしくはない。いくら平和な世の中になったといえども、人と妖が畏怖の上に成り立つ関係なのは変わらないのだ。殺した、殺された、だのという物騒な話は、あまりおおっぴらにすべきことではないだろう。
 ましてや山に棲む鴉天狗、新聞記者の目の前でなど。
「……噂を総括すると、嫁を病で亡くした男の気が触れた、ということになっているようですが。実際に、男が妖怪を殺したのか、それを証明できるものは何ひとつない。なかったのですよ。――事実、貴女がここで殺されているさまを目の当たりするまで」
「いやあ、ついうっかり」
 照れくさそうに頭を掻き、気恥ずかしさを隠そうともしないルーミアの甘さを、文は問答無用で切って捨てる。
「それだから嘗められるんですよ。勝手に因縁をつけられて、ありもしない罪をかぶせられて、やりどころのない怒りの捌け口にされる。いつから妖怪はそんな腑抜けになったのですか」
 あたかも妖怪の代表であるかのように、文はルーミアを叱責する。なかば、小さな瞳を丸くしながら、ルーミアは探るように問いかけた。
「……怒ってる?」
「ええ、その人間を、貴女と同じ目に遭わせたい程度には」
「そりゃひどい」
 他人事のように呟き、まだ深い傷口に指を入れる。そのたび、えもいわれぬ痛みがルーミアの脳を焼き焦がす。痛い。一瞬のうちにルーミアの体内を掻き分けた刃は、程無くしてルーミアを死に至らしめた。完膚なきまでに。
 だが、ルーミアは妖怪である。あの男はルーミアを妖怪と罵ったが、その本質を理解してはいなかった。
 妖怪にとって、肉体の死は存在の死と同義ではない。体は滅びても、何かの拍子にふっと蘇ることがままある。中には輪廻転生の理に則って地獄の裁きを受ける妖怪もいるが、ルーミアはその類ではなかった。だから『貴女は誰に殺されたのですか』という文の問いも、立派に成立する。
 ルーミアが返答を渋っている間にも、文は隙あらば里に飛んで行って当該の人間を引きずり出そうと身構えている。それを実行に移さないのは、ある意味で彼女を縛っている天狗の矜持であるかもしれない。
「でもね」
 ルーミアは、文の目を見ながら言う。
 説き伏せるでも、泣き落とすでもない、今日の天気を口ずさむような、のんびりとした口調で。
「ダメなんだよ。一度負けたら、それでおしまい。それが、私たちの最低限のルールだったじゃない」
 たとえ、ルーミアが知らないうちに誰かを喰ったのだとしても、男の発言には致命的な欠陥があった。
 死んでしまった誰かは、『手と脚を全部喰われて』いたのに、『おれの手を取って』『庭の花を触りに行って』いたのだという。その矛盾。気が動転していたのだとしても、信じられる部分がほとんどない。そのくせ、無銘の刀に纏わせた呪いだけは、ルーミアを貫いてもまだ消えぬほど深く根付いていたのだから、思いこみというものは真に恐ろしい。
 男の襲撃が単なる八ツ当たりと知りながら、ルーミアは男の復讐に付き合った。その結果、男はルーミアを殺し、あるはずのない復讐は完結した。問題があるとすれば、ルーミアは当たり前のように蘇り、真面目に妖怪をやっているらしい鴉天狗に尋問を受けていることくらいだが。
 文は、あっけらかんとした態度を崩さないルーミアに問う。
「貴女は、それで構わないと言うのですか」
「うん。殺せば済むって思ってるだけ、可愛いとこあるじゃない。いちいち襲いに行くのも疲れるし、人間たちと揉めるのも面倒だもん。だから、あなたも大人しくしていてくれると助かるんだけどな」
 命令には程遠い、ささやかな願いだった。明日が晴れでありますようにと祈る幼な子の無垢な心を裏切るのは、如何に天狗といえども困難を極めた。
「……解せません。もしかしたら、貴女は二度と目覚めることがなかったかもしれない。それなのに、黙って見逃すというのですか」
「目覚めたんだからいいじゃん。あ、その節はどうも」
「……いえ、それは構いませんが。しかし、調子が狂いますね、貴女と話していると」
「お、褒められてる?」
「褒められてません」
 ちぇー、と不服そうな顔をする。文は眉間に寄った皺をほぐす。ルーミアが瞳を細めたのは、太陽の光が眩しいから。闇を纏いたくても、死に上がりなためか満足に力を発揮することができない。仕方なく、昇り始めた太陽を背にして硬い地面に拳を浸す。
 掌にはまだ、朝焼けの太陽に似たほおずきの実が、浅く握られている。
「でも、うん、今度そいつに会いに行ってみるよ。一体、私を見てどんな顔するのか、楽しみだわ」
「また貴女を殺そうとしたら、その時は」
 先を促そうとする文に、ルーミアはふるふると首を振った。金の髪の毛にきつく結んだ、鮮やかに紅いリボンが揺れる。
「そうなった時は、そうなった時に考えるよ。あんまり先のことは考えないようにしてるの。楽しみが減るから」
 唇からこぼれ、乾いて固まった血の塊を拭い去る。
 見上げるルーミアと、見下ろす文の視線が一直線に衝突し、見えざる火花を散らし弾け飛ぶ。
 計測すれば五分と経たない睨み合いでも、互いに譲れないものがある以上、一歩間違えれば致命傷となりうる無言の攻防であった。
 そして、先に溜息をついたのは。
「……はぁ。とんだ無駄足を踏みましたよ、今日は」
「ごめんね」
 構いません、と文はひらひら葉団扇を振る。風にはらはらと揺れる団扇を唇にかざし、疲れた表情を悟られないように試みるが、ルーミアにはとっくに露見している。無駄な足掻きだ。
「せいぜい、その人間が哀れに泣き喚くさまを期待していますよ」
「別に何もしないけどね」
「何かしてくれてもいいですよ?」
 たとえば、腕と足を食べてあげるとか。それも一興かと思う反面、男の反応を楽む時間が減るのはつまらない。どうせなら、楽しい方を選びたい。ルーミアはそう思った。
「はぁ……、仕方ない、次のネタを探しに行きますか。何かありませんかねぇ、何処かで誰かが物騒なことを企んでいるとか、次の異変を先読みした記事が書ければ幸いなんですけど」
 ルーミアは「んー」と唸り、閃いたとばかりに指を立てる。
「私が頑張って闇を出して、幻想郷をずっと夜にするよ」
「はいはい、頑張ってくださいね」
 軽くあしらわれた。
 不満げなルーミアを尻目に、文は早々と宙に浮き上がる。風の衣を纏い、今にも翔け出そうとする天狗の姿を仰ぎ、ルーミアは大きく手を振った。
「じゃあ、またね」
「次に会う時は、せめて貴女が生きていることを願っていますよ」
 物騒な別れの挨拶を述べ、鴉天狗は空に消えた。
 一迅の風が街道を駆け抜け、その後には何も残らない。ただ、死の淵から何となく生還した一匹の妖怪と、凶刃と、掌に捕らわれたほおずきがあるばかりである。
 ルーミアは掌を広げ、紅い実を露にする。黄金よりかすかに透明な太陽の日差しは、ほおずきの紅を鮮明に照らし出す。
「……きれい」
 恍惚とした、おおよそ少女が放つには艶かしすぎる笑みをこぼす。
 魂が何色をしているのか、その在り処さえ知らないルーミアには到底わからないけれど、もし魂に色があるのなら、きっとほおずきのような際立った紅色をしていると思う。
 夕暮れのように物悲しく、血のように躍動し、暁のように眩い。太陽のようであり、月のようでもある。魅せられ、呪われ、穢され照らされ晒されて、結局は掌に乗せられるほどの小さな小さな紅い実に堕ちる。
 あるいは、男が失った女の魂は、真実この実に宿っているのかもしれない。
 そうであれば、成る程、ただの人間が妖怪を貫けたのも、頷ける話だった。魂が宿れば、なまくら刀も霊刀に変わる。悪しき闇を打ち払う刃となりて、眼前の異形を葬り去ることも出来るだろう。
 だから、というわけではないにしろ。
 ルーミアはほおずきの実を摘まみあげ、青白い空に掲げてみる。
 しばらく、呆然とその紅を見つめた後で、ぱくん、と口の中に放りこむ。
「んぐ」
 もぐもぐ、もごもご、口の中、舌の上、頬の内側で紅い実を舐めて転がし、紛い物の魂を貪り、丹念に弄ぶ。
 見も知らぬ誰かの魂を頬張りながら、ルーミアは男と再会するであろう時のことを考える。その時、彼はどんな反応を見せるのか。文の言うように、再び刃を持って戦いを挑むか、それとも恐れをなして逃げ去るか、あるいは、とっくに正気など取り戻していて、生きた屍の如き抜け殻になっているのか。
 楽しみだ。笑みがこぼれる。
「んむぅ」
 表情が緩み、その拍子に歯が誤って実に突き刺さり、口内に中身が散らばって果てた。
 すると突然、ルーミアの表情が渋く曇る。
 戻すのはどうかと思って我慢したけれど、しかし結局は、抑えきれずに口を開いて。
「……まずっ」
 舌先に乗せたほおずきを、外の世界に吐き出していた。

 

 

 

 



SS
Index

2009年6月15日 藤村流@ふじむらりゅう

 



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