オレンジ

 

 

 

 遠い昔を思い出して、不意に泣いてしまいそうになる。
 年端も行かない女の子が、おばあちゃんの膝の上に頭を置き、気持ちよさそうな顔で寝息を立てている。その小刻みな呼吸に合わせて、おばあちゃんも女の子に耳掻きをしてあげる。オレンジ色の麗らかな日差しに包まれた縁側で、温かくて、優しくて、懐かしい時間が緩やかに流れていた。
 泣くまいと決めていたけれど、結局のところ泣いてしまった。
 夢と現は違う。
 夢を現実に変えるのだ、などと咆えた言葉でさえ色褪せてしまうような時の移ろいが、遠い記憶の船底から、女の子の胸をきつく締め上げていた。
 息苦しくて、息が止まる。
 これで夢から逃れられると思うと、嬉しくて、悲しくて、やっぱり寂しくて涙が出た。
 おばあちゃんは、まだ耳掻きをしていた。

 

 

 秘封倶楽部の活動は、サークルの代表である宇佐見蓮子の主観によってその活動時間が大きく変わる。他に用事があれば活動そのものが行われず、興味が惹かれたものなら一日中あちこちを駆けずり回る。それに文句も言わず付き合うメリーもまた自分が物好きであることを自覚していたが、蓮子以上の物好きは他に類を見ないとメリーは確信していた。
 その日もまた蓮子の気紛れにより活動は休止となり、暇を持て余したメリーは大学に程近い書店に足を向けた。好んで読むものは文庫、少年誌、歴史書、タレント本、話題に上げられているものは一通り軽く目を通す。その中で気に入ったものを購入したり購読したりといったパターンを踏んでいるのだが、時間が掛かりすぎるという難点はいずれ修正する必要がある。メリーは手に取った本の帯にあった大袈裟な煽り文句を流し読み、元々あった場所に収めた。隣の書簡にも移ろうかと目を向けると、自らの身長以上に高くそびえる本棚の隙間を塗って、見慣れた影が移動する姿を認めた。
「……あれ。蓮子」
 呟いた声は、店内を流れる流行歌に容易く雪がれる。影はすぐに姿を隠し、メリーは目的の棚を通り過ぎて蓮子らしき背中を追った。彼女に見られたくない知られたくない事情があるにせよ、好奇心の芽は摘み取れない。それはいつか蓮子自身が唱えた格言なのだけれど、それがメリーの行動に対する免罪符としての効力を発揮するかどうかは別の問題である。
 ドミノを思わせる大きな棚を潜り抜け、不審でない程度に真摯な客を装いながら蓮子を追跡する。再び見えた人影は、メリーのように本から本へ日和見することなく、脇目も振らず一点を目指している。この近辺では最大級の書店であるから、視線の向きだけで目的の品を推理するのは難しい。メリーは尾行を続けた。
 一分、長くても三分はかからなかった。蓮子は書店の最も奥に配置されている、これまた寂れた一角に足を止めた。その後ろ姿を見守るように、メリーも棚に手を掛けてじっと佇んでいる。手に汗握るとまではいかないが、この状況下ではやむを得ない。弥が上にも密会めいた背徳的な逢瀬を思わせる。
 メリーもここまで奥に入るのは初めてだったから、程近い本棚に収められた書物を適当に拾い上げる。表紙には絵本を彷彿とさせるような淡い彩色の砕けた造形をした象だか猿だかカタツムリだか分からない物体が何体か蠢いていた。怪しい。怪しいにも程がある。恐る恐る開いてみた頁には、諸国の言語にも理解があるメリーですら一種の呪文としか思えないような文字の羅列――あるいは文字に擬態した神か悪魔か結界か――が所狭しと並べられていた。自然採光されていない薄暗い場所であるのに、妙な明るさで目が眩んだ。メリーには分かる。ここに結界の境目があると、網膜の奥が告げている。だがメリーは黙って本のようなものを閉じ、元々あったのかさえ分からない場所に収めた。また、それと同様の手順を踏んで、ランダムに新しい書物を選び直す余裕などメリーにはなかった。
 下手をすると、蓮子もまた同じような轍を踏んでいるのかもしれないと訝しんではみたが、メリーと蓮子の間には棚ふたつ分の距離があり、いい加減に擬・真マタイ伝とか出所不明なグリモワールとかが鮨詰めになっているような空間からは乖離しているだろう。そう信じたい。信じる心も大切だ、とメリーは摺り足でその場を離れながら思った。蓮子の背中が、棚ひとつ分だけ近くなった。
 蓮子は、本屋にいる誰もが行うように本を選んでいる。文庫やハードカバーやホッチキスで留めたような書物に至るまで、ひとつひとつ丹念に調べている。あれも違う、これも違う。取っては眺め、首を振っては返還する。店内を席巻していた流行の歌も、流石にここまでは聞こえてこない。代わりに蓮子の落胆を聞くことになり、メリーはいたたまれなくなって声を掛けそうになる。
 それでも蓮子の真剣すぎる表情を見るにつけ、彼女の集中を切らしてはならないと己を戒める。
 一心不乱に取捨選択している蓮子を眺めていると、上から下へ、右から左へ、新しい本棚の段に移動する。まずい、とその背中に追いすがろうとして、これ以上は危険だと自分に言い聞かせる。何故ならこれより接近すれば、本を選んでいる蓮子の立ち姿をひとつの本棚の影から覗き見る形となり、人の気配すら感じられない空間では、彼女がちょっと首を横に向けただけで身元が割れる危険性がある。メリーはあまり勘が鋭くはない。運動能力も蓮子に劣る。危険だ。危ない。折檻される。
 まあでも少しくらいならいいかな、とメリーは本棚から首を出した。
「ごきげんよう。メリー」
 物凄く直視されていた。心なしか、目も笑っていないように見える。
「ご、ごきげんよう、蓮子。探し物?」
「メリーの探し物は私だったみたいだけど、ね」
 平静を装った台詞は物の見事に瓦解した。厭らしく苦笑する蓮子に屈し、メリーはただ素直に頭を下げた。ごめんなさい、あなたのことが心配で。特にあのグリモワールとか。グリモワール? いやこっちの話。忘れなさい。あれなんで脅迫されてるのかしら私。
 蓮子からは頬を抓られ、何度か本で頭を叩かれ、しばらくメリーの奢りだからねと懐にある財布を指差される。目ざとい。しかも懐にある程度の厚みが確保されていると踏んでの発言である。恐るべし宇佐見蓮子、とメリーは恐れおののいたような振りをした。
「ところで、その探し物とやらは見付かったの?」
「あぁ、うん。これよこれ」
 薄暗い通路からレジまでの多少回りくどい道すがら、蓮子はメリーを叩いていた鈍器を右手にかざす。辞書よりは薄いが、小説に限るならば相当分厚い仕上がりである。表紙には、太陽をあしらった抽象画が描かれている。題名は『私からあなたへ』とあった。ここまでの展開はあれと酷似している。メリーは身構えた。
「昨日、懐かしい夢見てさ」
 予想とは正反対の静かな口火と、次第に大きくなるBGMの音色に流されて、メリーは聞き役に徹することになった。蓮子は続ける。
「ずっとずっと昔、おばあちゃんの家で読んでもらった本の夢。四、五才の頃の話だから、題名も内容もほとんど覚えてなかったんだけど、その夢を見たら不意に思い出して」
 懐かしいなあ、と空を仰ぐように人工の白色光を見上げる。蓮子の祖母について彼女はそれ以上語らなかったが、それは言葉にすればかすれてしまうような淡い記憶だからかもしれない。メリーの祖父母はまだ健在だけれど、蓮子の語り口からすれば、彼女のおばあちゃんはもう亡くなったのだろうと推測はできた。
 そこからレジまでは何も話さず、精算を待つ列に並ぶ手前で、蓮子はメリーに列を譲った。
「いや、私は何も買わないんだけど」
「やっぱり喫茶店の奢りは別口にして、メリーはこの本を買ってよ。ね」
 メリーは顔を顰める。その間も絶え間なく列は進むから、仕方なく並んではいたが。
「そういう思い出の品は、自分の懐を痛める必要があるんじゃないのかしら」
「甘いわね、メリー」
 鼻で笑われればいい気はしない。それでもなお進んでいく列に流されるようにメリーも漸進する。蓮子は隣に、メリーの後ろに新たな客も着いたから脱出もできない。袋小路だった。
「どこが」
「おばあちゃんの本は、おばあちゃんの所有物なのよ。だから私があの頃の思い出に浸るためには、親しい人の所有している本でなければ条件を満たすことはできないのよ」
 お分かり、と人差し指を立てる仕草が腹立たしい。が、メリーは既に列の先頭に立っていた。いらっしゃいませという定型句には品物と財布を引き出す能力がある。観念し、メリーは今際の際に蓮子を睨む。
 蓮子は勝ち誇ったように笑みを浮かべ、次いで、バックグラウンドミュージックの一節を思わせるような囁きで、小さくありがとうと言った。
 本は税込みで二千八百円だった。

 

 

 オレンジ色の閃光が、女の子とおばあちゃんを包んでいる。
 夢の世界の色は薄く、だのに照明は常に薄暮の輝きに満ちていた。
 その本は色褪せていて、かすれた橙色のくすみが際立っていた。一頁一頁、しわがれた手で丁寧にめくり、難しい言葉は噛み砕いて、読み手の解釈を必要とするところは、彼女なりの解釈を述べて。少しでも楽しんで貰えるように、微笑んで貰えるようにとその本を読んで聞かせた。
 けれども女の子の夏は短く、あっと言う間に別れがきた。本はまだ最後の一章を残していて、女の子はそれを読んでもらうまでは帰れないと駄々をこねた。その我がままを解きほぐすように、おばあちゃんはまた来年の楽しみに取っておきなさい、そうすれば読めるようになるから、と説得した。愚図りながら、女の子はおばあちゃんと約束をして田舎を後にした。
 おばあちゃんが亡くなったという報せを聞いたのは、その冬のことだった。六十八歳だった。
 葬式も終わり、遺品の整理を手伝っていた女の子は、偶然にもその本を見付けた。
 子どもには難しい内容だったけれど、おばあちゃんから聞いた通り、何度も何度も噛み砕いて読み解いてみた。けれども、その内容はやっぱりよく分からなかった。
 最後まで、おばあちゃんに読んでもらいたかったな。そう思ったら、何だかとても寂しい気分になって、最後には泣き出してしまった。その時は愚図りながら本を閉じて、きちんとダンボールに戻したはずだった。
 けれど、それ以来その本の行方は分からなくなった。

 

 

 部屋に帰ったメリーは、蓮子に買わされた本を読んだ。
 それは一人の女の子の成長譚で、出会いや別れ、恋愛、挫折、人間関係などを事細かに綴った物語だった。生後間もない頃から六十八の冬に亡くなるまでの長い長い人生を、この一冊に纏め切っている。哲学らしきものはなく、あるのは単純な思想だった。純粋に「生きる」という題材を美しく時には泥臭く書き切った結果、書店の奥深くにまで追いやられてしまったのだ。変色して色褪せてしまった紙面と、表紙の太陽とを見比べる度に何かの皮肉なのではないかと邪推する。実際は、作者にそんな意図など寸分も無かったのだろうけど、そう思わせてしまう何かがこの本にはあった。
 後書きまで読み終えて、メリーはこの本の作者の名前をよく見ていなかったことに気付いた。表紙、背表紙、裏表紙とカバーの裏まで目を皿にして探して、見付かったのは最後の頁の奥付だった。
 重版・改訂はなく、初版発行一九二三年、作者の名前は作品に登場する主人公の女の子と一致しており、作者氏名の欄には、酷く色褪せた字で「宇佐見××子」と記されていた。
「……あれ」
 射抜くようにカレンダーを見る。二〇〇六年、日付と曜日は問わない。宇佐見蓮子の年齢を二十歳と仮定して概算する。だが合わない。発行された年が一九二三年であるはずがない。不可能だ。けれどもこの書物は、宇佐見××子の著作物として存在している。
 メリーは本を閉じた。手に掛かる重量が、そのまま人生の重厚さを思わせる。安直だが、真実ではあるのだろう。
 今度、蓮子に訊いてみよう。蓮子のおばあちゃんがいつ亡くなったのか、そしてその死因と発見された時の状況、及びその後に行われた葬儀の様子が、この本の最終章に描かれているものとどこまで一致しているのかを。

 

 

 



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2006年4月19日 藤村流

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