むどんげ

 

 

 

 師匠、と声を掛けながら襖を開ける。
 錠前はない。襖に掛ける鍵などありはしないから、入る前に声を掛けるのが礼儀とされる。面倒くさいなと思いながら、私は師匠に怒られるのが怖いからその約束事を遵守している。決して、己の律儀さ故でないのが情けないところだが。
 さて、師匠に呼ばれてやって来たはいいものの、当の八意永琳ご師匠様の姿は何処にも見当たらない。十畳ほどの部屋には、右の壁に箪笥と本棚、左の壁に謎めいた薬品の数々が並べられ、奥には簡易ベッドが設けられている。布団じゃないとイヤ、という方向けに布団も用意されている。至れり尽くせりだ。
「とはいえ」
 独り言が多いのが最近の悩みだから、事のついでに師匠に診ててもらってもいいかもしれない。独り言は孤独に根付く病である。永遠亭に訪れて何年経ったか、過ぎる時間を一日ずつ数えて悦に浸っていた時代はとうに終わったけれど、ふと、月を見上げて物思いに耽る癖は残った。
 鈴仙・優曇華院・イナバは脱兎である。月から逃げ出し、地上に落ちた月の兎。いや、堕ちた、か。
 ベッドに腰掛け、ぎしりと軋む具合の悪さに鼻を鳴らす。薬品の匂い、ひどく懐かしいようで、生まれて始めて嗅いだ匂いのようにも思える。
「……あれ」
 部屋を見渡していると、箪笥の引き出しが不自然に開いているのが見えた。たったひとつだけ、ちょうど慌てて中身を取り出して閉め忘れたといった具合に。
 この部屋にあるものは全て師匠の私物であり、私が勝手に持ち出すことは許されない。書類を含め、薬品のひとつに至るまで。
 もっとも、それは師匠以外に使い方がわからないものや、用途如何では危険な効果を示すものがあるらしいため、予防のために無断使用厳禁ということになっているのだが。
「うーん」
 悩む。
 だらしなく開いた引き出しを閉めるくらいなら、咎められるはずもない。ただ、相手はかつて月の天才と呼ばれた(今は不明だが)お師匠様である、端的にいうと何を考えているのかよくわからないところがあるため、下手を打つと予想外の方向から折檻を喰らいかねない。触らぬ神に祟り無し、という無難な格言が脳裏をよぎる。好奇心は兎を殺す。年の一度の大虐殺。
 ああでも気になるなあ。
 なんで今日に限ってきちんと閉じてないんだろう。
 もしや、私は試されているのでは……と突発的な試練を疑ってみるが、波長を弄くっても監視されている気配はない。いざとなれば位相をずらして逃げれば良し、でも師匠ならその網を容易に潜り抜ける気もする。本当はそんなことないのかもしれないが、精神的に上位に立たれていると何をしても敵わない気がしてしまうのだ。あまり良い傾向とも言えないけれど。
「……」
 決してずぼらではない師匠が犯したミス、あるいは意図的なトラップ。好奇心を喚起させ、愚者を吸い寄せる甘美な網。ここに師匠がいれば全て解決するのに、師匠の不在が嫌な想像を膨らませる。邪推は尽きない。
 性質の悪い性格してるなあ、と自分でも思う。でも、これが私なんだから仕方ないじゃないか、うん。
「閉めますよー」
 誰にともなく呟いて、ベッドから立ち上がる。解放感。重力から解き放たれたような気分で、不自然に開いた引き出しに歩み寄る。
 箪笥の前、ちょうど私の胸元に位置する引き出しが、拳ふたつ分くらい開いている。隙間は隙間で、見てくれ、見てくれと言わんばかりに私を誘惑し、懸命に目を逸らす私の気を引こうとする。
 無理やり波長をずらして引き出しの中を透明にすることも出来たが、何より面倒なので私は視線を外したまま引き出しを押した。
 ――ぐっ。
「硬っ!?」
 何この不条理な手応え。思わず声が出た。
 いや本当にびくともしない。鍵が掛かっている訳でも奥に何かが詰まっている感触もない。文字通り、押しても引いてもうんともすんとも言わないのだ。
 罠。
「アウチ」
 英語が出た。
 だが、こういう事態でこそ己の真価が試される。師匠が見ておきたいのもきっとそれに違いない。
 そして私は、不自然な手応えを感じた取っ手を確認した際、引き出しの中身を視界に収めていたことに気付いた。
「あ」
 だめでした。

 

 もうこうなったらどうとでもなれ、明日は明日の風が吹く。でも残念なことに今日はまだこれからも続くのよね……と心に乾いた風が吹き荒ぶ中、しょうがないので正々堂々と中を覗くことにした。
 発見したのは一冊の手帖。
 錠前も注意書きもない、古びて色褪せた手帖だった。紐で綴じられた部分がささくれ、四隅も擦り切れてぼろぼろになっている。題名はない。
「これ、なんだろ……」
 タガが外れれば、自然に伸びていく手を私は止められない。ああなんて私は意志が弱いんだろうと嘆きながら拾い上げた手帖を開き、最初の頁から順にめくっていく。
 紛れも無く、お師匠様の字体だ。美しいというよりは、しなやかさが感じられる字。
 初めの紙に、序文めいた文章が綴られている。


 ずっと、彼女の名を何にしようか考えていた
 幾つか候補を書き連ねてみる
 彼女に似合う名が思い付けば良いが
 』

「……ッ」
 きゅ、と胸が締め付けられる。手のひらに奇妙な汗を掻く。わずかな湿り気でも、古い紙に触れれば繊維が腐れ落ちるような気がして、不意に指を離す。
 頁をめくる指が止まり、音のない部屋で耳を澄ましている。小さく、低い鼓動が自分の内側から響いてくる。
「師匠……」
 こんなことで目頭が熱くなるほど、情に脆い性格ではないけれど。永遠亭での生活が私に与えた影響は、決して少なくはなかったらしい。まぶたの上から眼球に触れる。それで涙の前兆は収まってくれた。
 別に泣くことが恥ずかしいと思っている訳じゃなくて、泣いているところを師匠に見られているかもしれない、というのが恥ずかしかった。
 少し嬉しい気持ちになって、私は頁をめくった。心なしか、表紙をめくった時よりも紙が軽い。
 まさか、いきなり本命の優曇華院に命中するはずはないと思うが、一応は覚悟しておく。珍しく楽しい気分になっているのに、いきなり凄惨な事実を目の当たりにしてしまっては台無しである。
 ふう、と小さく息を吐いて、埃を弾くように瞬きを三回。目を開ける。
 次の頁には、その中央に大きな名前が綴られていた。


 No.001
 無曇華院
 通称「ムドンゲ」
 てきはしぬ
 』

 私は穏やかな気持ちで手帖を閉じた。
 そっと手帖を引き出しの中に仕舞い、ついでに引き出しも閉じようとしたけどやっぱり手応えが意味不明過ぎて全然びくともしなかった。
 ぐいっ。
「硬ッ!?」
 このボケさっきもやった気がするなあ。腕が痛い。
 臭いものに蓋が出来ないのは辛いところだが、最初から開いていたものを閉じるのも、証拠隠滅と現場保存の観点からいえば誤りである。
「よし」
 ここは放置で。
 私はすばやく深呼吸を済ませ、優しい気持ちのまま踵を返す。

「見たわね」
「ギャー!」

 出た。
 なんとなく居るんじゃないかなとは思ってたけどあえて考えないフリをしてたのにやっぱり居ました。
 その名も偉大な八意永琳大師匠。ああ大が被ってしまった。
 あろうことか、中途半端に開けた襖から右半身だけ姿を現すという宇宙人っぷり。夢に出そう。
「鈴仙……あなたは違うと思っていたけど、どうやら私の思い違いだっ痛っ」
「師匠、ふすまに引っかかってます師匠」
 ほら演出に凝りすぎてちゃんとふすま開けないから。
 それでいて、何事も無かったかのように鼻を擦りながら私の前に立つ師匠は流石である。
「あの……」
「あなたの言いたいことは解るわ。その手帖のことでしょう」
 鼻が赤くなってるけど大丈夫ですかって言おうとしたんですけど。
「――いいわ。見てしまったものは仕方ない、過去は無かったことには出来ないもの」
 どうやら真面目な展開に突入したらしい。身構える。
 師匠は私の横を通り過ぎ、うんともすんとも言わなかった引き出しをあっけなく引きずり出し、中にある手帖をやや粗雑に拾い上げた。
 師匠の眼には、どこか郷愁を感じさせる光が灯っている。
「優曇華の花……三千年に一度しか実をつけない植物であるというのは、知っているわね」
「はあ、一応は」
 どうして師匠がこんな妙ちくりんな名前を付けたのか、それは今をもってしても謎に包まれたままなのだが。この機会に尋ねてもいいのだが、私の望む答えは返ってきそうにない。
 何故かって、師匠の眼が嫌な方向に生き生きしているからである。
「無曇華の花……それは、生まれてから一度も実をつけない植物」
「……はー、そんなのがあるんですか」
「ないわ」
 ないんかい。
 呼吸するようにどうでもいい嘘をつく、それもうちの師匠の特徴である。ある意味、てゐの影響を受けているといえなくもない。ていうかてゐが影響受けてるのか。わからん。
「むしろ、むどんげという響きにこそ意味がある」
 相変わらず、他人のペースに左右されないお方である。突っ込みを入れ損ねた手の甲を引き、適当に合いの手を入れる。
「確かに……うどんげに輪を掛けて独創的ですよね」
「ムドとは、古来より伝わる呪いのひとつとされているわ。言霊を紡ぎ、対象の生命を奪い去る呪術ね。呪いは、呪われているという事実をその対象が認識して始めて効果を発揮する。――ムドの優れているところは、直接、殺す対象に言霊を浴びせかける点よ。これなら、呪術師の力量が一定であれば確実に相手を死に至らしめることができるというわけ」
「はー」
 素直に感心すると損をすると解っていても、師匠の語り口があまりにも滑らかだからついつい信じてしまう。
 その後で、師匠の言葉に大きな欠陥があることを悟る。やっぱり感心して損した。
「それって、名前を呼ばれるたびに私の寿命が縮むような……」
 低姿勢で、おずおずと尋ねる。すると師匠は。
「誤差の範囲ね」
 腕組みをして、何故か誇らしげに頷く。
 気にするなということらしい。堂々としてるなあ。
「他にも、強化系のムドォンゲと、全体効果のマハムドンゲという案もあって」
「そうですか」
「でもマハムドォンゲくらいになっちゃうと、ちょっとね」
 小首を傾げる。頬に指を添える仕草が、そこはかとなく可愛らしい。
「死にますか」
「全滅ね」
 なるほど、まはむどぉんげじゃなくてよかったなあ。
 本当によかった。
「ちなみに、悪霊を昇天させる破魔の術を兼ね合わせた画期的な命名案として、四季映姫・ハマザナドゥという先例が」
「ヤマザナドゥになってよかったですね」
「そうね」
 よかったよかった。
 めでたしめでたし。

 

 それから何日か、嫌がらせのようにムドンゲムドンゲ言われるようになったのは言うまでもない。
 嫌がらせですか。
 嫌がらせですね。
「むどんげー、私の代わりに中庭掃いてきてよ」
「あんたはいつも鈴仙って呼んでたろ。やだよ」
「むどぉんげ!」
「ぐわぁぁ!?」
 フリに乗ってやったのに、顔を上げたら姿を消しているという詐欺。まさにてゐ。

 寿命が縮みそうです。

 

 

 

 



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2009年7月15日 藤村流

 



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