筆舌
「おはようございます、阿求さん」
新たな朝を迎えられたという、祝福の挨拶である。そのはずなのに、射命丸文の声は低く沈んでいた。
きっと寝起きなのだろう。聡明な私は追求せずにおいた。
「おはようございます、射命丸さん。良い朝ですね」
外は大雨だった。
「えぇ、爽やかな朝ですね……ふあぁ、欠伸が止まらないくらい」
朝っぱらから他人の家に上がり込んでおいて、臆面もなく欠伸をする体たらく。とても由緒ある天狗のすることとは思えない。土砂降りの雨の中を翔けてきたにもかかわらず、一切濡れていないのは流石天狗といったところだが。私に相応の力があれば、蹴り飛ばすなり撫で転がすなりして追い払っていたものを、か弱い人間は強者に従うよりほかない。
「単刀直入に申し上げますが、今日はあなたにお願いがありまして」
「代筆ならお断りします」
「いえ、流石にそこまでは切羽詰まっておりません。書く楽しみは譲れませんしね。ですが、新しい風は常に取り入れるべきだと私は考えています」
「鳥らしい物の考え方ですね」
羽根ペンを振り上げて力説する彼女を見て、鴉は羽根ペンを使うことに抵抗がないのだろうかと、少し気になった。
「今回、不定期ではありますが、新規の連載を考えておりまして」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます。その連載を、第九代阿礼乙女である稗田阿求さんにお願いしようかと」
「お断りします」
「おめでとうございます」
ありがとうの代わりに、手持ちのペンを投げつけてやろうかと思った。
畳にインクが飛び散るから、そんなみっともない真似はしないけれど。
「お願いしますよぉ。私とあなたの仲じゃないですかぁ」
「そんなに仲良かったでしたっけ私たち」
そんなに心当たりがない。
「幻想郷縁起は、人にも妖にもよく読まれる。その筆者である稗田阿求が寄稿するとなれば、我が新聞の購読者数は増加します。でなくても、連載される号の部数は間違いなく伸びる。何も一面全て書けっていうんじゃないんです、それだと稗田阿求が目立ち過ぎますし、誰の新聞がわかったもんじゃありませんから」
下手に出ているのか何なのか、ともあれ珍しい光景ではあった。私も決して暇ではないが、猫の手も借りたいほど忙しいわけでもない。書くことは好きだし、自分が書いたものを面白いと言ってくれるのは嬉しい。彼女も、私が書く側の人間であることを十分知った上で依頼している。白澤はちょっと頭が固いし、魔女はあくまで自分のために記録を残しているに過ぎない。競争相手の鴉天狗には頼めないし、八方ふさがりな彼女の辿り着いた先が、稗田阿求だったわけだ。
適当に悩む仕草を見せてから、私は彼女の肩を叩いた。
「……仕方ないですね」
「あ……、ありがとうございます!」
文の顔がぱあっと輝き、いきなり私に抱き着いてきた。痛い。勢い余って押し倒すとは、やはり天狗は過激である。
あと、邪魔だからどいてほしい。重いし。
「すみません、つい興奮して」
「気を付けてください。稗田阿求に貸しを作っている状態なんですからね、今のあなたは」
「そうでした」
うっかりしてました、と可愛らしさを装って自分の頭を小突く。
あんまり可愛くないのが残念だった。
「それでは、20字×20行で何か文章を考えておいてください。三日後の午前五時くらいに取りに来ますので。内容に関しては、小説でも批評でも、詩でも愚痴でも独り言でも何でも構いません。要はマスが埋まればいいんです、阿求さん名前は売れてるんですから、少々わけのわからない内容だって読む方は適当に解釈してくれます。いやあ、売れっ子は得ですね! 羨ましい!」
投げ付けたペンは彼女の手の中に収まっていた。
インクが飛び散る前で助かった。
「でもまあ、幻想郷縁起の評価には影響するかもしれませんが」
それはわかる。だから躊躇していたと言っても過言ではない。
「正直、私もそこまで面倒見れませんし、そのへんは上手くやってください」
「私もそこまで面倒見てもらおうと思ってないので、いいです」
「そうですか。それは助かります」
彼女は最後にぺこりと頭を下げて、早々に私の部屋から立ち去っていった。律儀にペンを置いていくあたり、射命丸文は書く側の生き物だといえる。
外に目をやれば、いつしか雨は上がっていた。
試しに、小説を書いてみた。
文字数が制限されていて難しかったが、いくつか書き上げることができた。
余は満足である。
「没」
そう思ってお手伝いさんに見せたら、いきなり放り投げられた。
酷い。
「えぇ……見る目がないんじゃないですか……」
「いえ、面白くありませんし」
こやつ、雇い主を持ち上げる気が全くない。
かえって清々しい。
「たとえば、どのへんが」
「全部です」
清々しい。
でもその清々しさによって傷付いてしまう人間がいることを、お手伝いさんはもっと知るべきだと思う。
「それでは、仕事が残っておりますので」
そそくさと去っていく彼女の背中に、小さく舌を出してやる。我ながらちょっと可愛いと思うのだが、文が見たら腹を抱えて笑うに違いない。
腹が立ってきた。
部屋に戻って、また何作か書いてみることにした。けれども、今度はいくら書いても満足の行くものは出来なかった。何もかもが色褪せて見えた。私が面白いと感じるものを否定されて、私の感性が間違っているのではないかと思えた。
何故だか無性に不安になって、あのお手伝いさんにまた読んでもらったら、やっぱり「没」と言われた。
理不尽。
行儀が悪いと知りながら、羽根ペンの羽根の部分を唇に挟んで、それを上下させながら物思いに耽る。
夜も深けていた。ランプの明かりも心なしか弱々しい。
締め切りは三日後である。ただ、直前まで粘ることは避けたかった。急遽、阿礼乙女としての仕事が舞い込むかもしれないし、終わらせられるものは早めに終わらせておきたい。
小説は諦めた。お手伝いさんは何も助言してくれなかったし、「書きたいように書けばいいんじゃないですか」と、当たり前のことを言うだけだった。それは確かに、その通りなんだけど。
文も言っていた。何を書いてもいい。きっと何を書いてもそれなりに喜ばれる。紙面が埋まれば、彼女に対する義理は果たした形になる。
でもなあ、と机に顎を乗せて、唇の隙間から溜息を吐き出す。
頼られた以上、下手なものを渡しては稗田阿求の沽券にかかわる。私にとって、書くことは何を意味するのか。昔はずっとそんなことを考えていた。今になって、時折そのことを思い出すたび、懐かしさに胸が軋む。
射命丸文が書けないものを。
私にしか書けないものを。
中途半端に開いた口から、羽根ペンが落ちる。丸まった背筋を伸ばし、両手を突き上げると、背骨がばきばき音を立てた。
「うーっ……ん」
ペンを持ち、白紙に向き合う。
夜は長い。孤独な戦いであることは否めない。が、光明は見えた。ぼんやりと、だが、そこにあることだけは、はっきりとわかった。
翼をたたむ音が聞こえ、空からゆっくりと烏の羽根が落ちてくる。
稗田家の塀に背中を預けて数分、射命丸文は時間通りに姿を現した。
律儀なものだ。
「おはようございます」
今日は声が通っている。寝起きではないようだった。
「おはようござ、ぃ……ます」
対する私は寝惚け眼を擦りながら、文に一枚の紙を差し出す。寝起きだから、あまり声を発したくなかった。
彼女は一通り原稿に目を通した後、何か言いたげにこちらを睨んできた。義理を果たした以上、別に無視してもよかったのだけど、後から妙な因縁を付けられても困るので、欠伸をしてからおもむろに口を開いた。
「一応、私にしか書けないものを、と思いまして……。唯一、射命丸文が書けず、私に書けるものといったら、……あなたの私生活以外にないだろう、という結論に至りました」
「……たまに、書いてるじゃありませんか。清く正しい、射命丸文の私生活」
「私生活が清く正しい天狗なんていませんよ。あなたを見ればわかります」
「ぐぬぬ……」
苦虫を噛み潰したような、という比喩がぴったりな表情だった。
世が世なら、力ずくで清く正しい射命丸文の私生活を書かされることになるだろうが、今の世は、彼女にそれを許さない。彼女もまた、そんな自分を許さないだろう。
「ま、知ってる範囲だけですけど。だから、ネタが無くなったら、また何かお話でもしましょう」
底意地の悪い無邪気な笑みを、自信を持って文に送る。
天狗は賢い。狡賢いと言ってもいい。彼女もまた天狗の賢しさに従い、私に依頼をした。彼女の計算が正しければ、私は文にとって最善の結果を出すはずであった。私の原稿を跳ね付けることは、彼女の計算が間違っていたことを意味する。天狗はその知性と矜持ゆえに、己の過ちを認めない。
だからどちらに転んでも、私にとっては美味しい結果になる。
「……はぁ。全く、これだから人間というものは……」
大きく息を吐いて、諦め顔で彼女は笑う。弱々しく、それでいて清々しく。
「わかりました、わかりましたよ……。確かに、原稿はお預かり致しました」
紙を小さく折り畳んで、上着の胸ポケットにしまう。
私は正直、部屋に戻って二度寝を決め込みたかったのだが、彼女の複雑な表情を見ていると、もう少しからかっても面白いのではないかと思えてきた。
だが、彼女は地面に落ちていた羽根を摘まみ上げると、すぐに踵を返した。
「ありがとうございました」
どういたしまして、と言葉を返す前に、彼女は空高く飛び上がっていた。
朝焼けの空を仰げば、上向いた首が痛くなった。不健康にも程がある。彼女の巻き起こした旋風がやむのを見計らって、いそいそと家の中に引っ込んだ。
これからしばらく、書くものが増える。それが楽しみでもあり、面倒でもある。幻想郷縁起にどう影響が出るかは不明だが、やれることはなるべくやっておきたい。心残りがあるまま、というのは、あまりにご無体な話である。
伸びをすると、背骨が鳴った。
その音を聞いて、というわけではあるまいが、廊下から飛び出してきたお手伝いさんが、「こんな朝早くに珍しいですね」と、小さく笑った。
SS
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2011年12月5日 藤村流 |
東方project二次創作小説 |