月浴
レミリアが温泉に入りたいと駄々を捏ねたため、吸血鬼の従者として名高いのかどうなのかいまいち判然としないが、とりあえず完全で瀟洒なメイドらしい十六夜咲夜は桶片手に温泉探しに奔走していた。最近、瀟洒という言葉が独り歩きしてるんじゃないかと危惧している咲夜だが、元はと言えば自分から言い始めたことなのであの頃は若かったなーと若気の至りを省みることしばしであった。
そも、吸血鬼は流水に弱く、ニンニク嫌いのレミリアも例に及ばず雨には弱い限定的な虚弱体質なのだが、温泉はいいのですかと咲夜が指摘したところ、
「知るか」
と優しく返された。咲夜が従者なりに主の意図を汲み取った結果、「そら温泉なんて見たことも入ったこともないんだから分かんないじゃないうだうだ言ってないでさっさと探してきなさいさもないと頭蓋骨にストローぶっ刺して脳味噌ちゅうちゅう吸うぞ」という長台詞が降臨した。
パチュリーの知識によると温泉も流水の一種らしいのだが、吸血鬼という概念が生まれた地域には温泉がなかったものだから、そのへんはわりかしアドリブが利くんじゃないかと期待しているようなフシもあるらしい。
魔理沙温泉をにべもなく断られて数刻、咲夜は竹林を抜けて重力の勢いを殺すことなく降下した。ぶわ、とスカートやら紅葉やらが一気にめくれあがる。それでも動じないあたりが瀟洒である、という表現はあまり相応しくないような気もする。
「と、それはそれとして、こちらに温泉はございます?」
「あるけど……え、なんで?」
永遠亭の正面玄関、雑用係として名高い鈴仙・優曇華院・イナバは突然の来訪者に首を傾げた。秋の一日、降りしきる紅葉をせこせこと掃く姿がよく似合っている。完璧に着こなしたブレザーと相まって、優等生の健気なボランティア活動を彷彿とさせる。
「温泉、素敵ですわね」
「はあ……うちの場合、定期的に蓬莱人たちのボーリングが行われるから、その余波もあるんだけど……え、だからなんで?」
「でも、硫黄の匂いが少しねぇ」
「それは……まあ、髪が長いとちょっとは……ていうかひとの話とか聞く気ないですよね?」
鈴仙は、にこにこと笑う咲夜に嘆息する。
このまま玄関に居座られても迷惑極まりないので、鈴仙は仕方なく温泉に彼女を案内することにした。掃き掃除をするふりをして効率よくサボっている因幡てゐに声を掛け、厄介払いに案内しといてくれと言い付ける。めんどくせー、と口に出しながら咲夜を手招きしても、当のメイドさんは顔色ひとつ変えずにナイフを投げることで応答する。
「あんた、自分で瀟洒とか言ってて恥ずかしくない?」
受け止めたナイフを器用にジャグリングしながら、後ろを歩く咲夜に問う。
「まあ、一種のはったりですわ」
「ふうん。なんだかんだ言って、あんたも若々しい人間だからねー。妖どもの中じゃあいろいろと大変でしょうよ」
「ご高説、痛み入りますわ」
肩肘を張っているわけでも虚勢を張っているわけでもないのに、どことなく余所行きの空気を漂わせている。不思議な雰囲気だった。てゐが獣じみた足でぺたぺたと乾いた廊下を歩き、その後ろにこつこつと硬い足音が続く。
「んー、私はもうちょっと適当でもいいと思うんだけどねー。なかなかそういうわけにもいかんか。一応、敵地って言やあ敵地なんだし、ここ」
「そうかしら?」
わりと本気で、不思議そうに小首を傾げる。年齢相応の隙が垣間見え、てゐは肩を竦めた。
「……んや、愚問だったね。別に、私らとしても敵対したいわけじゃないし。上は知らんけど、というか何考えてるのかいまいちわからんし」
「満月光線の賜物ですわね」
「まあそれならそれでもいっかなあ」
適当に同調し、てゐは突き当たりの暖簾を指差す。
「ほら、あそこが温泉。ちなみに混浴の公衆浴場って扱いね。言っとくけど、ちゃんと金取るよ?」
忠告して、てゐは暖簾の傍らに置いてある賽銭箱を示した。
気温も下がり始める秋の夕暮れ、咲夜は永遠亭の天然温泉にほんのり浸かっていた。要するに全裸である。生来の銀髪を『おいでませ永遠亭』のロゴが刻まれたタオルで纏め、耳元からちょろんとはみだしているほつれ毛と、温泉の熱に火照って赤みが差し始めてきたうなじが実に艶かしい。
ちりちりと鳴く虫の音が耳に心地よく、暮れかかる夕陽に主の起床を想う。そういえば、主人は間もなく目覚めの頃合ではなかろうか、でも主も子どもじゃないからひとりじゃおきられないわーさくやさくやうわーんうわーんと泣きじゃくることもあるまい。呼ばれても出てこない咲夜に堪忍袋の緒が切れて、紅魔館内における謎の大爆発が起こらないとも限らないのだが、それはそれで愉快な日常であるからして特に問題はない。
幻想郷は、常におおらかであるべきなのである。
ひいては、それが瀟洒であるということなのだ。多分。
「……お嬢様、ここは嫌がられるかしら……でもまあ、敵であることに拘るような方でもないし……」
独り言が露天風呂の岩に反響し、のぼせかかる頭にぐわんぐわんと響きわたる。そのためか、敷居を滑る引き戸の音に気付くのも一拍ほど遅れてしまう。咲夜は桶に引っ掛けた懐中時計を握り締め、引き戸から現れた人物を見定める。
「お邪魔するわね」
「その自覚があるのなら、あまり踏み入らないで頂きたいものですけど」
咲夜の言葉に棘はなく、ただ不意を突かれてしまった不甲斐なさを適度に発散しただけだ。咲夜と似た銀髪を背中に流している月の天才――八意永琳もそれを理解しているらしく、指先を下唇に掛けて淡く微笑んでいた。
「社交辞令よ。覚えておくと損はしないわ」
「左様で」
短く答え、咲夜は懐中時計を桶に戻した。再び顎の先までお湯に浸り、首を上向けて逢魔ヶ刻の残滓を仰ぎ見る。美しい、と同時におぞましい美を感じる。それは、幻想郷を生きる人外たちに共通する美しさなのかもしれず、おそらくは、咲夜にもまた備わっているものなのかもしれなかった。
ちゃぽん、と永琳の脚が温泉に浸かる。隣に腰掛ける永琳の柔肌を見、同性の飾らない美貌に頭が痛くなる。蓬莱の薬を服用し、老いもせず、滅びもしない運命を内包していると知りながら、その美しさに嫉妬する。
不自然に目を逸らす咲夜の横顔に笑みをこぼし、永琳は言う。
「また、お嬢様のご命令?」
「半分は正解、半分は、私の気紛れ……でしょうね。温泉に入って、のんびりしたかったというところも少し」
「それがいいわ。いくらあなたでも、年中無休は身体に毒でしょうし。あのお嬢様にしても、従者を虐めるのが本意ではないでしょうから」
水面を蹴り、跳ねた雫が兎の形をした出湯口にぶつかって弾け飛んだ。
今度は自然に、永琳の体躯を窺う。
張りのある太ももから下を湯に浸し、上半身は涼風に晒されたままにしている。岩に垂れた長い髪の毛が天の川のように流れ、温泉から溢れるお湯に揺られて絹糸のようにきらきらと光る。
女性らしさ、というよりか母親に近い膨らみを思わせる体躯に、咲夜は期せずして唾を飲み込む。それに気付いたであろう永琳は特に気休めの言葉を掛けるでもなく、空っぽの桶に落ちた銀の懐中時計を見下ろしていた。
「……あげないわよ」
「いらないわよ。ていうのも、言ってみれば失礼な話よね。でも、簡単に盗み出せそうな場所に置いていていいのかしら」
懐中時計を掴み上げようとして、咲夜は即座に桶を抱え込む。子どものように口を尖らせる咲夜に目を丸くし、一拍おいてからくすくすと笑う。
「な、なんか文句ある?」
「いえ、ね……あなたのそういうところ、何だか可笑しくて」
少し間が空き、直後に咲夜の顔が赤く染まる。上気しているのは温泉の効能とも言えようが、彼女が羞恥から赤く茹で上がったことは明白だった。永琳の笑い声も大きくなる。
我慢ならなくなった咲夜は、抱えた桶を永琳の脛にぶつけようとする。が、永琳は素早く脚を引いて咲夜の報復を逃れる。
それから永琳は踵を返し、柔らかい足音を立てて温泉を後にする。咲夜はその背中に怒りをぶつけようとし、素早く永琳の言葉に遮られる。
「私は別に構わないわよ。あなたたちが温泉に入っても」
「それは、ありがたいのだけど」
話を擦り返られ、それでも感謝の言葉を告げずにいられないのが従者の辛いところだ。ここで永琳に謝辞を述べずにおくことは、レミリアの沽券にも関わってくる。
「姫様にしてもそうだと思うわ。たまに嫌味は言うでしょうけど、お嬢様が怒ったのなら、あなたが持ち前の瀟洒さで見事に制すればいいじゃない」
試すように告げて、永琳は引き戸を開けた。
咲夜は何を言うべきか迷い、やはりそれらしいことを言うしかないのだと悟った。
「言われるまでもありませんわ」
引き戸が閉まる。永琳の表情は見えなかった。が、不快ではなかった。
桶の中にある、懐中時計がきらりと光った。
鈴仙とて毎日毎日来る日も来る日も落ち葉掃除をしている訳でもないのだが、てゐがことごとくサボりまくるせいもありここ最近は箒片手にボランティア少女鈴仙をよく見掛けるようになった。
今日も溜息混じりにせっせせっせと落葉樹うっとうしいなこいつと思いながら箒を振るっていると、竹林の遥か上空から怪しげな影が一個師団で降下してきた。ずどん、と地雷を踏んだような着地音が聞こえたのは気のせいではあるまい。舞い上がる紅葉とスカートの裾を思い、鈴仙は目が眩んだ。
もくもくと土煙が立ち昇り、それが晴れるとついに謎の集団の正体が明らかとなる。半ば予想が付いていたのではあるが、そうと信じたくなかった鈴仙の気持ちを汲むことも時には必要である。
少女のような、それでいて鷹揚な声が発せられる。
「ここが、咲夜の言っていた温泉ね。早起きしたせいか、何だか異様に眠いわ」
「そういうときは、安眠枕が効果的よ。なんと立ち寝も可」
「パチェも物知りだねえ。流石は万年更年期障害の魔女なだけあるわー。んー全然羨ましくないね!」
「それは言い過ぎだと思うんですけど……いくらパチュリー様でも、帽子の中にキノコの胞子を飼っているだなんて……」
「いやー私はあなたの方がひどいと思うわよー。しかしいやー温泉も久しぶりだねー」
「実は呼んでないんだけどね貴女」
ひでえ! と赤髪の女性が叫び、各々の自己紹介が一通り終了した。鈴仙は見知った人影とその名前とを照合し、眉間に皺を寄せながら、エプロンドレスを纏った少女に声を掛ける。
「えと……戦争?」
咲夜は冷静に首を振り、逢魔ヶ刻に染められつつある天上を仰いだ。月は黄金に輝いている。真円だった。
「今回は、紅魔館の慰安旅行ですわ」
そう告げて、あの満月にも似た満面の笑みを浮かべてみせた。
OS
SS
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