『
前略。
この手紙は、この本を読んでいらっしゃる貴方に捧げるものです。
彼方より此方まで、ずっと貴方のことをお慕い申し上げておりました。
貴方の側で生きたい。叶わぬ願いとは知りながらも、その胸に抱かれたいのです。
もし許されるのなら、もし許してくださるのなら。
白玉楼の桜の下で、お待ちしています。
』
恋文
外は雨が降っていた。
雨樋を叩く粒音に耳を傾けながら、読書の途中で発見した手紙を読み返す。
薄黄色に変色していることを除けば、特に問題のない恋文。
僕に宛てられた手紙でないと知りつつも、なぜか胸は躍ってしまう。
いわく、思いの丈を込めた文字には、魂が宿るという。言霊なんて言葉があるくらいだから、愛や慕情に限らず、怨念や邪念のこもった不幸の手紙は相当に迷惑なものなんだろう。
「差出人の名は無し、か」
いきなり手詰まりだった。
桜に関する本を読み漁っている最中、栞代わりに挟んであった一枚の紙片。
短いながらも、懸命に想いを綴った紙。
この本は、外から流れて来たものを僕が引き取って来た。倉庫に置いたまま埃を被せていたのだが、今年の桜があまりに見事だからと、気紛れに掘り起こしたのである。無論、魔理沙や霊夢が触れた形跡はないし、彼女たちが冗談でもこういう悪戯をするとは思えない。僕がどういう反応をするか熟知しているからだ。
手紙を発見した頁には、桜の挿絵が描かれていた。噂に聞く白玉楼の桜、ではない。外にある立派な桜を模写したものらしい。なるほど、うちの桜程とは思わないが、死体が埋まっているのかと訝しむ程度には絢爛だった。
裏には、何も書かれていない。
誰に宛てたものかも分からず、誰が送ったものかも分からない。
何も見なかったことにして、手紙を元の頁に返してしまうのもいい。本の変質具合からして、ゆうに百年は経っているだろう。普通の人間ならば、送った者も送られた者も死に至っている。込められた想いが化けて妖怪に転じてしまうのなら、霊夢に祓ってもらうことも考えなければなるまいし。
「これは、面倒なくじを引いたかな」
椅子の背に寄り掛かり、地面を叩く雨粒に酔いしれる。
口では愚痴を言いながら、内心は酷く心が躍っていた。
そういえば、白玉楼の桜は綺麗なのだろうか。
誘われはしたが結局は足を運ばなかったので、少し損をしたような気がする。特に、この挿絵を見た今ならば。
白玉楼。
外の世界にもその名が知れ渡っているのなら、答えは存外簡単に出るのではと思った。
扉が開く。黒い帽子を被る人間は、知り合いの中で一人しか該当しない。
「おっす、香霖。なんか用かー」
それはこちらの台詞だと言うのも面倒なので、さっさと質問を投げ掛ける。
「あぁ。実は、こういうものを手に入れてしまってね」
さりげなく、袖の下から一枚の手紙を取り出す。丁寧に扱わなければ容易に裂けてしまいそうな物品なのだが、魔理沙はそんなことお構いなしに手紙を引ったくる。
右から左に、一息で黙読する。書物の速読は、魔導書で充分に慣らされているのだろう。
「ふうん、お慕い申し上げます、か……。慕われてんなあ、香霖」
「その自覚はないよ。そもそも、それは書庫の本に挟まれてあったもので、僕に宛てられたものじゃない」
「そうなのか。私はてっきり、紅魔館のメイド辺りが、なんかの気紛れで送り付けたもんだと思ったが」
「僕と彼女じゃ、到底釣り合わないよ」
「体重がか?」
冗談ではなく、半ば本気で言っているところが魔理沙の恐ろしさだ。壁に耳あり障子に目あり、という格言など聞いたことがないのだろう。知っていながら無視する可能性も否定できない。
裏と表とを何度か見比べ、窓から差し込む光に透かしてみる。指に灯した魔力の火で炙り出そうとしたところで、魔理沙の手から手紙を救い出す。
「……何だよ、手紙の謎が解きたいんじゃないのかよ」
「謎を解く前に、その謎が消えてしまったら意味がないじゃないか」
「ふっ、だったらこの名探偵霧雨魔理沙様にお任せするといい」
根拠も何もない発言に、言葉を失う。とりあえず、何があっても彼女にだけは任せてはいけない。
魔理沙は、何をやるにしても行き詰ったら力技で解決しようとする。彼女一人の所業なら彼女一人の責任で済むが、後ろに僕の存在がちらつくとなると非常に好ましくない。軍隊でもないのに、連帯責任など取ってられない。
「なんか、嫌そうな顔だな」
「嫌そうじゃなくて、実際に嫌なんだが」
「面白いことを言うな、香霖は」
乾いた笑い声をあげる魔理沙。本当に可笑しかったようだ。
僕は、紙片の端に綴られている場所の名を呟く。
「魔理沙。白玉楼に行ったことはあるかい」
「死んだことはないぜ」
「何でも、豪奢な桜木があるとか」
「豪奢かどうかは、自分の目で確かめる他ないけどな。だが、物の美しさなんてのは、本人の純真さで大きく変わるもんだ」
したり顔で言ってのける。
なら、魔理沙はきっとこの世のものとは思えぬ美麗な光景に、しばし心を奪われたに違いない。
魔理沙ほど、己の欲望を隠さずに生きている者はいないだろうから。
一方で、霊夢は真に綺麗なものを見たことがないのかもしれない。
正直者は馬鹿を見る。己の欲望を偽らずに生きている者は、必ず損をするように出来ている。
当の霊夢は、損をしているなどとは夢にも思っていないだろうが、代わりも得をしているとも思っていないだろう。
全く、僕の周りには変わり者しかいないのか。僕も含めて。
空は、飽きることもなく雨を降らしていた。
手のひらに載せた恋文を、湿気てしまう前に棚へと隔離する。思いの丈を綴った恋文ですらも、欲望に忠実な創作物だ。筆者も恐らく、自分の中から湧き出る欲望に逆らうことなく、偽装も隠蔽もせずに恋慕の情を書き綴ったのだ。
ならば、その作り手が見上げていた桜は、さぞや美しく咲き誇っていたことだろう。
しばらく店内の物品を物色していた魔理沙が、大人しく本を傾けている僕に問う。
「香霖の目が見た桜ってのは、一体どれだけ綺麗なんだろうな」
彼女の両手が抱えているのは、妖精の羽が詰まった小瓶と得体の知れない魔導書の類。
どうせまたツケなのだろうから、追い剥ぎだ強奪だと喚かないことにする。僕はあまり心が広くはないが、諦めの早い性格ではある。
「勿論、その日の気分で大きく変わるさ」
この目は様々な物を見て来たが、だからといって心に汚れが溜まっているとは思わない。
僕は、魔理沙と違って掃除を怠らない性分だから、不必要な汚れはすぐに拭き取る。どうしても剥がれない黴や苔もあるけれど、それは生きてきた証と解釈すべきだろう。
「ふうん。まあ、仕方ないか。引き篭もりじゃあ、随分と目が悪いだろうからな」
眼鏡も掛けてるし、とどうでもいいことを付け足す。
魔理沙は、その後もしつこく恋文の調査をねだったが、解決が見えている事件を下請けに引き渡す訳にはいかない。素っ気なくあしらって、恨み言を吐きながら出店する彼女の背中を見送る。
彼女の銘と同じ霧雨の中、遠く蛙の鳴き声を耳にする。
季節の風物詩に包まれながら、果たして恋文はどの時節の枕詞なのだろうかと、欠伸混じりに考えてみた。
鬱々とした雨の日も次第に数を減らし、照り付ける陽光が書物の背表紙を傷め始める頃、香霖堂に半人半霊の娘が来店した。
彼女を待っていたのは事実だが、待ち侘びていた訳でもない。
妖夢もまた急な用事ということでもなく、通り道だからついでに寄ってみたくらいの動機らしい。
「お邪魔しますー」
何かの作業を邪魔した訳でもないのに、わざわざ断る必要もないと思う。
一般的な挨拶と分かっているが、他の挨拶を考える頃合ではないだろうか。まして、人間よりも長い時を生きているのだし。
「ああ、いらっしゃい」
そういう僕も、月並みな挨拶しか返すことが出来ない。他人のことは強く言えないものだ。
妖夢は、こちらに小さく会釈した後、店内をしばらくうろちょろしていた。正確には、霊の方が激しく動いていたので、そう見えただけかもしれないが。
「万引きはしないでくれよ」
「しませんよー、幽々子さまに怒られますから」
論点がすれ違っていることにも気付かず、冗談ぽく笑んでみせる。
それはともかく、解決を先送りにするのも良くない。
「ちょっと済まないが、君に頼みたいことがある」
「はい?」
小走りに近付いて来る妖夢、その小柄な体躯に先んじて、僕は棚の上から一枚の紙片を差し出す。
黴が生えるといけないから、それなりの防菌処理は施してある。自然に朽ち果てるのも自然の成り行きだから特に構わないのだけれど、行き場を失った想いだけは返しておく必要がある。
お節介だとしても、紙切れに込められた純真さが美しく思えたのだから、あるべき場所へ戻すのが僕なりの筋だ。
端的に言うと、僕には美しい物を手元に置いておく趣味などないし、呪いじみた情念を胸に秘め続ける根性もない。
妖夢は、その紙片を受け取った後、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
誤解させたままにするのも一興だが、僕の立場が危うくなるので早急に撤回しておく。
「それはね、この本に挟まってあったものだ」
言って、地味な装丁の書物を譲り渡す。
妖夢がその本を引き受けた時点で、恋文の所有権は本来の持ち主へと還る。
これでようやく、行き詰っていた輪廻が正しく一周した。結局、送り主の願いが届いたか否かは分からないが。手紙の意図を知った上で、受け取り主が元に戻したのかもしれないし、その上で行ったか戻ったかは僕の預かり知るところではない。
あるいは、白玉楼に赴けばその真相を知ることも出来るだろうが。
それこそ、下世話な話というものだ。
残念ながら、僕の欲望はそんなものに向いていない。
妖夢は事の成り行きを理解したのか、真摯な瞳になって言葉を紡ぐ。
「分かりました。責任を持って、持ち主に返却致します」
「頼んだよ」
力強く、頷いてくれる。
頼もしいかどうかの判断は別において、僕は肩の荷が下りた音を聞いた。
失礼しますと、これまたそれ自体は意味のない挨拶を吐き出して、勢いよく出店する妖夢。あの様子だと、主から与えられていた本来の用事など、とうに忘れているだろう。
直線的であることは、確かに美しい。が、それだけに過ぎないとも言える。
結局、どれを取るかは彼女次第だが、真っすぐ進みすぎてうちの壁を突き抜けることのないように願う。
要するに、魔理沙の二の舞になってくれるな、という意味なのだが。
蝉の鳴き声は喧しいが、実のところ人間の声の方が耳障りなものだ。
前者はこちらを無視するが、後者はこちらを意識している。意味が通じるというのも、時には鬱陶しく思える。
暑い、暑いと口にするのは人間だけだ。おそらくは蝉も暑い暑いとは言っているのだろうけど、蝉の言葉が分からない僕には何の効用ももたらさない。その代わり、部屋の隅っこで暑い暑いと喚いている魔理沙の言葉は、僕に少なからぬ苛立ちを与えてくれる。
かといって、追い出すことも出来ないのが辛いところだ。
一人になれば、この部屋の暑さを一身に受けてしまいかねない。
「……あー」
魔理沙が百を越える暑さを吐き出そうとしたとき、軽快な音と共に香霖堂の扉が開く。
「失礼しまーす!」
妖夢だった。
幽霊の温度は低いというが、それはそれで暑さが堪えるだろう。それなのに、妖夢は汗ひとつ掻かずに受付まで歩いて来る。
「あの、少し前に預かったお手紙の件なんですけど」
「……あぁ、あれか」
思い出すのに、少しの時間を要した。魔理沙はすぐに察したのか、身を起こして事の顛末を伺いにやって来る。
一ヶ月ほど前の話なので、詳細までは思い出せない。恋文の内容がどんなものだったのか、一字一句正しく言える自信もない。
「その件で、白玉楼の主から、森近霖之助さんへの伝言を預かってきました」
本人が直接来れば早いのではないかと思ったが、そういう立場の人はおいそれと寂れた店になど来れないのかもしれない。
妖夢が懐に手を伸ばしたので、小さな巻物でも取り出すのかと思ったが、実際は胸に手を添えただけだった。浅い呼吸を何度か繰り返し、至極真剣な眼差しで僕を見据える。
「行きます」
ただならぬ気配に、僕は「どうぞ」と答えるしかなかった。
それでもまだ躊躇いがあるのか、数秒ほど気まずい沈黙の期間が過ぎて。
「まずは、『ありがとう』。
そして、『うらみます』、と」
己の感情を込めないように、至って淡々と、決められた言葉のみを紡ぎ出す妖夢。
十秒ほど待ってみても、ついに次の台詞が述べられることはなかった。
伝言は二つ。たった二つの、感謝と呪詛。
終わりにしては、酷く呆気ない。肩透かしと言ってもいい。魔理沙など、拍子が抜けすぎて受付の棚に額を打ち付けたほどだ。
「それだけかい」
「はい、それだけです。……一応、もっと他にないんですかとも聞いたんですけど、これだけって」
流石に妖夢も気になっていたのか、申し訳なさそうに肩を落とす。
その気持ちも、分からないではない。ただ、こんなものだろう、とも思う。
物事の結末など、意外にあっさりしているものだ。世の中には、終わったことさえ知られずに終わる物も多い。無縁仏、四季、蝉の死骸、虹の行く先、川の始まりと海の終わり。
……しかし、『うらみます』か。
何とも、随分な言葉を落としてくれたものだ。流石は亡霊の姫、感嘆に値する。
「……はは」
「お、どうした香霖。そんなに恨まれるようなことでもしたのか」
「そんなじゃない。そんなじゃないけど、そうなのかもしれないな」
「女の恨みってのは、いつの時代も恐ろしいもんだからなぁ」
全くだ、と頷いておく。
妖夢は一人、どこか釈然としない面持ちで佇んでいたが、それはそれで構わない。意味が分からないのも、ときには幸運となる。
恋文は還り、情念も恨み言のひとつと化して、結局は笑い話になる。
過去の話は過去に還して、亡霊とて今を生きることも大切だろう。これにてようやく、掘り返してしまったことへの贖罪は済んだことになる。
夏本番、蝉の鳴き声がより一層激しさを増す。
煩くも喧しい、純粋な蝉の情念を聞き流せるくらいに、僕の背中は程よく涼しくなった。
なるほど、確かに霊の体温というものは、人間のそれよりも随分と低いものである。
−幕−
SS
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