劇団四季映姫

 

 

 

 映姫は机に突っ伏して寝ていた。
 だって残業終わんねえんだもんしょうがねえよ。眠いもんは眠い。これ世界の真理。
 映姫は机に突っ伏したまま、寝息も寝言もせずに眠り続けている。傍目からすると死んでいるようにも見えるが、数時間前から理性的にはほぼ死んでいる。だから今は延長戦ロスタイムでPKくらったときのゴールキーパーの心持ちなのである。
「四季さまあー!」
 小町がけたたましくドアを押し開けて入ってきて、映姫はのっそりと頭を持ち上げた。右腕は既に悔悟の棒を射出する用意ができているが、それより早く小町は机の上にばあんっと手を置いていた。勢いよく舞い上がる始末書やら契約書やらの乱舞を思うたび、これ小町にやらせるべきなんじゃないかなと映姫は中間管理職の胃を想うのであった。
「四季さま! あれなんかおめめが黒くないですか。アイシャドゥって奴ですか」
「隈です」
「そうなんですか。でも夜はちゃんと寝た方がいいですよ」
「そうですね」
 受け答えも覇気に欠ける。
「それはそうと、時代はあれですよ。慰問ですよ、慰問」
「……ごめんなさい、今ちょっと脳がうまく活動していないので、文脈と文法を正しくまとめてから発言してください」
「だから寝不足はよくないですってば」
「そうですね」
 生返事にも程がある。
「で、話をまとめるとですね、地獄の住民があまりにも娯楽が少なくて罪を省みる気もなれないってんで、上の方から慰問のメンバーを募集してるとかしてないという話なんですよ。いやしてるんですけどね」
「……で、それでどうして私のところに来たんですか。あなた」
 こめかみを指で叩きながら、映姫は低く濁った声を出す。確実に喉がやられている。寝不足のせいである。
 小町は待ってましたと言わんばかりに胸を逸らし、メンバー募集の広告らしい紙をぺしぺしと叩きながら言い放った。
「なに言ってんですか、やるっきゃないですよ! これはもう、四季さまの美声を披露する絶好の機会なんですから!」
「……美声?」
 げほげほと咽ながら、その美声とやらを放ってみる。あれなんかおかしいなと喉を撫でに来る小町はわりと本気でどついておいて、映姫はメンバー募集の広告を奪い取る。
「……歌の心得のある者、踊りの心得のある者、舞台の心得のある者、芸の心得のある者……って、もう何でもいいんじゃないですかこれ。どっかから楽団呼んでくれば済む話じゃない。なんでまた是非曲直庁がこんなお触れ出すんですか……暇かよ……」
「四季さま四季さま、その綺麗なお顔がしかめってますよ」
「今の私には美辞麗句より睡眠時間が欲しい」
「左様で」
「左様です」
 話しているうちに喉の調子もよくなり、いい感じに気分も高揚してきた。深夜のテンションである。やたらふかふかなのが腹立つ椅子に背中を沈め、映姫は心の底から深々と息をつく。
「……小町は、私にこれに出ろ、と」
「いい機会だと思うんですけどねえ。四季さまのイメージ改善のためにも」
「改善が必要なくらい極悪だと」
「そうは言いませんが、あんまりお堅いところばっかり露出してると、みんなも近寄りがたいでしょうし。恋人もできないし。婚期も遅れるし。それはそれは寂しい老後に」
「庁は面倒看てくれそうもないですからね……」
「老兵は死なず、ただ消え去るのみですよ。おお怖い」
「不謹慎なことを言うのはやめなさい。どこに耳があるかわかりませんよ」
「へーい」
 頭の後ろに手のひらを組み、小町はのんびりと答える。やる気のない態度も、小町だからと思えば心も安らぐ。
「でも、壇上にいきなりフォークギター持った四季さまが登場して、開口一番中島みゆきとか歌ったら最高ですよ。途に倒れて誰かの名を呼び続けたことがありますか?」
「ないです」
「長渕剛もいいですねえ。めぐーりめぐってふりだしよー」
「いつまで経っても仕事の山は……」
「そーのふねーをこいでいけー」
「……ふむ」
 映姫は頷き、昔聞いたことのある旋律を口ずさんだ。
 事の発端は、酔った勢いで小町に歌を披露したことである。あのときは何も思うことはなく歌ったものだが、慰問ともなるとただ漫然と歌うのでは意味がない。改心させる、とはいかないまでも、心に響く、相手に届く歌を歌わなければ意味がない。
 今の自分に、果たしてそのような歌が歌えるものだろうか。
 仕事に忙殺され、語る声も濁り、こうして生きることの意味さえ失念しそうな生活の中で。生み出す声は、歌う歌は、一体どれほど人の胸に響くだろう。
 わからない。
 わからない、が、やってみる価値は、あると思った。
「……そうですね」
 結論は急がず、ただ、広告を机に戻す。
 首を伸ばし、振り仰いだ視界の先には、何やら流行りの歌を熱唱している死神の姿があって、何だかすこしおかしくて、久しぶりに顔が綻ぶのを感じた。

 

 ――

 

 手続きはごくごく簡素なもので、庁の総務に申込カードを提出したら簡単に受理された。オーディションも何もなかったので、小町がこの日のため用意したらしい「人生一路」のロゴが入ったシャツとジーンズとフォークギターはあらかた無駄となった。なんというこっぱずかしさ。
 ちなみに、ロゴ入りシャツはまだまだあるらしく、小町は「酒池肉林」だった。
 もうちょっとマシなの選べ。
「でも、どうするんですかね。あれじゃあ、本当に歌い手か大道芸人かズブの素人かわからないじゃないんですかねー」
「かくいう私もズブの素人なのですが」
「やだなあ、あたいは四季さまがやればできる子だって知ってますよー?」
「殴りますよ?」
 言いながら殴った。ギターで。
「やればできるなんていうのは、やろうともしなかった者の詭弁に過ぎません。仮定には何の意味もなく、やり遂げようとするその過程にこそ意味があるのです。……まあ、意味がどうこう、価値がどうこう言っているうちは、まだまだ人生の道半ばという感は否めませんが」
「あ、どうせなら長渕歌いたいですんですけどあたい」
 聞いちゃいねえ。

 

 練習は仕事が終わってから、慣れないギターを胸に抱えてぽろろんぽろろんと弦を弾く。
 瞬く間に指が痛くなった。
「四季さま、これピックです。はい」
「……ピック?」
「緊急時は凶器として使用可能です。目を突いたり爪の間に差し込んだりとそれはみぎゃああぁぁッ!」
 試しにやってみた。
「ふむ……効果覿面ね」
「いちち……ていうか、本来の使い方じゃないんですから、あんまそういうふうに使わないでくださいね。血塗れのピックとか嫌ですよ、歌い終わったら観客にプレゼントするんですから」
「無差別攻撃ですか」
「……四季さま、ちゃんと睡眠は取った方がいいですよ」
「善処します」
 頷き、ピックを抓んで練習を再開する。
 三途の河に鳴り響く、物悲しい恋のメロディ。ギターの心得は全くない映姫であるが、小町の手ほどきが上手いのか、真面目一辺倒の映姫が覚えると決めた意地なのか、ともあれ簡単なところはすぐに身に付いた。
 流石は地獄の優等生である、とか書くとなんだか含みのある言い方でややこしい。
「よし、こんなもんでいいでしょー。じゃあー次ー」
「……待ちなさい。今気付いたんですが、このギター、なんでこんなに大きいんですか」
「四季さまが相対的にちっちゃいんじゃないですか」
「だったらもうちょっとちっちゃいギターを選ぶべきでしょう」
「それ以上ちっちゃいのだとウクレレになっちゃいますよ。あまつさえ四季映姫・ウクレレドゥに改名しなきゃいけないかも」
「それが言いたいだけじゃ」
 しかしながら、その程度の理由で放り投げるわけにもいかない。きちんと音は鳴るのだし、一応は無理なく弾けるのだから贅沢はいっていられないのである。ギターは無論自腹を切っているわけで、下手に高価なものを騒霊楽団から譲り受けるのも気が引ける。要は、自身がそれに足る技術を備えているかが問題なのである。
 とすれば、今の映姫には、この名も銘もない新しいギターが相応しい。これを相棒とし、舞台に上がる。そこで花開くものがあればそれ以上のことはなく、舞台で輝くことができるのならば、こうして貴重な時間を割いている意味もあるというものだ。
「……わかりました。次に行きましょう」
「うぃす。次はー、歌いながら弾いてみましょうか。じゃらんじゃらんと、まあ気楽にでも構いませんので」
「……む、なんだか、難しそうね」
「大丈夫ですよ。仕事みたいに、肩肘張ってやるようなもんじゃありませんから。別に手を抜けっていってるわけじゃなくて、ちょいと肩の力を抜いた方がいいっていう話です。視野が狭くなっちゃあ、物事の全容は拝めませんやね」
「……言いますね。では、やってみますか」
「その意気です」
 小町は頷き、抱えたギターを傍らに置く。
 映姫は習った通りに弦を弾き、確かめるように音を響かせて、すこしだけ格好付けるように、人差し指でボディを打つ。
 そうして、ぎこちないながらも、初めの歌が喉を震わせる。
 三途の河に、喜びと、それ以上の悲しみを叫ぶ歌が、響く。

 

 ――

 

 小町は言う。最近は踊りも出来なくては商売にならないのだと。四季様のように、見るからに頭固そうなのがダンサブルかつリズミカルに微笑ましく舞い踊っているさまは、見る者の心を必ずや温かくするであろうと。
「小町が見たいなんだけでしょ」
「ご明察」
「全く……」
 小町は「唯々諾々」と書かれたシャツを着ている。胸のボリュームの関係上、文字がことごとく潰れているのだが、それはご愛嬌である。映姫のシャツに書かれた「付和雷同」の文字はものすごくはっきりと読めるのだが、別にどうということはなかった。
 小町の家だと多少床の強度が危ないということで、今は映姫の家にふたり集まって、踊りの練習に入ろうとしている。こなれた様子で準備体操をする小町とは対照的に、映姫はどうしたものかと小町の様子をちらちらと眺めるばかりである。
「あれ、どうしました? それ以上は腰が曲がらないとか」
「そんなに硬くないです。じゃなくて、まあその、踊りなんて、一切やったことがないものですから……」
 もごもごと、言い辛そうにこめかみを流れる緑の髪をいじる。やや照れくさそうに視線を逸らす映姫の背中を、上司と思えないくらいの気軽さでばぁんと叩く。
 映姫はびくっとした。
「なに、そんなこと気にしなくていいんですよー。あたいが手取り足取り教えて差し上げますから、大船に乗ったつもりでいてくださいな。船頭だけに。船頭だけに」
 大事なことなので二回言いました。
「……小町、背中、強い」
 息も絶え絶えに、映姫がうずくまる。それを容易く引きずりあげる小町に対し、並々ならぬ殺意と、小町の四季映姫下克上計画を疑う映姫であった。

 

 とりあえずは身体を動かしましょうということで、映姫と小町はそれなりに広い部屋の中を所狭しと跳び回っている。小町はそこそこ大きい図体のわりにかなり身軽で、そうでなければ船頭などこなせないと言いたげに、ぜえはあぜえはあとヤバげな呼吸を繰り返す映姫を尻目にハンドスプリングやバック宙などを繰り広げている。
 ずだん! と床を踏み鳴らし、体操選手のように腕を大きく広げる。
「決まった……あたいかっこいい……」
「ぜいはあぜいはあ……んぐっ、がはっ!」
 恍惚の表情を浮かべる小町の横で、映姫は今すぐにも昇天しそうなくらい消耗している。緑の髪は激しく乱れ、きちんと整えている髪が汗でもって額に頬にぺたりとくっついている。
 それは、情事の後を彷彿とさせた。
「み、みだれヤマザナドゥ……」
「珍妙な接頭詞を付け加えない……がふっ」
 肩で息をしていた映姫が、息も荒く顔を持ち上げる。基礎体力に明らかな差があるくせに、意地になって小町と張り合うからである。そのあたりは上司の面目やらまだまだ若いと盲信する健気さやらが絡まっているのだが、何にせよ、この様子だと踊りながら歌うなど到底こなせるはずもなかった。体力をつけるだけでも、相当の時間が掛かる。なにせ本番まで一ヶ月もないのだ、仕事も忙しい閻魔のこと、趣味に時間を掛けすぎていては本業がおろそかになる。
 それをよしとする、四季映姫ではなかった。
「……と、言いますか……」
「なんでしょ」
 健康的に汗を掻き、火照った身体の熱をシャツの裾から逃がす小町は、見るからにスポーツマンといった風情を漂わせている。一方の映姫は、体調管理を気にし始めた中間管理職がたまの休みに無理をしてぎっくり腰になる未来予想図を、びっくりするくらいきれいになぞっていた。
「ギター抱えたまま歌って踊るなんていうのは、いくらなんでも無理があると思うんですが……」
「……」
 小町は、へのへのもへじを絵に描いたような顔をしていた。
 次に、あっちょんぶりけ! みたいに自分の頬を両手で押し潰し、映姫の折檻を受けた。
 狙いが雑だったためか悔悟の棒が鼻に入ったが、辛うじて鼻血で済んだのは幸いであった。

 結局、その日は夜も遅いということで、小町も映姫の家に泊まることとなった。

 

 ――

 

 お泊まり会といえば枕投げと相場が決まっているとかいないとか、あまりそういう経験のない映姫には計りようもないことであったが、ともあれ小町が押入れの中から大量の枕をぽいぽい布団に引っ張り出している姿を見て、その無闇に突き出たお尻に何かしらの必殺技でも決めてやろうかと考えた。
 結局、途中から面倒になったのか、両手にいっぱい枕を抱えて引き抜こうとした小町が体勢を崩して「きゃん!」と後ろ向きに倒れる一部始終を目の当たりにして、なんだかもうどうでもよくなってきた。
 ていうかなんでこんなに枕があるの。旅館かよ。
「……むぎゅぅ……」
「小町。お風呂、空きましたよ」
「うぃーす……」
 余計なことは言わず、ただの報告に留める。映姫は既に真っ白な襦袢に着替え、わずかに開いた襟口から静かに立ち昇る湯気の香りが、彼女がお風呂上りであることを教えてくれる。
 濡れた髪、火照った肌、いくぶんかすっきりした表情に、化粧のノリも何もないすっぴんの容姿。生まれたままに程近く、それでいて部下の前であるという立場からうっすらと張りつけている緊張感。
 その全てを魅力として纏い、四季映姫は布団の上に膝を突いた。
「ふう……」
「毎日毎日、お疲れ様です」
「ほんとにね……あなたが部下じゃなかったら、愚痴のひとつも聞いてもらいたいところよ」
「あたい、四季さまの部下でよかったですわ」
「ほんとにね。とてもじゃないけど、あなたみたいなのを他のひとに任せられないわ」
 嘆息のような、それでもわずかに微笑みを滲ませたような顔を見せる。それだけでも、映姫が多少は気を抜いているのだと知れた。さすがに、寝る直前になってる気を張り続けていたら、心の休まる暇などない。小町はこの性格だし、仕事が終わった以上、上司と部下という枠組みが当てはまるかどうか怪しいところがある。それ故、図々しいと思うことは多々あれど、気楽に振る舞えるところもある。
 だが、喜色満面で枕を振りかぶる小町に対したとき、一体どういう顔をすればいいのかわからなかった。
 時が止まる。
「先手ひっしょぶッ!!」
 とりあえず鮮やかなカウンター枕を決めてみた。
 再び、暇な手品師がでしゃばってきたかのように、時間が止まる。
 そして時がまたその針を刻み始めた頃、小町の顔面からずるりとそば殻入り枕が落下する。その髪に似た赤ら顔を曝し、ぶーっと唇を突き出している。何やら不満げなご様子である。
「どうかしましたか、小町」
「フライング! フライング!」
「純然たるカウンターじゃないですか。どちらが先かを言えば、あなたの方がよっぽど――!」
 話している最中に、振りかぶった枕を改めて放り投げる小町。映姫は風呂上りの爽やか加減も手伝い、すんでのところで顔を狙った一撃を避ける。ちッ、という舌打ちを聞き逃さず、映姫はそこいらに転がっている枕を掴みあげた。
「……小町、お風呂に入ってきた方がいいんじゃないの?」
「……わかっちゃいませんねえ、四季さま。お風呂っていうのは、汗を掻いてから入った方が気持ちいいもんなんですよ」
 うふふふふ、と笑ったのはどちらだろうか。
 いずれにしろ、ふたりがふたりとも、白い枕を握り締めたのは確かなようで。
「距離を操る程度の能力ッ!」
「ちょッ――うぶぅ!」
 反則もいいところで、小町は枕と映姫の距離を縮めて無理やり彼女の顔に枕を押しつけた。しばし、映姫はもがもがと枕の中でうめく。
 ふごふごと呼吸困難気味にもがいている映姫の頭をぽんぽん叩いたりしながら、小町は映姫の顔型が枕に残るのを辛抱強く待った。
「さぁて、四季さまデスマスクはどんなふうになってるのかなーと」
 小町が、映姫の顔面に張り付いた枕を嬉々として引き剥がすと、仏頂面では生ぬるい、壮絶な影を落として俯いている映姫の姿がそこにはあった。
 それに気付かぬ振りをして、小町は能力をフル活用して映姫から距離を取る。
 ――が。
「……白黒はっきりつける程度の能力ッ!!」
 映姫が手のひらを一閃すると、小町の持っていた枕が物の見事に分解された。散らばるそば殻、舞い散る布切れ、小町の呆れ顔と、そして。
「――――」
 ちょうど小町の顔付近に放り投げられた枕と、それを目掛けて脇目も振らずに駆け出す四季映姫・ヤマザナドゥ。瞳に憂いや躊躇い、あるいは大人げといったものは微塵も感じられず、その眼光は小町に能力を使う一瞬さえも与えなかった。
 駆ける中間管理職。
 追いつめられるサボタージュの泰斗。
 刹那、映姫は枕目掛けて跳躍する。

「せえぇぇいぃッ!」

 フライ・ハイ。
 映姫の跳び蹴りは鮮やかに枕を捉え、その力が行き届く先にある小町の顔面をも蹴り抜いた。
 これはあくまで枕投げであるから、ただの跳び蹴りでは意味がない。裏を返せば、そこに枕が関わってる以上、これは合法的な枕投げなのである。
「…………ぎゃふん」
 そして崩れ落ちる、枕、死神、閻魔、節操。
 そば殻の掃除は一体誰がやるのかなど、ちっとも考えていない気楽さでもって、第一次枕投げ戦争は幕を閉じたのだった。

 

 ――

 

 風呂上りの小町の艶かしさは映姫の比ではなかったが、当人のあけっぴろげさがそれを色気に変換するのを拒んだ。俗的にいうと、えろい、という部類に留まる。襦袢の前がはだけかけているところが特に。
「……小町。胸」
「んぁ、あぁすいません。あんまり締めつけると眠れないもんで、いつもこんくらい緩めてるんですよ。目に毒なら、シャツに着替えますけど」
「別に小町の胸が垂れようが潰れようがどうでもいいんですが、もう少し、あなたも身嗜みといったものを考えた方が」
「身嗜みを考えてる人間は枕投げ跳び蹴りとかぶちかましませんよ」
 布団に足を突っ込み、映姫はしばしバツの悪そうな表情を浮かべる。
「……明日も早いから、速やかに寝ましょう」
「寝ましょ寝ましょ」
 言って、映姫は行灯の灯りを消す。
 一瞬にして夜の闇に染まった部屋の中で、もぞもぞと布団にもぐりこむ衣擦れの音だけが響く。んあー、と小町が気の抜けた声を発し、それを聞いて映姫はしょうがないわねと言いたげな吐息を漏らした。この子には、上司の部屋に泊まっているという意識はないのだろうか。ともすれば、友達感覚なのではないのだろうかと、上下の分を弁えていないことに対する情けなさといったものが、映姫の心に去来する。
 しかし、眠いことも確かだ。ふわぁ、と気の抜けた欠伸を漏らして、みずからもまたもぞもぞと布団にもぐる。布団にしみこんだ自分の匂いが、やけに心地よく感じられるのはいささか変態的な趣向だろうか。けれども、自分の居場所が確かにここにあるという実感を得るのは、決してさもしい感情ではないのだと思いたい。
「……」
 静かだ。
 小町が何も喋らなくても、気まずさを感じることもない。それだけ、心の距離が近いということか。嬉しいような、やはり上下の分について思いは巡る。
「……寝てますー?」
「起きてますが」
 小町にしては珍しい、うすらぼんやりとした小さな声で、映姫に呼びかける。
「ほんとですかー?」
「寝たまま会話できるほど器用な性格じゃありません」
「ですよね」
 なんだか馬鹿にされた気がする。
「何か、話でもあるの」
「いえ、ね。例の慰問のことなんですが」
「あぁ、そのことですか」
 行灯を点け直そうかとも思ったが、小町が先に話し始めたものだから、布団の中から出る隙もなかった。
「もしかしたら、ご迷惑じゃなかったかな、と」
「……どうしたの、急に。小町らしくもない」
「いえ、まあ、確かにあたいらしくもないんですが」
 口ごもる。
 小町がもぞもぞと布団の中で動いているのは、映姫の寝顔を見るためか、それともただの寝返りなのか。いずれにしろ、映姫はずっと天井を見ているから、真偽の程はわからないが。
「実は、慰問コンサートの実行委員なんですよ。あたい」
「だと思いました」
「あぁ、でも、四季様の美声を披露してもらいたいと思ったのは間違いありませんから」
「なんでそんなに褒めるんですか」
 念押しする小町に若干むずがゆいものを覚え、改めて問う。すると小町は、やはりどこか言いにくそうに沈黙し、しばしの間を置いて、答えのようなものを告げた。
「好きなんですよ、四季様の歌」
「……ありがとうございます」
 どう反応したらいいものか、とりあえず感謝しておいた。面と向かって言われていたら、照れて言葉にならなかったところだ。つくづく、今が夜で助かった。
「だから、みんなに聞いてもらいたかったんです。ま、それが四季様の息抜きになれば、一石二鳥だとも思ったんですけど」
「ん……そうかもしれないわね。でも、あなたに気を遣われるくらいだなんて、私も少し身の振り方を考えるべきなのかもしれませんね」
「しっかり寝てください。あたいを見習って」
「小町を参考にすると職を失うわ」
 ぎゃふん、と小町が布団の中に顔を埋める。映姫はくすくすと笑う。
 心遣いが嬉しくない、と言われれば嘘になる。
 けれども、部下に心配されるような状態だったのだとすれば、それは上司としてあまり褒められた状態でなかったのも確かである。責任者という立場である以上、ある程度の責務は負わなければならない。それが部下の尻拭いでも、責任者は責任を取るために在るのだ。
 無論、その意識を小町が抱いているかどうかによって、映姫の心情も多少は変わってくるのだが、そうしろと小町に押し付けるのもみっともない。
 今は、小町が映姫を気遣ってくれたことだけでも、ひとつの収穫としよう。
「あなたも眠りなさい。朝は早いのですから」
「承知しました。……あ、でも」
「なんです」
 ひとつ、言い忘れていたというふうに、小町は言葉を零した。
「あたいと四季様が一緒に家から出てきたら、なんだか変な噂が立ちませんかねえ」
「……」
「いやーん」
 とりあえず、小町は蹴っておいた。

 翌日、映姫は初めて小町にあえて遅刻しろと命じた。

 

 ――

 

 その後もギターや歌の練習は続き、ついに本番の日が訪れた。
 四季映姫は泣く子も黙る閻魔様であるから、たかが慰問のひとつやふたつ鼻歌交じりにこなせるのである。
 それを踏まえて。
「四季さま、四季さま」
「なななななななななんですかこここまままままま」
「四季さま、ちょっと面白いじゃないですか。面白い四季さまなんてメンマが入ってないラーメンみたいなもんですよ、勘弁してくださいよ」
「た、たとえがよく、全くわかりませんが」
 意志の疎通がいまいちままならない状態に、小町は珍しくため息を突いた。
 それらを踏まえて、映姫はガチガチに緊張していた。
 自分でも、何故こんなに震えるくらい緊張しているのか理解に苦しむ。練習は十分、準備は万端、衣装もまあいつもどおりの無地のシャツに「有為転変」の四字が刻まれたもので、冠も悔悟の棒もない。腕に抱えるのはギター、弾くのは槌ではなく弦である。
 舞台の袖に控え、舞台の上で華麗に踊っている誰かの勇姿を見ることもなく、映姫は貧乏揺すりを堪えるのに必死だった。同じく、「諸行無常」のシャツを着た小町が映姫の肩を揉み解しても、あまりの肩凝り具合に危うく小町の鎌がうなりをあげるところだった。
「ふ、ふう……はあ、ああ……」
「深呼吸が歪です」
「わ、わかってます。こ、こま、小町、何か、楽しい話をしてく、ください。全世界が幸福に包まれるような、それでいて、去り行くものの背中から発せられる哀愁をも如実に感じさせるような、芸術作品で言うと太陽の塔を彷彿とさせる」
「できるか!」
 小町特製、即興ハリセンが映姫の頭蓋骨を襲う。
 すぱぁん! ときれいな音が鳴り渡り、袖に控えている何人かの表情が一変する。庁からメンバーの募集が掛けられた以上、参加者の中にはあの四季映姫が参加していると知っている者もいる。ましてや背高のっぽの目立つ死神も着いているとなれば、見て見ぬ振りをするのにも限度がある。
 だが、ハリセンと共に映姫の髪がふぁさっと舞い上がった瞬間は、誰もが声を失った。逃げるか伏せるか、あるいは全力で防御障壁を張るべきか、実際に張っている者もいたが、現実は尚小説より奇なるものであった。
「……小町、今、何かしましたか。あたまに、蚊が留まりました気がしますんですが」
「くッ……! 四季さまがどんどん面白くなっている……! 見せたい、誰かに見せびらかしたい……!」
「なになのですか」
 本音をダダ漏れさせながら口惜しそうに唇を噛み、控えの面子に視線を送る。彼らはみな傍観者を気取り、積極的に絡んで来ない。無理もない、今はこんなにポンコツでも、いつ正気を取り戻すかわからないのだ。相手は天下の閻魔である、迂闊に動けばここが地獄の一丁目でも情け容赦なく審判が下る。
 そんなのっぴきならない状況下にあっても、小町はひどく冷静だった。
「四季さま、1足す1は?」
「どうして足す必要があるのです。そっとしておいてあげなさい」
「そこにつっこまないでくださいよ。話が先に進まないじゃないですか。はい、いちたすいちはー?」
「ラストジャッジメント」
 ふっとばされた。
 後には、何故か心地よい汗を掻いた映姫が額を拭うばかりである。
 しかして貧乏揺すりはなかなか止まらず、膝を押さえても足首を押さえても何も解決しない。困ったものだ、と思って吐いたため息が小さく波打っている。
 深呼吸、深呼吸。
「ふ、うううう……はあああ、ふう……」
「震えてますってば」
 小町が、その能力を最大限に活かしながら復帰した。多少焦げくさく仕上がっているところに芸の細かさを感じるが、やはり致命傷には至っていない。
 また丹念に映姫の肩を揉み解しながら、舞台から漏れ聞こえる楽器の音色に耳を傾け、小町は呑気に語り始める。映姫は、されるがままに小町の話を聞く。
「うちの上司に、四季映姫・ヤマザナドゥっていう閻魔様がいるんですけど」
「聞いたことのある名前です」
「それがまた頭のお固い説教好きでして、隙あらば幻想郷の端から端まで説教して回るくらいのワーカホリックなんですよ。たまんないですね」
「たまんないですか」
「そう、見えそうで見えないスカートの丈を一体どのような心情で調整しているのかと思うと、察して余りあるものがあるというかないというか、まあないんですけど」
「ないんかい!」
 映姫のハリセンがうなり、自爆気味に小町の顔面を叩く。ちなみにつっこみの台詞も例外なく震えていた。困った真面目ちゃんである。
「はいはい、かわいいかわいい」
「かわいくないです」
「そうですよね、全ッ然かわいくないですよねー」
「い、いや……ちょっとくらいは……」
「そうですね。ちょっとくらいは」
「……一体なんなんですか。あなた」
 いぶかしむ映姫に、小町は、にこやかに笑いながら答える。
「あなたの大切な死神ですよ。そしてあなたは、私の大切な閻魔さまです」
「……恥ずかしいことを」
「練習してきたこと、歌いたいこと、それだけです。他には何もありません。ただちょっと、普段と違う雰囲気なもんで、身体が硬くなることもあるでしょうが……なに、四季さまの頭より固いものなんざ、そうそうありゃしませんよ」
「……そんなに、固いですかね」
 試しに、映姫が己の額を指で弾く。
 確かに、いい音はした。あぅ、と呻く。
「緊張するってことは、そんだけ真面目にやってたってことですよ。自信持ってくださいな」
「……ふむ」
 息をつく。知らず、貧乏揺すりは止まっていた。
 ちょうどよく、舞台から袖に流れ落ちていた音がやむ。次の出番は、四季映姫と小野塚小町。無論、名前が割れると地獄の観客に威圧感を与えてしまうため、ユニット名なるものを考えた。
 その名も。
「――続きましては、『こまざな』のおふたりですー」
 わかりやすすぎた。
「……だから私は『聖☆シスターズ』の方がいいと言ったんです」
「そんなん付けた日にゃあ天狗の新聞が大繁盛で鼻高々ですよ。幽霊も四季さまに裁かれるときプッて噴き出すこと請け合いです」
「……でも、小松菜みたいじゃないの」
「おいしいですよ?」
「おいしいですけど」
 椅子から立ち上がり、映姫はギターを引き寄せる。呼び出しが掛かる前に歩き出し、小町がその後ろに続く。
 直前の練習をする余裕は無かった。けれども、心の整理をつける時間はあった。それだけでも、小町と語り合った意味はあった。持つべきものは、多少勤務態度に問題があるにしても、ある程度信頼のおける部下である。
 部下というには、少しばかり馴れ馴れしいけれど。
 それが、今は頼もしい。
「行きますよ」
「了解」
 初舞台を踏む。
 慰問ゆえに客にざわめきは無きに等しく、耳に届くのは内なる心臓の鼓動くらいだ。だが、それさえも心地よいと微笑むことができれば、何を恐れることがあるだろう。
 す、と息を吸う。
 眼前に広がる地獄の光景に、みずからの歌を響かせるために、四季映姫と小野塚小町は、歌い手として舞台に立った。

 

 ――

 

 

 ――

 

 映姫は机に突っ伏して寝ていた。
 未整理の書類はきれいに揃えて机の墨に、文房具も印鑑も端によけておいて、完全に寝る準備を整えてから眠りに没入している。
 残業は、ある。けれども、今はただただ眠りたい。何故か。それを聞くのは愚問であるようにも当然の権利であるようにも思えるが、彼女の眠りを妨げることはすなわち我が眠りを妨げる者はどこの誰だそうか小町かといった具合に落ち着く。
 であるから、映姫は机に突っ伏して心地よさそうな寝息を立てていたのだ。
「……すー、すー……」
「四季さまあぁぁぁぁ!」
 ずばこぉん! と扉を蹴破る音が、映姫の私室にけたたましく響き渡るまでは。
 騒ぎの主は、例によって小野塚小町である。片手に新聞らしきものを引っつかみ、足音も賑やかに机まで駆け寄ってくる。
「四季さまあああああ!」
 映姫は、顔を上げぬまま手元の棒で小町の豊満な胸を突いた。
「きゃん!」
 更に突いた。
「きゃ、きゃん!」
 そしてもう一度突いた。
「あっ、きゃん! ……きゃー、あ、あの、もうそろそろやめません?」
 力なく、小町の胸を棒でぐりぐりとこね続ける映姫に言い知れぬ悲壮感を覚え、小町は申し訳なさそうに提言した。
 映姫は、のっそりと顔を上げる。
 額いっぱいに充血の赤が広がっているのは可愛いもので、顔面に張り付いている適度な仏頂面も装丁の範囲内だ。だからといって、気だるげに小町の巨峰を刺激する悔悟の棒の動きに、何らかの嫉妬羨望が込められていないかといえば、それが案外そうでもないことに気付くだろう。
 おおむね、いつも通りの主従関係だった。
「何ですか、小町。騒々しいですね」
「あ、そうなんですよ。この時間なら、四季さま寝てるだろうなと思ってわざわざ騒々しく登場したんですけど」
「睡眠はたっぷり取りなさいと言ったのはどこの誰ですか」
「あたいですけど」
 悪びれもせずにあっけらかんと答える小町。ため息を吐こうとして、額を軽く押さえるに留める。幸い、今の自分に小町の来訪以上に頭の痛い問題はないのだ。仕事が余りあるのは、いつものことだし。
「……もういいです。何の用ですか」
「あ、そうなんですよ。これ、これ読んでください」
 押し付けられた新聞はあまりに近く、ともすれば近眼に至る年齢だから無理しないでくださいよと暗に示されているようで、その手の皮肉を感じないでもない。だが、新聞の記事に目を通してみると、そんな瑣末な感情は瞬く間に吹き飛んだ。

『地獄の慰問にて鮮烈デビュー 【こまざな】の全て』

「こま、ざな……?」
「聞いたことのある名前ですね」
「そうね。おいしそうな名前ね」
 傍らに置いていた水を飲む。ああ落ち着く。
「ッてそうじゃないですよ! むちゃくちゃ絶賛されてますよ、いつも文々。新聞の記事じゃ考えられないことですよ!」
 じたばたと地団太を踏む小町を制して、映姫は新聞を机に広げた。
 こまざな。
 是非曲直庁主催の慰問コンサートにて、衝撃的なデビューを飾ったこまざな。一見、閻魔と死神のようにも見えるが、目の錯覚である。彼女たちはこの生における喜び、それ以上の悲しみをつぶさに歌い上げ、聴衆の絶大なる支持を受けた。詳しい経歴は定かでなく、これからの予定も一切不明である。庁にはこまざなに対するメッセージが数多く寄せられ、近く、庁から正式なコメントが発表される予定である。
「確かに、耳ざわりのよい言葉ばかり並べられてますね。耳の痛い話です」
 深々と嘆息する。
「えー、よかったじゃないですか。四季さまの美声が世の中に轟いて。息の抜き方とか最高だったですよ、喘ぎ声ぽくて」
「……」
 無言で胸を突くが、きゃんとは言わなかった。
「ふんっ!」
 逆に突っぱねられた。
 ショッキングである。
「涙ぐんでる方もいましたね」
「……そういうこともあります。でも、きっと、私が歌ったから泣いたのではないのでしょう」
 不思議そうに首を傾げる小町に、ひとつ間を置いて、映姫は言う。
「歌は、ひとりで歩くものです。そのひとが、歌に己の人生を重ね合わせたとき、心を揺さぶられたり、涙を流したり、痛みを覚えたりする。私は、その発信源になっただけに過ぎません。だから、こまざなという名前ばかり取り上げられるのは、あまり好ましいことじゃないわね」
 新聞を畳みながら、凝った首を鳴らす。小町に肩を叩かれても、その程度では長年凝り固められた肩は解れそうにない。
 長らく身体の中に渦巻いていた衝動のようなものは、あの慰問を通じて、映姫の中からわずかながら吐き出されたようだけれど。
 また、吐き出したいときが来たのなら、もう一度。
 名も無き一介の歌うたいとして、舞台に上がるのも悪くないかもしれない。あくまで、無銘としての。
 映姫の話を聞いていた小町は、何やら納得の表情を浮かべてうんうんと頷いている。
「なるほど。四季さまが歌ってる途中で泣きそうになったのも、その歌に自分の過去の恋愛を重ねてたからなんですねえ」
「……途に倒れて誰かの名を呼び続けたことがありますか」
「ありますけど」
「ごめんなさい」
 謝った。
「いいんですよ、昔の話ですし。……でもそのかわり、四季さまの失恋話、聞かせてくださいね」
 にこやかに、なかば脅迫じみた調子でもって、小町は要求する。
 映姫は、しばし返答に悩み、それから。
「……いやです」
 と言った。

 

 たまに。
 本当に、ごくたまにであるが。
 三途の河に、誰かの歌が流れることがある。
 穏やかに、耳を澄まさなければ聞こえないその歌を、誰が歌っているのかはわからない。
 きっと、人魚やセイレーンが顔を出しているのだと、三途の河の船頭もその正体を突き止めることはしない。
 ただひとり、赤い髪の死神だけは、時折聞こえてくるその歌に、みずからの鼻歌を調子よく合わせたりしている。

 

 

 

 



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2008年6月16日 藤村流

 



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