真っ赤な空を見ただろうか

 

 

 

 夕日を見に行こうと言われたのは昼の話で、普段の蓮子からすると悠長なことを言うものだなと思った。通例、もう日も暮れようかという最中に「夕日が綺麗に見えるとこがあるんだけど今から行こう」と私を引きずっていくのが常であるから、何時間も前に予定を決めているのは蓮子らしからぬスケジュール管理能力といえるだろう。
 ただ、大学の講義が終わるのもちょうど夕暮れ時であるから、やっぱり無駄に走らされる羽目になるんだろうなとは思っていた。
 で。
「――ほら、もう少しよメリー!」
「……はぁ、はぁ……うぷぅ」
 案の定だった。
 先行く蓮子は身も軽く、軽快なステップで坂道を蛇行したり昇降したりしている。他の通行者の邪魔になるかと思いきや、それほど人通りのある場所でもないらしい。
 一方の私は、膝が割れそうで心が折れそう。
「全く、普段から楽ちんな移動手段ばっかり使ってるから身体が鈍るのよ。私を見習って、日々猛ダッシュ猛ターンに努めないと」
「……んぁ、ぐぅ……ぎぎぎ」
「生きてるー?」
「死んでる……」
 じゃあ大丈夫ね、と蓮子は再び坂道を駆け上がる。傾斜はさほど厳しくもないのだが、如何せん距離が長い。くねりながら地表高く上り詰めて行くさながら登龍門か竜頭蛇尾か、まずい自分でも何を言ってるのかわからなくなってきた。意識が朦朧としているのが手に取るようにわかる。
 とりあえず、息が苦しい。世界が暗転しそう。
「……なんであんたはそんなに元気なのよ……」
 友人への悪態を糧にして、ポンコツと化した両脚を奮い立たせる。ここまで来ておいて、夕日が拝めなかったのでは笑い話にもならない。明日明後日の筋肉痛を覚悟して赴いた丘なのだ、本懐は遂げてしかるべきである。
 ぐっと地面を踏み締め、膝に手をおき、自分の体重と戦いながら、遥か先を行く蓮子の背中を追う。
 そうして、何分が経っただろうか。
「――つ、着いた……」
「20分の遅刻ね、メリー」
 したり顔の蓮子は無視して、柵にしがみついて貪るように酸素を補給する。木偶の坊の棒と化した足は、あと一時間の休息を経なければ満足に動かすこともできないだろう。
 小高い丘の、一応は頂上と呼んで差し支えない広場。申し訳程度にベンチと水飲み場がある以外は何もない、町並みを見下ろすためだけに作られた空間だった。
「私が遅れてくると親の仇みたいに責めるくせに、肝心な時は役に立たないんだから。メリーったらだめな子ねえ。ほんと身体と口だけはおっきぃのに」
 こいつ言わせておけば。
 あれこれ突っ込みを入れたい気持ちはあれど、喉の渇きと身体全体を包む倦怠感がそれを許さない。ぜえはあと俯いて呼吸を繰り返す私を目の当たりして、流石の蓮子も声を失い、静かに私の背中を擦ってきた。ありがたいのだけど、それはどちらかというと吐きそうなひとにしてあげる撫で方だ。親切には素直に従っておく。
「……はぁ、死ぬかと思った」
 しばらくして、普通に会話できる状態にまで回復した私は、何やら申し訳なさそうにこちらを見ている蓮子に気付いた。
「どうしたのよ。そんな顔して」
「いや、やっぱりメリーには辛かったのかなと」
「まあ、良い運動にはなったわね」
「でも、膝の調子も良くないのに」
「……別に悪くないんだけど。持病でもないし」
「えっ」
「なんで驚いた」
 反省した根拠に疑問は残るものの、無茶振りされる可能性が減ったのは好ましいことだ。元気いっぱいだった蓮子の声もわずかに落ち着き、暮れなずむ空、徐々に下がり始める気温と一緒に世界のいろんなものが下降線を辿る。
 一日の終わり、その始まりの時間帯。
 私はようやく、視線を空に投げる。

「……うわあ」

 一面の赤色。

 緋、紫、紅、橙、あるいはそれら全てが混ざりあって、でも黒にはならずにそれぞれの色を主張して並存している。いずれ空の色が紺に変わり、藍に変わり、黒闇に没するとしても、この瞬間における空の主役は間違いなくこの赤色に違いなかった。
 嘆息する。
 紛れもない、感嘆の溜息だった。
「真っ赤ね……」
「ね。きれいでしょ」
「うん……」
 思わず、ひときわ赤く輝く夕日を指差す。だから何と言われると困るのだが、とにかくあの太陽を指し示したかった。
 逢魔ヶ刻と呼ばれるこの時間、世界の何もかもが赤く染まる。私も、蓮子も、坂道も、眼下に広がる町並みも、本当に何もかもだ。
「蓮子は、これを見せたかったのね」
「まあね。地の利は私にありますから」
 入学した時期は大して変わらないのに、自慢げに胸を張る蓮子がおかしくて、少し笑う。つられて蓮子も真っ白な歯を見せて笑い、いつからか身体を蝕んでいた疲れも消えてしまっていた。
 気が付くと、蓮子も柵に寄りかかって夕焼け空を眺めていた。その瞳は、星を見るときのように、月を仰ぐときのように、私を見るときよりもいくぶんか遠い。
「メリー」
「うん」
 ふたりとも、同じ空を見ている。お互いの目を合わせなくても、誰に語りかけているのかはわかる。
「今じゃないんだけど、いつかは離れ離れになるんだよね。私たち」
「何よいきなり」
「夕暮れ時は、ひとを切なくさせます」
 にしても、だいぶ話が飛んだものだ。
 それでも、蓮子が唐突に真剣な話題を振るのはいつものだから、私も比較的真面目に考えて回答を述べる。とはいえ、我ながら無味乾燥な答えになってしまってはいたが。
「……確かに、ずっと一緒にはいられないわね。大学卒業したら、働く場所は別々になるでしょうし。結婚でもしたら子育ても忙しいから数年は顔も合わせられないし、子どもに手が掛からなくなっても年に一度会えるか会えないか、てところじゃないかしら」
「現実的ねえ」
「私だって夢ばっかり見てるわけじゃないもの」
 考えなければならないことは、それこそ無限に存在するのだ。夢を見るのも悪くはないが、かといって現を蔑ろにするのも問題である。
 陽は必ず落ちるから落陽というのだ。
「そっか。寂しくなるねえ」
「まだ結婚のケの字もないわよ」
「いやいや、メリーさんはおきれいですからー」
「何その棒読み」
 虚仮にされているとしか思えない言葉に触発されて、蓮子の方に向き直る。が、蓮子はまだ赤らんだ空から目を離さずにいた。
「だから、今のうちにめいっぱい倶楽部活動しておいた方がいいのかなあ」
「……なんだ、そんなこと考えてたの」
「うん」
 ようやく、蓮子が気恥ずかしそうにこっちを見る。照れているのか、頬を赤らめていてもこの夕焼けではその真相は計りようもなかった。
「別れるのはしょうがないにしても、今のこの瞬間だけは絶対だもの。楽しまないと損よ損」
「それは……まあ」
 柵をぎしぎしと軋ませる蓮子の手癖の悪さを注意すべきかどうか、その前にもっと考えることがあるような気もする。
 ただ、それを明確な言葉にするのは躊躇われた。
「でもやっぱり、メリーがいないとちょっと寂しいわね。締まらないというか、メリハリがないというか」
「……別に、私がいなくたって生きていけるわよ。私だって、蓮子がいなくても平然と生きていられるし」
「そうかしら?」
「そうよ」
「だが、宇佐見蓮子という掛け替えのない存在をなくしたメリーが、夜ごと枕を涙で濡らす日々を送ることになろうとは……」
「妙なモノローグを入れない」
 神妙な顔で目を瞑っている蓮子のこめかみを指で弾いて、これ以上余計なことを言わせないよう試みる。
 が、いつものように悪戯っぽく笑う彼女には、私の思惑など全く通用しないらしい。
「でも」
 その声が、ひどく温かく胸を刺した。
「私は、メリーがいなくなると少し寂しい」
 少し。ほんのちょっと。
 彼女が口にした私という存在の軽さは、決して吹けば飛ぶような薄さではないのだと、何故か理解できた。
「生きていけないってほどじゃないけど、でも、一日がちょっと退屈になるわね。あなたとじゃなきゃ行けない場所が確かにあるんだって、気付いちゃったから」
 もし、ここで手を差し伸べられたら。
 私はきっと、その手を握り締めたまま一生離せないだろう。
 そう思えたから、蓮子が手を下に垂らしたままなのは助かった。
「だから」
 蓮子はすかさず腰に手をやり、恥ずかしげもなくあの真っ赤な太陽を指差し、威風堂々と宣言を始める。相も変わらず、やることなすこと大袈裟な娘さんだ。
「秘封倶楽部代表宇佐見蓮子の権限において、以後の活動内容をより有意義なものに昇華させるべく、部員ひとりひとりの意識改革を推し進めたいと考えている所存であります」
「具体的には」
「英気を養うために、カフェテラスにて何か奢ってくれると私はとても嬉しい」
 これが謙虚な態度に分類されるのかどうか、私は知らない。
 くきゅう、とお腹が鳴っているところを見ると、蓮子も講義明けに走り通しなのに全く疲れていなかったということでもないらしい。宇佐見蓮子も普通の女の子だ。甘いものが大好きで、それ相応に照れもするし恥ずかしがりもする。ただ、そのタイミングが若干普通の人と異なっているくらいの話で。
「ねー」
「わかったわよ。今日も私の奢りね」
「やったー! メリー大好き!」
「蓮子が自主的に払ってくれたら、私も蓮子が大好きになっちゃうけど」
「でも、メリーは私がいなくても寂しくないんでしょう?」
「どちらかというと、懐が寂しいから蓮子に何とかしてほしいんだけどね」
「まあ、細かいことはどうでもいいわよね!」
「現金なんだから……」
 はあ、といつもの溜息を吐いて、夕日に背を向ける蓮子の後に続く。
 名残惜しげに振り向いた空は、やっぱり目が痛くなるくらい赤く染まっていて、その眩しさに目を細めたくなる。陽は必ず落ちるから落陽という。その間、たとえ短い時間しか表せない色だとしても、その色がきれいだと思えたのなら。
 私はずっと、この瞬間のことを覚えていられる。
「メリー! 早く来ないとケーキ売り切れちゃうわよー!」
「はいはい、わかったわよー」
 聞こえそうにない声量で言葉を返し、赤く燃え上がる太陽に別れを告げる。
 再会の約束をしなくても、明日になればきっとまた会える。
 いつかふらりと別れても、指きりげんまんをしなくても、何かの拍子に何かの縁で、どこかの道で、思い出の場所で交差する。
 わざとらしく足音を鳴らし、遥か先を進む蓮子の足音を追う。疲れは完全に吹き飛び、明日明後日の金縛りに苦笑を浮かべ、閉じたまぶたの裏に太陽の赤を思う。
 遠く、蓮子が私の名前を強く叫んでいた。

 

 

 そして私は、遠い未来に、夕日がきれいな丘の上で。
 約束もせずに、ただぽつんと、遅刻が好きな誰かさんを待ちながら。

 

 

 

 



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2009年9月2日 藤村流

 



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