一日一東方 暫定版

二〇〇八年 六月二日
(地霊殿・キスメ)

 


『きみは在りし日のともし火を』

 

 

 博麗霊夢の朝は早い。
 日の出と共に目が覚める、というほどでもないが、それに近い時間帯にはむっくりと起き上がる。白々と染まりつつある障子の色を見、まぶたを擦りながら己の覚醒を促す。
「ふ……あぁ」
 その気の抜けた欠伸を聞く者は誰もいない。薄ら寒い部屋は一人分の温かみしか存在せず、霊夢がどれほど息を吐こうと、この部屋は太陽が昇るまで暖まることはない。それを思えば、布団から出るのが如何に億劫で、肌寒いと感じるやわな心を拭い去ることが出来なくとも、立ち上がるしか道はないのだ。
 しかし、眠い。
 春眠暁を覚えず、である。
「あふぅ……」
 もう一度欠伸をして、霊夢は襦袢のまま障子を開け放った。遠く、薄く雲が掛かった空の果てに、白い朝焼けが滲んでいるのがわかる。明けの明星は、どこかに消えた。程無くすれば橙色の太陽が、頼みもしないのに満面の光を放ちながら登場する。律儀なものだ、と霊夢は思う。曇天でも豪雨でも、その更に上には太陽が相も変わらず昇っては沈んでいるのだ。自分が太陽なら、雨の日くらいは布団の中で眠っているのに。
「かお……あらおう……」
 ぼそぼそと、枯れかけた喉を震わせながら、たどたどしい足取りで井戸に向かう。
 古びれた草履に足を引っ掛け、視界も朧に井戸の傍らに立つ。なかば手探りで、桶に繋がる麻縄を掴み、ずるずると井戸の底から桶を引っ張り上げる。からからと滑車が鳴り、いつもの朝の風景を、まぶたの裏に映し出す。
 朝の肌寒い空気に若干身を振るわせながら、霊夢は麻縄を握り締める。
「ふぁ……やっぱ、朝はまだ寒いわねぇ……」
 愚痴りながら、手のひらに水と桶の確かな重みを感じ、するすると引き上げる。そうして、がきょ、と桶が滑車に引っかかった感触を覚えてようやく、緩やかにまぶたを開けた。
 ゆっくりと、視界が光に満たされ、そして。
「……」
「……」
 それと、目が合う。
「……」
「……」
 お互いに無言だった。
 霊夢からすれば相手が物を語れる存在かどうかも曖昧だから、とりあえずは、向こうの出方を待つより他なかった。
 緑の髪を頭の両端で括り、大きな瞳は黒く澄み切り、身体はその桶にすっぽりと収まるくらい小さい。しかしてその全容は、鼻から下を桶に隠しているせいもあり、窺い知ることは難しい。それに。
「……」
 霊夢は、何だか邪魔くさくなって麻縄を手放した。
 あっ、という、小さな悲鳴を聞いた。
「――」
 相手は、何だか裏切られたような表情を浮かべ、けれど霊夢にそれを気取られることもなく、ひゅーっと落ち、程無くして、じゃばぁんと着水した。
 ものの数秒の出来事である。忘れかけていた頃に、欠伸がまろび出た。
「へぃほぁ……、水がめ使おう……」
 とりあえず、件の妖怪がうろちょろするのも厄介だから、井戸に蓋を置き、その上にどでかい陰陽球を置く。漬物石があれば磐石だが、代用できるものが要石しかない。流石にそれはまずいだろうと、霊夢は蓋をガンガンと叩く物音を無視し、社務所の中に引っ込んでいった。
 長い夜は終わり、そしてまた新しい朝が始まろうとしている。

 

 

 一日は特筆すべき出来事もなく進展し、魔理沙がお茶を嗜んだり、霊夢が境内の掃除をしたり、香霖堂を冷やかしたり、おおむね平和な日常が繰り広げられていた。
 魔理沙は霊夢と弾幕に興じ、欠伸の冷めやらぬ霊夢から勝利を収め、博麗神社に泊まることを決断した。英断ともいえる。霊夢からすれば愚行の極みだと罵るだろうが、それは主に面倒だからという理由に尽きる。食事の世話、お風呂の準備、寝床の用意。魔理沙が泊まるということは、それらを全て霊夢が賄うことを意味する。賄わなければ、魔理沙が拗ねるだけである。それはそれで、禍根を残すから面倒なので、霊夢は面倒だなあと思いながら魔理沙の世話をする。
 今の面倒を消化すれば、後の面倒を避けることができる。
 至言とは思うが、やはり面倒なことには変わりないわけで。
「よし、じゃあ温泉にでもするか!」
 力強く、魔理沙はちゃぶ台を叩き立ち上がる。
 霊夢はへのへのもへじを絵に描いたような、でもやっぱり手を抜いてへの字の口だけを再現した。
「ひとの温泉だと思って……、あんたんちの温泉の方がいいじゃない。楽で」
「そりゃ霊夢は楽だろうけどな、私は楽じゃないんだ、困ったことに」
「困るわあ……」
 空の茶碗に箸を置き、深々と項垂れる。そんな霊夢の肩を幾分か乱暴にばしばし叩いて、魔理沙は手拭い片手に浴場へと向かう。全く、食事の後片付けすらしないのだから、お客様気分もここまでくれば立派なものだ。だからといって、諦観する気にもなれないが。
 ふたりぶんの食器を台所にぶちこみ、霊夢も手拭いと着替えを引っ張り出して温泉に向かう。先に皿洗いを済ませ、魔理沙に待ちぼうけを喰らわせるという手もあるのだが、彼女ひとりを放置するときっとろくでもないことが起こる。やんちゃ坊主には、監視役が不可欠である。
「ぱ ぱ ぱじゃまでおじゃま〜」
「なんつー……いやまあいいけど」
「だろ」
 先に脱ぎ始めている魔理沙に追い着き、霊夢もまた裾に指をかける。春麗らかなれども、日が没すれば温度は急激に下がる。すっぽんぽんになれば肌寒いを通り越して軽く致死レベルに達するもので、露天風呂から温泉に突入するまでのわずかな距離が、確かにひとつの死線であった。
 だが、いくら源泉掛け流しになっているとはいえ、身体を洗わぬまま湯船に突貫するのは行儀が悪い。ひとりならともかく、親しき仲にも礼儀あり、守るべき筋というものはあるだろう。
 で、あるからして。
「いッくぜぇぇー!」
「行くな」
 準備万端、裸足で駆けてく霧雨魔理沙の足元に向けて、霊夢は卸し立ての石鹸を転がした。
「ぐおぉ!?」
 案の定、魔理沙は「ガッ!」とばかりに石鹸をしたたかに踏み、滑り、「ぶめぎゃ」と転倒した。
 どんがらがっしゃんと積み上がった桶に激突し、見るも無残に倒れ伏している友人を一瞥し、霊夢は最後のリボンを解いた。
「さ、入りましょうか」
 その声に、返る言葉は何もなかった。

 

 

 乙女の肌はゆでたまご。
 などという形容ができるのも日頃からの並々ならぬ努力の成せる業であり、かといって何か特別なことをしているかといえば、特にそんなこともない。ただ、お肌を大切に、赤ん坊に触れるように、愛しいものを傷付けまいと愛でるように撫でるのである。
 ――と、いうのは建前で。
「てて……なにも、石鹸投げることないじゃんかよ……」
「締め出されなかっただけありがたいと思いなさい。何も、入らせてあげないってんじゃないんだから。規律は守る」
「わーったよ、あたた……温泉で回復すりゃいいけどな……」
「ちょうどよかったじゃない。温泉で」
「ああそうかい」
 愚痴りながら、魔理沙は手拭いに染み込ませた石鹸の泡を肌に擦りつける。見る間に泡立っていく魔理沙の肌を横目に、霊夢はそこいらに散乱した桶を拾い上げては積み直していく。そのうちのひとつを適当に見繕い、温泉からお湯を汲み上げ、「うわっぷ」という謎の声を聞き咎めることなく、魔理沙の横に陣取った。
 そして、一息。
「ふう……」
「お疲れだな」
「誰かさんのせいで、ね」
「そりゃあ何よりだ」
「褒めてない」
 いつのまにか泡だるまと化している魔理沙に苦笑しながら、霊夢もひとまず冷えた身体に湯を掛けようと桶を持ち上げて。
「……」
「……」
 それと、目が合う。
「……」
「どした?」
 魔理沙の言葉は右の耳から左の耳に、霊夢の瞳はずぶぬれになった深緑の髪と薄手の布をまとったきりの妖がいた。彼女の瞳が滲んでいるように見えるのは、温泉のせいか涙のせいか。
 思い悩む暇などなく、霊夢は反射的に動いた。
「なあ――」
 すぱあん!
 魔理沙の問いかけが届いた頃には、霊夢は桶をさかさまに引っ繰り返し、それが決して動かないようにどっしりと座りこんでいた。どこからか、ガンガンと扉を叩くような音が聞こえる。何かをやり遂げたように額の汗を拭う霊夢に、魔理沙は何も言えなくなってしまった。
 霊夢は椅子代わりにした桶をずりずり引きずりながら移動し、新しい桶にお湯を汲んでまた戻ってくる。その間も、ガンガンと門限を破ったおてんばお嬢様の悲しいノックは続いている。魔理沙は霊夢に何事かと尋ねようとして、頭からお湯を被る霊夢に何も言えなくなってしまった。
「……」
「ん、なに?」
「いや……なんでもない……」
 魔理沙は諦めた。
 霊夢は満足げに頷き、自分もまた泡まみれになろうと石鹸に手を伸ばす。額に張り付いた髪から垂れる雫が、瞳の中に深く染み入る。そのたびに、目を瞑りたくなるようなむず痒さが走り、堪えようもない涙が溢れる。まぶたを擦るのもあまり良くない気がして、とりあえずは手探りで、石鹸のようなものを掴もうとする。が、なかなか在り処がわからない。
 そうこうしているうちに、身体も少しずつ火照っているようだった。半身浴という言葉が輸入されて久しいが、なるほど源泉掛け流しであれば何もしなくても温泉は足元に広がっている。少々勿体ない気もするが、全ての水が地に染み入り海に流れ出て空に還るのならば、何も無駄な過程などないのだ。
 いやしかし、なかなか半身浴も馬鹿にできないもので、これは五右衛門風呂の縁に過って触れてしまったかのような熱さが、こう、特にお尻のあたりに感じてやまない、ていうか。
 ……桶、燃えてるんじゃね?
「うぉあっつあぁぃッ!!」
「うおあ!」
 霊夢は飛び上がり、絶叫の巻き添えを喰った魔理沙がついでに引っ繰り返った。
 どんがらがっしゃんと転げ回る桶の周りに、ぽつぽつと浮かび上がる火を魔理沙は見た。
「……鬼火?」
 呟くと、その火は瞬く間に消えていた。
 魔理沙は続け様に霊夢へと向き直り、お尻を押さえて呻いている霊夢の背中をごしごしと擦る。
「う、うぅ……」
「ど、どうした! 風邪か!?」
「何故そう思ったのか聞きたい……けど、とにかく、水、水を……」
「そうかよしわかった!」
 魔理沙は身を翻し、桶にお湯を汲んできて勢いよく霊夢のお尻にぶちまけてあげた。
 ざばーん。
「あああっついわッ!」
「しまったこれはお湯だった! 迂闊ッ!」
「迂闊ッ! じゃないわよ! 何をどう間違えればそうなるのよ!」
「普通だぜ」
「言えばいいってもんじゃない!!」
 ちぇー、と唇を尖らせる魔理沙を睨みつけ、早く水もってこいと訴える。魔理沙も「わかったわかった」と手をひらひら振る。座ることも立ち上がることもままならず、四つんばいのまま歯痒さを噛み締めていると、ふと、宙を泳ぐ桶が目に入った。
 ふよふよと、頼りなげに夜を泳ぐ不気味な影はしかし、時折見える緑色のちっちゃな後頭部により、あまり緊迫感のないものになっていた。
 迎撃する気にもなれず、ふたりは黙ってそれを見送り、桶はそのまま夜に溶けた。かぽーん、と幻想にも近い桶の音が鳴る。
 してやられた。
 歯噛みする間もあればこそ、火傷の痛みが臀部を襲う。ひりひりする。結局のところ、どちらが先に手を出して、どちらが報復したのかはよくわからない。双方共に痛み分け、ほうほうのていで撤退したという見方が強いだろうか。
 いずれにせよ、第二、第三の釣瓶落としが現れる可能性は否定出来ない。おちおち桶も使っていられない生活が始まるかと思うと、霊夢はまた一段と頭が痛くなるのだった。
「魔理沙……とにかく、水……」
 その魔理沙は、何か思いつめたような顔をしていた。うずくまる霊夢を見、宵闇に消えた桶娘の行方を見定め、裸のまま腕組みをして物思いに耽っている。
 そして不意に拳を握り締め、いきなり真剣な表情を作り、辺り一帯に轟き渡るよう力強く言い放った。

 

「……霊夢の尻子玉が逃げたッ!!」

 

 殴った。

 

 

 

 



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2008年6月2日 藤村流

 



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