ひなはじめ

 

 

 

 目の前の氷精が自慢げにそんな単語をひけらかすものだから、厄神であるところの鍵山雛は、その誇らしげに膨らんだほっぺたを容赦なく真横に引っ張った。両手で。
 結構のびる。
「むぎゅぎゅぅ……」
「貴女……肌、ほんとに冷たいのね」
 冷静に、どちらが冷めているのかわからない口調で抓り続けていると、いじられるままだった氷精チルノもついに腸が煮えくり返ったようで、「むきー!」とか言いながら顔をぶんぶん振り回して雛の呪縛を振り解いた。
 ちぇ、と雛が残念そうに呟く。
「やんのか! やんのかちくしょー!」
「よくわからないけど……先に喧嘩を売ってきたのは、貴女の方じゃなくて?」
 くるりくるりと、煌びやかな装飾が施された真紅のスカートを翻す。
 妖怪の山から流れてくる川のほとり、妖精と厄神が対峙している。飄々としているのは厄神の方で、対する妖精は虚仮にされた屈辱がまた抜けていないのか、くるくると回る厄神に向かって怒りをぶつけている。
 雛にすれば、いきなり「ひなはじめって何なの?」と尋ねられることそのものがいわゆるひとつのセクシャルハラスメントに該当するのだが、妖精の憤慨ぶりからすると、そのあたりの意図は皆無であったようだ。ぷんぷん、という擬音が似合うくらい子どもっぽい妖精なら、その語源となった単語にも心当たりなどないのかもしれない。
 ないのなら、無駄に刺激することもないのだ。こういう場合は。
「氷柱をくらえー!」
「あらら、元気だこと」
 呑気に呟いて、飛来する氷柱を回転しながら受け流す。右の手は氷柱を掴み、返す刀で飛んできた氷柱を叩き折る。同時に折れた氷柱を投げて氷柱を迎撃し、徒手空拳になればまた同様の回転殺法を繰り返す。
 そうこうしているうちに、チルノも疲労がたまってきた。膝に手をつき、ぜーはーぜーはーと荒い息を吐く。一方の雛は涼しい表情で、勝負ありとばかりに天下無敵の回転殺法を解く。
「うぬぅ……や、やるわね……さすがは、よくわかんない神様だけのことはあるわ」
 余計なことを言う。
 折角なので、自己紹介をする。何事にも、相互理解は必要だ。
「私は、厄を引き寄せる流し雛。貴女にも、私を取り巻いている厄が見えるでしょう?」
 大仰に言い、見せつけるように紅いスカートをふわりと持ち上げる。
 すると、その内側から青く薄暗い影がいくつも立ち昇る。
「わ、わ、何それ気持ちわるっ!」
「失礼ねえ」
 不快感を隠そうともしないチルノに向かって、雛はわざとみずからが溜めこんだ厄を投げつけようと振りかぶる。
「ぎゃー!」
 乙女らしからぬ悲鳴をあげ、チルノは脱兎の如く逃げ出した。
「全く……」
 寄らば大樹の陰に隠れたチルノに苦笑しながら、雛は手のひらに捕まえた厄の塊をお手玉のように放り投げる。ひょいひょいと器用にお手玉を続ける雛が気になるのか、チルノは木の陰からこっそり顔を出す。雛と目が合うたび、青痣のような不吉さを帯びた厄が視界に入るたび、恐れをなして目を逸らすのだけど、それでもそんな厄神様を完全に無視することができない。
 何故か。
「お名前」
 ぎく、というふうに身を縮ませ、チルノは木陰に隠れる。声は確かに届いているから、雛は構わず、言葉を続ける。
「貴女のお名前。教えてくれない?」
 しばらく、返事はなかった。
 お手玉は終わり、雛の手から離れた厄玉は行き場を無くして宙を漂い、ふらふらと雛の周りで浮き沈みを繰り返す。
 陽光が舞い降りる川面は、不穏な厄の塊と対照的にきらきらと美しく輝く。その静謐な流れに身を任せたならば、人間たちから厄を受け取った無数の流し雛も、無限の輝きの中に溶けることができるのだろうか。
 だとしたら、それ以上の喜びはない。
「……ち」
 ひょっこり、知らぬ間に土から芽を出していたフキノトウのように、チルノが木陰から小さな顔を出す。雛は深い紫色の服の前に手を組み、穏やかにチルノの言葉を待っている。
「チルノ、よ」
 ゆっくり、はっきりと口にする。
「チルノ、ね」
 覚えたわ、と胸の前に手をかざし、瞳を閉じる。
 恐る恐る、チルノが近付いてくる。雛は静かに出迎え、警戒しながら歩み寄るチルノの動きを逐一観察している。
「……なんで、そんなにじっと見てるのよ」
「いえ、何をそんなに怯えているのかと思って」
「お、おびえてるわけないじゃない! 失礼ね!」
「あ、厄がそっち行ったわ」
「うおぅ……」
 引いた。
「……くすくす」
「なに笑ってんのよ! あんたがそんな態度なら、撃つわよ! 撃っちゃうわよ、ビーム!」
「……出るの?」
「チルノビィィィム! ……あれ!? 出ない!?」
 おろおろしている。
 誰に騙されたのだろう。予想はつくが。
「うがー! あのウサギめー!」
「なんだか、可愛いわね貴女」
「ばかにすんなー!」
 憤慨するチルノがやけに愛しく見え、雛は微笑みを浮かべながらチルノの頬に触れた。
 チルノは逃げずにそれを受け止め、笑っている雛を不思議そうに眺めている。
「……なによ。こういうの、侵害っていうのよ。なんかの」
「プライバシーね。でも、そんなのどうでもいいじゃない。貴女は名前を教えてくれた。貴女も私の名前を知った。だから、それで貸し借り無し。何も気負うことなんてないわ」
「……小難しいこと言ったところで、あたいが理解できるとは限らないわよ」
 雛に頬を触れられたまま、ふふんと腕組みするチルノ。なにひとつ自慢できることはないはずなのに、彼女は自信に満ち溢れている。その自信を砕くことに喜びを感じるほど、雛も意地の悪い性格はしていなかった。
 微笑む。
「そうね。じゃあ、わかりやすく言いましょう」
「賢明な判断ね!」
 無い胸を張る。
 冷たい頬の柔らかな温もりを感じながら、雛はチルノにわかりやすく説明した。

 

 

「ひめはじめって言うのは、ね――?」

 

 

 

 



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2008年3月4日 藤村流

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