嘆きの歌

 

 

 

 1.

 

 

 

 その歌を聴いた者は、みな絶望する。
 その歌は、嘆きの歌と呼ばれた。

 

 

 きゃー、と大袈裟に驚くお手伝いさんを一瞥し、私はひとつ咳払いをした。
 相手がどれくらい本気で私の話を聞いているかはわからない。いつものように、稗田の阿求さまの戯言だと思っているのかもしれないし、存外、真剣に聞いているのかもしれない。いずれにせよ、私は話したいから話すだけだし、何か有益な情報が聞き出せるとも思っていない。
 結局は、井戸端会議が趣味みたいなお手伝いさんとあんまり変わらないのだ。
 だって女の子だもん。
「何か仰いました?」
「なんでもないです」
 なんでもないわけはなかったが、深く追究されると私の中の乙女心が四散するから早めに話を戻す。
 麗らかな春の日差しの下、縁側で虫干しされた座布団に座り、膝の上に三毛猫を乗せ、午睡の誘惑に誘われながら他愛のない雑談に興じる。それもまたひとつの幸せと割り切ることができるなら、この先の生に、多くを望む必要はない。
 ふと、そんなことを思った。
「中には、絶望のあまり、みずから命を落とすものもいたとか」
「いたんですか。怖いことです」
「あんまり怖いと思ってないでしょ貴女」
「とんでもございません」
「そうかなあ」
「そうです」
 てきぱきと掃き掃除を続けながら、お手伝いさんは言う。軒下で丸まっていた白黒のブチ猫が、箒に煽られてにゃーとばかりに庭を駆け抜ける。ちょっと可哀想なことをした。お詫びといってはなんだが、膝の三毛猫を撫でてみる。
 そこそこ気持ちよかった。
「して、阿求さまはどうされたいのですか」
「どうされたい、というと」
「阿求さまのことですから、その歌を聞いてみたいと仰るのではないかと」
 何故か不安げな表情を浮かべながら、お手伝いさんは語る。
 私の名誉のために言っておくが、私はお手伝いさん含め知人や友人に無理難題を吹っかけたことは一度足りとない。ただ、ちょっとばかり病弱なところもある稗田阿求だから、どこかに出かける際、そのへんを汲んでくれる人がいないこともない、ということである。
 三毛猫の呼吸がごろごろと、膝の上から私の心臓まで響いてくる。
「そうね……聞いてみたい、とは思うけど」
「ほら」
「そんな鬼の首獲ったように言わなくても」
 げんなりとする彼女を私もまたげんなりと眺めていたら、年若いお手伝いさんが庭にやってきた。背丈も私と同じくらいで、ぺこりと頭を下げる仕草にも幼さが見え隠れする。
 かくいう私は老成した訳知り顔の子どもで、この子のようなあどけなさは全くといっていいほど醸し出せていない。やろうとすればできるのかもしれないけれど、そうなったらもう稗田阿求じゃない気がする。
 女の子は、小さな体をふるふると震わせながら、私のことを仰ぎ見ていた。
 ああ、そういえば、女の子にしたら私はお偉いさんなのか。あんまりその自覚もないし、お手伝いさんもこの調子だから普段は忘れているのだが、やっぱり女の子あたりになるとそこそこの威圧感はあるらしい。
 あんまり嬉しくないけど。
「あ、あの、阿求さま」
「はいはい」
 三毛猫が、空気を読んで欠伸をした。
 女の子はびくっとした。
「お、お客さまが、いらっしゃってます」
「お名前は」
「え、と……も、もりちかさま、です」
「そうですか。では、お先に客間に上がって頂くようお伝えください」
「は、はい!」
 言うが早いか、女の子は地面に頭突きするくらい深く頭を下げ、弾かれるように走り去っていった。砂埃が舞い、お手伝いさんが手をぱたぱたと振る。
「元気ですね」
「あのくらいの年齢なら、あのくらいがちょうどいいんですよ」
「それに比べて……」
「比べなくていい」
 何故か嘆息するお手伝いさんはさておき、私は膝の猫を眠らせたままどかす方法を考えていた。
 よし無理。

 

 お手伝いさんが三毛猫を無理やり引っぺがして退場するまで、私はほとんど縁側から動けないでいた。そんなだから待たせた時間も結構なものだったのだけれど、当のお客は何食わぬ顔で文庫本を読み耽っていた。
 障子が開き、そこに立っているのが私であると気付いても、仰々しく挨拶をするでもなく、「お邪魔しています」という一言のみで全て済ませる。
 おおよそ客商売に向いていると思えない彼の職業は、何の因果か客商売だった。
 香霖堂店主、森近霖之助。
 彼は本に栞を挟み、やや下がり落ちた眼鏡を押し上げる。
「こんにちは。お待たせ致しました」
「いえ、さほど」
 あまり気に留めてもいないらしい。心配して損した。
 障子を閉め、対面に腰掛ける。座布団の感触はわずかに硬いけれど、虫干ししているものと比べてもあまり意味はない。
「して、ご用向きは」
「ええ。実は、新しい曲が入りまして」
 私は、ぐっと身を乗り出していた。そのぶん、彼は身を仰け反らせる。
 きっと私の瞳はきらきらと輝いているのだろうけど、その方がずっと子どもらしい。
 彼の言う曲とは、そのものずばり、幺樂団に代表される今は亡き曲たちのことである。外界から忘れられたものが幻想郷に入り込むのは有名な話だが、それがどこに現れるかははっきりとしていない。曲に関して言えば、幻想郷のどこかに曲が込められた式が落ちていて、それを再生する式によって音楽が奏でられる――という構図だ。
 本当ならば私の足で探すべきなのだろうけど、そこはほら、病弱な稗田阿求の本領発揮である。
「今回は二枚ほど。いやはや、薄っぺらいので持ち運びに苦労しました」
 元々くたびれた印象だから、疲れたといってもその違いを見極めるのは難しい。ただそれよりも、私は彼が差し出している薄くて丸い二枚の円盤に――レコードというらしい――、心を奪われていたのだ。
「あ――ありがとうございます。思わず抱きついちゃいそうです」
「それは嬉しい話ですが、もっと抱きつき甲斐のあるものを探した方がいいですよ。猫とか」
 もう抱いた。
 ともあれ、私は彼からレコードを受け取り、割らないよう、潰さないよう優しく抱き締めた。胸の中に音楽が染み渡るようでいて、その正体は私の心臓の鼓動でしかないことも知っている。それでも、そう感じた。理屈じゃない、この世に人ならざるものがいるのなら、未知なる感覚が存在してもおかしな話じゃない。
「でも、ちゃんと感謝しているんですよ。報酬を上げるくらいしか感謝の意を示せないところが辛いのですけど」
「いえ、それで十分に助けられていますから。僕としましても、こうして稗田の家に立ち入れるというだけで、仕事を引き受ける甲斐があるというものです」
「嬉しいことを」
「真実ですよ。……と、こういう言い方をすると、茶化しているように思われるかもしれませんが」
 彼は、世辞や冗談が得意な性格じゃない。どんな突拍子もないことですら大真面目に、彼なりの理論をもって証明する夢想家だ。だから、彼の言う言葉は紛れもなく真実なのだとわかった。そこに、正しいとか間違っているとか、そういう議論は必要とされていない。
 私はちゃぶ台の上にレコードを置き、懐からそこそこの厚さがある封筒を取り出す。これは稗田家と香霖堂の正式な取り引きであるから、別にやましいお金じゃない。多少は色をつけているけれど、それは彼の働きに対する正当な報酬であり、決してレコードを仕入れてくれたことに対する贔屓には当たらない。と思う。
 結局のところ、現当主は私なんだからそんなものはどうとでもなる。
 最悪、お家取り潰しにならなければ何をしても構わない。たぶん。
「これは、今回の報酬です」
「ありがとうございます」
 両の手のひらで、丁寧に受け渡す。
 彼がその封筒を懐に仕舞い込む時、私は不意に先程の雑談を思い出した。
「あ、そうだ」
「なんでしょう」
 ちゃぶ台に置かれたレコードの色は、障子越しに舞い降りる日の光を全て吸収するかのような黒さを秘めている。その漆黒がふと負の感情を呼び起こし、他愛のない与太話を思い出させた。
 好奇心は稗田の餌だ。だからきっと、私の瞳は輝き始めている。
「嘆きの歌、という歌を知っていますか?」
「嘆きの歌、ですか。……ふむ」
 私の言葉を反復し、彼は形の良い顎をなぞる。一分ほど思案に暮れていた彼は、期待に満ち満ちた表情で待ち構えている私に、冷酷とさえいえる声で告げた。
「申し訳ありません。その歌の存在は、初めて耳にしました」
 残念そうに、彼は呟いた。
「そう、ですか」
 しゅんとする。
 ちょっとだけ期待していたから、落胆も少なからずある。が、完全に道が閉ざされたわけじゃない。彼も、嘆きの歌という響きに多少は魅せられた様子だった。
 稗田も森近も、好奇心に心を奪われた同じ穴の狢だ。だからこそ、良いものも、良くないものにも気を引かれる。聞けば絶望すると言われている嘆きの歌でさえ、聞いてみたいという欲求に駆られる。懲りない奴だと人は笑うかもしれないが、きっと、妖怪ならば面白い奴だと笑うに違いない。
 彼は、レコードに目を落とす。
 落としどころとしては、なかなかのものではないだろうか。
「そうですね。こちらの方でも、探してみましょう。私も、その歌に興味が湧きましたので」
 心の中で、快心の笑みを浮かべる。顔も綻ぶ。
「ありがとうございます。流石、私が見込んだだけのことは」
「見込み違いでなければよいのですが。
 ――しかし、貴女もずるい方だ」
「何のことやら」
 とぼける。彼は苦笑していた。
「さて」
「はい」
 咳払いをして、本題に。
 協力を仰ぐにあたり、嘆きの歌に関する情報を全て伝える。
 その歌が、嘆きの歌と呼ばれていること。
 聞けば、誰もが絶望すること。
 中には、絶望のあまり自殺する者もいたこと。
 それくらいのものだ。
 本当に、全くといっていいほど情報がない。これでよく探す気になれたものだと思う。私も香霖堂も。
 しかし、幸いにも知る術は数多い。幻想郷縁起を編纂する稗田阿求は伊達じゃない。現代の幻想郷で音楽に携わっている者、歌の起源を知り得る者、内と外を行き来する者、それから外の道具を取り扱っている者、中にはあまり積極的に関わりたくない者もいるにはいるが、好奇心のためならば私の中に棲み着いている猫は犠牲にしよう。猫の皮を被っていれば、その裏側にいる猫は死なずに済むかもしれないし。
「ふむ」
 話を聞き終えた後、彼は眼鏡の縁を押し上げる。
 一度、興味本位で眼鏡を掛けたことがあるけれど、そこから見える世界は、それまで私が見ていた世界と比べ物にならないくらい、ぼんやりと歪み果てていた。けれども、その世界に生きる彼は平然と日々を過ごしている。そんな些細なことだけでも、自分と他人の境界が知れる。私と私以外の誰かが見ている世界は、決して同じものでないことがわかる。
 だからどうだということはないが、なんとなく、寂しいような気もした。
「正直に申し上げますと」
 やや厳しい表情が窺える。無理もない。如何に香霖堂といえども、名前だけ、呪縛だけでは都市伝説の域を出ない。こうなると、その歌を聞いてみたいという願望すら愚かであるように感じられる。
 それでも、私の中に確信がある。根拠も物証も何もない予感に過ぎないけれど、全ての好奇心を歓迎する稗田の意志が、嘆きの歌は確かに存在すると告げていた。
 きっと、森近霖之助の中にも、私と似た確信がある。
 そう思った。
「与えられた情報から、その歌を見付け出すのは難しいでしょう」
「無理難題を持ちかけていると思います。ですが」
「ですが」
 私の言葉に覆い被せるように、彼は続けた。
「それゆえに、価値がある」
 眼鏡越しに見える褐色の瞳は、のらりくらりと私の質問に答えていた彼と同一人物とは思えないほど、不気味に鈍く輝いていた。
「多少、期間は長めに見て頂きたい。一両日に見付け出せるほど、業の浅い話ではないでしょうから」
「わかりました。私も、稗田の蔵書を引っ繰り返すところから始めようと思います」
「新しい情報が入った場合は、それらを交換するということで」
「もし専用の機械でなければ聞けないというのであれば、各々の機器を貸借致しましょう」
「では、その時を楽しみに」
「ご武運を」
 淀みなく交わされる会話は、同じ野望を秘めた者にしか紡げない、絹糸のような流麗さを帯びていた。上手い具合に話が締められると、彼は決意に満ちた表情ですっくと立ち上がる。ひとつ、不敵な笑みを私に向け、軽く会釈をして客間を後にする。私も無言で立ち上がり、彼を玄関まで見送る。けれども会議は既に締められたから、これ以上他愛もない話に興ずる気にはなれなかった。
 彼もまた同じ考えであったようで、玄関で靴を履き替え、扉を開き、通りに出る際も、私には何も言わなかった。お手伝いさんには、失礼のないように「お邪魔しました」と告げていたけれど。
「……うーん」
 玄関の三和土に佇み、腕組みをして考え込んでいる私を、お手伝いさんはどこか不安げに見つめている。私は気にせずに唸り続け、程なくして、お手伝いさんに頬をむにゅっと引っ張られた。
 そこそこ痛い。
「……そこ。そこの子持ち」
「確かに阿求さまくらいの子どもがおりますが、それが何か」
「私くらいの子どもに、いつもこういうことしてるの」
「いえ、阿求さまの方が若干きつめです」
 差別だ。
「痛いんですけど」
「はあ」
「なんで不思議そうな顔するの」
「いや、すべすべしてるなあと」
「答えになってない」
 しょうがないから、私もお手伝いさんの頬を引っ張ろうとしたけれど、どうしても手が届かなかった。
 まことに遺憾である。

 

 

 

 2.

 

 

 

 幻想郷縁起を書き終えた私はそこそこ暇だったので、ここ最近は日向ぼっこや幺樂団の拝聴に一所懸命だった。追記や修正はそれこそ私が死ぬまで行われるのだけど、せめて今はゆっくりと身を休めていたい。
 その合間に、望むものを手に入れるための努力をする。
 稗田阿求は錆びつかない。
「……うわあ」
 でも、たまにげんなりする。
 何この蔵書。多すぎ。
「後は……頼みました……」
 お手伝いさんに道を譲れば、今度は頬を抓られる。
 この人妻、今度は爪を立てやがった。
 痕がついたらどうするんだ。
「ごめんなさい」
 素直に謝る。横着するのはよくない。
 お手伝いさんも、「よろしい」と満足げに頷いていた。なんのかんので、蔵書が詰まっている蔵に付いて来てくれるのだから、彼女も随分と人がよい。その性格を隠すために頬を抓ったりぞんざいな態度を取ったりするのだとすれば、年上の人間に言うことじゃないけれど、なかなか可愛いところもあるんだなあと思う。
 視界には、一面に広がる本の海。乱立する本の塔。埃。蜘蛛の巣。あと水がめとか瓶とか樽とか。
 うんざりする。
 もうちょっとなんとかしてから逝けばいいのに。先祖。
「何処から手をつければいいのやら……」
「掃除するところから始めましょう」
 唇をものすごく「へ」の字に曲げると、こめかみを親指でぎゅうっと押された。痛いから。あと一応わたし稗田家の当主だから。
 ともあれ、掃除するにしても切りがない。何せ蔵書はこればかりでなく、もう二棟ほど似たようなのが存在している。開かずの扉と呼びたくなるほど頑丈な閂で閉じられており、下手に開けると封印された邪神とか恋文とかが飛び出てくるような気がしないでもないのである。
 やむを得ない。これはやむを得ない。
「予定変更です」
「お早いですね」
 蔵に降り積もっている白い埃の層を、彼女は既に掃き集め始めている。ざっと見ても六十坪、高さも十米は下らないから、掃除するだけでも日が暮れる。流石に、それほど余裕があるわけではない。というより、他に術があるのなら、それを先に当たった方が効率はよいのである。
「では、少し外に出て来ます」
「はい。お帰りは何時頃に」
 今は十一時。往復の時間を考えても、昼には帰れまい。
「あちらでお昼ごはんをご馳走になるから、それくらいは見ておいて」
「畏まりました。阿求さまの大好物をこしらえておきますね」
 こんにゃろう。

 

 知識と歴史の半獣、上白沢慧音の家は人間の里の外れにある。
 過去の幻想郷に嘆きの歌と呼ばれるものが存在していたのか、彼女なら、その真相がわかるに違いない。
 そう思い、私は上白沢の門を叩いた。
「断る」
 速い。
 家に通すなり、速攻で申し出を棄却した慧音さんは、私に背を向けたまま書き物を続けていた。満月の夜、あるいはその前後ではないから、機嫌が悪いというのでもないのだろうけど。
「そんなご無体な……」
「無体でも理不尽でも、それに応じることは出来ない。理由は幾つか挙げられるが、まず、自分で言ったことを復唱してみなさい」
「その歌を聞いたものは、みな絶望する」
「次」
「中には、絶望のあまり自殺したものも少なくない」
「以上」
 話すことはないとばかりに、書き物に専念する。とりつくしまもない。普段からお堅い方ではあるのだが、こうも付け入る隙がないと対応に苦慮する。確かに、絶望だの自殺だのいう不吉な単語が飛び交っているのに、わざわざその中に導くのは彼女の道義が許さないのだろう。
 ここは私の可愛さで篭絡するのも一興かと思ったが、失敗したら橋の下に捨てられそうなのでやめておいた。捨て猫に身を落とすのは御免被りたい。
「だ、だってー」
「また『稗田は好奇心を歓迎する』か? 聞き飽きたな。そんなことより、私はお前の身体が心配だよ」
「ぐう……」
 辛うじて、ぐうの音は出た。
 膝の上に置いた握り拳は、汗を掻いて湿り気を帯びる。無機質でいて、掴みどころのない旋律で奏でられる筆の音を聴きながら、これもまたひとつの子守唄になるのだろうかと夢想する。
 しばらく慧音さんは無言で作業を続け、私もまた春を司る睡魔に唆されることなく、辛抱強く待機していた。眠りに堕ちたところで誰かさんのように悪戯してくることもないのだろうけど、眠ればきっと稗田家に強制送還される。お姫さまだっこで。
 それを恥ずかしげもなくやってのけるのが、上白沢慧音先生という人なのである。
 だから、根気強く待った。
「……もう、こんな時間か」
 時計を見れば、十二時を過ぎていた。ずっと書き物を続けていたのだから、昼食の用意をしているはずもない。ぎゅるりり、と乙女らしからぬ悲鳴がお腹の底から響き渡る。
 そこでようやく、慧音さんは私の方を振り向いた。
「ご飯にするか……」
「待ってました!」
「待ってたのか」
「とんでもない」
 慧音さんは苦笑していた。

 

 昼食は素うどんだった。
 いやうどんは好きですけど。
「不満そうだな」
「とんでもない」
 ずるずると啜り喉を滑り落ちる小麦粉の柔肌がなんとやら、ひとまず腹の虫にとっちゃ栄養が与えられれば咆える必要もなくなるわけで、空腹による虚脱感も次第に失せていった。しっかり味わって食べると、ネギくらいしか入っていないうどんも美味しく感じられる。お吸い物に添えられるような飾りの薬味も、素っ気ない見た目を潤おしていた。
 うどんの残りもわずかになったころ、慧音さんが器に箸を置いた。栄養制限でもしてるのかなとそちらを見やると、彼女はひどく真面目な表情を浮かべていた。うどんが不味かったとか毒が混入していたとかいうわけじゃないだろうから、先程の話題に関連することと考えた方が自然か。
 私もげっぷを抑えながら箸を置き、慧音さんの言葉を待つ。
 言いにくいこともすぱっと言い放つ彼女には珍しく、どこか、発言することを迷っているようにも見えた。
「何故、嘆きの歌なんてものに興味を持った」
 その言葉には、叱咤し、問い詰めるような響きがあった。そんなものに興味を抱かなくても、もっと面白いものがあるだろうに。いつもなら、阿求らしいなと笑ってくれる相談も、今回ばかりは看過できないようである。
 ――嘆きの歌。
 はて。
 私はどうして、そんなものに興味を持ったのだろう。
 考える。
「考えてみれば」
 思ったことを素直に口にする。躊躇いがないのは、私自身、どうして興味を持ったのかわからないからだ。明確な答えを出すことが出来ない以上、徒然に零れ落ちる言の葉から、何か最も真実に近いものを選択する以外に術はない。
「酷い名前ですよね。嘆きの歌なんて」
「そうだな」
「本当に、人々に絶望を与えるためだけに生み出された歌なんだとしたら」
 不意に、言葉を飲み込む。次に言うべき台詞があまりに感傷的だったものだから、柄にもなく、声が詰まった。うどんを食べていたおかげで、飲み込むことも、吐き出すことも簡単だったから助かった。
「それは、きっと悲しい」
 歌は何のためにあるのだろう。
 子守唄、凱歌、国歌、愛の歌、鎮魂歌。
 楽しませるため、安らぎのため、悲しみをもって哀しみを癒し、嘆きをもって絶望から這い上がる意志を生み出すため。
 絶望を歌う歌も、絶望だけでは終わらない。
 なのに、嘆きの歌は、絶望だけで終わるのか。
「……そんなの」
 そんなのは、あんまりじゃないか。
「そう、だから」
 知りたい。
「その歌が本当に絶望を歌い、絶望を与えるためだけのものなのか」
 稗田阿求の好奇心が求めるものは、きっとそこに埋もれている。掘り起こさなければ芽生えない真実の種には、決して尽きることのない好奇心の水を。それが興味本位の不純な水だとしても、この心から湧き続ける力の源は、その種から綺麗な花を咲かせることが出来ると信じている。
「私は、知りたいのだと思います」
 おそらく、答えのようなものは出せた。虚勢を張るでもなく、驕り高ぶるでもなく、堂々と胸を張る。
 慧音さんは、小さく「そうか」と答えた。
「うどん、食べるか」
「そうですね」
 箸を持ち直し、またずるずると啜り始める。少し冷めてしまったけれど、味が悪くなるほど時間が経ったわけじゃない。美味しく頂く。喉越しが良いものだから、つい汁まで飲んでしまいそうになる。慧音さんはどうなんだろうとそちらを見れば、やっぱり汁は飲まないまま箸を揃えて器に置いていた。ちょっと名残惜しいけれど、私もそうする。かちゃり、と乾いた音が立つ。
「実を言えば」
 ふと、思い出したように呟く。
「知らないわけじゃないんだ。その歌のこと」
 げっぷが出そうになった。
 何とか堪える。
「だが、私がその歌に関してお前に教えることは何もないと思っている」
「それは、何故」
 先程の真剣そのものといった表情とも、少し違う。
 表現は悪いが、どこか、私を試しているような趣がある。もとから含みのある言い方をする人なのだけれど、今は、その癖に愛嬌のようなものを感じた。
「その答えは、お前自身語ったことだと思うけれど――まぁ、そうだな。阿求がみずからの手で真相を掴みたいというのなら、私はもう何も言わないよ」
「それは……手伝って頂ける、ということでしょうか」
「間接的には、ね」
 あくまでも、直接真実を教える気はないようだ。彼女がそう口にしたからには、むんつけても足の裏をくすぐっても、上白沢慧音の知識を当てにすることは出来ない。それはもう、仕方のないことだと諦める。
 道は必ずしもひとつではない。
 間接的にでも協力をしてくれるのなら、道を切り開くのもちょっとは楽になる。
 うどんの器を下げて、台所に引っ込んだ慧音さんの背中を朧気に思う。
「そう、ですね」
 独りごちる。
 慧音さんがこちらを不思議そうに見ていることに気付いたのは、彼女の顔が目と鼻の先まで近付いていたときだった。
 近いです先生。
「近いです」
「考え事も良いが、隙が多いのは良くないな」
 身を離し、書き物に戻る。たまにこういう脈絡のないことをするから、この人は憎めない。
 さらさらと耳の心地よい音が部屋に広がり、忘れかけていた眠気が不意に首をもたげる。ゆらり、と一瞬だけ身体が揺れたとき、ちょうどよく慧音さんがこちらを興味深げに眺めていた。
「なんですか」
 その微笑ましい表情は。
「いや、なんでも」
 絶対嘘だ。
 私はひとつ大きめの咳払いをして、にやにや笑っている慧音さんの注意を喚起する。
「決めました」
 宣言する。
 彼女がそういう態度を取っているから、というのはあまり関係がないけれど、少し意地悪っぽい言い方もしてみたい。でなければ、不公平に過ぎるというものだ。
「ほう」
 あんまり動じていないみたいだけど、それでも、私は続けた。
 嘆きの歌にまつわる話は、まだ終わっていない。
「慧音さんには、私の守護者になって頂きます」

 

 

 

 3.

 

 

 

 翌朝。
 昨日の昼食に私の大好物が用意されていたことにも負けず、私は稗田家の門の前で慧音さんを待っていた。ついでにお手伝いさんも脇に立っているが、昨日の件があるから話しかけられても口を利かないことにした。
 今日は、人間の里から離れて本格的な調査を行う。
 幸いにも当ては幾つかあるのだが、唯一の懸念は妖怪の襲撃だった。幻想郷は昔よりもずっと安全になっているけれども、触れてはいけない、触れるべきでない領域、妖怪が確かに存在する。万が一、そんなものにぶち当たってしまった場合、そこから抜け出すための糸が必要だった。
「すまない。少し遅れた」
 里の守護者、今日に限れば、私の守護者となる慧音さんが颯爽と現れた。
「とんでもない、来て頂けただけでも嬉しいです」
「いいんだ、みすみす危険に晒すわけにもいかないからな。道を選びさえすれば、私がついていなくても大丈夫だとは思うけど。選びそうもないからな。阿求は」
 腰に手を当て、困った奴だなと言わんばかりに苦笑する。
 やんちゃ坊主扱いされたものだ。しかもあながち間違っていないから、余計に悔しい。
「阿求さま」
 ぷい。
「本当、困った方ですよね」
「全く」
 意見がまとまっていた。
 その頷き合う感じが無性に腹立つ。
「行きますよ?」
「あぁ」
「阿求さま」
 呼ばれても振り向かず、足取りも速く通りを進む。
 傍らに慧音さんの足音を聞き、稗田の家から遠ざかる道行きで、「お気を付けて」という言葉を聞いた。

 

 妖怪の山の麓にある霧の湖、そこから少し離れたところに騒霊楽団の本拠地はある。
 幻想郷縁起を編纂している者としてそれくらいの情報は掴んでいるのだけれど、実のところ問題は他にあるのだ。
「もしもしー」
 うら寂れた洋館の扉を叩いても、何の返事もない。耳を澄ませば、彼女たちが楽器を弾いている音を聞くことが出来る。けれど、それ以上は叶わない。たとえ無断で扉を開け、家の中に踏み込んだとしても、彼女たちが会見を求めない限り、不用意に姿を現すことはないはずだ。
 私はそれを知っていたから、護衛の依頼を慧音さんに申し込んだ。
 博麗でも霧雨でもなく、歴史を食べることの出来る上白沢慧音に。
「先生、お願いします」
 道を譲る。
「うむ……いや、それはいいんだが、ここで先生っていうのはあれだな。語弊を招く」
「けーちゃんの方がよかったですか」
「けー……、やっぱり普通に呼びなさい」
「わかりました。けーちゃん」
「言うと思ったよ」
 苦笑いを浮かべながら、先生は扉に手を掛ける。そのまま、ゆっくりと開く。
「お邪魔します」
 みしみし軋む蝶番の音が、かすかに響く楽器の音色を遮る。あちこちの窓から光が舞い降り、中空に漂う埃さえ優美に照らし出す。耳の奥に残っている演奏が幻と思えるほど、此処にはもう何もなかった。ただ、かつて此処に存在した何者かの記憶が、幽霊となって彷徨い続けているような。
 そんな、錯覚にも似た確信を得た。
「見えるか」
「いえ……、慧音さんは」
「見えない。各々の部屋にいるのかもしれないし、機嫌が悪いのかもしれないな。でなくても、会いたくないときというのは誰にでもある」
「じゃ――」
 次の言葉を放ちかけた私を制し、慧音さんは目を閉じた。瞑想に入る。
 歴史喰い。
 食べるということは、噛み砕くということだ。そこにある歴史を解読し、咀嚼し、翻訳する。自分だけでなく、他人からも見えるように。
 失われた記憶、消えた存在、冷めた熱、彼女の能力はただ逆算するだけで、現世に蘇らせることは出来ない。だから私が一瞬だけ見たものは、幸せそうに笑う誰かの幻に過ぎなかったのだろう。
 そして、幽霊たちの焦点が合う。
「あ……」
「んー?」
「んあー」
 三者三様、宙に浮かび、揺れながら、楽器を抱えたまま、不思議そうにこちらを見下ろしている。
 左から、ルナサ、メルラン、リリカ、姉妹の性はプリズムリバー、みな騒霊である。
「お邪魔しています」
 私は先んじて会釈をし、もう一度挨拶した。
 きょとんとしていた彼女たちも、ようやく事態を把握するに至ったようで、ふわふわと浮かせていた身体をゆっくりと床に下ろした。目の高さが限りなく私に近付き、そのぶんだけ、人間と幽霊の距離が近くなったような気がする。
 目を細め、というより生まれつき細いのかもしれないけれど、ともかくルナサは首を傾げる。
「見えないものだと思っていたけど……そうでもないのかしら」
「もしや、死んでる? 死んでる?」
 つっつくな。あと加減しろ。
 メルランは相変わらずアッパーなテンションで、これがたまに調子悪くなったら不気味なんだろうなと不謹慎なことを思った。
「む……」
 ひとり、三女のリリカだけは、品定めをするような目で私を睨んでいる。理由はなんとなく見当がつくから、あまり気にしないことにしたいのだけれど、残念ながら、私に必要なのはリリカの能力なのだった。
 ルナサは私の傍らに佇んでいる慧音さんに気付き、なるほど、といったふうに頷いた。メルランはよくわかっていない様子だった。リリカに至っては、初めから私しか見ていない。というか、徐々に接近してきているのは気のせいだろうか。
「むぬ……やっぱし、どこかで見たような……」
「は……初めまして。私、稗田阿求と申します」
「あー!」
 耳元で叫ばれた。
 痛い。耳が。
 しつこくつっつかれてるのも地味に鬱陶しい。
「姉さん、この子だよ! 姉さんのこと人気ないとか、私のことちっちゃいとか言いふらしてたのは!」
「別に、人気がないわけじゃない……」
「ないわよ!」
「ないわねー」
 なんで妹たちに追い詰められてるんだろう。不憫だ。
 ちらり、とルナサは私を一瞥する。
「……あるわよね?」
「い……一部には」
「マニア向けだー!」
「姉さんもやるわねー」
 これ、リリカの方がテンション高いんじゃないか。
 一方のルナサは明らかに沈み込んでいるのだが、鬱は彼女の原動力みたいなものだから、ここはリリカの説得を優先したい。ルナサの激励には、苦労人仲間の慧音さんが当たっているから問題はない。
 メルランのつっつきを制し、敵視する姿勢を崩さないリリカに対する。目線の高さはほぼ同じで、確かに相当ちっちゃい。私と同じくらいであるということは、つまり私も相当ちっちゃいということになる。どんぐりの背比べ、ということわざが脳裏をよぎり、瞬く間に霧散した。
「成長期……来るといいね」
 同情された。
「あなたに、お願いがあります」
 無視した。
「こわいわー」
 メルランは呑気である。
 リリカは、私の頭のてっぺんから爪先まで、品定めするような目で見つめている。腰に手を当て、姉よりももっと目を細めていても、背伸びしているようにしか見えないのは不遇である。無論、似たようなことは私にも当てはまるのだけど。
 成長期、来るといいなあ。
「ふうん。一応、聞くだけは聞いてあげる」
「ありがとうございます」
 挑戦的な視線にも動じず、正確には動じる気配を微塵も感じさせず、私は彼女と対峙する。
 リリカ・プリズムリバー。
 失われ、死んでしまった幻想の音を操る騒霊。
 彼女ならば、私の望みを叶えられるかもしれない。その能力にどのくらいの汎用性があるのかは定かじゃないが、闇雲に稗田の蔵を何棟も漁るよりよっぽど効率的である。
 仮に、彼女が協力してくれれば、の話だけれど。
「嘆きの歌を、ご存知ですか」

 

 承るにしろ、断るにしろ、即断であるのならば話は早い。
 けれども、嘆きの歌に関するわずかな情報を公開し、協力を依頼した私を前に、リリカは皺を寄せた眉間を指でほぐしながら、うんうんと悩み続けていた。
 ルナサは慧音さんの巧みな話術により見事な復活を遂げ、今はソファに腰を落ち着けて紅茶を味わっている。流石、寺子屋の先生をやっているだけのことはある。メルランも一緒に紅茶を飲んでいるが、こちらは話の流れとあんまり関係ない。
「どうでしょう」
「どうなんだろ……」
 まぶたを開け、透き通る瞳を私に向ける。迷い、躊躇い、あるいは呪縛か。嘆きの歌という言葉には、人を遠ざけ、そして人を魅了する響きがある。要はそのどちら側に立つかに過ぎず、現段階において、リリカは嘆きの歌を敬遠している。
「たぶん」
 短い栗色の髪は頬を隠すように反り、顔が赤く火照ってもうまく見えないようになっている。対する私の髪は、何もしなくてもまっすぐ伸びて、だから頬も抓られやすく、帽子も被っていないから頭も撫でられやすい。
 難儀なことだ。
 だからリリカは、そうされるのが嫌で、帽子をかぶり、髪を反らしているのだろうか。
「たぶんだけどね」
 皮肉や同情の響きはなく、ただ、確認の意味をこめて告げる。
「それ、嘆きの歌って名前じゃないと思うんだ」
 何故か、言葉に詰まる。
 得体の知れない衝動に苛まれ、動けない私をよそにリリカは言葉を続ける。
「考えてみたら、酷い名前だよね。嘆きの歌、なんて」
 私が昨日思ったことを、彼女もまた同じように繰り返す。
 そしておそらくは当然のように思い至る疑問を、今になってようやく突きつけられた。
「それ、一体誰から聞いたの?」
「……え?」
「なんでそこで不思議そうな顔するのさ」
 大丈夫? と額の熱を計られそうになる。咄嗟のところで離脱して難を逃れたものの、突如として私の胸に去来した疑念が晴れることはなかった。
「聞いてないみたいだからもう一度言うけど、稗田阿求は、一体どこの誰から『嘆きの歌』なんていう物騒な歌の話を聞いたの、て言ったのよ」
「え……と、誰でしょうね」
「……あんたねー」
 はあ。わざとらしいため息を吐き、リリカは困惑する私の額にデコピンをかました。
 痛い。反応が遅れたけどちゃんと痛い。
「もしかして、ばかにしてる?」
 宙に浮いていたキーボードが私の頭上に飛来する。
 忘れかけていたけれど、彼女もれっきとした騒霊であり、人間の私より大きな力を持っている。対処を間違えればろくなことにならない、それは、幻想郷縁起を書いている身なれば理解していて然るべきなのに。
「いえ、そんなつもりはないんですけど。全く」
 ぶんぶんと首を振りながら弁解する。が、先程の受け答えは、確かに話を聞いていないと取られてもおかしくない。圧倒的にこちらが不利だ。
 でも、しょうがないじゃないか。
「わからないんです」
「わからない、てことないでしょ」
「思い出せないというか……何故だが、ぼんやりとしていて」
「はあ……大丈夫なのかね、ほんと……」
 不安そうに呟き、キーボードを引き寄せる。
 ひとつ、鍵盤を指で弾いただけの音が鳴る。幻想でも何でもなく、どこの世界にも有り触れた何かの音だ。
「いずれにしろ」
 前置きをして、リリカは宣言する。
「本当の名前がわからないと、探しようもないよ。嘆きの歌なんて漠然とした情報だけじゃ、それこそ雲を掴むような話だからね」
「と、いうことは」
 逡巡は窺える。けれども、少なからず興味を引かれているのは確かなようだ。
 嘆きの歌、という名前は、その歌の本当の名前ではない。そこに、一筋の光明を見た。
「見つけられないかもしれないよ」
 自然と、笑みがこぼれるのを感じる。
「あ……ありがとうございます!」
 それこそ床に頭突きするような勢いで頭を下げ、見えないのに、リリカが苦笑しているのがわかった。

 

 プリズムリバー楽団と約束を交わした後も、私たちはすぐに里には戻らなかった。
 リリカも言っていたが、歌を見つけられたとして、歌い手がいなければ片手落ちである。歌詞がなくても歌と呼ばれていたのなら仕方ないが、完成形を求めるなら、優秀な歌い手にも当たった方が良い。幻想の歌には幻想の歌い手を。そう思い、私たちが向かった先は。
「お腹が空きました」
「子どもかお前は」
「子どもですもん」
「そうだな」
 髪の毛を撫でようとする手の動きを咄嗟に防ぐ。
 と思ったら顎の下をくすぐられた。
「うあう」
「しかし、噂には聞いていたけれど、本当に開いているんだなぁ」
「えう」
「夜雀の屋台、か……取り締まるべきか否か、悩みどころだね」
「ふにゃ……ていうかもうくすぐらなくてもいいでしょう」
 振り払うと、慧音さんは残念そうに手を引っ込めた。
 何だか小動物扱いされている気がする。みんなに。
「行きましょう。尻込みしていても始まりません」
 ぐう、と乙女らしからぬ悲鳴がお腹の底から轟く。
 別に、遠めに見える屋台から香ばしい匂いが漂ってきているからではない。断じて。
 腹の虫なんて幻想ですよ。
「鳥目には気を付けろ」
「どういふうに気を付ければいいのかわかりませんが、わかりました」
 目を閉じたまま歩いていたら、木の枝に躓いて転びかけた。
 何やってるんだお前みたいな顔をされた。
 多分お腹が空いているからだと思います。
「……あんまり、お客さんいないみたいですね」
「閑古鳥が鳴く日もある。客商売なら特にな」
 同情したふうに慧音さんは言う。でも寺子屋が客商売というと、ちょっと問題があるような気もする。
 日が落ち、薄暗く黄昏に染まりゆく道を行けば、赤提灯のぼんやりとした灯りを見つけることが出来る。白く香る煙は暖簾の向こうから立ち昇り、歌声は聞こえないけれど、そこに鳥目の主犯とヤツメウナギの作り手がいることを示していた。
 いらっしゃい、という掛け声を期待し、あえなくか細い寝息に裏切られた。
「くー」
 寝てらっしゃる。
「いらっしゃいました」
 言ってみた。
「くー……くー……、……んごごっ」
 何か詰まったっぽい。
 これはあれか、睡眠時無呼吸症候群というやつか。
「鼻でも摘まんだら起きますかね」
「窒息するぞ」
 慧音さんはごく普通に店主の肩を揺すり、覚醒を促す。口の中をむにゃむにゃさせながら、夜雀は眠たげにまぶたを開けた。
「う、うぅん……?」
 ぱちぱちと瞬きを繰り返し、周囲の状況を確認する。カウンターに突っ伏していたから額は赤く、寝起きだから目つきも悪い。妖怪の威厳などあってないようなもので、それでも背中にそびえる羽と獣の耳は、彼女が立派な妖鳥であることを証明してる。
 ミスティア・ローレライ。歌で人を狂わす能力を持つ。夜雀であるが、あまり雀っぽくはない。
 どういった経緯で飲んだくれていたのかは知らないが、幻想の歌い手というならば、彼女を置いて他にないと私は思っている。
「きょ……きょうはのれんー……」
 再び、夢の世界に沈没する。
 カウンターに激突した額がめきょっと鈍い音を立てても、気にも留めずに惰眠を貪ろうとする。何がそこまで彼女を眠りに駆り立てるのか、その理由も含めて、私は彼女を問いただすべく落ちた顔を無理やり持ち上げた。
「まあまあ」
「うぎゅう……なによぉ、ねむらせてくれてもいいじゃない……おぇ」
 慧音さんが背中を擦る。
 私は一歩引いた。
「うぅ……きもちわるい……」
「何があったか知らんが、呑みすぎだ。馬鹿」
「す……すずめだもん……」
「あぁそうだな」
 左手で背中を擦りながら、右手に掴んだ柄杓で水をすくう。介抱慣れしている。まさに母性の塊といった具合だが、見ていてあまり羨ましくないのは何故だろう。うぷ、とか、おぇ、とかいう擬態語が聞こえてくるせいかな。多分そう。
 ともあれ。
「――ん、ぷはぁ……おいしい……みず……ぐう」
「寝るな」
 ミスティアの後頭部に手刀を喰らわせる。むぎゅ、とカップに口を突っ込み、歯茎でも打ったのか涙目で唇を押さえている。
 慧音さんの懸命な看病により、ミスティアは三十分の後にそこそこ回復した。まだ軽く酔いは回っている様子だが、受け答えをする分には問題ない。むしろ下手に元気盛りだくさんだと、頼んでもいないのに鳥目の波動を発する可能性がある。このくらいがちょうどいい。
 でも吐かれるのは困る。
 そのときは慧音さん頼んだ。
「ふひゃい……なによぉ、起こしたり、殴ったり、介抱したり……べ、べつに、私なんか食べても美味しくないんだからね!」
「食べませんから」
 外見が人間に似ていると、食べる食べないといった話はどうも抵抗がある。妖怪からすると、むしろ望むところなのかもしれないが。
 そこでようやく、ミスティアは私の存在に気付き、唐突に瞳を輝かせた。
 あ、やば。
「あ、人間だ! あんたも鳥目にしてやん」
「するな」
 手刀ふたたび。
 今度は泥棒の髭みたいに丸い痕がついた。くちばしがあったら抜けなくなっていたことだろう。想像すると、微笑ましい。
「なにわらってんのよぉ……」
「あ、ごめんなさい。つい」
 謝る。
 けれども、一度へそを曲げると時間がかかるのは人も妖も似ているようで、ミスティアは乱暴に水をあおると、酒でも呑んだかのようにカップの底をカウンターに叩きつけた。
「なんなのよ、ほんとに……ヤツメウナギならたくさんあるから、早いとこ食べて帰ってよ。いろいろあって眠いのよ、寝て、いろんなこと忘れたいの」
 言って、そこらの瓶に眠らせていたウナギを捌き始める。寝起きだというのにその手際は見事なもので、傍らに佇んでいる慧音さんをも唸らせる手腕だった。
「もし、よろしければ」
「んー、酒なら勝手に持ってってー」
「いえそうではなくて」
 一応、ミスティアが指差した方向を見る。
 棚には雑然と徳利やら濁酒やらワインやらが並べられ、理路整然とは程遠い有様だった。この店主からは、某香霖堂と同じく商売っ気があまり感じられない。今は自棄にやっているから対応も適当なのかもしれないが、こんなにも上手く包丁を扱い、ウナギを捌いていても、彼女の本業を知っていれば、これは副業にしかなりえないことが理解出来る。
 浅い酩酊に誘われ、赤ら顔の千鳥足でも、雀百まで踊り忘れず、朝にくちずさむ歌をずっと覚えているように、彼女は鼻歌をくちずさんでいた。喉を痛めているはずなのに、美しく、透き通るような響きで、私はしばし彼女へ質問するのを忘れていた。
「で、何しに来たのよ。あんたたち」
「――あ、ごめんなさい。実は、あなたにお願いがあって」
「おねがいー? ……うわ匂いキツくて気持ちわるぅ……」
「おちつけ」
 香ばしく焼けるウナギの匂いが、そういえば随分とへこんできたお腹に深く染み渡る。
「そうです。お願いです」
 ぎゅるる。
「……別に、お金さえ貰えれば普通に食べさせてあげるんだけど。ウナギ」
「いえそうじゃなくて」
 むきゅー。
「……ぷっ」
「そ、そんなに笑わなくても……」
「さっきあんたも笑ったんだからおあいこでしょ。ま、話はウナギ食べた後で、ね」
 渋々、私は頷いた。
 小さく首を下げるだけでも、幻想であるはずのお腹の虫は、またひとつきゅーと鳴くのだった。

 

 秘伝らしきタレを塗りたくられたヤツメウナギは、見た目の珍妙さと裏腹に、とても舌触りがよくまろやかな味わいだった。と書くとそこはかとなく玄人じみた印象を覚えるけれど、味の説明など上手いか不味いか甘いかしょっぱいか、あとはその派生と組み合わせによっておおよそが成り立っている。だから私に言えることは、ちょっと硬くてあんまりウナギの味はしないけどオススメです! くらいなものである。
 閑話休題。
 お酒に手を伸ばそうとしたら、保護者役の慧音さんに手の甲を叩かれた。店主は店主でぐびぐびやり始めているのに、見ているだけなんて勿体ないじゃないか。確かに私は交渉という責務を背負っているわけだが、如何なる事態にも休息は必要である。張り詰めた糸は切れやすく、走り続ければ足は棒になる。永遠なんて戯言がまかりとおる幻想郷ならば、その長きをわたるためには、要所要所で一服を挟まなければ到底生きていけないのではないか、と。
 思ったりもしたが、頭突きが怖いので口には出さないでおいた。
 あれ痛いもの。
 慧音さんは手加減という概念をお母さんのお腹の中に忘れてきたのだ。きっとそうだ。
「阿求、失礼なことを考えてないか。何か」
「いえ特に」
「そうか。そんな気がしたんだけどな……」
 首を傾げる。
 妙なところに勘が働くのはやめてほしい。
「だからぁ、私は好き勝手に歌いたいだけなんだってぇの……ひっく!」
 ミスティアは、完全に出来上がっていた。
 ぶすぶす焦げているのはヤツメウナギの残骸で、煙は既に真っ黒に染まっている。火種は慧音さんが責任を持って消した。出された料理も空になり、水分が恋しい頃合だ。けれど、今は少し話をしなければならない。
 また吐くんじゃないかと正面に座っている私は戦々恐々としていたが、カウンターに突っ伏したミスティアは、小さくしゃっくりする程度で何とか収まっていた。目も虚ろだが、きちんと私の姿を認識している。
「閻魔様に言われたのですか」
「そう、それよそれ……レクイエムとか鎮魂歌とか葬送曲とか、辛気くさいったらありゃしない……この私にゃあ、そんなのは似合わないね。私に似合うのは……そう! 忘れちった」
「とりあたま……」
「なんか言った?」
「いえ特には」
 無駄に耳ざとい。
「ま、なんでもいーんだけどね……べつにさぁ、なに言われても好きにやってりゃいいんだけど……案外、そうもいかないもんでさ……ままならないっていうか、おちつかないっていうかー」
 自分の心に説明が付けられず、ミスティアはもどかしそうに身じろぎする。
 鳥バサミに引っかかってもがいてるみたいだった。
「あぁーもうー!」
 切れた。
 阿礼乙女の勘がミスティアの逆上を瞬時に察知し、現場から離脱しようとしたけれど椅子に足を引っ掛けて転んだ。
 けたたましい破砕音には耳も脚も頭も痛い。
「いたい……」
「慌てるからだ。何、問題はない」
 慧音さんの声に、逼迫した様子はない。
 叩き伏せられた頭上から、夜雀の歌声が響く。鳥目うんぬんの効果が脳裏をよぎり、彼女の声が耳に吸い込まれた瞬間、そんな杞憂はあっという間に雲散霧消した。
 酒を呑んでいるはずなのに、声音は耳を疑うほど清涼で、やけっぱちになっているとは思えないほど、胸に染み入る優しい声色だった。そのぶん、表情だけは力が入っているけれど。
 歌詞は上手く聞き取れなかったが、声量も声質も申し分ない。聞く者を引きつけ、見るものを釘付けにする力を持っている。何を歌っているのかわからなくても、彼女の歌を聞くだけでも価値はあると思わせる何かがある。それがいわゆるオーラやスター性と呼ばれるものなら、ミスティア・ローレライは紛れもない歌姫なのだろう。彼女がそれを意図していなくても、時代は彼女にその役割を求める。
 歌ってほしい。
 彼女がもし嘆きの歌を歌ったなら、それを考えると胸が躍る。
 陽気な彼女は嘆きの歌という響きを嫌がるかもしれないけれど、それでもなお、彼女が歌う嘆きの歌を聞きたいと思った。熱くても優しくても、それはきっと良い歌になる。
 そんな予感がした。
「うん……良い歌だな」
「そうですね。聞き惚れそうです」
 起き上がり、素直な感想を口にする。来る前は取り締まるべきか否か逡巡していた慧音さんも、彼女の歌を聞いている間は、大人しく彼女の声に聞き入っている様子だった。
「……あー、歌った歌った」
 ひとしきり大声で歌い、終わった後はまた力なく突っ伏す。躁鬱の切り替えが早い。
 このまま寝かせてあげるのが親切というものかもしれないが、私は己の本懐を遂げるため、心を鬼にして彼女に話しかけた。
「あなたに、ある歌を歌ってほしいんです」
「えー……? いまはねむい……」
「今じゃなくてもいいんです。もうちょっと経ってから、里に近いところで」
「えー……里の近くはなんかうるさいのがいるんだよね……」
 そのうるさいのが咳払いをした。
 怒っているのか恥ずかしがっているのかよくわからない。
「大丈夫です。許可は取りますから」
「うーん……歌えさえすれば、あとはなんでもいいんだけど……」
 口ごもる。
 ミスティアが決断に至らない理由は、彼女自身が答えたように、意に沿わない歌も歌わなければならないところにある。閻魔に説かれ、強制されたわけではないにしろ、哀しい歌や寂しい歌を歌う必要性を知った。それはそれで、歌えさえすれば構わないという彼女の意志には反していないのだが、それでもやっぱり好きに歌いたいと思うのだ。きっと。
 頬をカウンターにぐりぐりと押しつけ、そろそろ意識が混濁してきた彼女に、私は言う。
「ご心配には及びません」
「んー……?」
 自信満々に、自分の胸を叩く。
 我ながら、詐欺師じみた口調だなと思った。
「あなたが歌うのなら、どんな歌もきっと素晴らしいものになる」
「……ん、褒めても何も出ないよ」
「私は、あなたの歌が聞きたい」
 しっかりと、虚ろな瞳を凝視して話す。
 徐々に理性の色を取り戻し始めたミスティアの瞳は、「お願いします」という最後の一押しによって、完全に躁の色に反転した。
 ミスティアはその瞳に炎を宿し、カウンターに足をかけてまで不敵に笑う。
「……そこまで言われたら、歌わないわけにはいかないわね……ここで歌わなきゃ、歌姫の名が泣くってえもんよ!」
 やっぱり歌姫の自覚はあったらしい。
 その意気です、と背中を押せば、勢い付いた彼女は更にもう一曲歌い始める。今度はさっきより激しい曲で、彼女の声量と歌唱力なら屋台そのものが崩壊するんじゃないかと思わせるほどだった。
「ふう……」
「……」
 安堵の息をつく私の隣で、慧音さんが極悪人を見るような目で私を見ていた。
 別に悪いことしてないですよ。
 正直に正直に。

 

 

 

 4.

 

 

 

 それから数日は、何の音沙汰もなく過ぎた。
 プリズムリバー楽団とミスティアに提供する嘆きの歌の資料が見つからない以上、歌を再現することは不可能である。香霖堂からの連絡もさっぱりで、みずから出向いても店主の返事は芳しくない。さぼっているのかとも思ったが、陳列されている品物が微増の傾向にあることを鑑みると、散策はしているらしい。いくら閑古鳥が鳴いている店であれ、長期に店を空けることは出来ないだろうから、嘆きの歌の調査に付きっ切り、というわけにもいかないのだろうけど。
 同じように、私も他の仕事がある。幻想郷縁起の編纂以外にも、稗田家の若き当主としてすべきことは多い。お手伝いさんの作るご飯も美味しい。そんな経緯から、ここしばらくは稗田の家から出ることも少なかった。
 だが、ある一報により事態は急展開を迎える。
 縁側にて日向ぼっこという名の光合成に興じていた私は、お手伝いさんから渡された手紙に息を呑んだ。
 香霖堂店主、森近霖之助からの連絡。
『嘆きの歌 発見につき』
 寝耳に水だった。
 午睡の誘惑を断ち切り、膝に寝かせていた猫を転がし、寝惚け眼を擦って眩しすぎる太陽を仰ぐ。
 傍らには、何やら物言いたげなお手伝いさんが立っている。
 近頃は彼女も何かと忙しいらしく、こうして縁側で他愛もない話をする機会も減った。
 そういえば、嘆きの歌にまつわる話をしたのは、彼女が最初だったか。
「行かれるのですか。行かれるのですね」
「そう疲れた顔をされると、行くのが躊躇われるじゃないですか」
「それでも、阿求さまは行かれるのでしょう」
 自己完結したふうに、お手伝いさんは言う。相変わらず、困った人だ、というような顔をしながら、いつものように私を見送る。
 身支度もそこそこに、私はお手伝いさんの横を通り過ぎる。一歩、二歩、三歩くらいもったいぶって、こちらを眺めているだろう彼女の方を振り返る。予想通り、彼女は愛用の箒を携えて、小さな小さな私の背中を見守っている。
「では、行ってきます」
「はい。お気を付けて」
 いつものように、ありふれた言葉で私の背中を押して。

 

 香霖堂までは、慧音さんが随行していなくても楽に行ける。魔法の森の入り口に構え、時には妖怪も店を訪れるという話だから、里の中ほど安全なわけではない。けれども、慧音さんを呼び、磐石の態勢を取っている暇はなかった。正確には、安全よりも目先の好奇心が上回った形になる。
 慌しく香霖堂の扉を叩き、返事も確認しないまま店内に入る。
「いらっしゃい」
「いらっしゃいました」
 とりあえず、挨拶するくらいの愛想はあるようだ。
 所狭しと並べられた品物には目も暮れず、ゆったりと椅子に腰掛けている店主のもとへ近付く。眼鏡の奥に隈があるのならご苦労様と労う余地もあるのだが、特にそういった様子もなく、ただ眠たそうに細めた瞳があるだけだった。
 勘定台に手をつき、挨拶もそこそこに話を切り出す。
「現物は」
「ここに」
 一を聞いて十を知る。私が口を開くと同時に、数枚の藁半紙を差し出す。
 それは楽譜だった。
 五線譜の左上に、殴り書きのような字で『嘆きの歌』と記されている。
「これは……」
 真贋を見極めようと瞳を凝らし、それがあまりに汚い字面だったものだから、書かれているのが本当に『嘆きの歌』という文字なのか怪しくなってきた。
 助けを求めるように彼の方を向けば、彼は穏やかに首を振っていた。
「疑う気持ちもわかりますが、それはおそらく真作でしょう」
「私も、そう思いたいのですけど……しかし確証が」
 慎重にならざるを得ない。ただ、目の前に吊るされた格好の真実に、それが贋作と知りながら飛びついてしまいたい欲求もある。答えが欲しい。嘆きの歌とは、そして私がその歌を求めている理由は。
 答えは、五線譜に記された無数の音符が物語っている。
 そのはずなのだ。
「楽譜が眠っていたのは、香霖堂の裏にある倉庫でね」
 眼鏡の弦を押し上げる仕草が、結論をもったいぶっているように見え、やきもきする。
 私は彼の話を聞くことしか出来ないから、しばらくは彼の論法に付き合わなければならない。面倒だが、主導権は彼が握っている。楽譜は私に預けられたが、嘆きの歌そのものの真相は、森近、稗田の双方にて公開されることとなっている。だから、どんなに遠回りであれ、真実を語るのであれば聞かざるを得ない。
 とはいえ長くなりそうな話なので、椅子はないかと辺りを見渡したとき。
「……あ」
 瞬間、閃くものを感じた。
 違和感。
 今、森近霖之助は何か決定的なことを言った。
 聞き逃してはいない、確かに聞いた、その意味をもう一度理解しようと、私は頭の中に残っている彼の言葉を呼び起こした。
「香霖堂の……倉庫?」
 そうだ。
 無縁塚でも魔法の森でも、三途の河でも妖怪の山でも中有の道でもない。
 森近霖之助は、香霖堂の倉庫で楽譜を見つけたと言った。
 すなわち。
「察しが良くて助かります。……そう、これは外の世界から流れてきたものじゃない。いえ、正確には、流れ着いていたにしろ、それは今じゃなかった。今よりもずっと前に、誰かが嘆きの歌を見つけていた。だからこそ、僕の店の倉庫に楽譜が眠っていたのでしょう」
 少し、話が飛んだ。
 首を傾げる私を見て、森近霖之助は嬉しそうにほくそ笑んでいた。全く、趣味が悪い。
「……話が繋がりません。順序立ててお願いします」
「失礼。では簡潔に」
 瞳の奥は爛々と輝いている。窓から舞い込む光も弱く、降り注ぐ埃の柱さえ映さぬような寂れた空間に、好奇心の灯りが灯る。
「僕は、その楽譜を倉庫に入れた記憶はありません。しかし楽譜は倉庫にあった。それは何故か。話は単純、修行先の霧雨から独立した際、彼の家からわずかながらに受け取った物品のどれかに、それが混入していたのでしょう。店を構えるのに必要なもの、というより、ただ不用品を押し付けられたような感はありますが、それでも今は感謝しています」
「霧雨……」
 晴れやかに笑む彼と裏腹に、私は次なる想像を巡らせていた。
 嘆きの歌の完成を見るには、まだ必要なものがある。それは、題名と歌詞だ。曲だけでも演奏は成り立つけれど、歌であるからには詞が必ず添えられている。曲が楽譜として眠っていたのならば、歌詞もまたどこかに潜んでいるはず。果たして、この狭くとも広い幻想郷、一体どこに眠っているのか――。
「お分かりですね」
 考えて、考えようとして、その答えが自分の胸の中にあるということを、私は今更になって知らされた。
 不覚、とばかりに唇を噛んだ私を、彼はやはり微笑ましげな表情で眺めていた。
「稗田は森近と、森近は霧雨と、そして霧雨は稗田と繋がりがある。霧雨の大旦那はお元気でしたよ。何かと長い付き合いなのですから、物を贈ったり、贈られたりすることもままあるでしょう。
 ――そういえば、稗田の家には大きな蔵がありましたね?」
 不敵な笑みは、春風が窓を揺らす音に掻き消された。
 わざとらしく、自嘲などしてみる。
 灯台下暗し――だ。

 

 蓄音機が奏でる異世界の音楽に身を委ね、畳の上に正座する。
 機械を通じて響く音に、外界も幻想郷もない。耳たぶを撫で、三半規管をくすぐる柔らかな音は、私を眠りの世界に誘うのに十分すぎるほど穏やかだった。しかしあっさり睡魔に屈するわけにもいかないから、すんでのところで何とか堪える。わずかに重いまぶたを薬指で触り、その裏にある眼球の丸みを感じる。軽く押すと、少し痛い。右の耳から左の耳に行き過ぎる繊細な音色が、尻すぼみになって消えていく。レコードは、意味のある音を忘れてきゅるきゅると擦れ続けている。
 私は、瞳を開けて立ち上がる。
 ぱんぱんと頬を張り、気を引き締める。大掃除は大変だ、出来ればお手伝いさんの手も借りたいところだけれど、そう我がままばかり言うのも気が引けた。
 レコードを元の場所に戻し、廊下から中庭へ。誰ともすれ違わなかったから、愛想を振りまく余地も気持ちを切り替える暇もなかった。
 目指すは、稗田家の蔵。
 もしかしたら、嘆きの歌の資料が残っているかもしれない。
 その可能性に賭ける。
「よし」
 雄々しく立ち並ぶ古びた蔵を前に、もう一度頬を叩こうとして。
「何をなさっているのですか」
 呆れたような、驚いたような声に竦み上がる。
 おずおずと声のする方を覗き込むと、蔵の陰から箒を持ったお手伝いさんが現れた。中庭の隅は雑木林になっており、蔵はそこに隣接している。さながら稗田家の暗部といった風情だが、木を隠すには森の中、これほど隠蔽に適した場所もない。
 お手伝いさんは、何故か少しばかり埃にまみれていた。手に持った愛用の箒も、以前より毛羽立っているように見える。
「あなたこそ、こんなところで……」
「暇でしたから、掃除をしていました」
 問うより早く、答えが返ってくる。有無を言わせぬ口調に彼女らしからぬものを覚えて、ふと、彼女がもう片方の手に持っている紙に目が留まる。
「それは」
「あぁ、これですか」
 別段、何でもないことのように、その紙の束を私に差し出す。けほけほとわざとらしく咳をするのは、こちらが申し訳なくなるから勘弁して欲しい。
「阿求さまに恩を着せるため、わざわざ蔵を整理して、例の歌に関する資料を探しておりました」
「それ自分で言ったら台無しじゃないの」
「ご給金、楽しみにしております」
「はいはい」
 適当に流す。
 彼女は特に食い下がる様子もなく、紙の束を持ったままじっとしている。
 何にせよ。
「――ありがとう。本当に、助かりました」
「どういたしまして」
 事も無げに返事をするお手伝いさんから、紙の束を受け取る。
 やはり、左上に殴り書きのような文字で『嘆きの歌』と書かれている。束になった紙の全てに『嘆きの歌』という文字が刻まれていて、これを残した者にとって余程大切なものであったことが窺えた。
 だが、肝心の歌詞のようなものは、あまりにも汚くて読めたもんじゃない。年代どうこうより、筆跡の問題である。
「うわ……下手な字……」
「昔の阿求さまが思い出されますね」
「思い出さなくてよろしい」
 何年前のことを言っているんだ。
 かなり極悪な形相で彼女を睨みつけているのだが、どうもにやにや笑っているばかりで効果が薄い。そのうち眉間に皺を寄せるのにも疲れ、はあ、とため息を吐いて終わる。
 決まり切った流れだった。
「阿求さま」
「お給金なら、もいっこ格の高い飴が買える程度には考慮しますよ」
「そうではなく……、いえ、そうでもあるのですけれど」
 けちだと思っているなら、正直にそう言えばいいのに。
 流石の彼女といえども、当主に面と向かってけちとは言い辛いのかもしれないが。
「私も、聞きたくなってまいりました」
「何を」
 幺樂団をか、と思い、そんなわけないかと考え直す。話の流れからすれば、彼女が指し示すものに行き着くのは簡単だった。
 彼女は小さく首を振り、竹箒の柄本にある穴を親指でまさぐりながら、さも当然のことのように言う。
「その、嘆きの歌を」
 お手伝いさんの素知らぬ横顔、割烹着の白を染める日の光は、もはやただの透明な明かりでなく紅く色濃いものになっていた。
 太陽は、西の空に傾きつつある。

 

 ミミズがのたくったと表現するに相応しい文字列を解読するためには、慧音さんの助力が必要だった。
 その文字に刻まれた歴史を翻訳する……と適当に格好つけた物言いをしてみたものの、実際は文体の癖から本来の字面を読み解く地道な作業である。私も手伝った、手伝ったが、途中で寝た。起きたら何故か布団に寝かされていて、胸の上に漬物石が乗せられていて凄く重かった。親切なのか意地悪なのかわからない。
 そうして出来上がった歌詞は、私が眠っている隙に厳重に封をされてしまったため、私はまだその内容を知らない。いちいち封を開けるのも面倒だから、聞いてのお楽しみにしておこう。慧音さんも、その方がいいと言っていた。
「しかしあれだ、昔の阿求が思い出されるね。この字」
 あなたもそれを言うか。

 

 プリズムリバーには、香霖堂から得た楽譜を。
 残念ながら、私には楽譜に刻まれた音符の配列から音楽を想像することは出来ない。それゆえ、演奏は彼女たちに任せるほかないのだ。
 失われた音、幻想と化した音楽を再現するために必要なのは、楽譜は勿論のこと、その奥に隠された思いだ。リリカはそれを手繰り寄せることを約束してくれた。
 今度はノックすればきちんと姉妹が揃っていて、リリカが何やら勝ち誇ったような顔をして立っていた。
「勝った」
 ひとを指差して何を言うんだと姉たちを見れば、メルランはにこにこしていて、ルナサは私とリリカを見比べていた。視線の先を辿ると、どうやら私たちの背丈を確認したようだ。
 そうか、リリカは身長のことを言っているのか。
 器がちっさいな。
「やあ、おちびさん」
「ぶん殴りますよ」
 ひとのこと言えなかった。
 だが、握り締めた拳に嘘はない。
「おぉ怖いねえ。まぁ、そんなことはどうでもいいや。朗報があるんでしょう?」
「どうでもいいわけはないですが……、ありますよ、朗報。残念ながら」
「何が残念なのよ」
 主に身長的な意味合いで。
 リリカは手渡された楽譜をまじまじと見つめ、ふんふん、なるほど、と独り言を漏らしている。部屋の中を見渡し、不意に手を伸ばしたかと思いきや、はっと後ろを振り返りなどする。挙動不審もここまでくれば立派なものだが、姉たちはさほど気にしてもいない様子だった。次女に至っては熟睡していた。自由すぎる。
「あった」
 そうこうしているうちに、リリカが再び勝ち鬨の声をあげる。
 誇らしげに空を掴み、手のひらを開く前に、キーボードから静かな音が響き渡る。
「……ああ」
 すっ、とする。
 ――どこか、懐かしい音色だった。
 幼い頃、子守唄で聞かされたような、優しい趣がある。
 言葉や形にすることが出来ず、耳にすればすぐに消えてしまうもの。だからすぐに忘れてしまって、覚えるために何度も聴いてしまう。いつか口ずさめる日が来るように。次に出会う誰かに、その歌のことを教えられるように。
 これが、嘆きの歌の断片なのか。
「わかったよ。この歌の、本当の名前」
「え」
 唖然とする。
 これ以上、リリカを調子付かせるのはあまりよろしくないのだが、わからないものはわからない。人間に出来ること、騒霊に出来ること、その違いは見極めるべきだ。
「旋律がわかれば、そこから原曲に辿り着ける。やっぱり、この歌はもうあっちの世界には存在しないみたいだね。忘れ去られた歌。幻想の範疇にすっぽり収まっちゃって、抜け出す気もさらさらないみたい」
 解き放った手のひらから、零れ落ちるものの正体を私は知らない。ただリリカが満ち足りた顔をしているから、悪い方には働いていないと思う。そう信じたい。
「ありがとう、ございました」
「うん。でも、本当の名前は教えてあげない」
 お辞儀したまま、前のめりに突っ込みそうになる。
「なんで」
「別にー。ライヴ当日になったら、嫌でもヴォーカルが披露するでしょ。それまでがまんがまん」
「ぐう……」
 なんでリリカはこんなに楽しそうなんだろう。私が歯噛みしているのが嬉しくてしょうがないのだろうか。だとしたら、脳天に木槌打ち込んで身長縮めてやる。絶対だ。
 悲愴な決意を固めていると、リリカの表情がふっと和らいだ。私を見ているはずなのに、その向こう側にいる誰かを見ているような、奇妙な錯覚を得た。
「安心しな」
 不思議と、気休めにしか思えない口調に安堵する。
「その歌と、歌い手が秘めていた思いは、私たちが引き継ぐから」
 自信たっぷりに告げる彼女は、確かにいっぱしの演奏家を彷彿とさせた。
 キーボードが、柔らかな音をひとつ奏でた。

 

 夜雀の屋台は、昼間は実に閑散としていた。店主が屋台の屋根に立ち、大声で歌っているところからするに、あまり商売する気もないらしい。私に気付くと、ミスティアはふわりと地面に降り立った。
「鳥目!」
「夜じゃないですから」
 ちぇ、と舌を打たれる。人間を見ればそれしかないのか、この娘は。
 けれども、調子を取り戻したようで幸いだった。私の励ましが効いたのなら嬉しいけれど、単に嫌なことを忘れてしまっただけとも考えられる。直接、それを問いただすのは忍びないから、私は頑丈に封がされた茶封筒を差し出す。ミスティアも、多少困惑しながら封筒を受け取り、早速封を切ろうとして静電気のようにばちんと指が弾かれた。
 鳥バサミさながらである。
「あだーっ!?」
「落ち着いて」
 赤く腫れた指をふーふーするミスティアをなだめる。涙目でこちらを睨む彼女に、あの約束を忘れてしまったのかと一抹の不安を抱く。鳥だからなあ、無理もない、と自分を納得させようと俯いていたら、泣きそうなミスティアが強引に封を破いていた。痛みは頑張って克服したらしい。代わりに人差し指の太さが二倍くらいになっているが。
「へん、この私を出し抜こうなんて百万年早いってえのよ!」
 瞳を潤ませながら言うことでもない。
「で、これが歌詞ね。しっかし随分と手の込んだ真似するじゃないの、そんなに私を料理したいんなら、私もそれなりの抵抗はするわよ!」
 若干弱腰なのが微笑ましい。
「なに笑ってんのよ」
 そう長い爪で額をつっつかれると、眼球に刺さりそうで怖いからやめてほしい。
 彼女も、嘆きの歌を歌う約束は忘れていなかった。
 軽く引っかかれた額の傷を撫でながら、嘆きの歌にまつわる話の終わりを感じる。
 いろんな人たちを巻き込み、助力を請い、迷惑もかけた。疎まれこそすれ、感謝される謂れはない。けれども、この話が終わった後に、ほんの少しでも「ああよかったな」と呟けるような、そんな結末が訪れることを願う。
 ミスティアはざっと歌詞に目を通し、やはりリリカと似たようにふんふんなるほどと頷いていた。
「うん、いいんじゃない? 誰が作ったのかわからないけど」
「そう、ですか。なら、よかったです」
 意外な感想のはずなのに、褒められるのが嬉しくてしょうがなかった。
「で、ライヴはいつなの? プリズムリバーともリハーサルしないといけないし、あんまりカツカツだと困るんだよね」
 らららー、と喉を鳴らす。
 実を言えば、開催の日取りは決まっている。かねてから、この日に聞くことが出来れば最上だと思っていたのだ。おりしもその日は一週間後、多少の紆余曲折を経て、それでも本懐を遂げることの出来る幸福を噛み締める。
「はい。ライヴの開催日は、ですね――」
 心が躍る。喜びは顔に表れ、へんなの、と夜雀に笑われる。それも悪くない。
 一体、どんな因果が私の世界を取り巻いているのだろう。
 その来るべき日には、私がこんなにも嘆きの歌を求めた理由が、稲妻に打たれるような衝撃をもって気付かされるのだろうか。
 だとしたら、それ以上の運命はない。
 運命なんて言葉を使えるのは、多分、後にも先にもその機会しかないだろう。

 一週間後の今日は、私がこの世に生まれた日だから。

 

 

 

 5.

 

 

 

 人は泣きながら生まれ、周りはみんな笑っている。
 人は笑いながら死に、周りはみんな泣いている。
 そうあればいいと望んでいた誰かの死に際を、私はまだ見たことがない。
 だからせめて、私はそうありたいと思った。
 泣きながら死んだ人のために。
 泣かれながら生まれた人のために。

 

 

 

 朝靄が濃く、手のひらを擦りながら潜った門の向こうに、慧音さんとお手伝いさんが待っていた。
「おはようございます」
「おはようございます。阿求さま」
「おはよう。阿求も、早起き出来るような年になったか」
 失敬な。
「では、参りましょう」
「はい」
「急ぐなよ。転ぶから」
 失敬な。

 

 人里から少し離れた、見晴らしの良い小高い丘。魔法の森と、湖から流れている川が窺えるのどかな場所。
 ステージは低く、それでも曙光と脚光を浴びるには十分な高さがあった。
 夜雀の声は、増幅器がなくても周囲に騒々しく響き渡る。伊達に妖怪はやっていないだろうから、その点は安心している。
 観客は少なく、歌姫のやる気が殺がれる危険性も孕んでいたが、声出しをしている様子を見ると、別段気にしたふうもない。胸を撫で下ろす。
 プリズムリバーの面々は楽器の調整に忙しく、高く、長く、低く、短く鳴らされる音の群れが、近付こうとする者を暗に遠ざけているようにも思えた。
 殺伐としているのとも違う、緊張感と集中力が良い具合に混ぜ合わされている雰囲気だった。
 とりあえず、始まるまでは暇だからそのあたりをうろちょろする。
 観客といっても、私が協力を依頼した数人程度のものだと初めは思っていたのだが、よくよく見るとあんまり関係ないのも何名が存在した。
 たとえば。
「よぉ。誕生日おめっとさん」
「そうだったの? そりゃまたおめでとう」
 黒白のブチと紅白の狛犬が、陽も昇り切っていないのに早くも酒を呷り始めている。
 ゴザを敷いてのんびり構えている両名の後ろに、困り顔の森近霖之助が佇んでいた。
「一応、ありがとうございます」
「ご挨拶だなあ。ほれ、主賓なんだから飲め」
「主賓が酔っ払ったら示しがつかないでしょう」
「そらそうだ」
 自己完結気味に呟き、差し出したお猪口をそのままみずからの唇に返す。ぷはぁ、と陽気に吐息を漏らす霧雨魔理沙の姿に、同じ酒飲みの博麗霊夢でさえやれやれと嘆息していた。何にしても、酒臭いことに変わりはない。
「申し訳ない、呼んでもいないのに来てしまったみたいで」
「お気になさらないでください。多くて困ることはありませんから」
 愛想よく返事をする。実際、酔っ払って演奏を妨害することがなければ、たとえ酒を飲んでうろちょろしていても支障はないのだ。むしろ、空席を埋めていてくれた方が見栄えはよくなるのだし。
「では、ごゆっくりどうぞ」
「そうさせて頂きます」
「ところで、阿求は歌わないのかー? なんだったら私がだなー」
「やめときなさい。無理すると吐くわよ」
「失礼な奴だなー。まだまだいけるぜー私はー」
 のんべえと保護者のやり取りを背中に、私は歩き始める。
 他にも、明らかにそれとわかる妖怪やら、里から来たらしい民間人、幽霊、妖精の姿も見える。お祭り騒ぎが好きなら、それがどんな趣旨だろうがとりあえず参加してみようというのが幻想郷の気質だ。ましてプリズムリバー楽団とミスティアの実力は折り紙付きで、知名度も高い。おまけに私の宣伝もあり、かなり多くのファンを抱えていることは確かだ。だから彼女達の姿を見かけただけでも、ライヴをやるのかと集まって来るのは自然なことだった。今は早朝もいいところだが、あまり人間の姿は見かけないけれど。
 私がこの時間帯を選んだのは、あまり人が集まりすぎても困るからだ。
 慧音さんに言わせれば、人間の安全面から。
 私に言わせれば、誕生日を察せられるのが面倒だから。
 おめでとう、と言われることが、必ずしも嬉しいこととは限らない。
「――さて」
 心の準備をする。
 慧音さんとお手伝いさんは雑談に耽っていて、私に気付くとちょいちょいと手招きをした。
「そろそろ、始まるらしい」
 慧音さんが、非公式の開会宣言を告げる。
 舞台を見ると、楽団は既に勢揃いしていた。ミスティアも、舞台の中央に立って集中を高めている。うわついていた空間が、徐々に引き締められていく。ざわめきが収束する。雀の声も枝葉が風に揺らされる音も消え、耳鳴りするほどの静寂が周囲を包み込む。
 白紙になった世界から、ひとつの音楽が鳴り響こうとしている。
「――、……」
 呆然とする。
 私は、忘れている。
 今から歌われる歌が、嘆きの歌と呼ばれたものであることを。聞けば誰もが絶望し、死に至るほどの言霊を持つ作品なのだと。
 事情を知らない者に対する説明責任が私にはある。霊夢や魔理沙は定かでないが、他の一般人にはきちんと解説を施し、聞きたくなければ去れと言う義務がある。そのはずだ。
 そのはずなのに、私は動けなかった。
「――、――」
 ミスティアは前口上も何も語らず、風を読むように目を閉じている。プリズムリバーは常に前を見つめ、リリカだけ、少し空に近い場所を見ている。
 すぅ、と、ミスティアが浅く息を吸った。

 

 

 

 祝福を。

 

 

 

 つつ、と、音もなく溢れ、頬を伝う涙は、空気の重さに従って、地面に落ちた。
 嗚咽は出ない。鼻水も出ない。ただ左の目から不意に湧いて出た雫が、そのまま下に流れていった。胸を締めつける悲しみも、心を打ち震わせる喜びもない。どうして私は泣いているのだろう。その理由など、ミスティアの声を聞いた瞬間にわかってしまったというのに。
 嘆きの歌は響き渡る。
 いや、ちがう。
 これは、嘆きの歌なんかじゃない。
「阿求さま」
 お手伝いさんが何かを言っている。声は聞こえても意味は理解できない。心は遥か彼方に飛び、今ここに立っているのは、私の名を借りた何者かであるような錯覚を抱く。
「阿求」
 慧音さんは、この歌を知っていると言った。だから嘆きの歌なんて物騒な名前を耳にしても、私がそれを聴きたいと言い出しても、本気で止めようとはしなかった。
 観客は一様に言葉を失い、感嘆の声すらあげられずにいる。霊夢や魔理沙でさえ、酒を飲む手を止めて聴き入っている。
 これは、喜びの歌だ。
 純粋に。まっすぐに。
 生きることを。生まれたことを。
 誰かを好きになった。美味しいものを食べた。たくさん遊んだ。いろんなものを見た。子どもが生まれた。ほんの少しだけ優しくなれた。あなたがいてよかったと言ってくれた。あなたに出会えてよかったと言うことができた。涙を流した。嗚咽を漏らした。抱き締めた。抱き締められた。
 楽しかった。
 幸せだった。
 笑いながら、死ぬことができた。
「……あぁ」
 馬鹿正直に、そんな理想を掲げているのだ。この歌は。
 ……あぁ。

 私は、この歌を知っている。

 何十年、何百年前のことなのだろう。詳しくは知らないが、阿礼乙女はこの歌を聞いた。外の世界から入って来たのか、もとから幻想郷にあったのかはわからないが。
 この歌を聞いた彼女は、本当の名を消し、替わりに嘆きの歌という名を刻んだ。
 何が彼女をそうさせたのか、それを理解するには、私はまだ幼い。私には知らないことが多すぎる。遥か昔、転生以前の私が耳にした歌に巡り会えただけで、涙が止まらなくなってしまうような、感傷的な私には。
 稗田の蔵に、嘆きの歌の歌詞が残されていた訳も、香霖堂の倉庫に楽譜が眠っていた訳も、私が朧気に嘆きの歌を知っていた訳も。
 一度見たものを忘れない能力を持っている私が犯した、忘却というありふれた罪の成せる業だったのだ。
 皮肉が過ぎる。
「は、ぁ……」
 歌は間奏に入り、メンバーそれぞれのソロに移る。誰もが溜め息を殺し、息を呑んで舞台に見入っている。演奏に没頭している彼女たちの気迫はただならぬものがあり、誰も、その場から動こうとはしなかった。
 リリカが奏でているのは、もう既に消えてしまったはずの、この歌に関わった人たちの想い。
 言霊と旋律が礎を作り、歌い手と奏者が想いを積む。
 終わってしまうのが惜しいと思う。涙は止まらずにいてほしい。
 それでも。
 ミスティアが、すぅ、と、小さく息を吸う。

 

 

 

 あなたが、

 

 

 

 誕生日おめでとう、と言われるのが嫌なのは、少しずつ終わりに近付いていることを、否応なしに知らされるからだ。
 またひとつ年を重ねて、稗田阿求はいつか中有の道を往く。
 そして、生きてきた道を振り返り、後悔と未練に苛まれ。立ち止まり、阿求と、幾度となく繰り返された阿礼を嘆く。
 これでよかったのですか。
 道は正しかったのですか。
 この目に映したものを全て覚えていても、この目に映したものの多くは、生まれ変わった後にはもう残っていないのに。
 どうすればよかったのですか。
 生まれたときに、親に泣かれた私は、死ぬときに笑うことができますか。
 耳に流れるのは嘆きの歌だ。生まれたことを祝い、生きることの喜びを歌う素晴らしい歌。
 それはそのまま、生きることの喜びを感じられなかった者への呪いになる。この世の素晴らしさを歌われても、自分はそれを享受できない。そんな素晴らしいことが世の中にはあるというのに、一体、自分はなんでこんな思いをしているのだろう。あぁ、あぁ……。
 阿礼乙女も、そんな思いを抱いたのだろうか。
 わからない。知る由もない。
 けれど私は、嘆きの歌に耳を塞ぐことはできなかった。
 私にとって、これは喜びの歌なのだから。
「――、――あぁ」
 ようやく、嗚咽のようなものが漏れる。鼻水もちょっと出た。すかさず慧音さんがハンカチを差し出し、私も静かにそれを受け取る。涙は溢れ出しすぎていて、拭うのに時間がかかるから今はやめておいた。
「阿求さま」
 肩に置かれる手のひらは、ほのかな温もりを帯びている。私はその上に自分の手のひらを置き、私がここにいることを彼女と自分に伝えた。
 歌は、終わりを告げようとしている。
 最後の音が、曙の空に舞う。歌声は高らかに響き渡り、橙色の激しい太陽が稜線を照らし、会場に光が満ちる。
 ミスティアが口を閉じ、プリズムリバーも指を下げる。
 世界に反響していた音楽が、耳の中から、空気の隅々に溶けて消える。
 そこでようやく、初めての拍手が聞こえた。
 私も震える手のひらで拍手を送り、幻想の歌い手と楽団に向けて、静かに頭を下げた。
 声は出せなかったけれど、精一杯、「ありがとう」と。
 しばらく、拍手が鳴りやむことはなかった。
 太陽は、東の空から昇り始めている。

 

 歌い足りないらしいミスティアは、その場のノリで二曲目に突入した。今はもう五曲目に入り、熱狂的な若者は前に、そうでもない者はどこかに去って行った。私は、慧音さんとお手伝いさんを連れ、少し離れたところから彼女たちの歌を聞いている。曲調も激しく、先程のしめやかな雰囲気からは想像もつかない。
 叶うなら、あの歌を録音して補完していたいのだけれど、機械から奏でられる音と、生の歌声はその性質に大きな差がある。良し悪しの問題ではないが、今、プリズムリバー楽団とミスティア・ローレライが重なって出来上がったあの歌は、たった一度しか聞けない幻想の歌だったのだ。
 だから、いつか忘れるとしても、あの歌は機械の範疇に収まるべきではないのだ。
 そう思うことにする。
 あれから、森近霖之助が挨拶に訪れ、喜びの歌が嘆きの歌に反転する心理的作用がどうのこうの、それから良い歌をありがとう、と言ってさっさと帰って行った。激しい歌は性に合わないらしい。十三年蝉のことを思い出す。
 涙は、ようやく打ち止めになったらしい。
 長かった。お手伝いさんに抱き締められ、ずっと頭を撫でてくれていたのが若干愛しく思えるくらいに、長かった。
 今はそんなでもない。
「慧音さんは、知っていたのですね」
 人が悪いですね、と腕組みをして佇んでいる慧音さんを見上げる。ん、とこちらを見下ろす彼女の瞳に、一点の曇りもない。
「伊達に歴史を喰っちゃいない。けれど、歴史を知っているが故に、人の道を捻じ曲げることは許されない。阿求の道は阿求が歩くんだ。私はただ、その背中を見守ることくらいしかできないんだよ」
 寂しそうに、嬉しそうに、白沢の業を打ち明ける。
 冷たいようで、彼女なりの気遣いがあるとわかる。優しいのですね、と言い、彼女がぷいと目を逸らすのは微笑ましいことだった。
 お手伝いさんは、隙あらば私の頭を撫でようとしている。それを疎ましげに避けようとして、心のどこかで、撫でられていたいという想いがまだあると知る。弱っているのか、本性が露になっているのか。いずれにしても、今日のお手伝いさんは優しすぎる。不気味。
「何か、失礼なことを考えていませんか」
「いえ、特には」
 ゴザに座り、うっすらと腫れたまぶたに軽く触れ、その裏にある眼球の脆さを実感する。
 お手伝いさんはずっと私の隣に座り、私がまた泣き出さないかどうか、横顔を眺め続けている。
 正直、気になって仕方ない。
 泣きすぎたせいで、何だか顔が変になっている気もするし。
「しかし」
 ふと、思い出したようにお手伝いさんは呟く。
 彼女の視線を辿ると、今はステージを飛び跳ねながら明るく元気な歌を熱唱しているミスティアに辿り着く。プリズムリバー楽団もそれに付き合い、メルランもリリカも縦横無尽に動き回っている。ルナサだけは不動だが。
「一体、どのあたりが嘆きの歌だったのでしょう」
 首を傾げる。
 素直な感想だと思う。私も事情を知らなければそう感じていたに違いない。そうして、生きる喜びを享受していた何も知らない私は、喜びの歌に絶望した誰かのことなど知る由もなく、きっとこんなことを言うのだ。
「そうですね。私にも、よくわかりませんが」
 幸せを語るには若すぎる。
 人生はこれからも続くのだ、嘆いてばかりじゃ勿体ない。
 だから、私は言った。

 

「『嘆きの歌』なんて、幻想ですよ」

 

 

 

 



SS
Index

2008年3月3日 藤村流 @ O−81

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