縫い針が手元から落ちて、床に転がる様子をアリスは他人事のように見つめていた。
 二秒、三秒、針を零したままの体勢でアリスは固まる。
「……もう」
 諦めたように溜息を吐いてから、アリスは苦もなく針を拾い上げる。
 針を取り零したのは、腹部に鈍い痛みが走ったせいだ。その原因として挙げられるのは、昨日霧雨魔理沙が置いていった色とりどりのきのこ。仮に食中毒とすると、発症する時間も遅く、激痛も長く続かなかったから、可能性は低い方だと考えられる。だが他に理由も思い浮かばない。戦闘らしい戦闘もなく、腹部に強い攻撃を受けた経験もない。思索を巡らせている間に、人形が気を利かせて紅茶を持ってきてくれる。
「ありがとう」
 無表情な人形に感謝を告げ、アリスは生地と針を一旦テーブルに置いた。人形のためにと服をあつらえている最中に、不可解な現象もあったものだ。これが人形に起こった異常というのならかえって解りやすいのだが。
 温かい紅茶を傾け、労わるようにお腹を撫でる。徹夜は極力行わず、運動は定期的に。時折、知り合いの魔法使いが妙な食べ物を置いていく他は、滅多なものは食さない。
「……何かしらね」
 空になったカップを置き、閉め切った窓に目を向ける。
 気分転換にと、アリスは椅子を降りて部屋から出る。魔法の森は瘴気に満ちていて散歩には向かないけれど、外の空気を吸うのも悪くない。付いて来ようとする人形たちを制して、ひとり浮かない顔で玄関に向かう。
 と。
「おーい」
 昨日、聞いたばかりの快活な声を聞く。粗野に玄関の扉を叩く少女の名を、アリスは忌々しげに呟いた。
「……魔理沙」
「おぉ、何故わかった。さては超能力者か」
「魔法使いよ」
 益体もない問答を打ち切って、アリスは扉を開ける。そこには、大量のきのこが入った風呂敷包みを背負う、金髪の魔法使いが立っていた。
「よぉ、アリス。相変わらず辛気臭い家だな」
「あなたの家には負けるわ」
「照れるぜ」
 よいしょと風呂敷を下ろし、いそいそと包みを解こうとする魔理沙の手首を掴む。
 掴まれた方の魔理沙は、訳がわからないというふうに目を丸くして小首を傾げていた。
「お?」
「さっき、原因不明の腹痛に苛まれたのよね」
「そいつはご愁傷様だな」
「その原因は、昨日あなたが勝手に置いていったきのこである可能性が高いのよ」
「ほうほう」
 生返事をしながら結び目を解こうとして手首をねじ上げられる魔理沙。
「痛い痛い」
「昨日は、あなたも一緒に例のきのこを食べたから、問題はないかと思ったんだけど。もしかして、共倒れ覚悟で毒きのこを――」
「バカ、そんなことして私に何の得があるっていうんだよ。私が食べて平気なきのこだったから持ってきたんだよ、お前の方が料理のレパートリー多いし」
 最後に本音が出た。
 確かに、考えてみれば魔理沙が自分を害する理由がない。大概のことは弾幕ごっこで蹴りがつく程度の問題だし、魔法使いのアリス・マーガトロイドと、人間の霧雨魔理沙が未知の毒きのこを同時に食べた場合、どちらが多くのダメージを負うかは明らかである。魔法使いにのみ効果がある毒という可能性もあるが、そこまでして恨まれる理由も思い浮かばない。知らぬ間に恨みを買っているというのは世の常だが、魔理沙の性格からして、大抵の恨み辛みは口頭か弾幕かのどちらかで処理されるだろう。
「きのこーきのこー♪ 今日はどんなの作ってくれるかなー♪」
 気味が悪いくらいご機嫌である。アリスも、料理の腕を褒められて悪い気はしない。が、持ち場を勝手に荒らされて嬉しい訳はなかった。
「いつから私はあなたの専属料理人になったのかしら」
「昨日から」
「そう……、まぁ、いいけど。何にせよ、気分転換はしたかったから」
「そうだぜ。昨日も言ったが、こいつは魔術の媒体にも使えるし腹持ちもいい、見た目も何となくプリプリしていて目の保養になる優れモノだ。だからアリスにも味わって欲しいと思ったんだ、余ったし」
 最後の言葉が真実を物語っている気がする。
 魔理沙は玄関で座り込み、きのこの吟味を始めている。その背中をそっと叩いて、台所を使うように指示すると、待ってましたと言わんばかりに魔理沙はぱちんと指を弾いた。
 風呂敷を引きずり、台所に引っ込んでいく魔理沙を見ていると、厄介事が舞い込んできたという諦観よりも、やんちゃ盛りの妹が増えたという郷愁の念が強い。同じ魔法使いでありながら、魔理沙は人間で、アリスは人間を辞めた者だ。ただ、いずれその岐路に立たされるであろう同胞を思う心は、アリスも持ち合わせている。
 知らずと、頬が綻ぶ。魔理沙に見られたらきっとからかわれるだろうから、顔を引き締め、どんな料理を作ろうかと考えを巡らせながら、一歩足を前に出す。

 その時だった。

「――――、ぁ」
 声が出ただけでも幸いだった。
 右下腹部に激痛が走る。それは断続的に続き、痛みを発している部分を押さえても、魔力を痛みの緩和に回しても大して変わらない。
 膝から崩れ落ち、床に転がる。辛うじて受け身は取れた。心音よりも下腹部から来る痛みの波の方が遥かに強い。目を硬く瞑り、それでも零れる涙を止められない。歯軋りは歯に良くないのにな、と場違いなことを思いながら歯軋りをした。
 呻く。言葉はついに出なかった。
 苦痛に見舞われ、身悶え、床に転がっているのか天井に貼りついているのか、木の枝にぶら下がっているのか、何が何だか解らない。ただ痛いとしか思わなかった。それ以外の何も考えられなくなってしまった。
 慌ただしく、床を蹴る誰かの足音が聞こえても、それが誰かを推理する余地も残されていなかった。
 いつしか、意識は途切れていた。
 生まれて初めて感じる痛みに、アリスは珍しく死を間近に感じていた。

 

 

 

 

 おあつらえ向きに、病室からは散り際の葉っぱが三枚見えた。
 ふと、病衣に包まれたアリスは思う。
「あの葉っぱが全て散ったなら、私の命も尽きてしまうのね……」
「そうか、じゃあちょっと散らしてくる!」
 霧雨魔理沙はそういう人間だ。相変わらずで、失笑を禁じ得ない。
 同時、下腹部に鈍痛が走り、呻く。
「いつッ……」
「無理すんなよ。まだ縫って間もないんだから」
「わ……、わかってるわよ……」
 魔理沙に言われれば世話はない。
 ――ここは、永遠亭の臨時病室である。
 魔理沙は痛みに蹲るアリスを永遠亭に運び、永琳に診断を依頼した。結果、アリスは急性虫垂炎であることが判明し、すぐさま手術を行った。
 手術は滞りなく終了し、縫合も完璧に行われ、傷跡も極力目立たないように仕上がっている。アリスが確認した際も、言われなければどこを切ったのか解らないほどだった。
 だが、まだ患部を触るだけでも痛みが走る。しばらくは入院を余儀なくされ、だだっ広い永遠亭の一室を貸し切って、強引に隔離させられたのである。
 手術料と入院費用は、永琳曰く「タダで構わない」とのことだったが、アリスは頑として対価を支払うことを譲らなかった。永琳はあっさりと折れ、代わりに支払いはいつでも構わないと告げた。
 食えない女性である。
 無料にしようとした理由は不明瞭だが、魔法使いの手術という貴重な現場に立ち会えたからではないか、とアリスは考えている。
「……全く、人形師が身体を縫われるなんて、皮肉もいいところね」
「いいじゃないか、皮肉万歳だぜ。自分で自分を切って縫う方が、よっぽど出来の悪い冗談だ」
 ぶるぶると震える自分の身体を抱き締めて、魔理沙は底意地の悪い笑みを浮かべる。
 誰かが置いていった果物入りのバスケットから、魔理沙は林檎をふたつ取り出し、お手玉の要領でくるくる回し始める。窓からは、実が全て落ちた後の柿の木が見えた。
「ちょっと、気になったんだが」
 林檎をひとつ膝に置いて、もうひとつにナイフの刃を当てる。いつのまに、膝の間に屑籠を用意して、魔理沙は林檎の皮剥きを始めた。
「どうぞ」
 風に揺れる木の葉から目をそらし、アリスは答える。魔理沙は、ナイフを器用に動かしながら、続ける。
「……どうして、痛みを抑える処置を施してなかったんだ?」
 繋がっていた皮が途中で千切れて、屑籠の中にまとめて落ちる。その行末を律儀に見届けて、アリスは痛みを堪えて患部に手を添えた。
 正直、苦痛で顔が歪む。
 それを見て、関係のない魔理沙の顔も少し歪んだ。
 彼女の所作は、あまりにも人間臭い。
「そうね。あなたも知っての通り、捨虫、捨食の他にも、痛覚の抑制や感情の制御を行う魔法使いは存在するわ」
 痛覚を抑制していれば、ひとりでも事態を収拾できた。仮に魔理沙がいなかった場合のことを考えれば、魔理沙の疑問も尤もであった。
「勿論、全ての魔法使いがそうする義務はない。実際、お前はまだ食事も睡眠もきちんと摂っているしな。だから聞きたいんだ、お前がそれをしない理由を」
 あくまで皮剥きは続けたまま、魔理沙は問いかける。
 柿の実も落ちる季節に、薄手の病衣は肌寒い。布団を少しずり上げて、その上からお腹に手を当てる。
「興味本位なのね」
「そう褒めるなよ」
 魔理沙の声も目も、冗談を言っているようには感じられなかった。ならば、自分も真摯に向き合うべきだろうなと腹を括る。
 葉っぱは折りからの風にあおられて、その一葉が呆気なく吹き飛ばされた。
「……単純にね、私は恋しいのよ。私が、人間だった頃のことが」
 アリスは人間から魔法使いになった。捨虫、捨食を経て魔法使いに至ったところで、人間だった過去が失われる訳ではない。ただ、魔法使いとしての活動はより洗練される。寿命を失えば半永久的に研究が続けられ、食料を摂る必要がなければ便意もなく、食料を調達する手間もそれらを調理する煩わしさもない。
 図書館に常駐している魔法使いならば、合理的だと納得するかもしれない。身体を改造しているかどうかまでは不明だが。
「魔法使いの身体は、魔道を極めるための回路と言い換えてもいい。必要なもの以外を切り捨て、より効率的に思考を走らせるためのシステムに過ぎないのよ」
「それは極論だろ」
「無論、ね。でも、そういう一面があるのは事実よ。だから、あまり忘れたくないのよ。痛みがあること。感情があること。不必要な器官があって、不必要な料理なんて作って、お腹が痛いって涙なんか流してね。痛かったし、今でも痛いけど、私がきのこ料理も作れない詰まらない女だったら、あなたは退屈していたし、私もきっと退屈していた。……退屈は毒よ、それこそ、毒きのこなんかよりよっぽどね」
 病床の身を嘆くこともなく、アリスは晴れやかに笑う。
 魔理沙は、しばらく目を丸くしていたが、やがて悔しそうに鼻を鳴らし、止まっていた皮剥きを再開した。
 見る間に剥かれていく林檎に魔理沙の心情を垣間見て、アリスが改めて窓の外の木を見やると、葉っぱは既に散った後だった。
 当たり前だけれど、アリスは今も元気に生きている。
 痛みを越え、多少生気を失いながら、それでも痛みを抱えて生きることを選んだ。今までも、これからも。
 別に、大して誇らしいことでもなく、アリスにとっては当然のことなのだけど。
 霧雨魔理沙はどんな道を選ぶだろう。痛みと共に、あるいは痛みを捨て、彼女なりの魔法使いの在り方を信じて。
 いつかその選択を迫られるであろう魔理沙は今、ナイフをテーブルに置いて、満足げに口の端を歪めた。
「――ほれ。兎だ兎」
 魔理沙は、皿の上に飾り立てた林檎を置き、得意げに踏ん反り返っていた。手先が器用で、料理にも精通しているアリスに対抗して、自分もこれくらいは出来るんだぞと誇示しているようにも思えた。
 だから。
「……ぱく」
 とりあえず、アリスが素手で一匹の兎を口の中に放り込む。と、魔理沙は恨みがましくアリスを睨み返していた。
 噛み締めた林檎が歯茎に触れ、その冷たさに、強く目を瞑る。

 

 

 

 



SS
Index

2011年12月21日  藤村流
東方project二次創作小説





Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!